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海鳴記

歴史一般

日本と英国の出会いー追記(2)

2023-08-05 10:24:17 | 歴史

                     追記(2)幕末のフランス

 幕末期の日本における英仏の関係は、これまで英国が薩摩や長州などの倒幕派側に付き、フランスが幕府方に付いたという認識くらいで、さほど気にかけたことはなかった。なぜそうなったのかなど考えもしなかった。しかし、今回少し西洋史を眺めてみたついでに、掘り起こしてみたい。

 以前触れたように、天保15(1844)年3月、フランス東洋艦隊所属のアルクメール号が琉球に来航した。そして艦長のデユプランは、アヘン戦争で清国が敗れ、賠償金や土地の割譲まで強いられたことを述べ、通商交渉をしたが、琉球王府は拒絶する。仕方なく宣教師であるフォカードを置いて立ち去った。その2年後の弘化3(1846)年4月6日、ゼラン率いる仏艦サビーヌ号が那覇沖に現れ、フォカード神父を船に呼び、翌日艦長とともに上陸した。この5日後、セシュ(セシーユ)率いる仏艦3隻が来航し、那覇でしばらく通商交渉をしていたようだが、結局埒が明かなかったのか、フォカードの代わりの宣教師を残してセシュらは長崎に向かった。そしてそこで、船の修繕や薪炭(しんたん)、食料を補給したのが日本への初めての来航だった。その後、再びフランス艦隊がやって来たのは日本ではなく琉球で、ペリーが和親条約を結んだ翌年の安政2(1855)年のことだった。そして、具体的な内容はよくわからないが、「琉仏和親条約」というのを結んで去っているのである。

 では、それまでのフランス本国の状況はどうなっていたのだろうか。

 1789年に起こった革命以降、フランスは激動期に突入し、革命戦争、ナポレオン戦争と全ヨーロッパも巻き込む混乱の時代が続いた。しかしながら、ナポレオンがワーテルローの戦いで敗れ、1815年、ウィーン議定書が結ばれると、しばらく安定期を迎えている。いわゆるブルボン朝の復古王政期である。ただ、一度目覚めさせた市民(ブルジョワ)意識は消えることなく、1830年の七月革命では、ブルボン復古王制は打倒される。そして自由主義者のラ・ファイエットらによってルイ・フィリップの立憲君主制が敷かれると、金融資本家の影響力が増し、ようやくフランスも産業革命が開始されることになった。こうして、徐々にウィーン反動体制に綻びが見え始めると、ヨーロッパ各国にも自由主義やナショナリズムの気運が起こるようになる。しかし、まだまだ各国内での反動勢力を打ち崩すまでにいたらず、フランスの1848年まで待たざるを得なかった。この年2月、社会主義者のルイ・ブランらによる革命で、ルイ・フィリップ国王は打倒され、共和主義者と社会主義者による臨時政府が樹立され、第二共和制の時代となった。そして同年12月、初めての普通選挙で、ボナパルトの甥であるルイ・ナポレオンが大統領に当選。ところが、この第二共和制憲法の大統領任期問題で、権力を維持したいルイ・ナポレオンは、選挙法の改正を認めない多数派勢力が占める議会と対立し、翌々年、クーデタで権力を掌握し、国民投票によって圧倒的な支持を受けたため、帝政を宣言し、ルイはナポレオン3世となる。1852年12月のことだった。これがフランス第二帝政期の始まりであった。

 こうしためまぐるしい内政下で、1855年11月、東洋艦隊のゲラン提督を那覇に送り、「琉仏和親条約」を締結する。ただ、この段階で日本に来航することはなく、3人のカトリック神父(このうちの一人がベルクールやロッシュの通訳となるメリメ・カション)を残して去っているのである。日本にやって来たのは、その3年後の安政5(1858)年9月で、フランスは全権ジャン・バティスト・ルイ・グロ男爵が来日し、「日仏修好通商条約」を結んでいる。英国やロシアは「和親条約」を結んだあと、「通商条約」と段階を経ているが、フランスは一足飛びである。もっとも、1853年10月から始まるクリミア戦争の影響もあったのだろうが、この戦争は英国と同盟を結んで戦っているのである。とにかく、フランスは、シャム(タイ)やインドシナ半島への進出は試みていたが、それより東は手を伸ばさなかったし、伸ばす意思もそれほどなかったのかもしれない。

 ところで、フランスと英国の関係だが、第二次百年戦争に敗れ、ウィーン体制以降、英国が世界の覇権国家になると、フランスはその軍門に下った。かつて、17世紀末にオランダが英国との覇権争いに敗れ、その軍門に下ったように。フランスの敵は、勃興しつつあるプロイセン(ドイツ)や、南下拠点をクリミア半島に切り換えていたロシアに移っていたのである。それゆえ、幕末期の日本における英仏関係は、良好と言えた。そして、ラザフォード・オールコックより3か月ほど遅れて、安政6(1859)年9月6日、駐日公使としてデュシェーヌ・ド・ベルクール(1817~1881)が品川に到着。三田の済海寺の公使館に入ったのである。タウンゼント・ハリス、ラザフォード・オールコックに次ぐ3番目の正式な外交官だった。

 さて、フランスが通商条約を結んで1年も満たず、比較的早く公使を派遣したのはそれなりに理由があると思われる。おそらく、その一つの理由が、1855年に起きた蚕種(蚕の卵)の病気で、ローヌ川沿いのリヨンやアルディーユなどの養蚕会社が壊滅的な打撃を受けたことがあげられる。養蚕は、農業国家としても、当時フランスの重要な産業でもあったから、ナポレオン3世が率先して、各国の蚕種の導入や蚕の補充に動いたようである。そして、日本にも白羽の矢を向けていた。その証拠として、幕府が開市開港延期交渉使節として送った第1回遣欧使節団が、パリでの交渉の際、おそらく双方から蚕種の輸出入の話が出ているのである。この使節団は、文久元(1862年1月21日)年12月12日、英国海軍のフリゲート艦で品川を出発し、4月3日にマルセーユに着き、7日にパリに入っている。ここで、主目的の開港延期の同意をえられなかったので、一行は英国へ向かうことになった。しかし、蚕種の話はしているようなのだ。

 1862年4月16日付のフランス外務大臣より公使ベルクール宛公信の一項に、「蚕および蚕の卵(蚕種)の輸出についての日本側の要請に応じること」とあるからである(『幕末のフランス外交官』矢田部厚彦編訳)。

 たぶん、ベルクールは、日本との通商交渉の中で、この問題を幕府に申し入れていたのである。そうでなければ、パリでの会談を終えて、外務大臣からベルクールにこういう公信を出す筈がないからである。

 ただ、湯浅隆氏のpdf論文「1860年代のフランスにおける養蚕書の評価」などを読むと、これ以前の1861年には日本の蚕種や蚕が既にフランスに導入されている。しかし、これはあくまで、横浜の仏人貿易商を通した密輸品のようである。なぜなら、ベルクール宛の公信にあったように、「幕府側の要請に応じる」云々というのは、開港当時、幕府は蚕種及び蚕などは輸出制限(或いは禁輸)していたからである。

 当時、フランスは各国から蚕種を輸入し、どの国の蚕がフランスに適合するかを検討中であった。そして徐々に日本産の蚕種が適合することがわかり始めたのである。そして、本格的に日本と蚕種を含めた生糸を輸入するのは、初代公使ベルクールの後任になったレオン・ロッシュ(1809~1900)の代になってからだった。

 ロッシュは、元治元(1864)年3月22日に着任すると、その年8月、四国艦隊の下関砲撃事件がおこる。賜暇から帰っていたオールコックが主導した下関戦争である。幕府はこの戦争や前年の長州藩の攘夷決行による米・仏・蘭の艦船への砲撃事件を含め、海軍力強化の必要性から、自力で軍艦製造を計画するようになった。それには、先ず製鉄所を建設しなければならない。この建設を主導したのが、外国奉行から勘定奉行になっていた小栗上野(こうずの)介(すけ)忠順(ただまさ・1827~1868)である。小栗は、文久元(1860)年の遣米使節で渡航経験もあり、最初はアメリカを頼ろうとしたようだが、南北戦争中ということもあり、断念した。そこへ、ロッシュが現れたということだろう。また、下関戦争の責任問題で本国へ召還されたオールコックが不在というタイミングもあったかもしれない。ロッシュはロッシュで、英国とは友好関係とはいえ、自国の利益を追求しなければならない立場である。さらにこれには、ある人的な交流も幸いしていた。ロッシュの通訳を務めたメリメ・カション(1828~1889)と、幕府の役人である栗本鋤雲(1822~1897)が、箱館奉行所に勤務していた時に親交があったのである。もちろん、小栗と栗本も親しい関係にあったから、事は順調に進んだ。幕府は横須賀製鉄所建設と洋装陸軍部隊をフランスに依存することになったのである。もっとも、これらには莫大な費用が必要になるが、幕府はロッシュを通してフランスに借金することで決行したのである。その返済には税制改革や鉱山開発、そして蚕種を含む生糸貿易の拡大があった。特に、この生糸貿易に関して、文久3(1863)年度には、英国への輸出が全体の26%で残りの大半が清国だった。ところが、この清国への輸出は、間接的なもので、実際は、上海経由で英国に運ばれていた(『幕末に海を渡った養蚕書』竹田敏)という。つまり、生糸貿易に関する限り、それまで英国は独占していたのである。一方、フランスは、元治元(1864)年で、1%に過ぎなかったものが、翌年の慶応元年には27・1%になり、3年後の明治元(1868)年には、英国が44・4%、フランスが50・3%と逆転している(『幕末に海を渡った養蚕書』)。当然、幕府とフランスとの貿易取引には、英国やオランダは抗議したが、小栗や栗本の親フランス派は、これを無視した。

 こうした結果、フランスは幕府方につき、オールコックの後任でやって来た英国公使ハリー・パークス(1828~1885)は、薩摩・長州方について幕末を終えたというわけである。

 さて、親仏派の小栗上野介は、慶応4(1868)の薩長の東征に対して、徹底抗戦を主張していた。しかしながら、徳川慶喜が恭順の意を表明したことで、「上野(こうずけの)国群馬郡権田村(群馬県高崎市)への土着願い」を出し、江戸を去ることになった。そしてそこで、官軍の総督府から反逆の嫌疑を受け、慶応4(1868)年閏4月4日、処刑されている。享年42だった。

