郎女迷々日録 幕末東西

薩摩、長州、幕府、新撰組などなど。仏英を主に幕末の欧州にも話は及びます。たまには観劇、映画、読書、旅行の感想も。

土方歳三はアラビア馬に乗ったか?vol2

2007年02月23日 | 日仏関係
昨日の土方歳三はアラビア馬に乗ったか? 、の続きです。
昂奮のあまり、肝心の部分がけっこうぬけたか、と思いまして。

昨日は筆がすべってしまいまして、4月13日の時点で、「小金牧に一度は全頭収容」と書いてしまったのですが、2頭、足りないようです。
細かなまちがいは他にもあるんですが(えーと、略奪の日にちも12日としておりましたですね)、4月13日略奪の確かな証拠はあるのか、といえば、書簡などで、確かにアラビア馬が捕られた、と書いたものがあるかどうかは、はっきりしないようなんです。ただ、この日、小金牧の役場や詰め所で、大規模な略奪があったことは確かで、取られたものの目録には、洋式馬具も含まれているそうです。
岡先生は、記録に残らない小金牧被害の可能性として、4月13日以前の流山もあげておられます。小金牧には、三カ所の牧があって、そのうちの上野牧は、流山にごく近いんだそうです。

私、土方歳三については、土方歳三と伝習隊などで書きましたけれども、今なお、4月12日以前の土方と伝習隊との関係に、あまり言及されることがないのを、不思議に思っているんです。
たしかに、資料がないといえば、それまでなんですけれども、脱走幕府陸軍で、土方が参謀だった伝習第一大隊の隊長って、会津の秋月登之助(江上太郎)ですよね。この人って何もの??? と、以前から思っていたのですが、なにか詳しい本とか、ご存じの方がおられましたら、どうぞ、ご教授のほどを。
つまり、江戸で幕府のフランス伝習を受けていたりしたのかな、ということなんですが。

ふう、びっくりしたー白虎隊 で、パリへ行っていた横山常守と海老名季昌のことを書きましたが、この二人についても、あんまり資料がないんですよねえ。で、検索をかけてみましたら、海老名の方は日記があるみたいで、近年出版されていて、古書店で見つけたんですが、横山常守は戦死していますしねえ。
しかし、この二人、まったくフランス語を習わないでパリへ行ったのだろうか、と、それも不思議で、幕府のフランス陸軍伝習と会津藩の関係を、ご存じの方、これもぜひご教授を。
昨日書きました小栗上野介の家族がですね、会津へ逃れて訪ねたのが、横山常守の家だそうなんです。小栗は幕府の親フランス 政策の中心でしたし、もともと横山家は、小栗と親しかったのかな、と。

って、なんだかお話がアラビア馬と離れてしまいましたね。
小金牧の牧士とアラビア馬についてきたフランス人たちとの交流なども、書きたかったのですが、なんだかまた、まちがいばかり書いてしまいそうでして、もっとちゃんと読んでからにします。

なお、今回の土方の写真も含め、ですね、最近使っておりますモノクロの肖像写真は、昭和初期に出版されました本からのスキャンでして、著作権にはまったく触れないものと、考えております。


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土方歳三はアラビア馬に乗ったか?

2007年02月22日 | 日仏関係
本日は、アラビア馬です!
ちなみに、使いました写真は、馬上の徳川慶喜公ですが、アラビア馬ではありません。
ナポレオン三世から贈られたアラビア馬、と紹介されていたりもしたと思うのですが、どうも私、これはアラブにしては馬体が小さすぎないか、と常々思っていたのですが、やはりこれは日本の在来馬だと、本日わかりました。
なぜわかったか………は、後でお話しします。

