郎女迷々日録 幕末東西

薩摩、長州、幕府、新撰組などなど。仏英を主に幕末の欧州にも話は及びます。たまには観劇、映画、読書、旅行の感想も。

中井桜洲と桐野利秋

2010年11月09日 | 桐野利秋

 えーと、またまた突然ですが、中井桜洲です。

 「桐野利秋と龍馬暗殺 前編」に書いているのですが、慶応3年後半、桐野が個人的なつきあいをしているらしい友人として、中井桜洲がいます。
 なぜ個人的か……、といいますと、桐野の愛人・村田さとさんの家に桐野が持っていたらしい部屋で会っているから、です。必ず永山弥一郎とともに、なんですが、けっこう仲よさげ、なんですよね。

 それもあるんですけれど……、明治11年3月発行の金田耕平編『近世英傑略伝』(近デジで読めます)に、短いながら桐野の伝記がありまして、これは、もっとも早く書かれた桐野の伝記ではないか、と思われますが、桐野がもっとも親しくしていた友人を、伊集院金次郎、肝付十郎、永山弥一郎の三人とするなど、かなり正確なんですよね。ただ、西郷隆盛とは幕末から一環して意見があっていなかった、という点が、ちょっと極端な感じなんですが。
 西南戦争終結間もなく書かれたこの伝記の最後は、田中幸介(中井桜洲)の話でしめくくられています。

 曾て京師に在るの日、同藩の兵士田中幸介の脱走して京師に在るに會し、始めて文事を談するを暁(さと)り、頗る天下の形勢を了知するの益を得たりと云ふ。此田中なる者は、曾て欧州に航し帰て、維新の際に尽力せし人なり。氏(桐野)は常に談を好み、日夜壮士を集め戦事を論するを常とせしが、他人之を論弁すれとも断乎として用ゆることなし。独り其之信聴する者は田中のみにして、田中は氏に逢ふごとに古今の形勢、各国の人情風俗を談ずるに氏は耳を傾むけて之を聴き、敢て非斥することなく、他人の若し田中を誹議する者あれば大いに憤激して之を排撃せしとぞ。惜いかな、この田中なる者は方今其の所在を知らず。若し田中をして氏の傍らに在らしめば、氏は必ず西郷の暴挙に左袒せざる@しと痛惜する人@しと云ふ。嗚呼、亦勢運の然らしむるに非ざるなきを得んや。

 これ、西南戦争を「西郷の暴挙」と表現しているんですが、このすぐ後に西郷隆盛の伝記があって、もちろんそちらの方はそういう書き方はしていませんで、あきらかに筆者がちがいます。
 そして、「この田中なる者は方今其の所在を知らず」といいますのは、意味深な書き方です。田中幸介は、中井弘と名を変えただけで、この当時、工部省の官僚です。
 つまり、なにが言いたいかといいますと、あるいは、この伝記は中井の筆になるのではないか、と、私は思うのです。桐野の友人として「伊集院金次郎、肝付十郎、永山弥一郎」の三人をあげることができるほど幕末期の桐野と親しく、明治11年初頭、死んでもいなければ入牢もしていないで、なおかつ筆が立つ人物といえば、ちょっと私には、中井しか思い浮かびません。

 それに、です。中井の伝記として、伊東痴遊が中井の異母兄の書いたものをもとにした、というものがありまして、私はこれ、痴遊の聞き書きではないかと思うのですが、講談調で、かなり疑問の多い伝記ではあります。
 が、ともかくこれに、中井生前の言葉として、西郷批判とともに、「西南戦争を起こしたのは、西郷ではなく桐野である。桐野は篠原のような西郷の子分ではなく、独立した親分だ」といったようなことが、書かれているんです。「西南戦争を起こしたのは桐野」という部分は、明治11年の桐野の伝記と正反対なのですが、西郷嫌いの気分と、桐野は決して西郷の子分ではない、独立した存在だ、といった部分は、共通しているんです。
 他に桐野のことを語り残した人物としては、有馬藤太がいますが、こちらは、本人が西郷を尊敬していますし、桐野が西郷と意見があわないでいたなどとは、一言も言っていないんです。

 つまり、西郷と桐野の関係は、見る者によってかなりちがって見えたのですし、中井の伝記に異母弟と痴遊のフィルターがかかっているにしましても、そこに描かれました中井の西郷・桐野観は、明治11年の桐野の伝記のトーンと似ていまして、伝記が中井の手になることを、思わせるのです。