 他方、栗本鋤雲は、フランスとの橋渡し役になったことから、後に外国奉行になり、慶応3(1867)年、徳川昭武のパリ万国博覧会への訪問に付き添い、幕府の大政奉還と滅亡は国外で知ることになった。フランスから帰国後は、彼の能力を評価していた新政府への出仕も断り、しばらく隠遁したという。その後、戯作者で新聞記者でもあった仮名垣魯文の推薦で、「横浜毎日新聞」に入り、ジャーナリストとして活躍している。明治30(1897)年、76歳で病死した。

 フランス公使・レオン・ロッシュは、慶喜が将軍となると、幕府を中心とした統一政権を建言したりするが、幕府への極度の肩入れは本国政府に伝わり、帰国命令が下される。しかし、それは幕府崩壊後のことだった。そして、最終的にロッシュは罷免され、明治元(1868)年6月に帰国している。

 片や、元々カトリックの神父だったメリメ・カションは、日本語に精通し、ベルクールやロッシュの通訳となるが、幕府崩壊の2年前には帰国している。理由はよくわからない。帰国後、徳川昭武が来仏した際、ナポレオン3世との通訳などもしたようだが、その後、パリの新聞に「日本は一種の連邦国家であり、幕府は全権を有していない」などと寄稿したため、フランス政府も無視できず、小栗忠順との借款契約も取り消されたという。これが、ロッシュの罷免に繋がったのかもしれない。メリメは1889年、カンヌで亡くなっている。61歳だった。

 

 


日本と英国の出会いー追記(1)

2023-07-16 09:59:34 | 歴史

           追記(1)長州藩の場合

 戦国期、薩摩島津氏がほぼ九州一円まで勢力を伸ばしていたように、長州毛利氏も中国地方まで勢力を伸ばしていた。ところが、島津氏同様、関ヶ原で豊臣側に付いたため、江戸期は外様大名に甘んじた。その後毛利氏は、島津氏と違って、肥大化した武士団を解体して、農民や商人に分散させている。おそらく、このほうが賢明だった。瀬戸内海の出入り口を占めていたこともあり、島津氏のように琉球から掠(かす)め取らなくとも、商業も発達し、農業も新田開発などで、幕末期には百万石の収入があったとさえ言われるまでになったからである。

 幕末期も、薩摩藩と長州藩は共通する部分とすれ違う場面があった。開国後、まず長州藩が公武合体運動を起こし、薩摩は薩摩で、申し合わせたように、すぐその後を追った。文久2(1862)年3月の島津久光の率兵上京である。ところが、長州藩はいつのまにか、一部の攘夷派に主導権を握られてしまう。例えば、文久2(1863)年12月には、高杉晋作、久坂玄瑞、井上馨、伊藤博文らが、江戸品川の御殿山に建設中の英国公使館を焼き討ちしてしまうという事件を起こす。また、文久3(1863)年7月から始まった薩英戦争の2か月前、攘夷決行として下関沖を通る外国船を砲撃するなど、過激な行動をしていたのである。この報復として、米仏の軍艦が長州の軍艦2隻を沈没させ、さらに砲台も破壊した。もっとも、長州藩も負けておらず、すぐ砲台を修復すると、今度は下関海峡を封鎖したのである。これには、諸外国の貿易に支障を来たすとして、翌元治元(1864)年8月、四国連合艦隊が下関を攻撃し、各地の砲台を占拠するに至った。前年の砲撃事件と合わせて下関戦争と呼んでいるが、トータルで四国連合艦隊側の戦死者12名、負傷者は50名だった、それに対して、長州軍は、戦死者18名、負傷者29名であった。これは戦力的にみれば、長州軍は互角以上の戦果をあげたと言えよう。四国艦隊側の戦力は、軍艦計20隻、兵力5,000に対して、長州軍は軍艦4隻、兵力2,000だったのだから。ただ、武器や軍艦の威力の差は、薩英戦争の時のように歴然としていたようで、各地の砲台などの物的損害は甚大なものだった。それゆえ、長州藩もこれ以降、攘夷から開国やむなしという方向に舵をきらざるをえなくなったのである。

 ところで、この四国艦隊を推進し主導したのは、半年ほど前、2年の賜暇を終えて日本に戻って来ていたラザフォード・オールコックだった。彼は休暇中、代理公使のジョン・ニールからの報告で、生麦事件やその後に続く薩英戦争の結果は知っていた。しかしながら、攘夷の嵐がこれほど吹き荒れていることには驚きとともに憤慨した。重要な航路である海峡を封鎖されては、国益を損なうからではないか、と。そこで、米・仏・蘭と連合し、海峡封鎖を解こうとしたというわけである。ところが、オールコックは、戦後、当時の外相であるラッセルから召還命令を受けることになってしまった。というのも、事前の許可を取らなかったという、いわば越権行為を責められたのであろう。外相のラッセルは、パーマストンのライバルでもあった。

 本国に戻ったオールコックは、懸命に抗弁したせいか誤解は解け、外相ラッセルからは再度日本に戻るよう要請されたが、彼は固辞した。清国とは違う日本には嫌気がさしていたのかもしれない。その代わり、彼が次に望んだ任地はアジアで一番地位の高い清国の特命全権公使として、だった。

 序でだが、外国人の殺傷事件として有名な堺事件も挙げておこう。森鴎外や大岡昇平が小説化している事件である。

 時は、慶応4(1868)年2月15日、明治改元まで7か月ほど前のことである。副領事や臨時日本艦隊司令官などを迎えるため泉州堺港にフランス軍艦が入った。そして、士官以下数十名の水兵たちが上陸すると、市内を遊び廻ったという。おそらく、久しぶりの解放感でワイワイ言いながら、商家を覗きこんだりしていたのだろう。夕刻になって、町民から苦情が出た。そこで、市内の警備を担当していた土佐藩兵が、現場に向かい、帰艦するように促すも、水兵たちは言葉が通じないことをいいことに、一向に耳を貸さない。それどころか、藩兵の隊旗を奪い、逃げようとする有様だった。これが、抑え気味だった土佐藩兵の怒りを誘い、逃げる仏水兵を咄嗟に撃ってしまったのである。この後、仏兵も迎え撃つという形で戦闘が始まり、計11名のフランス兵が亡くなっている。土佐藩側の死者はいなかった。数字だけからみると、普通ではない。フランス兵は、地理に不案内ということもあったろう。射撃の上手、下手だけでこんな差は生まれないだろう。水兵たちは、酒でも飲んでいたのだろうか。

 もっとも、この事件は、このフランス人の死者の多さだけが話題になったわけではない。事件後、フランス側は自分たちの非を棚に上げて、賠償金ばかりでなく、戦闘に加わった土佐藩士たちの処刑も要求したのである。その結果、戦闘に加わったと自己申告した20名の土佐藩士が、フランスの外交官や軍人の前で切腹をすることになってしまったのである。これは凄惨な場面であった。 

 未だ開国の気風に染まなかった辺境の武士たちは、この理不尽な裁定に憤怒をもって臨んだことは想像に難くない。だから、思いっきり腹を掻き切ったため、腸(はらわた)が飛び出し、中には苦痛に顔を顰めながら、その腸を手に取って叩きつける者もいたという。

 おそらく、フランス人たちはこの処刑儀式を初め好奇の眼をもって見つめていた。だが、中には、最初の腹切りで吐き気を催した者もいたに違いない。そして、途中で見るに堪えず、その場から立ち去るものもいただろう。しかしながら、理不尽な代償を要求したフランス側は、その要求をすぐには撤回できない。ようやくフランス側の死者と同数となった11人で、この処刑を中止にしたのである。

 日本人と外国人との殺傷事件は、開国以降何件もあった。攘夷が正義だと信じる武士たちがいたからだ。いわば、明治維新は、清国の場合と違ってこういう武士たちが身を挺して起こしたと言えよう。

 明治維新を<革命>だったという歴史家がいる。それと反対に、<明治維新>は、「市民」による革命ではなく、武士によるものだから、<革命>ではないという歴史家もいる。私は、どちらでもないし、どちらでもいいとも考えている。つまり、現在からの視点から言えば、どちらも変わったものもあれば、変わらなかったものもあるからだ。

 確かに、日本の歴史の流れでいえば、<明治維新>というのは大変革だった。一方、フランス<革命>というのも西洋の歴史の大変革だった。しかし、この「市民」によるフランス<革命>といっても、あくまでも白人の男子で、キリスト教文化圏の「市民」だった。これは、本質的に現在も根底にある。もちろん、日本の武士層も、明治以降も、戦後も執念深く生き残り、現在の官僚機構の中に巣くっている。それゆえ、<革命>も<明治維新>も大変革に違いないが、どちらも変わっていない部分を残しているとすれば、表面上の言葉や定義はどちらでもいいと私は考えている。

 


日本と英国の出会いー薩英戦争まで

2023-07-13 10:42:44 | 歴史

            (13)薩英戦争までの英国人死者は24名

 ラザフォード・オールコックは、最初の襲撃事件後、日本人警備兵は信用できないと訴え、自国の水兵をも配置することにした。しかし、そう言いながら、その後公使館を横浜に移した。そして、翌年2月には賜暇で帰国している。その代理としてニール陸軍中佐がなった。ところが、ニール代理公使は、再び、東禅寺に公使館を移している。理由はよくわからない。それから、それほど日が経たない、5月29日、警備をしていた松本藩士が、同じく警備をしていた英国兵2名を斬り殺すという第二次東禅寺事件が起こったのである。

 また、この3か月後の8月21日(陽暦9月15日)、薩摩藩による英国人殺害事件が起きている。川崎宿と神奈川宿の間にある生麦村でのことだった。薩摩藩の行列に巻き込まれた英国商人の一人が殺害されたのである。

 この一報は、横浜居留外国人たちをいきり立たせたが、英国代理公使のニールは懸命に宥(なだ)め、その報復を止(とど)めた。それが賢明な判断だった。当時の薩摩藩は攘夷気分が圧倒的に強かったし、もし、居留民が発砲でもしていたら、収拾のつかない事態を招くのは必定だった。ともかく、騒乱には至らず、薩摩藩も翌朝早く帰路に着いた。

 ただ、この約1年後、薩英戦争が起こる。薩摩藩は、前年の生麦事件で犯人も出さず、賠償金も支払おうとしないので、業を煮やした英国側が2、400トンの旗艦ユーリアラス号を含む軍艦7隻で鹿児島湾に押し寄せたのである。  

 英国側はペリーに倣(なら)い、軍艦を背景に犯人引き渡しと賠償金をせしめればそれで充分だったが、そうはならなかった。英国側が、鎌倉以来の武士集団を刺激してしまったからである。そして、結果を先に言ってしまえば、英国側は、砲台に接近してしまっていたことと、荒天のため、思うように身動きができなかったこともあり、最初の戦闘で、ユーリアラス号の艦長と副長を含む20名の死者、50数名の負傷者を出してしまったのである。それに対して薩摩藩側は、3日間の戦闘で5名の戦死者と9名の負傷者のみだった。

