郎女迷々日録 幕末東西

薩摩、長州、幕府、新撰組などなど。仏英を主に幕末の欧州にも話は及びます。たまには観劇、映画、読書、旅行の感想も。

明治6年政変と征韓論 明治4年

2009年12月26日 | 明治六年政変
 唐突ですが、幕末維新の天皇と憲法のはざま、および半神ではない、人としての天皇をの続きです。

 えーと、そのー、です。
 私がそもそもこのブログをはじめましたのは、モンブラン伯爵に関する情報が欲しかったがゆえ、なのですが、なにやらモンブランから薩摩藩留学生にいきまして、なぜか桐野利秋にも話が及ぶようになりまして、まあ、いずれは、明治6年政変と征韓論にも触れるときがくるとは思っていました。
 しかし、前記のものは昔調べたことをもとに書いたのですが、モンブランを調べるうちに、明治初年度の兵制の問題とか、いろいろと考えるべきことが増えまして、まだまだ、という感じでした。
 それが今回、佐賀の乱に間してtomoeさまとメールのやりとりをしますうちに、あれ? と思うことがありまして、まだ思いつきにすぎないのですが、あるいは征韓論と征台論の核になっていたのは、外務省と時のアメリカ公使デ・ロングであり、したがってこれは、条約改正にもけっこうなかかわりがあることなのではないのか、ということから、とりあえず明治6年政変のおさらいをしてみよう、という気になったような次第です。

(追記)あー、あー、あー!!! なんつー記憶力、なんでしょう。大隈重信の「大隈伯昔日譚」なんですが、これは私、大昔に大正年間だったかに出されたものを全文コピーし、子細に読んだはずなんですね。ところが、偶然なんですが、近デジに明治28年版初版本が出ていることに気づきまして、征韓論政変の部分は、ちゃんとこれに含まれているんです!!! 私、うかつにもこれのもとが明治26年からの報知新聞連載であったことも、初版には副島種臣の序文があることも、これまで知りませんで、なんとなく「かなり後世のもの」というイメージがあったのですが、これ、板垣退助の回顧と並んで、政変渦中にいた関係者の最初の回顧、ということになりますわね。20年しかたっていませんし。でー、ちゃんと書いてあるじゃないですかっ!!! 征韓論の中心は外務省で、征台だけではなく征韓にも、外国公使のそそのかし(後押しということもできますわね)があったのだと。デ・ロングを中心にまわっていた、というのは、私の妄想でもなんでもなく、大隈の話が私の潜在意識に沈んでいたんです!!! 副島も生きていて序文を書いているのですから、かなり信憑性のある回顧録です。tomoeさまのおかげで、デ・ロングが在日公使を辞めさせられた時期も特定できましたし、これからじっくり話を進めていくつもりです。

で、まず、主に下記の本ほか数冊の参考書を元に、事実関係の時系列を復習するための年譜を作ってみます。年譜の間にはさまれるコメントは、私の考えであり、参考書は参考にはしますが、そのままのものではありません。

台湾出兵―大日本帝国の開幕劇 (中公新書)
毛利 敏彦
中央公論社

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明治4年(1871年)
5月    アメリカのアジア艦隊、ジャーマン号事件の補償と開国を求めて、長崎より朝鮮に向かう(辛未洋擾)
7月14日 廃藩置県
7月18日 文部省発足。江藤信平、初代文部大輔(卿は欠員)に就任して、文教の基本路線を定める。
7月28日 江藤、文部大輔を大木喬任に譲り、左院へ移る。後、副議長。
7月29日 日清修好条規が結ばれる。日本が初めて結んだ対等条約。ただし、批准は遅れる。
9月    対馬(厳原県)、伊万里県(佐賀県)に統合される。
10月   宮古島から年貢を運んでいた琉球の船が台風で台湾に漂着。54名が殺害され、12名が逃げる。
11月 4日 副島種臣、岩倉具視の後を継ぎ、外務卿となる。
11月12日 岩倉使節団アメリカへ出発。アメリカ公使デ・ロング随行。