 まあ、そんなこんなでして、昔から、中井のことは気にかかり、多少、資料をあさったりもしていたのですが、なにしろ私の関心が、桐野生存時、それも、幕末から明治初頭に集中しておりまして、となりますと、ろくろく資料がありません。
 fhさまが中井のファンとなられてから、相当に調べられたようなのですが、それでも幕末に関しては、講談みたいなお話しか出てきません。
 おもしろいのは、桐野の伝記を書き残してくれました春山育次郎が、中井に話を聞いて書いたエッセイです。私は、fhさまのブログで拝読しただけなのですが、ともかく中井弘という人は、二重にも三種にも尾ひれをつけた与太話で、他人を煙にまく名人だったようです。

 そんな中井の伝記を、ご子孫のお一人が出されたというので、さっそく買ったのですが、私もあっちこっちと関心が分散しておりまして、やっと先日、拝読いたしました。

中井桜洲 明治の元勲に最も頼られた名参謀
屋敷 茂雄
幻冬舎ルネッサンス


 いや、そのー、これまで、執筆と縁のない方ですし、仕方がないことなのだとは思うのですが、なんというのでしょうか、素材がもったいない、とでもいいますか。失礼な言い方かもしれませんが、あの人ともこの人とも、あらゆる有名幕末明治人士と親しくて、ということを強調なさるあまりに、肝心の本人像がぼやけたものになっているんです。
 資料を淡々と並べるか、そうするには資料が少なすぎる、ということならば、独断でいいんです。もっと中井の心情にまで踏み込んだものにならなかったものなのでしょうか。
 私の個人的欲求のみからいたしますと、新資料を単独で、全文収録してくださっていればあ、と(笑) 私にとりましては、肝心な部分が、かなり省かれております。
 
 新資料と言いますのは、中井の重野安繹宛書簡でして、そこに、かなり詳しく、自分の経歴を書いていた、というのです。
 しかし、ここでまたわかりませんのは、この書簡、実物ではなく「痴遊雑誌」に掲載されたものだそうでして、うーん。
 い、いや、確かにこれまであまり知られてなかったものだというのはわかるのですが、 「痴遊雑誌」って、柏書房が集成本を出しているみたいで、それならば国会図書館にはあるでしょうから、何年何月発行の何号に掲載と、書いていただくわけにはいかなかったんでしょうか。

 あと、そのー、どうにもわからないのが、この新資料から、中井が、脱藩(脱走と書いています)して大橋訥庵と親交を持ち、訥庵が「幕ノ嫌疑ヲ受タル時」、薩摩藩邸に捕らえられ、国許へ帰されて士族籍剥奪、終身禁固となった、とされながら、以下のように書いておられることです。

 「うなずけないのは、大橋や藤森たちが活発に行動したのは尊王攘夷運動である。それに加担したからといって、士族籍の剥奪や終身禁固などという刑を薩摩藩庁が科すであろうか」

 い、いや、「大橋ガ幕ノ嫌疑ヲ受タル時」と中井が書いているなら、それはあきらかに、坂下門外の変への関与を疑われたのであり、終身禁固くらいありえると思うのですが????? 

 (追記)忘れていました。書簡の解説文で???となった点がもう一つ。明治天皇に謁見するイギリス公使パークス一行が襲撃されたときのことなんですが、「各国公使の宿舎はオランダが相国寺、フランスは南禅寺であり、ここは中井の記憶ちがいである」と書いておられます。単純な思い違いでおられるんでしょうか??? 反対です。オランダが南禅寺で、フランスが相国寺です。したがいまして、中井の記憶ちがいは「オランダが天龍寺」としている点のみでして、それも確かー、いまちょっと資料が手元になくて記憶が定かじゃないんですが、当初、天龍寺だったような話もあったような。ともかく、堺事件直後でもっとも危ないと思われていましたフランスは、薩摩が警護しましたので、相国寺なんです。知恩院を宿にしましたイギリスは土佐が警護しましたし、オランダは加賀前田藩です。薩摩、土佐の警護したフランス、イギリスの宿について、中井の記憶は確かです。

 もう一つ、中井の父親が島流しになっていた、という件です。書簡の引用部分から、その部分は省かれ、確かなことだと、なにをもとに判断されたのか、読者にはわからないんです。
 これが確かなことだとしますと、中井の生き方、桐野との関係を見る上で、もしかしたら、という憶測を、私は抱いたのですが。
 