 これは戦傷者という点からだけ見ると、英国側にとって、異常に多い数字である。たとえ、戦闘準備もしておらず、また悪天候のような偶然があったとしても、薩摩藩の台場からの大砲は、爆発もしない旧式の玉が発射されただけなのだ。一方、英国艦には最新式のアームストロング砲という火砲が装備されていたにも関わらず、である。とにかく、最初から大英帝国の軍艦7隻が何の脅しにならなかったと言えよう。当然、英国側に油断があった。それは、清国での安易な勝ち戦(いくさ)がそうさせたのかもしれない。どうも英国は、日本が武士社会であることをすぐ忘れてしまうようだ。それはおそらく、最初、緩い徳川政権と接触して来たからかもしれない。なるほど、江戸期は、戦争に明け暮れていたヨーロッパなどと違って、この上なく平和で安定していた社会だった。しかし、それは主として徳川の直轄地や譜代大名領地の話である。

 たとえば、関ヶ原で豊臣方についた外様藩は、戦争こそなかったものの、何かしら戦国期の遺風や形態を持ち続けることを強いられていた。例えば、薩摩藩などはその典型で、肥大化した戦国期の武士団を解体することなく、藩内各地に居住させたため、江戸期を通して25%の武士層を維持せざるを得なくなってしまったのである。そして、江戸幕府が強いた参勤交代の制や幕府領の治水事業を負担(補足6)させられるなど、武士層の50パーセントほどが無俸禄社会ではその厳しさは推して知るべしだろう。とにもかくにも、鎌倉から続く武士の矜持のみで生き抜いてきたと言っても決して過言ではない。

 ここで一つ、幕末期の薩摩藩士の象徴的な例を挙げてみよう。

 文久2(1862)年8月15日、生麦事件が起こる4か月ほど前、幕政改革を求めて上京した島津久光一行が京に着いて間もなく、藩内の攘夷過激派で大坂に留められていた有馬新七らが、暴挙を起こすという話が久光の耳に入った。そこで、彼らを説得するよう大久保らを派遣すると、有馬らは大久保らの前では納得する素振りを見せた。しかし、それはうわべだけで、その後彼らは大坂を出発し京に向かう。京都所司代などを襲撃するためだった。これを有馬新七の上司だった永田佐一郎という人物が止められなかった。そのため彼は責任を感じ、大坂の藩邸で自刃してしまったのである。 

 この永田という人物はそれほど地位の高い人物ではない。せいぜい什長(十人組の長)辺りだった。彼が有馬を説得できなかったからと言って、上から責任をとらされたわけでもない。しかしながら、平和な時代と呼ばれる江戸期とは異質な空間で生きて来た武士たちに、鎌倉・戦国期の気風を失わせることはなかった。

 おそらく、英国側も、この戦争で、徳川幕府とは全く異質な気風を感じ取ったに違いない。

 結局、薩摩藩側もアームストロング砲による多大な物的損害を被(こうむ)った。その結果、藩上層部は攘夷の無謀さに気づき、以後英国に接近するようになったのである。英国側も江戸幕府とは違った、かつて経験したこともない果敢な武士集団に一目置くようになり、交渉のテーブルに向かうことになった。この一目置くという意味は、生麦事件以来、死者への賠償金と犯人引き渡しが英国側の絶対条件だったのに、薩摩藩側が犯人引き渡しを最後まで拒否したことで英国側も妥協させられてしまったのだ。より具体的にいえば、英国側は、犯人引き渡しという条件を薩摩藩側の強硬さのため、ウヤムヤにさせられてしまったということなのである(補足7)。

 この時の薩摩藩は、幕府に対しても強気だった。英国に支払うと約束した賠償金を支払わせているのだから。

 (補足6)宝暦4(1754)年2月、幕府より木曽三川(長良・揖斐・木曽川)の改修工事を命じられた薩摩藩は、千名ほどの藩士を送り込んだ。そして、翌年の5月の工事完了まで、幕府役人の嫌がらせや計画変更などで工事費用がかさんだこともあり、51名の自害者、33名の病死者を出した。鹿児島では、この事実を明治半ば過ぎまで封印していた。

(補足7)薩英戦争後、計4回の講和談判が開かれたが、3回目で、薩摩藩は、賠償金、生麦事件の下手人捜査を約束した。そして、最後の4回目で、賠償金と犯人処刑を約した証書を取り交わして終了した(『鹿児島県史』第3巻)。ところが、賠償金は支払われたが、薩摩藩は犯人処刑などした記録はないし、英国側もこのことに関して以後何も訴求していない。ということは、どちらも記録に残さない、裏交渉があった、と私は確信している。何度も強調してきたが、英国は「国益のため」に何でもすると宣言して憚らない国なのである。


日本と英国の出会いー薩英戦争まで

2023-07-10 14:04:19 | 歴史

                     (12)開国以降 

 安政元(1854)年1月16日、ペリーが再来。老中・阿部正弘が選んだ幕府側全権の林大学頭との交渉で、最終的に、通商を除いた、漂流民保護、薪水給与、下田・箱館の開港という和親条約を結ぶことになる。ここで、林の外交交渉が評価されるようになったことは以前述べたが、逆に言えば、日本語版望厦条約を結べなかった軍人ペリーの力量不足だった。幕府との扉を開けたことは間違いないものの、日本を去ったペリーは、琉球王国に寄り、そこでは日本では果たせなかった望厦条約日本語版(修好条約)を結んで帰国したようである。

 この後は、英国、オランダ、そして、前年から長崎、下田とウロウロしていたプチャーチン使節とも和親条約を結ぶことになる。そして最終的に、アメリカはサンフランランシスコの船持ち商人だったタウンゼント・ハリス(1804~1878)を日本に送り込み、安政5(1858)6月、関税自主権のない、治外法権を認めた通商条約を結ぶ。また、神奈川(横浜)・長崎・新潟・兵庫・箱館を開港地とした。以後、3か月内に、オランダ、ロシア、英国、フランスと同様な条約を締結することになる。

 もっとも、開国の先陣を切った米国は、この時期、南部奴隷州を維持し、また新たに獲得した州も奴隷州にしようとようとする民主党と、これを是としない北部工業地帯が地盤の共和党との対立が深刻な問題となっており、清国との貿易云々どころではなくなっていた。1860年に共和党のリンカーンが大統領になると、翌年にはいわゆる南北戦争というアメリカ史上最大の犠牲を払った内戦に突入するのだから。

 こうした中、安政6(1859)年に開港した横浜に真っ先に乗り込んできたのは英国だった。以前、触れた、清国とのアヘン売買で巨利を得たと言われるジャーデン・マセソン商会が開港地の一番地を確保したことがこれを物語っている。そして同年6月、ラザフォード・オールコック(1809~1897)が初代英国総領事として日本に着任した。彼は、アヘン戦争後の1844年に福州領事となり、上海(46~55)、広州領事(55~59)を務めた。また、上海領事時代に、当時首相だったパーマストンに手紙を送っている。あの「わが英国にとって、永遠の同盟もなければ永遠の敵もない。あるのはただ一つ、永遠の国益のみ」と謳(うた)ったパーマストンに、である。内容は、市場開拓のため、再戦論を訴えたらしい。そしてその結果、第二次アヘン戦争と呼ばれるアロー号事件を招来しているのである。だから、彼が日本に赴任して来るということは、弱みや隙があれば、領土を狙い、「市場開拓」に精を出せということなのだろう。

 ところが、1856年、ペリーの後、「通商交渉」締結のためにやって来たタウンゼント・ハリス(1804~1878)によって出鼻をくじかれていた。というのも、アメリカは英国のようにアヘン供給地をもっていなかったため、ハリスはアヘン輸出禁止を日本側との交渉カードとして使っていたのである。つまり、英国と清国との間にあったアヘン売買条項を削除していたのである。こういう前例があったから、結局、ジャーデン・マセソン商会などは武器や船の売買を切り替えざるを得なくなったのであろう。これは、日本にとって幸運なことだった。もし、英国が先に乗り込んで来て、この条項を飲まされていたなら、武器とは比較もできない惨状を齎(もたら)していたかもしれない。

 さらにまた、日本は清国と違って武士社会だった。いや、追々そういう違いを彼らは見せつけられるようになった。開国を巡って目覚めた攘夷派に手こずることになるのだから。正確に数えたわけではないが、明治になるまで外国人の死者のほうが多い。少なくとも、薩摩藩一藩と英国人との場合を見る限り、圧倒的に英国人犠牲者のほうが多いのである。

 さて、ラザフォード・オールコックは、安政6(1859)年6月末には領事館(のち公使館)となる品川の東禅寺に居を構えた。その2年後の文久元(1861)年5月28日(陽暦7月5日)、水戸藩の攘夷派志士たちが公使館を襲撃したのである。その結果、オールコックは難を逃れたものの、書記官ローレンス・オリファント、江戸出張中の長崎駐在領事であるジョージ・モリソンの2名が負傷し、彼らはすぐに帰国している。もちろん、戦闘になったところから、警備をしていた郡山藩や西尾藩の警備兵2名と襲撃側の水戸藩士3名も死亡しているが。

 オールコックにとって、こういうことは、清国では経験したことがなかっただろう。だからこそ、幕府側が警備上の問題で、再三、注意しているのにも拘らず、条約で勝ち取った国内旅行権を強硬に主張し、長崎から江戸へ陸路を取ったりしたのである。これらのことは、当然、攘夷派にとって我慢のならないことだった。

 この思わぬ公使館襲撃は、オールコックらを恐怖させたことは間違いあるまい。また、このことによって、英国の強気な外交政策に変更を与えた可能性がある。この事件の3か月ほど前の2月3日(陽暦3月14日)、不凍港が欲しいロシア海軍は、本国政府が反対しているのにも拘わらず、軍艦を対馬に派遣した。対馬藩は当然拒否したが、船の修理を名目に無断で上陸し、兵舎の建設に取り掛かったばかりか、修理工場の建設資材や遊女まで要求する有様だった。

 この7年ほど前、ロシアのプチャーチン外交使節は、下田で和親条約交渉にあたっていた。その時、艦船・ディアナ号が、1855年の安政大地震の津波で被害を受けて大破し、それを修理するため戸田(へだ)村へ回航中に沈没した。これを受け、戸田村の船大工たちが必死になって代替船を完成させている。プチャーチン中将も非常に感謝した。その船でプチャーチンらは帰途に着くことができたのだから。しかし、そんな6、7年前の「美談」や「恩義」など、彼らには何の関係もなかった。彼らも、パーマストン同様、「永遠の国益」のみを追求する民なのである。それも、新興国のアメリカ同様、荒々しい乱暴なやり方で。