廃藩置県は、多くの問題を抱えて決行されました。
まずは士族問題です。明治2年、すでに版籍奉還は行われ、中央集権化は進もうとしておりましたが、藩主がそのまま知事に横滑りしておりましたし、藩庁がそのまま地方自治を行い、藩士や領民の帰属意識も大方そのままでした。これは、戊辰戦争で戦火が起こらず、解体された藩もなかった西日本において強くあらわれた傾向です。
また同じ西日本においても、勝者となった薩長土肥と他藩では、状況がちがいました。薩長土肥の下級藩士(主に、ですが)の一部は、朝廷の直臣となって、藩主や門閥をさしおき、中央で行政を担うようになりましたと同時に、その地元では藩政改革が行われ、名目上は藩主が知事であったにもかかわらず、藩政の実権は、下級藩士が握るようになっていました。
一方、薩長土肥以外の西日本の藩では、一般には藩主と藩士や領民の関係は、それほどの激変は見せず、多くの領民(藩士ではなく)にとっては、慣れ親しんだ制度の方が暮らしやすいですから、廃藩置県で藩主(知事)が東京住まいとなり、藩政と関係がなくなることに抵抗を感じ、お殿様お引き留め運動が各地(西日本)で起こります。わが松山藩でも起こっております。

島津久光は藩主(知事)ではありませんから、東京住まいの必要はなかったのですが、この事態に激怒。西郷、大久保への不満を募らせたといわれます。

そして、藩が消滅した、ということは、琉球、朝鮮の問題が、クローズアップされてくる、ということでもありました。
まず、琉球です。琉球はそもそも薩摩藩の支配下にあり、徳川幕府への朝貢は、薩摩を通じて行われておりました。そして嘉永6年(1854年)、日米修好条約が結ばれた直後、薩摩藩の指導で別個に琉米修好条約を結んでおります。同時にオランダ、フランスとも条約を結びましたし、また琉球は、清国の朝貢国でもありましたので、ただちに日本の領土だとは主張しづらい状況でした。ですから、とりあえず琉球は鹿児島に属するとしていたわけなのですが、藩がなくなるとなれば、それも改めるしかありません。
廃藩置県以降の状況は、菊川正明氏の以下の論文に詳しく、明治5年以降の年譜では、この論文も参考にさせていただきます。

置県前後における沖縄統治機構の創設

で、朝鮮です。
朝鮮も琉球と同じく清の朝貢国です。実質からいえば、清とのつながりは琉球よりはるかに強いのですが、まあ、それは置いておきます。
江戸時代の朝鮮通信使は、朝鮮側の認識では、決して徳川幕府への朝貢ではありませんでしたし、幕府もそうではないことを承知していたのですが、日本において一般には、琉球使節と並べて見られ、朝貢と受け止められておりました。
この藩政時代の朝鮮との外交関係を、一手に担っていたのが対馬藩です。
対馬藩は、釜山に草梁倭館という10万坪にもおよぶ居留地を借り受け、日本人町、というよりも対馬人町を作ってもおりました。対馬藩の役人や商人が住んでいたわけです。

草梁倭館

この居留地、朝鮮にしてみれば、対馬藩に貸しているのであって、新政府が支配する日本に貸しているわけではありません。朝鮮は、明治新政府を認めていなかったんです。
対馬藩が消滅してしまった以上、朝鮮側からは、草梁倭館を維持する理由は無くなります。しかし、明治新政府としては、当然、日本人居留地として確保しておきたいところです。