 桐野の父親も、遠島です。
 理由はささいなこととしか伝えられていないのですが、このおかげで非常に貧しく、どうも、一人前の藩士となる機会さえ、なかなか与えられなかった印象を受けます。

 えーと、ですね。海老原穆という薩摩人がいます。
 明治6年政変の後。東京で評論新聞という政府批判紙を立ち上げるんですが、「西南記伝」によれば、非常に桐野を信奉していた人だ、というんですね。
 司馬遼太郎氏の「翔ぶが如く」においては、なにをもとに書かれたのか、調所笑左衛門の親族であるような書き方をされているのですが、私は、証拠はつかんでないのですが、海老原清熙の親族だったのではないか、と思っています。
 海老原清熙は、調所笑左衛門の優秀なブレーンだった人です。

 で、この海老原清熙、「中村太兵衛兼高の二男で、文化5(1808)年、海老原盛之丞清胤の養子となった」ということを知りまして、もしかして、桐野の親族では? と調べてみたのですが、これもわかりませんでした。
 しかし、ふと、思ったんです。
 桐野の父親の遠島は、海老原清熙がらみだったのではないかと。

 調所笑左衛門の切腹は、お由羅騒動につながります。
 藩主の島津斉興が、正室との間の嫡子・斉彬になかなか家督を譲らず、側室・お由羅の子である久光にゆずるつもりではないのか、という疑いがもたれました。
 実質をいいますならば、斉興と斉彬、親子の確執があり、それに家臣団がからんだ、ということでしょう。
 斉興のもとで、経済改革を成し遂げた調所笑左衛門は、その財政引き締め政策によって、下級藩士たちの多大な恨みを買っていました。
 父親が家督を譲らないことに業を煮やした斉彬は、嘉永元年(1848年)、自藩の琉球密貿易を老中阿部正弘に密告する形で、その責任者・調所笑左衛門を切腹に追い込みます。しかし、調所が一身に罪をかぶって死んだため、斉興の隠居とはならず、斉彬の襲封には、至らなかったのです。
 このことは、藩内の緊張を高め、斉彬の男子の夭折をきっかけに、行動を起こそうとした斉彬派に対して、斉興派の徹底的な弾圧が行われます。下級藩士の多数は斉彬派で、西郷、大久保をはじめ、明治維新の中核となった者は、大方そうでした。
 したがいまして、薩摩において、調所は長らく悪者にされていたんです。あからさまに親子喧嘩だと言ってしまいますと、斉彬公の値打ちが下がりますから。

 島津家から養子が出ていた他藩の助力などもあり、ついに嘉永4年、斉興は隠居に追い込まれ、斉彬が藩主になります。
 従来、それによる報復人事は行われなかった、とされてきたのですが、どうもちがうように思われます。少なくとも、調所派だった海老原清熙は失脚し、後に島流しになっているのですし、やはり調所とつながりの深かった島津久徳も罷免されています。
 私、この件ではまだ、まったく史料を読んでいませんで、「斉彬公史料」でも読んでみる必要があるのですが、図書館で借り出せないんですよねえ、ふう。
 
 したがいまして、まったくの妄想なのですが。
 これだけ大規模なお家騒動になりますと、積極的な反斉彬派ではないにしましても、斉興の藩政の要だった調所や海老原や島津久徳や、に縁があった、あるいは、彼らの取立を受けていた藩士にも、粛清は及ぶでしょう。
 桐野の父親も中井の父親も、そうであったのではないのでしょうか。
 中井の父親の島流しが、明治2年まで許されなかった、ということしか、傍証はないんですけれども。

 中井はもちろん、なんですが、私にとりましては桐野も、どことなく、薩摩の下級士族団の絆から、浮き上がっていたように見えるんですね。
 父親が調所派だったのだとすれば、その背景が、納得できるように思うのです。
 これから調べてみたいこと、なんですけれど。