 この傍若無人さは、文化3(1806)年、レザノフの部下が暴走し、蝦夷地を襲い、「むくりこくり(蒙古・高句麗)」と恐れられたと事件と全く同じである。これらの体験が、明治になっても日本人に畏怖の念を抱かせ、日中・太平洋戦争まで第一の仮想敵をロシアとしてきた所以(ゆえん)だろう。

 話は脱線してしまった。このロシアの対馬占拠事件では、警備の藩士が射殺される事件までに至り、対馬藩も幕府も対応に苦慮し、右往左往した。そして、7月になって、特命全権公使になったラザフォード・オールコックが顔を出してきたのである。我が国が追い払ってあげますよ、と。もちろん、この時点で本国政府には、対馬占領を提案していたというのだから、何をか況や、である。ただこうして、英国が介入してきたことで、ロシア側も撤退せざる得なくなり、半年間にわたる占領を解くことになる。その後、英国はインドや清国ではやったことを、つまりロシアが去った後の対馬を占拠することはなかった。それは、つけ入る隙がなかったというより、度重なる攘夷派のテロや自身も経験した3か月ほど前の公使館襲撃事件が少なからず尾を引いていたように思えるのである。

 またもう一つ、英国側が強気にならなかった事例がある。以前、深入りしなかった小笠原諸島の父島の領有問題である。

 文政10(1827)年、英国艦ブロッサム号が、太平洋を巡り廻っていたとき、小笠原諸島にある父島(二見港)を発見し、そこを自分たちの地図上で領有地と宣言した。その後、ハワイから、欧米系の移住者が住み着き、捕鯨船の食料や薪などの基地となっていた。これはすでに述べた。ところが、このことが幕府に知られたのは、ペリー来航後のことだったのである。

 ペリーは、日本にやってくる前に、まず沖縄の那覇に上陸し、琉球王府と開国交渉をした。おそらく、日本と同様、王府にもフィルモアの国書を提出し、回答は日本から戻った後にするように伝えたのだろう。

 ともかく、次は浦賀に向かった。その途上、小笠原諸島の父島に寄って、4日間ほど島を調査しているのである。そして、すでに入植していたナサニエル・セーポレーというペリーの同郷人から貯炭所を買い取り、彼を米海軍に編入した。あまつさえ、自治政府を作らせ、領土宣言すらしていたのである。

 幕府がこれらのことを知ったのは、和親条約を結ぶ際ではなく、ペリーが日本を去った2年後、『日本遠征記』を出してからだという。それを議会にも提出したということだから、当然、ハリスも内容は知っていた。そして日本側と父島の領有問題を協議したことで幕府側が初めて知ったのである。事の詳細は省くが、幕府外交方は、英国や米国が領土宣言以前に日本人(小笠原氏)が到達していたことを調べ上げ、彼らに領土の主権を主張した。

 そして、文久元(陽暦1862)年12月19日、幕府は、ハリスとオールコックを前に、父島を回収するため、日本人の植民者を送ると主張すると、ハリスは本国に照会してから決定するが、すでに在住している者の権益は守るようにと言っている。それに対して、オールコックは次のように主張したという。

「1827年、英国がこの無人島を初めて領有宣言したもので、日本が最初の発見者であっても、その後の管理を怠ったのであるから、その権利は欧米の法律に照らせば消滅している。しかしながら、開拓を企てる場合、これまで通り外国船の自由な停泊を認めるなら、英国はこれに干渉しないであろう」と。

 清国で強面(こわもて)外交を貫いてきたオールコックにしては、ずいぶん妥協的である。こういう弱気な発言も、その年1月、ハリスの通訳だったヒュースケン暗殺事件や5月の自国公使館襲撃事件が尾を引いていなかっただろうか。彼ら欧米人は、日本人の突発的で感情的な「残酷さ」を理解できなかった。彼らは、いわば理詰めで振る舞おうとするので、理不尽で計画性の見えない暴力を恐れるのである。日本人は何をして来るかわからない、と。

 


日本と英国の出会いー薩英戦争まで

2023-07-09 10:00:02 | 歴史

 さて、なぜ米国が一番乗りをしたのかということについて、私は幕末史家たちとは違った視点で追ってみたい。

 アメリカは、英国からの独立以来、ナショナリズムの高揚とそれに促されて西へ西へと領土を拡張していった。最初の東部13州から、ミシシッピ川以西へ順次進出し、その間の1830年には先住民をも西へ強制的に移住させ、それでも邪魔とばかりに居留地に囲ってしまう。そして、1845年、メキシコから独立していた広大なテキサス(州)を併合。それに怒ったメキシコと戦争となり、結果、1848年にはニューメキシコ(州)やカリフォルニア(州)も獲得してしまったのである。その直後はよく知られているように、カリフォルニアに金鉱が発見され、一攫千金の夢を見て、太平洋岸へ雪崩れ込むように大挙人々が押し寄せるようになった。

 ただこの大陸の西端で、アメリカ人が独立以来培(つちか)ったフロンティア精神が終焉を迎えたわけではない。それどころか、砲艦をちらつかせてやって来たマシュー・ペリーの、さらに彼に「親書」を持たせたミラード・フィルモアの精神が、このフロンティア精神の延長だと私は考えている。そもそも、新大陸へ渡った清教徒のピルグリム・ファーザーズの精神そのものが、のちの過激で父権的なワスプ(WASP=White Anglo-Saxon Protestant)の核なのだから。その一つの証(あかし)は、無法に近い大陸西進を推し進めて行ったことだと言ってよい。そして他のヨーロッパ諸国より強固で揺るぎない父権制社会を形成してしまったのである。こういう共同体の精神論は意味がないという人がいれば、マックス・ヴェーバーの資本主義の根底にあるカルヴァン派の精神を否定する人たちだろう。

 ただ私は、決して精神論ばかりで満足しているわけではないので、先に話を進めよう。

 まず、フィルモア大統領がペリーに親書を持たせて、日本に向かわせるまで、合衆国の政体を追ってみる。1846年7月末、帰途に就いたビドル東インド司令官は、先に述べたように、48年10月にフィラデルフィアの自宅で亡くなったが、その前、東アジアの情勢、特に日本との通商交渉についての報告書は提出していた。ペリーがその報告書を読み、熱心に研究したと言っているからだ。

 さらに、捕鯨船のローレンス号やラゴダ号で起こった問題も報告されているだろう。どちらも日本に漂着した米捕鯨船員の問題だが、前者は1846年、後者は1848年の出来事で、どうもこれらはどちらも、捕鯨船員の漂流民に対する幕府の対応を非難し、米議会にもそう報告しているようだ(『幕末期のオランダ対日外交政策』)。しかし、私にはどうもそのように思えない。前者のローレンス号の場合は、米国側の文献のみで(「日本の開国と捕鯨業」猪谷善一論文)、何とも言えないが、ラゴダ号の松前に上陸した漂流民史料を読む限り、対応は米国側が訴えるような問題なかったように思える。松前藩は、それ相応の対応をしていた。それにも拘わらず、それに従おうとしない、粗暴な船員の問題であり、ローレンス号の場合、何度も脱走を繰り返す船員を処刑したとあるが、そんな史料は日本側には全くない。もしそういう処置が長崎などであったとしたら大問題になり、日本側に何らからの史料が残っているはずなのだ。当時、幕府は、異国人に対して神経質なほど穏便な処置をとるように通達していたのだから。

 ともかく、いろいろな報告が、議会にも政府筋にもはなされていたことは間違いない。

 おそらく、これらの報告書の提出先は、先ず南部奴隷州を地盤とする民主党のジェームズ・ポーク(1795~1849)大統領の時だったと考えられる、そのポークは、テキサスの併合を公約にして当選した大統領だった。実際、1845年にテキサスを、翌年にはオレゴンも獲得、その結果、メキシコと戦争に至っている。つまり、内政問題に集中していたため、東アジア問題は棚上げしていたのではないかと想像される。ところが、このポークが48年、カリフォルニアも獲得し、そこで金鉱が発見された翌年3月、健康を害して任期途中で辞職する。そして3か月後には亡くなってしまうのである。次に、ホイッグ党(のちの共和党)のザカリー・テイラー(1784~1850)将軍が大統領に当選したが、就任1年4か月でこれまた病死している。そのため、副大統領だったミラード・フィルモア(1800~1874)が跡を継ぐことになった。フィルモアは、『幕末期のオランダ対日外交政策』の記述によれば、砲艦外交(Gunboat-Policy=Diplomacy)を信奉している人物で、だからこそ、建造して間もない、当時としては巨大船に近い、2、500トン級の蒸気フリゲート艦をペリーに宛(あて)がい、親書を持たせたのだろう。しかし、フィルモアにとって、新しく獲得した州を奴隷州にするか或いは自由州にするかなどの内政問題のほうが喫緊(きっきん)の課題で、日本への開国問題など、それほど熱心に、また時間をかけて取り組んだようには思われない。というのも、『幕末の海防戦略』によれば、「日本語通訳や条約草案も用意せずに(翌年ペリーが日本側に手渡した条約草案は、1844年アメリカが清と結んだ望厦条約の漢文版だった!)日本に渡航」しているというのだ。これは、従来「ペリーへの幕府の対応が無定見とか場当たり的という評価がある」が、「ペリー側こそ場当たり的であり、傲慢であり、外交経験の欠如を感じる」と論評している。

 なるほど、確かにそうだったし、林大学頭などの幕府の外交方もそう捉えていたに違いない。だから、翌年、ペリーが望んだ「通商条約」ではなく、「和親条約」止まりだったのである。ただ、アメリカ側からすれば、日本のような小国には全権公使のような外交官など送る必要はなく、軍艦を背後に軍人を送って脅せば済むような問題だと考えていただけなのである。ペリーはビドルの報告書や翻訳されたオランダの日本関係文書も読んでいたし、独自の権限も与えられていた。しかしながら、最初のこうしたペリー(アメリカ)の雑な軍人「外交」のおかげで、結果的に大いに助かった部分もあるのである。それなりに外交儀礼を尽くす、老練な英国と最初に条約を結ぼうとしていたら、小笠原諸島のような領土まで獲られていた可能性も否定できなかったのだから。