廃藩置県の直前に起こった辛未洋擾とは、アメリカの清国公使フレドリック・ロー が、慶応2年(1866)に起こったシャーマン号事件の補償と開国を求めて、長崎で艦隊を編制し、江華島に陸戦隊を上陸させた事件です。戦闘においては、アメリカ側優勢であったともいわれますが、結局、朝鮮側は交渉に応じず、アメリカは目的を遂げることができませんでした。艦隊編制は長崎で行われているわけですし、当然、駐日アメリカ公使デ・ロングも協力したものと思われます。
この事件で、朝鮮側は多数の戦死者を出していますし、攘夷意識は極度に高まり、明治新政府への不審の念も高まっていました。
ここらへんの状況は、以下の吉野誠氏の論文に詳しく書かれていますので、関心がおありの方はご覧下さい。

明治初期における外務省の朝鮮政策


ただ、ですね。上の論文のように征韓論を思想的に語ってしまいますと、朝鮮問題は、欧米諸国も注目し、それぞれに意見を持った外交の問題であるにもかかわらず、です。まるで日朝二国間で話が完結しうるような変なことになりまして、当時の現実の外交関係から遊離しますので、とりあえず、事実関係のみを見ることをお勧めします。
なお、この難しい時期に一時ですが、朝鮮外交を担ってきた対馬藩士も、草梁倭館の住人たちも、佐賀藩と同じ伊万里県人となっていたことを、確認しておきたいと思います。これは、対馬藩の飛び地が、佐賀藩にあったためだと思われます。

そして、さまざまな問題を留守政府に預け、まずはアメリカへ出向いて行った岩倉使節団は、駐日アメリカ公使デ・ロングに先導されていたことも、です。

次回、明治5年に続きます。


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半神ではない、人としての天皇を

2007年02月20日 | 明治六年政変
本日また、昨日の幕末維新の天皇と憲法のはざま、の続きです。
昨日、大久保利通と江藤新平の理念対立、と書きましたが、江藤新平のほかの政変で下野した参議の顔ぶれを見渡してみますと、西郷隆盛、副島種臣、板垣退助、後藤象二郎。
この4人が、江藤と理念を同じくして、「国憲は右等国体論の如きものにあらず」と考えていたのか、というと、ちょっとおかしい気がしますよね。
そうなんです。必ずしも最初から、理念を同じくしていたわけではないのです。宮島誠一郎が立国憲議を建言したときには、左院の江藤とちがって、参議だった板垣退助は、大賛成をしたのだと、宮島は言っています。
ですから当初は、大蔵省で予算編成を握っていた井上馨が、非常に恣意的な予算配分をしながら、汚職にからんでいたことから、長州閥への反感をこのメンバーが共有したことが、大きかったでしょう。
しかし、明治6年政変にいたって、大久保利通を中心とした薩長のまきかえしが、「主上のご政断」を政治利用して、閣議決定を反古にするという暴挙に出たとき、あらためて、いかにそういった「有司専制」をふせぐか、ということで、民選議員の設立や、憲法による歯止めの問題が、浮上してきたのではないでしょうか。
それは必ずしも、「万世一系」の言葉を憲法に組み込むかどうかの問題ではなく、組み込むにしても、そのことで当代の天皇を祭り上げるという大久保の意見書が、その神聖な玉をおさえたものの独裁につながりかねない、という現実をふまえて、それをどう防ぐか、という方向の理念の一致だったでしょう。





だとするならば、「民選議員設立建白書」に加わらなかった西郷隆盛の理念はどうだったのか、ということになります。
桐野利秋については、自由民権を唱えたという証言もありますが、かならずしも、西郷と桐野の理念が一致していたわけでもないでしょう。
西郷が天皇制についてどう考えていたかは、傍証から想像するしかありません。
ただ、下野の理由については、桐野のようにはっきりと「公議を尽くさず、聖旨を矯むるを怒り」とまでは言っていませんが、やはり岩倉具視の「閣議結論を無視して上奏する」という暴言が原因だったと、西郷は庄内藩士に語っています。「主上のご政断」の政治利用について、あきらかに大久保への怒りを抱いた、と考えられるでしょう。大久保の手の内を誰よりも熟知しているのは、西郷だったはずです。