桐野利秋とアラビア馬 について、わかったわけではないのですけど、といいますか、謎はよけい深まったのですが、桐野のことは別にしましても、私、慶応3年にナポレオン三世が日本に贈ったアラビア馬については、昔から、関心を持っていました。
乙女の頃に、一時競馬にはまりまして、しかし私、はまったといっても妙な方向へ関心が向くのが常で、サラブレッドの歴史とか、に興味を持ちました。
えーと、サラブレッドの元になったのは、アラブです。
で、すっごく短絡な話をしますと、漢の武帝がシルクロードの大宛(フェルガナ)で手に入れたという汗血馬は、おそらく、アラブの祖先の親戚、くらいではあるでしょう。歴史のロマンです。
まあ、ともかく、です。アラブというのは、足が速くて、とてもきれいな馬なのです。
男が容姿なら、馬も容姿です。
で、ですね、慶応三年のアラビア馬が、日本に最初に入って来たアラビア馬ではないんですけど、なにしろフランス皇室の種馬ですし、その中でもえり抜きの26頭が、江戸幕府最後の年に入ってきて、維新のどさくさでその大方が行方不明になったって、劇的じゃないですか。もう、それだけでロマンです。

さらに、です。鈴木明氏の『追跡 一枚の幕末写真』を読みまして、函館戦争のフランス人vol2で書きました、カズヌーブ伍長の存在を知ったわけなんですね。
もっと詳しく知りたい! と思って、根岸の馬と競馬の博物館 まで行ったこともあるのですが、あまり時間がなくて調べ物もできず、収穫なく引き上げました。

なにもわからないままに時は流れて、インターネットの時代です。
個人掲示板で、なにかの拍子にアラビア馬の話題が出ましたところが、さっぱりお話しがかみ合わないのですね。
それで、私はその方に『追跡』を紹介し、その方からは『富国強馬 ウマからみた近代日本』という本が出ていることを、お教えいただきました。
とはいえ、この本も明治以降ずっとの日本の馬の歴史ですから、慶応3年のアラビア馬については、2、3ページがさかれているだけなのです。

が、その方は、すごい方です。岡宏三氏という方が、「慶応三年アラビア馬の受領と小金牧牧士の飼育伝習御用」という本を出されていることを発見され、教えてくださったのです。ただ、その本はごく少部数出された非売品で、古書もなく、国会図書館にはあったのですが、著作権がありますから、全部のコピーは無理です。
調べてみましたところ、岡宏三氏はさる歴史博物館の方でして、私、ずうずうしくも、「お手持ちによぶんがございましたら、なんとかお譲りいただけないものでしょうか」と、連絡を差し上げてみたのです。
そういたしましたら、岡先生、ご親切にもコピーして送ってくださったのです。
それが今日届きまして、慶喜公の写真の馬が、在来種である可能性が高いこともわかったのですが。
いや、岡先生、すごいです! もう、びっくりしました。

あー、まず第一、「アラブは格好がいいので、幕臣が乗馬用に使ったりした」と思いこんでいたのは、まちがいでした!!! 
えー、でも、いろんなところに、そんなことが書いてありましたし。『富国強馬』にも。
ごめんなさい!!! 小栗上野介さま!!! 
あなたが乗っていらしたのは、ナポレオン三世の種馬ではなく、米国から持って帰った乗馬だったなんて、知りませんでした。
種馬を贈られた幕府側では、ちゃんとその重要性を認識していて、乗馬にしたりなぞせず、育成の伝習まで始めていたのです。
小栗上野介さま、あなたはえらい!!!

土方久元の回想によれば、小栗上野介の乗馬は、官軍の豊永貫一郎が奪い取って乗っていたそうなんです。
小栗は、自分が米国から連れて帰った乗馬を、知行地の上州へ連れていったようですし、そこで首を斬られたときに奪われたのでしょう。
といいますのも、検索をかけてみましたら、豊永貫一郎は土佐出身の陸援隊士。坂本龍馬と中岡慎太郎の仇討ちだった天満屋事件に参加しているそうです。
で、東山道官軍の先鋒。首切りの責任者です。

ぎゃー、さらに検索をかけてみましたら、小栗が戦争の準備をしていると総督府にちくったのは、猫絵と江戸の勤王気分 に出てまいりました、猫絵の殿様、バロン・キャットだとか。
『街道の日本史 中山道 武州・西上州・東信州』に、「新田満次郎は小栗が砦を作り大砲や鉄砲等を用意し浪人を雇って戦争準備をしていると、総督府に報告した」とあるんだそうで、しかしそれは、高崎藩などが調べたところでは、戦争準備などではなかったとか。
つまり、小栗上野介の斬首命令は、江戸の総督府から出ていて、東山道官軍の独断では、なかったようなのですね。
そういえば、官軍がくる前に、小栗が地元上州の博徒や農民たちの暴動を鎮圧した、という話もあったりするんですが、それって、新田官軍と関係あり、なんでしょうか???