 最後に、ここで結論的なことを言えば、他国を押しのけてでも、アメリカが日本に強引な開国を迫った最大の理由は、共同体の根底にある精神はもちろんのこと、やはり清国との貿易の中継地として、であろう。大陸西進とともに、1810年代ごろから徐々に工業化が進んできた。そして、1840年代にはまだまだ英国には及びもつつかないものの、既にフランスやドイツ(プロシャ関税同盟諸国)に並ぶ勢いだった。一方、捕鯨業については、確かに日本近海は魅力的な漁場だったし、捕鯨業者も日本に基地が欲しいと米政府に圧力をかけていた。しかし、捕鯨業はあくまでも第一次産業であり、この先どう変動するかわからない。しかしながら、工業製品は日々計画的に増産されるのだ。さらに、太平洋を臨むサンフランシスコという絶好の港も確保できた。そこを整備すれば、ヨーロッパ、特に英国に追いつける足場も確保できたも同然ではないか。たとえ、日本とトラブルを起こしたとしても、何も憂うることはない。

(補足3)アメリカの捕鯨に関する最古の記録では、北米大西洋岸の孤島ナンタケ(Nantucket)島から6隻の船が出港し、600樽の鯨油と英貨1000ポンドの相当の鯨骨を持ち帰ったのが最初だという。1715年のことだった。ただ、18世紀初・中期頃は、漁獲物に対するマーケットが安定せず、景気は上下したようだ。ところが、産業革命が進展するとともに、蒸気機関車、蒸気船などが発明され始めると油の需要が増え、景気はうなぎのぼりになった。油を取るためだけ、はるばる太平洋、北極海、日本近海まで来たのもそのためだろう。

(補足4)私は、清国が毛皮を輸出していたという事実に、少し驚いたが、偶々黒沢明監督の映画「デルス・ウザーラ」を観ていたら、当時、清国人(女真族)はロシア領で毛皮の密漁をやって南に持ち込んでいるようだった。

 


日本と英国の出会いー薩英戦争まで

2023-07-08 10:02:04 | 歴史

                         (10)アメリカとは

 天保8(1837)年6月、広東(広州)貿易に従事していた米国商船モリソン号が日本人漂流民7人を乗せ、那覇を経由して、6月28日浦賀沖に達した。ところが幕府は、漂流民受け取りを拒否し、12年前に出した「外国船打払令」を楯に砲撃すると、モリソン号は退去せざるを得なかった。モリソン号が再び姿を現したのは、鹿児島湾入り口にある山川港だった。7月11日のことである。薩摩藩は、家老を派遣し、オランダ人を介して上陸していた漂流民を送り返し、幕府の法令に基づき砲撃すると、モリソン号はやむなくマカオに去った。

 この事件以来、しばらく、来航船はなりを静めていた。清国の状況が不穏になってきて、各国がその成り行きに注視していたこともあるかもしれない。

 英国はすでに、1813年、東インド会社(EIC)の貿易独占権を廃止し、民間の会社へも門戸を開いていた。そして1833年には、EICの清国貿易独占権も廃止した。これで、インド貿易に参入していた民間会社は、それまでも密売品として清国にアヘンを売りつけてはいたが、以後その量は飛躍的に伸びていく。のちに横浜開港場に一番乗りを果たした、ジャーデン・マセソン商会などはその筆頭で、この莫大な収益に、議会はともかく、政府は見て見ぬ振りをしていた。1831年からホイッグ党(のち自由党)政権の外相になり、1865年に至るまで英国の外交を仕切ったと言われるパーマストン(1784~1865)は、首相時代(1855~1858、1859~1865)、「わが英国にとって、永遠の同盟もなければ永遠の敵もない。あるのはただ一つ、永遠の国益のみ」と語ったそうである。パクス・ブリタニカを築いた英国外交の真髄(しんずい)だろう。

 しかし、当然のことながら、このアヘンによる収奪は、清朝政府も放置するわけにはいかなかった。1839年、欽差(きんさ)大臣に任命された林則徐(1785~1850)は、広東に赴き、英国商人から2万箱(約1,400トン)のアヘンを没収し、廃棄したのである。これが契機となって、翌年のアヘン戦争になっていく。結局、近代的装備の強力な英国軍に敗れ、2年後、のちの日本との条約より過酷で不平等な南京条約を結ばされ、列国の草刈り場となっていくしかなかったのである。

 こういう清国の状況は、オランダを通して幕府にはつぶさに報告されていた。それに対する急場しのぎの対策として、文政7(1825)以来の異国船打払令を止め、薪水給与令を出し穏やかな対応をすることにしたのである。天保13(1842)年7月、17年振りのことだった。これ以後、各国は次の草刈り場は日本だ、とばかりに陸続と日本を目指してきた。『幕末の海防戦略』の表現を借りると、ペリー来航までの第3波となる。第2波のような捕鯨船の薪水・食料を求めて来るのとは、性格が違ってきたという訳である。

 この第3波は、薪水給与令を発した2年後の天保14(1844)年から始まる。同年3月、フランス西インドシナ艦隊から、軍艦アルクメール号が那覇港に来航し、琉球王府に通信・貿易・布教を要求して来た。産業革命も成功し、英国に負けじ、とアジアに植民地を探していたフランスは、既にベトナムに宣教師を送り込んでいたのである。この琉球王府との交渉の際、アヘン戦争で清国が敗れ、賠償金を取られ、また土地も割譲されたことを脅し文句に使っている。そして、フォカードという宣教師を強引に送り込んで来た。

 煩雑さを避けるため、多少端折(はしょ)る。フランスが琉球に通商を求めに来た2年後の弘化3(1846)年のことである。この年の4月5日、先ず英国船が那覇の港に入り、前年のフランスがやったように、ベッテルハイムという、ユダヤ人家族を上陸させるのである。ベッテルハイムは、英国に帰化した改宗(国教徒か)ユダヤ人で、医者で言語学者でもあったようだから、日本語を習得させる意味合いもあったのかもしれない。この翌日、今度は仏艦が那覇沖に現れ、滞留させておいたフォカードを呼び寄せ、打ち合わせをしてから、艦長ゼランとともに上陸した。また、この6日後、セシュ艦長率いるフランス艦3隻も入港し、通商交渉に臨んでいる。しかし、何の進展もなかったのか、仏艦隊は、フォカードとの交代要員を置いて、長崎に向かった。

 こうして、英仏の鍔(つば)ぜり合いが、琉球王国から始まるように見えた。ところが、その英仏の中に割って入るかのように、閏5月(陽暦7月)、米東インド艦隊の司令官であるジェームズ・ビドル(1783~1848)が軍艦2隻で浦賀に入港するのである。そのため、浦賀に奉行所を置いていた幕府が対応しなければならかった。そして、二人の浦賀奉行は臨機の処置を取った。以下、『幕末の海防戦略』を参考にする。奉行らが幕府に送った報告書によると、ビドルは、清国からの帰途立ち寄ったので、出港を急いでいるようだった。そこで奉行らは、米国へ帰る際の補給品リストより少ないとなれば、「国體(こくたい)」にも拘(かかわ)るので、「仁政」を示し、また通商は「国禁」であることを示し、退去を命じても拒絶されることはないだろうという報告書を送った。これに対して、前年、老中首座になった阿部正弘(1819~1857)は奉行所の対応を全面的に支持すると返答し、ビドルには、外国との通信・通商は国禁であるから米国とは通商はできないこと、また外国のことは、長崎が窓口であるから、再び浦賀には来航しないようにという諭書を送ったという。この諭書を渡す際、ちょっとしたいざこざがあったが、両者は何とか和解し、ビドルは浦賀を去った。

 老中・阿部正弘は、オランダ商館の風説書などを通して、清国のアヘン戦争、南京条約の過程を知るにつれ、開国も止むなし、と考えていたようである。また、この年の仏艦隊や英国艦の情報なども薩摩藩の世子(せいし)・島津斉彬(1809~1858)などから逐一報告を受けていただろう。しかしながら、このビドルへの対応のように、有効な開国への道筋を見いだせないまま、ペリーの浦賀来航を迎えるのである。

 では、この弘化3年の仏、英、米艦の来航から7年後、どうしてアメリカが抜け出し、一番初めに日本との開国に漕ぎつけたのだろうか。

 これまで、アメリカの捕鯨船が英国の捕鯨船以上に日本近海を操業していたのは、第2の波として述べてきた。米国の捕鯨業者は日本に寄港地を確保したかったし、米政府に働きかけもしていた。しかし、捕鯨船の基地確保だけで英国や仏国も成功していない開港を迫るのは、今はやりの言葉を使えば、コスパが悪すぎる。戦争になる可能性は充分ありえるのだから。やはり、巨大な市場である清国との貿易のため、そしてその中継基地として、日本に開港をせまったのだろうか。

 アメリカは、18世紀後半に英国との独立戦争に勝利し、英国とは離れた独自の国家運営をせざるを得なくなった。もっとも、独立戦争以前から、北米のニューヨークやボストンは、奴隷貿易港して繁栄していた。そういう基盤もあって、19世紀直前の1791年には、紀州串本へ捕鯨船が現れていたことは、既に述べた(補足3)。だから、貿易相手国として、当然清国へも足を伸ばすことも可能だった。というより、『幕末期のオランダ対日外交政策』(小暮実徳)によれば、ジョージ・ワシントン(1732~1799)が、初代大統領になった年の1789年から翌年までの1年間で、清国の広東に入港した米国商船は14隻にも及んでいるという。これは、EIC会社船21隻、同(EIC)インド在籍船40隻に及ばないとしても、オランダ船5隻、ポルトガル船3隻、フランス・デンマーク船各1隻から比べると断然多い。また、清国からの主要輸出品である茶に関しては、EICの6分の1程度だが、これでも第2位で、毛皮に関しては、1795年以降は他国を圧倒しているようである(補足3)。さらに、米国商人は、蘭領東インドのスマトラで、1790年から香辛料取引を開始してから、急速な成長を遂げ、広東での貿易に匹敵するほどになったというのである。

 こうなると、穏やかでないのは、アジアに大きな利権を持っていたオランダや英国だろう。フランスはベトナムには足がかりをつかんでいたものの、18世紀末から19世紀初めにかけての革命、ナポレオン戦争とアジアでは一歩も二歩も遅れをとっていた。そのため、まず米国を牽制するのは、オランダと英国となるが、両国は、1688年の名誉革命後、オランダ総督のウィレム3世が、メアリー2世とも英国の王家を継いでいる。また、オランダは英国にとって第二次英仏戦争の資金源でもあった。1750年におけるオランダのイングランド銀行やEIC会社への出資比率でも、他国を圧倒する90%近い投資を行っている。さらに、フランス革命で、革命政権がルイ16世を処刑したのち、1793年にはオランダと英国に宣戦布告し、2年後にはオランダ全土を制圧した時、オランダ総督・ウィレム5世は英国へ亡命しているのである。こういう関係は、フェートン号事件(1808)のような多少のいざこざがあったとしても、アジア利権においては、持ちつ持たれつの関係であった。