西郷が明治天皇によせた期待は、明治4年(1871)、西郷がもっとも信頼していたのではないか、と思える、村田新八を宮内大丞にしたことに、あらわれてはいないでしょうか。しかもその新八を、岩倉使節団とともに欧米へ送り出したということは、新八ならば、軽佻に流れることなく、守るべきものは守って欧米の文化を吸収し、新しい皇室を築くにふさわしいと、見込んだからでしょう。
西郷の思想の根底には、もちろん儒教武家道徳があるわけなのですが、それが、かならずしも君主独裁を是認するものではないとは、まず西郷の島津久光に対する評価で想像がつきます。
では、西郷が明治天皇に、半神ではなく、人間的な武家的明君像を期待していたと仮定して、それが憲法に置ける天皇の位置づけと、どう結びつきえるのか。
これは、一つの例にすぎないのですが、小西豊治氏の以下のような著作があります。

『もう一つの天皇制構想 小田為綱文書「憲法草稿評林」の世界』

御茶の水書房』

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小田為綱は、盛岡藩の藩校の教授だった人で、原敬もその教え子です。
西南戦争では、日本全国、数多い呼応者がありました。大きな動きでは、陸奥宗光が土佐立志社とともに立ち上がろうとしたり、ということもあったのですが、すべて、芽の段階でつまれてしまいました。さすがに、大久保利通ですね。周到です。
東北地方でも、真田太古を中心として、兵を挙げる動きがあったのですが、このとき檄文を書いたのが、小田為綱です。檄文の内容は、有司専制への攻撃です。為綱は禁固刑となるのですが、出所の後の明治13年から14年ころ、元老院の国憲第三次草案に、論評を加えているのですね。
検索をかけていたら、なんと憲法草稿評林が、ありました。便利な世の中になったものです。

日本ペンクラブ 電子文藝館編輯室 招待席・主権在民史料 小田為綱 憲法草稿評林

見ていただければわかるのですが、為綱は「万世一系」を否定はしていません。といいますか、数多い自由民権派の私擬憲法でも、「万世一系」を最初に入れていないものは、まったくない、といっても過言ではないんです。
しかし、それぞれに「有司専制」に歯止めをかけ、「万世一系」が独裁の飾りとしての権威とはならないように、考えてはいるのですね。
憲法草稿評林における為綱の独自性は、最初に「万世一系」を認めておいて、第2条で「然ラバ則チ天皇陛下ト雖(いへども)、自ラ責ヲ負フノ法則ヲ立(たて)、后来(こうらい)無道ノ君ナカランコトヲ要スべシ」と、廃帝の規定を考えていることです。
これは、「天皇陛下の大権を軽重するや、曰く否」と言明している大久保利通の意見書とは、大きくちがう考え方です。
帝もまた人であられるならば、自らのなすことに「責ヲ負フ」必要がある、というのですから。
つまり、儒教的な武家道徳と自由民権は、十分に調和しうるものなのです。

明治大帝の西郷好きは、西郷の帝への期待が、生身の人間としての明君であったことを、感じられてのものだったのでは、なかったでしょうか。


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幕末維新の天皇と憲法のはざま

2007年02月19日 | 明治六年政変
えーと、昨日の革命は死に至るオプティミズムか の続きです。とはいえ、本日は松蔭を離れて、明治大帝をめぐるお話ですし、どの本を基本に語るべきか、いろいろ考えたのですが、一長一短で、とりあえず適宜ご紹介、という形で。

以前にも幾度か書きましたが、私は、孝明天皇の毒殺を、ありえたことではないか、と疑っています。
笠原秀彦氏の『明治天皇 苦悩する「理想的君主」』は、コンパクトにまとめすぎたため、でしょうか、いろいろと不満もあるのですが、とりあえず、幕末から明治へかけての天皇制問題のアウトラインは、つかめるかな、という記述になっています。
で、そのコンパクトな中にも、孝明天皇毒殺の疑いは、登場します。そして、笠原氏のおっしゃるように、毒殺を証拠立てる決定的な史料がないのですから、結局、そういう噂があった、という以上のことは、言えないのです。