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28 コメント

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帰宅しました。 (中村太郎)
2010-11-10 00:51:50
留守にしまして、失礼いたしました。
11/21に上田市の池波正太郎真田太平記念館で、桐野作人氏が「桐野利秋『京在日記』の魅力」と題する講演を行われるそうです。
http://dangodazo.blog83.fc2.com/
赤松小三郎の記念碑の確認もあるので、行くべきか迷っています。
日帰りできるのですが、遊びまわったツケでやるべきことが山積しているもので・・・・。
返信する
お帰りなさいませ! (郎女)
2010-11-10 13:38:30
実は、これを書くのに、またまた桐野の伝記のコピーが出てきませんで、桐野ハンターの中村さまに、父親のことを確かめねば、と、ついお電話してしまいましたの(笑) 上田市には、ぜひ、行かれてくださいませ。……って、くれぐれも、お体お大切に。
返信する
はじめまして (まいたけ)
2010-11-11 06:21:19

 はじめて書込みさせていただきます。
 中井の重野安繹宛書簡が載っているのは、『痴遊雑誌』第二巻第七号(昭和11年7月18日発行)です。

 『痴遊雑誌』には、他にも、中井関係の記事か載ってますので、もし、柏書房の本をご覧になるのでしたら、ついでに、下記の記事も御覧になられたらよいかも。。。

 第一巻六月号
  近世人物譚中井櫻洲を語る・伊藤痴遊
 
 第一巻九月号  
  櫻洲山人遺子松原豊氏より
   ※松原豊からの手紙です。

 
返信する
ようこそ (郎女)
2010-11-11 15:57:16
お越しくださいました。
そして、ありがとうございます!
ただいま、ご教授くださいました3点、国会図書館にコピーを頼みました。
感謝感激です。
返信する
半次郎は浮気者? (green)
2010-11-15 21:06:52
詳しい情報を感心しながら、見せていただいてます。突然、ばかげたことをたずねてすみません。半次郎の京在日記では病気の時も看病してくれる女性の影は感じられないし、野村忍介も妾がいたと聞いたことはない。と政府の尋問に答えています。村田さとさんと半次郎のツウショトの写真は見ましたが、さとさんが同じ表情で他の若侍2人と写っている写真もありました。村田屋に多くの志士達が出入りしていたので、半次郎も足しげく通ったのではないでしょうか?山奥のあばら家に姑、小姑と嫁を残して自分だけ京都で恋人を作るのは、半次郎らしくないと思うのですが。東京にも女性がいたとありますが、なにか根拠があったのでしょうか?山下孫兵衛さんの子孫の話では、半次郎の妻久さんはきれいな方だったそうです。戦国武将の中にも側室を持たない者もいたのですから、意外に妻だけということも在るかもと思うのですが。村田さとさんが半次郎の恋人だったなら看病しにいくなり、村田屋で養生させるなりといったことがないのは不自然ではないでしょうか。郎女様はどう思われますか?
返信する
greenさま。 (郎女)
2010-11-16 00:09:26
 はじめまして。ようこそ。山下孫兵衛さんのご子孫とお知り合いとは、鹿児島の方でしょうか?
 えーと、ですね。私、桐野はいい男なので女が放っておかないだろう、といいます独断と偏見で満足しまして、桐野の女のことをあんまり深く考えたことがありませんでした。
 それで、記憶にあいまいな点が多く、桐野ハンターの中村さまにお電話しまして、いろいろと確かめました。
 まず、「野村忍介も妾がいたと聞いたことはない」と言っているのは、西南戦争中のことですよね。これは、当時の新聞が桐野が陣中で女を囲っていた、みたいなことを盛んに書き立てていまして、それに対する反論ですから、西南戦争中、と限定していいと思います。
 東京の愛人は、春山育次郎の伝記に出てきた、と思います。
 そして、村田さとさん、ですね。
中村さまのお話ですが、戦前は「村田屋お駒」という名で、けっこう、いろいろな書物に出てくるみたいです。
 戦後、長野英世氏が、村田煙草店のご子孫を訪ねて、お駒ではなく「さと」だったとか細かく取材なさって桐野の伝記を書かれています。ただ、この伝記、さとさんのこと以外は講談みたいで、伝記とはいい辛いものなのですけれど。
 あと、新人物往来社の「桐野利秋のすべて」に「桐野利秋をめぐる女たち」という章がありまして、これも著者の方が、村田煙草店のご子孫に取材なさったよーな感じでは、あるんです。私、ちょっと本が出てきませんで、中村さまにお聞きしたのですが、これによれば、桐野とツーショットで出回っている写真は、村田さとさんではなく、さとさんの姉の「かつ」さんなのだそうです。さとさんの写真は、秘蔵して世間に出していない、とかでして。
 またこの本によれば、維新の後、さとさんのご家族だかが、鹿児島まで結婚話のために出かけた、とかっていうんですね。
 桐野の病気の話ですが、藩邸の長屋でふせっていたものと思われ、愛人を入れることはできないでしょう。この当時の桐野は、それほどの身分ではないですし。また長期間、藩邸を離れていいような時期でもないかと。
 私は、桐野の日記に村田屋が出てきます頻度とか、書き方とか、とても普通に志士として出入りしていただけ、とは、思えないんです。
 日記以外に一次資料はないのですが、お孫さんの桐野富美子さんが、「お祖母さん(久さん)は、お祖父さん(桐野)には、各地に面倒をみてくれるきれいな女の人がいて、お祖父さんが死んだ後にも、きれいな尼さんが訪ねてきた」というようなことを、語っておられたりもします。
 私は、中村さまに同じく、女が放っておかなかったから、桐野には愛人がいっぱいいた、説です(笑)
 ただ、東京の女生とか、他に熊本時代とかにもいたとしましても、玄人の女性で、村田さとさんだけが、ちがうんですよね。
 私の妄想なんですけれども、桐野は、さとさんと最初、結婚するつもりだったのではないか、と思うんですのよ。さとさんの方が、知り合ったのは先だと思います。
 それを、ですね。薩摩のおかあさんが認めないで、久さんを嫁に迎えたのではないかと。
 私が憶測しております、桐野の父親調所派説なんですけれども、もしそうだったとしまして、桐野があまり屈折しないで育ったのは、おかあさんがしっかりしていて、おかあさんの実家・別府家が近所にあって、母方の祖父がめんどうを見てくれたからではないのか、と思うんですのよ。