 そして、1814年、ナポレオンがエルバ島に流され、平和が訪れると、オランダはフランスから独立を回復する。この時、英国は以後、オランダと意味のないトラブルを起こさないよう、英国が占領していた蘭領東インド植民地をオランダに返還した。また10年後の1824年には、東アジアにおける両国の勢力範囲の画定、及び利害保持を確認したのである。

 その間隙をぬっていたアメリカの商人たちは、1830年代になると、インドから清国へのアヘン流入も増大し、清国と英国の関係が緊張していく中、うまく立ち回り、清国の官憲や商人たちにも好意的に迎えられていたようである。しかしながら、東アジアに拠点も手近な中継地もなく、英蘭のライバル商人との競争には不利なことは否定しようがなかった。清国の要地を狙おうと思っても、英蘭が目を光らせているので、うかつに手も出せない。貿易の拠点や中継地は、捕鯨船の基地のような小笠原諸島の父島やハワイのオアフ島では、小さ過ぎたり、遠過ぎたりでどうしようもない。

 そして、1840年、アヘン戦争が起こる。この結果、英国軍が清国軍にボロ勝ちし、その戦後処理の南京条約では、五港(上海・寧波(にんぽー)・福州・厦門(あもい)・広州)の開港、香港島の割譲、治外法権の承認、関税自主権の喪失等々の他、没収されたアヘンにイチャモンをつけ賠償金までせしめているのである。以後、清国は列強の草刈り場と化していくが、当然アメリカもそれらに加わることになった。

1844年、米国は、清国と南京条約とほぼ同じような望厦(ぼうか)条約を結んだ。いよいよ、清国との貿易に本腰を入れられる時が来たというわけである。

 こうして各国は、次は琉球だ、日本だとばかりに、前に記した弘化3(1846)年に4月、英・仏の軍艦が先ず琉球に現れ、閏5月(陽暦7月)、米東インド司令官が浦賀に寄港するのである。

 ところで、ビドルは、望厦条約を結んだ米国の清国特命全権公使ケイレブ・クッシングに対して、日本との外交交渉を開始せよとの米政府から指令書を携えて清国に至った。しかし、クッシングはすでに清国を去った後だった。そこで、ビドル自身が日本の通商交渉に向かったのだという。そして、不信を煽ることなく、穏やかな対応をせよと言われていたこともあり、幕府の諭書を素直に受け取って帰国の途に就いたというのが真相のようである。

 日本を去ったビドルは、12月に南米のチリに至るも、そこでアメリカとメキシコとの戦争を知り、翌年3月、カリフォルニアに移動。そこで、太平洋艦隊と合流し、そこの艦隊司令官となる。戦後は東海岸に戻り、1848年10月、フィラデルフィアで死去したという。

 


日本と英国の出会いー薩英戦争まで

2023-07-07 10:34:24 | 歴史

                   (9)閑話休題。

 またここで、船の話をしたい。400トンほどの英米の捕鯨船が日本近海や太平洋を縦横無尽に航海している様を想像すると、当時の日本の船はどういう「航海術」で日本近海を航海していたのだろうか、とつい考えてしまったのである。

 たとえばコロンブスは、1492年、地球は丸いということを信じ、西インド諸島に到達し、そこから帰って来た。この翌年には、教皇子午線なるものを引いて、スペインとポルトガルの取り分の境界を決めた。そしてまたその翌年には、すでにブラジルに到達していたポルトガルの思惑もあって、その子午線を少し西にずらし、ブラジルの一部を確保した。これがトリデシリャス条約と呼ばれるものだが、彼らは経度線の、況や緯度線の知識もあり、大洋上における位置を測る術(すべ)を知っていたのである。この航海術は、私が船に乗っていた50年前まで続いていた。太陽や恒星などの天体の高度を測り位置を知る、いわゆる天文航法という航海術である(補足1)。

 それでは、江戸期の200トンにも満たない千石船などはどうだったのだろうか。

 中国の宋代(960~1279)に羅針盤が発明され、1200年代末には世界中の航海者に利用されていたというが、江戸期の千石船にも取り付けていたのかはよくわからない。もちろん、鎖国前の東南アジア方面を航海していた船は、取り付けていただろう。しかしながら、江戸幕府の海外渡航禁止以来、造船に関しては厳しい制限が設けられていたから、やはり取り付けていなかった可能性が高い。ただ、瀬戸内海や日本沿岸しか航走しないとすれば、羅針盤などなくとも何とかなったかもしれない。もっとも、一度嵐に遭い、マストも舵も失えば、風や潮流に流されるしかなかった。そして、太平洋岸は、黒潮と偏西風に影響され、運が良ければ、<ロシアの東進>で話したように、カムチャッカや千島列島などに流れ着くか、もっと東に流されれば、海の藻屑と消えてしまうしかなかった。日本海ルートの北前船の繁栄の話もしたが、偏西風は当然日本海にも影響する。しかし、日本海における西風は日本海内の沿岸に船を寄せるだけだから、太平洋の藻屑に消えることはなかったということである。

 さて、地文航法と呼ばれる沿岸を走る航海術のことである。日本の沿岸は起伏に富んでいるので、この岬を廻ればどこの湊だ、あの山は何々山だから、もっと岸よりに舵を取れ、とか風向きと天気さえければさほど問題はないだろう。また、長年の観望天気で嵐が来そうだとなれば、近場(ちかば)の入り江に逃げ込めばよい。ところが、突然、霧に襲われたらどうしようもなくなる。へたに沿岸に寄せれば、暗礁や浅瀬に乗り上げることにもなる。たとえば、夏場の三陸沖は、濃霧が発生しやすく、レーダーがあっても、小型漁船や漁網の浮きなどは写らないこともあったので、航海士などは冷や冷やものだったろう。こういうことは、どの国の船舶、艦船も同じだった。だから、見えないという点では、濃霧と同じく未知の海岸に近づく際には、念入りに測量をする必要があった。それゆえ、海図の作成が急務だったのである。英国の海軍などは、日本と通商を求める前から、北海道から沖縄まで、岸付近や湾の水深等を測り、安全を図っている。近代の船になればなるほど、建造費も高くなるのだから、事故は最小限に食い止めなければならなかったのである。

 ところで、日本の水(か)主(こ)(水夫=水手)たちが、曇天や霧中で現在位置がわからなくなったら、どうしていたのだろうか(補足2)。経験知の高い水主は、海水を汲み上げ、それを手で水温を確かめたり、舌で舐めて塩分濃度を味わったり、どの辺りにいるか、或いは河口に近いかなどを判断したそうである。かつて、それを聞いた時、まさかと思ったと同時に何と原始的な、と思ったものである。しかしながら、現在の感想はそれとははっきり違っている。例えば、限られた設備や状況下で、人間の五感をフルに使い、独特な「航海術」を極限まで突き詰めていった結果だから、である。つまり、人間の能力としての理論や技術の進歩とは別次元の領域に、到達していたということが言えるからである。

 ある例を挙げよう。マゼランがアメリカ大陸の西側にある大洋(太平洋)を目指して南下し、その先端に辿り着くまでに、1年3か月ほど要した。もちろん、約5か月間の越冬停泊もあるが、ラプラタ川のような大河を太平洋へ抜ける水路と思い込み、かなり遡上している。そして、川だと気づくまでにいくつかの川で2,3か月かかっている計算になる。こんな時間を浪費しなかったなら、越冬期間中の反乱も起きなかっただろうし、その後の壊血病による死者も大幅に減っていたかもしれない。要するに、当時の日本の「航海術」を応用あるいは利用していたら、かなり時間を短縮できていたのではないかという想像が可能である。

 しかしながら、私がここで言いたいのは、こういうことではない。彼ら西洋人は確かに論理を突き詰めてはいく。そして、繰り返すが、私の解釈では、西洋社会(大陸性諸国家も)の基層が父権的(patriarchy)だからだと思える。それに対して、日本は感覚的、感性的に物事を捉えていく社会なのである。

 三島由紀夫は、カナダのTV局のインタビューで、ヒットラー・ナチスの例を挙げ、西洋人の「残酷さ」を機械的、あるいは組織的(mechanized or systematized)なそれと言い、日本人の「残酷さ」は女性的な側面(feminine aspect)からきていると答えていた。言い換えれば、日本の社会の基層が未だに母権的、母系的社会(matriarch society)だから、そういう感覚的な反応を得意とするのだ、と。もちろん、どちらがいいとか悪いとかの問題ではない。こういう古代から続く、母権・母系的な社会が温存されたのは、日本が長い歴史時間を通して、外国から支配されたこともなく、海という自然の壁に守られてきたからである、としか言いようがない。

(補足1)インド航路の船員だった頃、ある三等航海士は、船内放送で正午の位置情報を流してくれていた。彼は、六分儀を使って位置を出していたのである。もっとも、既にデッカとかロラン航法と呼ばれる地上系電波航法システムも利用していたかもしれない。現在は、船に限らず、人工衛星を利用したGPSシステム利用しているので、六分儀を使った天測などほぼ必要ないらしい。

(補足2)レーダーが発明され、実際に利用され出したのは第二次大戦頃からのようだが、それまではどう対応していたのかよくわからない。どうも気球が利用されていたのかもしれない。海面が濃霧でも、上空は晴れていることが多いからだ。例をあげよう。「生麦事件」に関わった、奈良原繁の息子の奈良原三次は、日本で最初に飛行機を飛ばした民間人だった。彼は、岡山の第六高等学校生の時、瀬戸内海で濃霧を経験した。これを契機に霧の研究を始めたいと思い、呉鎮守府予備艦隊司令官だった叔父に相談すると、気球の存在を知ったという。そこで気球の専門家を紹介してもらった。時あたかも日露戦争(1904~1905)中だった。ただ、三次は気球の研究から、途中で飛行機の研究に変えている。1903年、ライト兄弟が世界で初めて飛行機を飛ばしていたが、当時、欧州から飛行機なるものが発明されたという情報が先にはいったようである。


日本と英国の出会いー薩英戦争まで

2023-07-06 09:56:59 | 歴史

                 (8)英米の捕鯨船

 鯨から主に油を取るという、ヨーロッパの捕鯨業は、スペインのバスク人がビスケー湾で始めたのが最初のようである。それが、英国やオランダや他の国々に広まり、北海からアイスランド海域、大西洋へと拡大し、18世紀末には英国の捕鯨船は太平洋に進出して行った。その頃には、アメリカの捕鯨船も日本近海に現れ始めている。