だから、これは私の妄想なのですが、笠原氏も書いておられるように、『朝彦親王日記』によれば、「孝明天皇の御異例にまつわり、異形物が鍾馗の形で夜ごと現れ、新帝を悩ます」とあり、新帝の祖父である中山忠能の日記や岩倉具視関係文書にも、新帝の周囲の奇怪現象の噂は、あげられているのです。
さらに、明治になってからですが、昨日書きました白峰神社の造営。孝明天皇の遺志だった、という話なのですが、なぜ、伝説によれば「革命」を志して果たせず、恨みを呑んだまま崩御された崇徳上皇の霊を、明治初年に慰める必要があったのでしょうか。これが、後鳥羽、後醍醐の両帝ならば、王政復古がなって、武家政権に戦いを挑んで果たせなかった両帝の霊を祀る、というのは自然な感じがするのですが、崇徳上皇の戦いの相手は、時の帝で、それも実の弟である白河天皇だったのです。
私にはどうにも、崇徳上皇にたくして、慰めたのは孝明天皇の霊だったのではないか、というような思いが、捨てられないのです。

それはさておき。実は、『天皇と華族』を持っているはずなのですが、出てきませんで、うろ覚えになるんですが、お許しください。
明治初年に、大久保利通が、天皇のあり方について述べた文書があります。そこで大久保が心配していることは、「これまで雲の上の人として、人前にお姿を見せなかったから崇拝されていた帝が、人前に立たれてなお、権威を保たれるにはどうすればいいか」ということなんですね。
昨日の松蔭も、「天子は誠の雲上人にて、人間の種にはあらぬ如く心得る」と現状を認識していたわけなのですが、白山伯も食べたお奉行さまの装飾料理 に出てきますフランス貴族の認識のように、「人の目には見えにくい半神」のようであればこそ、天子さまは尊かったのです。
しかし、そもそも王政復古とは、帝に政治主権と決断を仮託して成り立ったものですし、それよりなにより、緊急な外交上の必要からも、帝を「御簾の中の半神」にしておくわけには、いきません。だいたい、徳川将軍慶喜公がすでに、西洋君主並の外交を披露しているのですから、帝が主権を握っていることを諸外国に認めさせるためにも、西洋的な君主に近づける必要があったのです。
公家社会の猛烈な抵抗を押し切って、帝を京都から切り離し、大阪へ、そして東京へとお移り願うことで、それは、徐々に形になっていきました。
西洋の君主とは、今でもイギリス王室の王子たちがみな軍人となりますように、そもそも武人ですし、将軍や大名の方に近いものです。したがって、そういう意味では君主としてあるべき姿を描きやすかったことになりますが、では、政治的に天皇をどう位置づけるのか、となれば、問題は山積みでした。



私は、明治6年政変は、究極のところ、天皇制の問題であったのではないか、と思っています。
『征韓論政変 明治六年の権力闘争』という本があります。
著者は姜範錫氏。早稲田大学を出た後、韓国で政治部の新聞記者を務め、駐日韓国公使も経験した、という韓国人です。
専門の学者ではおられないため、たしかに、史料の扱いが恣意的になるような面もあるのですが、しかしそもそも政治史とは、史料の字面を一字一句額面通りに受け取って、成り立つものでもないでしょう。
少なくとも、維新後の日韓の外交交渉で、対馬藩士の存在をクローズアップされた点は大いに頷けますし、さらには、この政変の本質を権力闘争とされ、権力闘争の理念の面で、憲法をめぐる確執があったのではないか、という指摘は、もっと注目されてしかるべき、なのではないんでしょうか。
しかしまあ、この本も見事に品切れですね。