 桐野にとっておかあさんの存在は大きく、そのおかあさんと折り合いのいい久さんも、次第に魅力あるものになったんではないでしょうか。お孫さんの富美子さんのお話では、久さんは非常におおらかで、愛人の存在を気にするタイプでもなかったみたいですし。

 桐野が故郷を捨てないのであれば、京の商家の娘さんを薩摩へ連れて帰って、果たして彼女が幸せになれるのか、ですよね。
 私は、納得づくでさとさんと別れたと思ってます。

 すみません。変なお答えで。
返信する
ありがとうございます (green)
2010-11-16 20:18:09
こちらこそ、変な質問ですみません。丁寧に教えていただいてありがとうございます。この疑問には天国の桐野氏も苦笑、爆笑しているでしょうか。(笑)
近江屋の近くの外宿で1人病に臥せっていると思い込んでいました。
東郷隆氏の九重の雲によると、久とは、上洛前に結婚しているようです。山之口の帖佐家の2女なら大久保家の近くにある家でしょうか。最後の方では久の実家は竹下家とあります。西田新屋敷の竹下家でしょうか。桐野には若い頃、見初めた女性がいたとも言われていて、久さんのことかなと思い込んでいました。戊辰戦争で表舞台にでるまでは、身分が低いままなので、身分の高い6歳年下の久が桐野の妻になったのは、2人が相思相愛だったからと考えていました。
中井弘さんのことに関して郎女様の予想は正しいのではないかと感じます。まだ桐野の父、兄に関しても知りたいところです。
津本陽先生、池波正太郎先生,司馬遼太先生、など現代文で書かれたものをやっと読んでいる程度な私に丁寧に教えてくださりありがとうございました。
私は祖父母は愛媛、香川の出身で鹿児島在住です。桐野さんは鹿児島では、人気がないような気がします。なので、榎木さんには感謝です。
これからも、楽しみに拝見させていただきます。
返信する
私、実は (郎女)
2010-11-17 05:49:16
 東郷隆氏の「九重の雲」を読んでなくって、久さんの実家の話は、まったく知らないんです。さっそく、読んでみます。ありがとうございました。

 ご存知か、と思うんですが、桐野の妹が嫁ぎました伊東家は、かなりな家だったみたいなんですね。桐野の京在日記を持っておられたのは、この伊東家のご子孫です。
 また『少年読本第十一編 桐野利秋』を書きました春山育次郎は、伊東家に嫁ぎました桐野の妹の子、伊東祐信と友達で、伊東家から話を聞き、伝記を書いたというんです。