 最初は、寛政3(1791)年、1隻の捕鯨船が紀州(和歌山)の串本港に立ち寄ったのである。詳細はわからないが、水と食料を補給しに来たのだろう。そして、串本港側もそれを提供したのかどうかも私は知らない。ただこの当時、マッコウクジラを原料とした灯油や機械油などの需要が増大したため、英米の捕鯨船は、喜望峰を廻って、インド洋、太平洋に出、すでにオホーツク海あたりまで進出していたのである。

 こうした結果か、アメリカ船が長崎に来航し、通商を求めている。享和3(1803)年7月のことで、これはラクスマンに次ぐ早さである。また、同月、日本との通商目的でカルカッタより来航した英国船・フレデリック号が、那覇に寄港した。もっとも、前者は幕府によって簡単に拒否され、後者は、琉球王府がウヤムヤの回答をしたのだろう。どちらも「通商」に本気になっていたというより、少なくとも捕鯨船などに水や食料を補給したいという程度だったのではないだろうか。

 ここで、アメリカの捕鯨業に関して、ネットで拾った論文をいくつか紹介してみたい。というのも、時系列の事象を細々と羅列していくより、英国、ロシアなど早くから日本に接近していたにも拘わらず、結局、なぜアメリカが最初に強引な通商を求めて来たのか、その理由の一端が窺い知れるかもしれないからだ。

 最初の論文は、文政3(1820)年のことである。「・・・米の捕鯨船が初めて現れてから太平洋の操業域は飛躍的に広がって、この年(1820)には、日本列島・伊豆諸島・小笠原諸島を取り巻く海域に達し、以後ここは、捕鯨関係者の間ではジャパン・グラウンドと呼ばれる好漁場として評判になっていた(「19世紀後半期のアメリカ式捕鯨の衰退と産業革命」山崎晃)。」という。次は、だいぶペリーの来航に近づいた弘化3(1846)年の頃である。「この年の米の捕鯨船数は、735隻(約23万トン)と最多となる。ニューベッドフォード(本拠地港)254隻、ナンタケ(Nantucket)75隻で、雇用数は約7万人。ハワイに寄港した米船は596隻といわれる。さらにこの頃、世界の捕鯨船数は900隻ほどで、その80%はアメリカが占めた(「アメリカ式捕鯨史と捕鯨規模推移」)」ようである。そして当時、鯨油は産業革命の進展に伴う機械の潤滑油や、街灯やランプの燃料として、また骨は女性用コルセット、髭はブラシ等々、石炭と並ぶアメリカ経済の柱だった。そのため、必死に鯨を追い求めていたのである。その象徴が、広大な海を背景にした、ハーマン・メルヴィル(1819~1891)の「白鯨」そのものだろう。こういう中で、捕鯨業者が日本への寄港地を設けたいと米政府に要請するのも無理からぬことだった。

 次は、英国の捕鯨船のことである。米国の捕鯨船に比べると数は少ないが、薩摩藩とは衝撃的な出遭いをしている。これは、文久2(1862)年の生麦事件以前の最初の英国民間人死亡事件だった。

 文化5(1808)年のフェートン号が長崎に突然現れてから、10年後の文政元(1818)年5月、英国船が最初の通商を求めて浦賀に来航している。船長はゴードンという名前のようだが、私は年表を追っているだけなので詳しいことはわからない。前年に、英国船が浦賀に来て、測量をしていたようだから、それなりの下準備をしてきたのだろう。しかし、まだどの程度の「通商」に対する熱意があったのかもよくわからない。清国との通商に集中したかっただろうし、日本は単に捕鯨船などの寄港地を求めていただけかもしれない。というのは、この6年後の文政7(1824)年5月、英国の捕鯨船が薪水を求めて、常陸(茨城県)大津浜に上陸しているのである。またこの年の7月、薩摩藩と英国との最初の軋轢が起こった。これまた英国の捕鯨船の船員が、薩摩藩領の宝島(七(しち)島(とう)群の一つ)に上陸したことで、事件が起きたのである。『鹿児島県史』を紐解くと、7月8日午前10時頃、宝島沖に停泊した三本マストの母船から端艇(ボート)を下ろし、島に上陸して食料(牛)を求めたが、待ち構えていた在番の役人に拒絶される。船員たちはそのまま船に戻ったが、翌日の午前、再び上陸し、衣類・酒・麺・金銀貨・時計などと牛2頭を交換したいと申し出た。しかし、在番吏はそれを再び拒否し、その代わり野菜や藷類を与えて引き取らせた。すると、その日の午後になって、三艘の端艇に分乗した20数名の乗組員がやって来て、海岸近くに放牧していた牛一頭を射殺し、2頭を捕獲してボートに運んだ。その際、これを知った横目(在番役人で目付に当たる)が、番所前に迫って来た乗組員の一人を撃ち殺してしまったのである。これが、英国人の最初の死者だった。

 この年、常陸大津浜で水や食料を与え、船員たちと交易した漁民300人が捕らえられたことや宝島のこの事件を重く見た幕府は、翌年、異国船打ち払い令を出すことになる。

 さらに、この2年後の文政10(1827)年、小笠原諸島の父島が英国艦によって発見され、驚くことに、英国は領有宣言をしていたのである。この艦船はブロッサム号(艦長・F.W.ビーチー)という測量船のようで、ベーリング海峡の測量から、カリフォルニア、サンドイッチ諸島(ハワイ)、そして那覇まで至り、そこで無人島の噂を聞きつけ、父島に辿り着いたという。そしてその3年後の1830年には、ハワイの米国領事が25人の欧米人を入植させ、捕鯨船に対する薪・水・食料の供給基地として使われ出していたのである。これらのことは、ペリーが和親条約を結び、帰国した後に書いた『日本遠征記』の中に記載していたことで、幕府はハリスとの交渉まで預かり知らなかった。オランダもこれらのことを知らなかったのか、幕府はそれまで全く蚊帳の外に置かれていたという訳である。ただこれらのことでわかるのは、米国や英国の捕鯨船がたびたび日本に水や食料を要求しても、突っぱねられるだけだったが、彼らは彼らなりにハワイのオアフ島やグアム島、そして小笠原諸島の父島などを確保していたのである。

 


日本と英国の出会いー薩英戦争まで

2023-07-05 09:34:21 | 歴史

                  (7)ロシア(スラヴ)の東進

 ロシアがヨーロッパの上流階級で高く売れる毛皮を求めて東進を始めたのは、リューリク朝末期の16世紀末からだった。そして、ロマノフ朝(1613~1917)になった、1636年、コサックのイヴァン・モスクヴィチンという探検家がオホーツク海に至り、初めて大陸横断を達成している。その後の1648年には、ロシア人・セミヨン・デジニョフが、米国と隔てていることは認識してなかったようだが、ベーリング海に到達している。さらに、その翌年、オホーツクには砦が建設され、最初の入植地としている。こうして、着々と日本に近づいていたが、実際には、日本人のほうが早くロシア人と接触したようである。

 元禄8(1695)年、大坂から江戸へ酒や米を運んでいたデンベイ(伝兵衛)らが、途中嵐に遭遇し、半年ほど漂流してカムチャッカの南部に流れ着いた。そこで助けられた伝兵衛らは、カムチャッカ探検中だったコサックに連れられてモスクワへ行き、西洋化政策で、また大男としても有名なピョートル1世(在位:1682~1725)と謁見したという。そして、興味深いのは、ピョートル1世は、臣下に日本語を学ばせようと勅令(1705年)まで出したというのだ。勿論、日本文化を学ぼうという方針でなかったことは、その後の日本への接近で明らかだが。

 次もロシア側の記録だが、宝永7(1710)年、サニマ(三衛兵門?)という日本人がカムチャッカに漂着、ロシアの首都になっていたペテルブルグへ送られ、そこで日本語を教えていた伝兵衛の助手になったという。三番目は、鹿児島では有名なゴンザ(権左?)とソウザ(惣左?)という漂流民である。彼らは、享保14(1729)年、若潮丸の乗組員として鹿児島から大坂に向かう途中、暴風雨に遭い、そのままカムチャッカまで流された。乗組員は17人いたというが、ゴンザとソウザを除いて、全員コサックに殺されたという。理由はよくわからない。ゴンザとソウザは、ペテルブルグまで連れて行かれ、女帝アンナ(在位:1730~1740)に謁見したと記録されている。また彼らは、1736年にペテルブルグに日本語学校が開設された際、教師となり、科学アカデミーのアンドレイ・ポグダーノフという学者に協力して、世界初の「露日辞典」を編纂していた。余談になるが、私が鹿児島で古本屋をやっていたとき、入手先は出版社からだと思うが、この翻訳本を扱っていた。江戸中期の薩摩語から現代語との比較が面白いらしく、何冊か売った記憶がある。

 ゴンザやソウザが辞書作りに協力した、約40年後の安永7(1778)年6月、ロシア人が初めて日本への扉を叩いている。場所は蝦夷地(北海道)厚岸(あっけし)(根室市)である。そこに松前藩の番所があった。そしてそこに通商を求めに来たというのである。この4年後の天明2(1782)年、漂流者としては最も有名になった伊勢の船頭・大黒屋光太夫(1751~1828)がアリューシャン列島に漂着し、そこでロシア語を習得、いろいろな経緯から当時の女帝エカテリーナ2世(在位:1762~1796)に謁見している。そして、そのエカテリーナ女帝の通商使節となったアダム・ラクスマン(1766~1806以降)とともに、寛政4(1792)年9月、根室に来航。光太夫他2名の日本人ととともに上陸した。おそらく、ロシアに漂流し、帰国した初めての日本人だった。漂流から10年振りの帰国だった。その後は、11代将軍家(いえ)斉(なり)にもお目見えし、鎖国時代とはいえ、処遇は悪くなかったと言われる。

 ここで、江戸期にロシアへの漂流者に多かった理由について考えてみたい。まず、江戸期の和船で一番大型は千石船である。これは現在のトン数でいうと180トン位だそうである。つまり、1本マストで喫水の浅い200トンに満たない船なのである。こんな船が一度暴風雨に見舞われ、そして帆柱が折れたりすれば、すぐ舵も効かなくなり、黒潮と偏西風のために北へ東へと流されてしまう。冬季はともかく、日本海側より太平洋側のほうがはるかに危険である。