明治6年の段階で憲法? と思われるかもしれません。しかし、それを指摘する史料があるのです。
宮島誠一郎の『国憲編纂起源』です。
関心がおありの方は、国会図書館のHPのギャラリー、史料に見る日本の近代、第1章立憲国家への始動 立憲政治への試み 1-5 憲法制定の建議に、デジタルで公開されていますので、ご覧になってみてください。

時期は明治5年の4月。いわゆる岩倉使節団で、岩倉具視をはじめ、大久保利通、木戸孝允といった維新の中心人物の半数が、欧米に出かけていた留守です。宮島誠一郎が、左院(いわば、立法機関です)に、立国憲議を建言するんですね。
これがどんなものだったかというと、結論は「君主独裁に君民同治の中を参酌して至当の国憲を定むるを当然の順序とす」というもので、簡単に言ってしまえば、「我が国の歴史からいえば、古来からの君主独裁であるべきなのだが、しかしそれだけでは人民を抑圧し開化をさまたげることになりかねないので、皇国古来の君主独裁と君民同治の中間で、憲法を作ろう」というものだったんですが、大賛成をしたのが、当時左院大議官だった薩摩の伊地知正治です。
ところが、左院副議長だった江藤新平が、「国憲は右等国体論の如きものにあらず」「国憲なるはフランスの五法の如く広く人民に闊歩せしものにて、その性質帝王自家の憲法に非ず」といって、つまり国憲は国体論ではない、フランスの法のように人民の権利を重視すべきだ、と、正院への提出を拒むんです。国体論とは、「万世一系」というようなことですから、天皇については、もっと欧米の君主に近い規定にすべき、ということでしょう。

ところが、です。この時期というのは、大久保利通が米国との交渉の必要から、一時帰国しているんです。姜氏は、宮島が個人的にこういう建言をするという従来の説はおかしいのではないか、と疑問をはさみ、大久保利通の意向だったのではないか、と推測されるのです。
大久保には、明治6年、政変直後に成立したとされる「立憲政体に関する意見書」があるのですが、突然、政変があったからふってわいたわけではなく、江戸は極楽である で登場しました吉田清成をブレーンに、かねてから構想をねっていたもので、内容を見てみますと、姜氏の推測に、大きく頷けます。

その内容とは、宮島が提出した「君主独裁に君民同治の中を参酌して」に近く、さらに「みだりに欧州各国君民共治の制に擬すべからず。わが国自ら皇統一系の法典あり」と最後に念押ししてあって、江藤に答えた形でもあるのですね。
しかも、なぜ国体論が必要かと言えば、ひらたくいって、「天皇はこれまで政治にかかわらないでおられたので神と仰がれたのだけれども、天皇が政治にかかわれば、天皇もまた人であると知れて、その権威は半減する。しかし、それは必要なことであるのだから、国体論を憲法の主柱として、新たに権威を確立すべきだ」というのですね。
天皇制をめぐって、これは、相当深刻な理念対立ではないでしょうか?

明治六年政変の詳細は後回しにして、とりあえず、政変によって下野した参議のうち、江藤新平、副島種臣、板垣退助、後藤象二郎の4人が、ただちに「民選議員設立建白書」を出し、有司専制を攻撃し、自由民権運動をはじめたことは、それ以前から理念対立があった証拠には、ならないでしょうか。
西郷隆盛はどうなのか、ということなのですが、西郷がなにも言っていない以上、実際のところはわかりません。ただ、妄想にすぎない、といわれればそうなのですが、傍証はあります。
一つは、司法省にいた有馬藤太の後年の回想で、江藤新平を司法省の長官にかつぐとき、西郷が後援してくれた、と言っていることです。なにしろ後年の回想ですので、他の事柄についても細かな思い違いはあるのですけれども、大筋でまちがいはないでしょう。有馬が同じ司法省で、江藤と同じ佐賀出身の今泉利春と仲が良く、志を同じくしていたことは、利春の妻、今泉みねの回想にもあります。