 どうも、桐野の妹が嫁ぎましたのは、桐野が京都へ出る前だったみたいでして、また、桐野を引き揚げたのは西郷だという逸話がけっこうあるんですが、元治元年(1864年)、桐野が初めて出てくる西郷書簡を見ますと、以前から桐野を知っていたようには、思えないんです。一方、同年の小松帯刀の大久保宛書簡は、大久保に桐野の望みをかなえてやってくれ、と頼むもので、私は、久光の身近に仕えていたのではないか、と思われる桐野の妹の夫が、小松帯刀に頼んで、桐野の京都行き、となったのではないか、と憶測しています。

 あと、中村さまのお話では、桐野の母親の実家・別府家は、けっこう裕福だったそうなのです。
 薩摩の「小姓与」(西郷、大久保などもこれです)はとても人数が多く、下級士族ではあるんですけれど、人数が多いだけに幅がひろく、幕末の段階では、取り立てられますと、かなりな身分までいけたようです。海老原清熈なども能力にすぐれていて、そうなった口みたいです。
 桐野の父親も、島流しの前は、中級クラスだったのではないか、と私は考えています。

 あと、大正年間に、久さんを取材した新聞記事が、あるんですね。私、おそらく、大昔、一坂太郎氏にコピーをいただいたんだと思うんですが、うかつにも、それが珍しいものとは知りませんで、「いつ、どこの新聞記事やらわからないコピーだなあ」とぼんやり思っていただけなのですが、中村さまが、私がそのコピーを持っていることに驚かれて、驚かれたことに、私もびっくりしたんですが、中村さまが調べてくださいまして、それ、戦後になって古書店に出ました珍しい新聞切り抜き帳から、発見されたものだったそうなのです。

 で、その久さんの記事(これもすぐに出てきませんで、不正確なんですが)に、慶応2年の春、寺田屋事件の直後に、坂本竜馬が薩摩に長期滞在したとき、久さんは龍馬をもてなした、みたいな話があるんですね。昔検討してみたことでして、詳細は覚えていないんですが、その時期、桐野が薩摩に帰っていたらしいことは、裏付けがとれたように思うんです。そして確かその前年にも、桐野は一時薩摩に帰っていたようで、久さんと桐野の結婚は、慶応元年ではなかったかと、結論づけたように覚えています。

 ですから、もし維新の時、さとさんのご家族が、鹿児島まで結婚話に出かけた、といいます言い伝えが、もし本当のことだとしますと、慶応元年以降、桐野は国許での結婚を、さとさんには黙っていたことになります。
 それが誤伝の可能性も、もちろんあります。

 最後に、私が桐野を「半次郎」と呼びませんのは、わが屋で「半次郎」といえば、曾祖父のことでして、なんだか変な気がするからです(笑)

 桐野のファンの方は、みんなお友達です。
 今度、私が鹿児島へ行けることがありましたら、ぜひ、会ってやってくださいませ。
返信する
お電話有難うございました。 (中村太郎)
2010-11-17 15:11:53
「久の実家竹下家」なんですが。
大和書房「西郷隆盛全集」の第五巻の参考史料に、島津忠承氏所蔵の「税所仲五等の西郷党動静探索書 明治七年一月二十二日」があります。
それに「桐野信作妻、竹下八郎娘の由承り、竹下へ内外出入りいたす六十歳計りの三味線引き女へ内々聞き合わせ相頼み、」とあります。
東郷隆氏はこれを引用されたのです。

桐野久の戸籍では「山之口馬場町士族帖佐小右衛門二女」なんですが、塩満郁夫氏・友野春久氏の「鹿児島城下絵図散歩」では、山之口にたしか「帖佐小左衛門」の名前で家があります。私も確認し直したいと思いながら、そのままで・・・。
久の戸籍は現物、もしくはそのコピーを見たのではなく、論文に掲載されたものですから、間違いの可能性もありますし。
う~ん、久さんも謎ですわ。(笑)
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感謝です。 (green)
2010-11-17 22:39:48
 郎女様、中村様、丁寧に教えてくださってありがとうございました。
 おおらかな女性で、夫は各地に世話をしてくれるきれいな女性がいた、と孫娘に語れるのは、久さんは、女性として幸せな方だったのかもしれないですね。
 桐野は、母にも妻にも、その他多くの女性にも(笑)恵まれていたのかも。
 本当にありがとうございました。
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