 私は、インド航路の大型船で一度だけ、海上に油を敷いたようなベタ凪(なぎ)の海を経験したことがある。それが夏期の日本海を航行している時だった。それまで日本海は冬の荒ら海だけのイメージだったが、完全に覆されたことを今でも鮮明に憶い出す。

 要するに、江戸期を通して、北前船と呼ばれる西回り(日本海側)航路が栄えたのは、こちらのほうが安全だったからでる。せいぜい、200トンに満たない和船では。

 ところで、デンベイ(伝兵衛)が最初にロシアへ漂着した、1696年から1850年まで、カムチャッカ、アリューシャン、千島列島へ漂着した日本船は、13隻で174人に上るという。途中で難破したり、飢えと寒さで全員死んだりすることもありえたとすれば、実際はもっと多くの船が流され、行方不明となっているだろう。

 エカテリーナ女帝の使節ラクスマンの話に戻す。幕府は、鎖国を楯にラクスマンらの通商使節を何とか追い返すことに成功したが、この12年後の文化元(1804)年9月、2度目の遣日使節が来航する。アレクサンドル1世の親書を携えたニコライ・レザノフ(1764~1807)一行が、今回は最初から長崎に入ったのである。前回のラクスマンの時に、通行許可書を与えていたため、幕府も無碍(むげ)にできず、対応に苦慮した。しかし、清国・朝鮮・琉球・オランダ以外は通信・通商の関係は持たないという「祖法」を楯に追い返すだけだった。レザノフは、漂流民を返しただけで、翌年3月、長崎を去った。

 これに対するロシア側の報復と思われる事件が翌年の文化3(1806)年の9月に起こった。レザノフの部下だったフォヴォストフが、樺太島のクシュコタンを襲い、翌文化4年4月にはエトロフ島に、5月には利尻島に侵入した。彼らは、各地で会所を襲撃して略奪したうえ建物を焼き払い番人を連れ去った。

 のちに、彼らは日本人を解放したが、通商を拒否するなら、こういうことができるぞという手紙を置いて去ったという。これは、フォヴォストフ個人の腹いせと思われるが、蝦夷地では「むくりこくり」(蒙古・高句麗)の襲来として緊張が高まっていた(『幕末の海防戦略』上白石実)ようである。今も昔も乱暴狼藉なお国柄である。これらのことから、この年の12月に、幕府はロシア船打ち払い令を出す。

 この後のロシア船の来航は、文化8(1811)年6月、海軍測量船ディアナ号のクナシリ島出現で一区切りがつく。艦長のゴローニンが、同島に上陸して、現地の役人に捕らえられる事件が発生した。事件は煩雑なので詳細はさけるが、2年後には何とか帰国する。以後、ロシアは、1853年のプチャーチンの長崎来航まで「通商」を求めて日本と接触することはなかった。ロシア・ロマノフ朝の関心は、ヨーロッパに移ってしまったのであろう。

 当時のヨーロッパにおけるロシアの状況を簡略に記述しておく。トルストイの『戦争と平和』に描かれている時代の頃である。1812年、ロシアがナポレオン戦争で彼らを撃退すると、アレクサンドル1世は俄然強気になり、彼の提唱で、ウィーン(反動)体制を維持すべく、オーストリア・プロシャ・英国、さらにフランスと同盟を結び、ヨーロッパの盟主になろうとした。そして遠い極東より、身近なオスマントルコ領域側からの南下政策に切り替えたのである。つまり、黒海から、ボスポラス海峡、ダーダネル海峡を通り、地中海に抜けるという、ロシア側にとって最短で最善の南下ルートを目指すことにしたというわけである。

 もっとも、これは、ロシアに地中海に入ってもらいたくない英国などの利害が絡みなかなか思い通りはいかなかった。

 1830年、ギリシャがオスマントルコから独立したのちの条約では、ボスポラス、ダーダネルス海峡通過の権利は得たものの、翌年から2回にわたるエジプト・トルコ戦争では、その権利も失ってしまう。そして、1853年からのクリミア戦争で惨敗したことで、ロシアのヨーロッパ側の南下政策は失敗してしまった。その結果、ニコライ1世が自殺したとさえいわれたのである。

 以上、禁教後、ロシアが「通商」を求めて日本に現れた最初の国だったということを述べておく。また、『幕末の海防戦略』によれば、これが、「海禁」後の第一波だという。


日本と英国の出会いー薩英戦争まで

2023-07-04 12:22:29 | 歴史

          (6)宗教鎖国から開国へ

 もともと、幕末の薩摩(日本)と英国との関係を眺めようと思った時、どうしても気になることがあった。それは、日本に最初に上陸したウィリアム・アダムズという英国人であり、またその国が当時どんな国だったということであった。もっとも、冒頭で語ったように、実際は日本人のほうが、早く英国に渡っていたということを知ったときは驚いた。私自身その史料を目にしていないし、その文献調査も必要だろうが、充分あり得ると思っている。埋もれている史料が出てくれば、そしてその史料が信頼に足れば歴史は書き換えられるのだから。

 ともかく、アダムズが来日した頃と幕末に来た英国人、或いはイギリスという国がどう変わっていったか確認したかったのである。

 さて、すでに何度も触れたように、元和(げんな)9(1623)年、英東インド会社(EIC)が、モルッカ諸島でオランダ東インド会社(VOC)との利権争いに敗れ、と同時に、平戸の商館を閉めるに至った。そして、その50年後の延宝(えんぽう)元(1673)年に、チャールズ2世の国書を携えたEICのリターン号が長崎を訪れ、貿易再開を切望した。しかしながら、幕府はこれを拒否している。EICが、日本との貿易再開を望んだのは、台湾の鄭(てい)氏政権(1662~1683)と英国が前年に通商条約を結んだことが契機だったと思われる。ここで少し台湾のことにも触れておく。

 まず、鄭氏政権というのは、1644年、明朝が滅び、満州(女真族)政権である清国が成立した。それに対して、明朝の復権を望む鄭成功(1624年平戸生まれ~1662)が大陸を逃れ、1662年、当時、オランダが一部支配(タイオワン)していた台湾を占領。鄭成功は、その年そこで急死するものの、その後は一族が清国に平定されるまで、台湾に割拠したのである。それ以前の1624年以来、オランダがタイオワン(台南市の外港)に城塞を築き、中国(明・清)との貿易拠点としていたが、鄭成功の侵攻によって追われてしまう。ただ、インドネシア(バタヴィア)と日本との間に拠点が欲しかったオランダは、鄭氏政権に何度か反撃を試みたが、取り返すには至らなかった。その後の1683年、鄭氏政権は、清国軍に敗れ、22年の支配は終わっている。

 江戸初期の日本をめぐる状況は以上だが、その後、英国が日本の扉を叩くのは、文化5(1808)年8月15日のことである。この日、英国海軍の軍艦・フェートン号がオランダの国旗を掲げて長崎港内に入って来たのである。そして、オランダ船と勘違いした出島の商館員二名を同艦に拉致し、出島の商館の引き渡しを要求した。ところが、翌日、結果的に水と食料の交換で二人の商館員を解放し、フェートン号は翌未明に錨を揚げ、長崎港外へ去って行ったのである。この突然の襲来に、幕府から長崎港の警備を任されていた佐賀鍋島藩は臨機な対応が取れなかった。太平の世に慣れ、通常の十分の一程度の警備人数しか配置していなかったのである。この事件は、オランダにも日本にも何の実害をもたらさなかったものの、長崎奉行は自ら切腹。さらに失態を演じた佐賀藩は数名の家老も責任を負わされて切腹し、藩主も100日間の閉門を命じられている。このことが幕末佐賀藩の近代化路線を進めた原因と言われているが、日本近海には次第に外国船の姿が見え隠れするようになる。

 ところで、英国海軍がなぜ長崎にやって来たのか、ということを簡単に見ていくことにする。当時のヨーロッパの情勢は、江戸初期の状況とは大きく変化していた。それには英国とフランスの第二次百年戦争と呼ばれる世界の覇権争いから始めなければなるまい。  

 17、8世紀の英仏は、ルイ14世下のフランスが仕掛けたファルツ(継承)戦争(1688~1697)から始まり、スペイン継承戦争(1701~1713)、オーストリア継承戦争(1740~1748)、七年戦争(1756~1763)まで4度の戦争を繰り返し、またそれに付随した北米大陸でも4度の植民地争奪戦を引き起こしていた。これは、インドをめぐる英仏の争いも同じで、いわば熾烈な覇権争いであった。この死闘の最終的な結果、英国はフランスに勝利を収め、産業革命の勃興とともに世界の覇権を握るに至っている。その後は、アメリカの独立(1776)、フランス革命(1789)、と徳川政権の平穏とは無縁の闘争に明け暮れていた。

 オランダはどうかと言えば、フランス革命後のヨーロッパ情勢が込み入っているので、ナポレオン以降の概略だけにする。

 フェートン号が長崎に現れる2年前の1806年11月にナポレオンが大陸封鎖令を出し、イギリスとヨーロッパ大陸との通商を禁止した。これは、フランスとの同盟諸国を含め、経済的な困窮を迫り、様々な軋轢(あつれき)を生む結果となってしまった。英国も然(しか)り、ナポレオン戦争でも中立的立場にいた米国も然りだった。その頃オランダは、仏革命戦争以来、仏の同盟国として共和国になっていたので、英国とは相対立する立場にあったと。それゆえ、大陸封鎖令に圧(お)された英国は、東アジアにあるオランダ(フランス)の拠点を襲い、オランダ(フランス)船を拿捕し始めたのである。その中の一隻が長崎港への出現だった。もっとも、なぜすぐに立ち去ったのかはよくわからない。

 英国は、すでに清国の広東に商館を設置(1711年)しており、南シナ海を自由に航行していた。そのため、英国は、フランス領になっていたバタヴィァや出島のオランダ船を追うことは可能だった。ただ、実際には、フェートン号が長崎に現れる12年前の寛政8(1796)年8月には、海図作成のため、測量船プロヴィデンス号(船長ブロートン)が北海道の室蘭に来航している。そして、翌年、琉球(那覇)に寄港し、水・食料を補給しているのである。つまり、既に日本に探りをいれていたのである。そのためか、フェートン号は、オランダ商館引き渡しなど強引には進めなかった。脅しておくだけで充分だったのであろう。要するに、植民地としてインドは手中に収めつつあるものの、清国が次のターゲットだったので、日本のような小国とトラブルを起こして時間を浪費できず、すぐに立ち去ったのかもしれない。

 ではここで、一直線に幕末の日本と英国の関係に入る前に、ロシアとアメリカが幕末の日本とどう関わってきたかも寄り道してみる。