もうひとつは、『西南記伝』に収録されています『桐陰仙譚』、明治7年に、石川県士族の二人が、鹿児島で桐野利秋から聞き取ったとされる談話なのですが、この中に、なぜ西郷をはじめとする参議が下野したか、という理由が、出てくるのです。


その理由を述べる前に、政変の概略を語る必要があるでしょう。
一応、政変は、西郷の遣韓使節の可否をめぐって起こったのですが、昔からこれには、留守政府内で、井上馨、山県有朋などの汚職を材料に、江藤新平を筆頭とする肥前、土佐閥が、長州閥の追い落としをはかっていたのを、帰国した岩倉、大久保、木戸などが巻き返しをはかったのではないか、という、権力闘争が指摘されています。
私も、そう思うのです。西郷は、山県有朋はかばいましたが、井上馨については「三井の番頭さん」と呼んでいたという伝説もあり、現実に、まったくかばっていません。軍事面ではまだまだ、薩長の協力関係が重要であっても、政治面ではくずれてもかまわないと、西郷は踏んでいたのではなかったでしょうか。
しかし、大久保はそうは思わなかったでしょうし、伊地知正治、黒田清隆など、薩摩閥の中にも、それを危ぶむ思いはあったでしょう。

なにしろ、肝心な時期の大久保の日記が残っていませんで、………事件の核心時期だけですので、これは姜氏の推測されているように、破棄されたのではないか、という疑いもわいてくるのですが………、まあ、ないだけに、憶測にすぎないことも多くなってしまいますが、肥土参議の追い落としに、大久保が相当な策略を使ったことは、事実でしょう。

さて、政変大詰めの経過を述べますと、大久保をも含めた参議たちの閣議で、西郷が遣韓使節となることは決定するんです。ところが、それを天皇に上奏すべき三条太政大臣が急病で倒れ、………姜氏はこれが仮病だったのではないかと言うのですが………、ともかく、宮内省にいた薩摩の吉井の工作で、岩倉が三条の代理となります。そして岩倉は、閣議の決定を無視して、「私は西郷が遣韓使節に反対なので、その旨を申し上げ、天皇のご決断を仰ぐ」と宣言したのですね。
なにしろ、維新からこの方、まだ年若い天皇に政治的な決断を求めていたわけではないのに、突然、「天皇のご決断」が出てくるのです。
『桐陰仙譚』によれば、副島種臣は「これまで主上の独断専決におまかせしたことがないのに、突然そうするというのは、責任を主上に押しつけるということで不忠ではないのか」とつめよったと言いますが、つまるところ、参議たちの決定を無視するために、「主上のご政断」を錦の御旗にしている、つまり天皇を玉として使っていることが明白だ、と難詰しているわけですね。
それで桐野は、「公議を尽くさず、聖旨を矯むるを怒り」、西郷と自分は下野したのだと、言っているのです。
これは、薩長閥による恣意的な「天皇のご決断」利用の危険性が、露呈した事件ではなかったでしょうか。

冒頭の笠原氏の『明治天皇』にも出てくるのですが、西南戦争において、明治天皇は引きこもられ、あきらかにサボタージュをされます。西郷隆盛への親愛の情を抱いておられたことには、さまざまな傍証があり、それはもちろん大きな理由でしょうけれども、もう一つ、これもまた憶測にすぎませんが、明治6年、心ならずもご自身が政変で果たさせられた役割に、納得のいかないものを感じておられたのではないか、と思うのです。

天皇が西洋的な君主であることは、果たして、大久保が主張するほどに難しいことだったのでしょうか。当時、藩主や将軍の明君像というのは確実に存在し、実質、明治天皇もそれに近いものをめざされたのです。
だとするならば、果たして憲法に国体論が必要だったのかどうか、疑問です。


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