えーと、話がそれてしまいました。
維新のどさくさ時に、ナポレオン三世のアラビア馬は、現在の千葉県松戸市、小金牧に、一度は、大多数が収容されていたのだそうです。
それが………、江戸城明け渡しの翌々日、4月13日、どうも、幕府の伝習隊を筆頭とする脱走兵たちに、一部、略奪されたようなのですね。
えーと、そうです。大鳥圭介や土方歳三が率いていた、あの脱走伝習隊です。
ということは、アラビア馬の一部は、会津へ行ったんでしょうか? 
どうも、そのようです。これも、ぐぐってみました。

柴五郎の「戊辰当時の追想談」 (『會津史談会誌』第十六号 昭和12年)
そのころ、軍事教練をしている幕府の騎兵士官は、アラビア馬とかいうずいぶんと大きな馬に乗っておった。なんでも、フランスのナポレオン皇帝が公方様に贈ってきたもんじゃということじゃったが……

どびっくりです。
もっとも、これは、小金牧から略奪されたものばかり、とは、かぎらないかもしれません。
といいますのも、4月22日には、略奪されなかった残りのアラビア馬がすべて、小金牧から、江戸神田橋近くの幕府騎兵所に、ひきうつされたからです。
上野戦争の前ですし、ここからも、騎兵伝習を受けた幕府の士官が、アラビア馬を盗んで会津へ行った可能性も、ありえるんじゃないでしょうか。
後の散逸は、やはり官軍側の私用ぶんどり、なんでしょうねえ。

他にも、いろいろいっぱい、興味深い話ばかりだったんですが、またの機会に。


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象犬鼠!パリ籠城戦のレストランメニュー

2006年02月22日 | 日仏関係
明治3年(1870)、フランスはプロシャに宣戦布告。フランスの軍艦マーチ に書きましたように、普仏戦争がはじまりました。
結果は、フランスの劣勢でして、函館戦争のフランス人vol3(宮古湾海戦) で見ていただけるように、無惨な戦いで、ナポレオン三世は捕虜となり、帝政は崩壊しました。
しかし、共和制となったパリのフランス政府は降伏せず、結局、パリ籠城戦になるんですね。
この籠城戦は、龍馬の弟子がフランス市民戦士となった???美少年は龍馬の弟子ならずフルベッキの弟子 でご紹介しましたように、前田正名のような日本人留学生も経験しました。

籠城戦です。プロシャ軍の包囲で、パリは物資を断たれ食料不足。配給もだんだんと質が落ち、馬肉も食べ尽くして、パンの質も落ちていきます。
美食に慣れたパリの住民は、それでもレストラン通いをやめず、レストランのメニューは象の鼻料理だったり、羊とうたった犬調理だったり、鼠の肉も供したり。

そんなパリ籠城戦の食料事情を教えてくれるのは、『美食の社会史』です。『ゴンクールの日記』をもとに書かれているのですが、リンクでわかりますように、『ゴンクールの日記』の邦訳は手に入れ辛いんですね。
ゴングール日記の著者、ゴングール兄弟は作家で、日本美術に傾倒し、浮世絵の紹介者となったことで有名です。19世紀パリのジャポニスムを語るときには、欠かせない人材です。

北山晴一著『美食の社会史』には、フランス革命以降に花開いたパリの美食文化が楽しく語られていまして、第二帝政期の美食については、またの機会に、この本からご紹介したいと思います。


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プリンス昭武、動乱の京からパリへ。

2006年02月02日 | 日仏関係
これまでいく度も書いてきました慶応三年(1967)、パリ万国博覧会。
すでに、須見裕氏著の中公新書『徳川昭武―万博殿様一代記』を持っていますので、いらないかな、と思っていたのですが、宮永孝氏なら読むべきだろうと、『プリンス昭武の欧州紀行―慶応3年パリ万博使節』を買いました。

正解! でした。モノクロながら、写真が多く入っていて、内容も充実しています。私にとりましては、なんといっても、モンブラン伯が薩摩で撮った和装の写真が載っていて、満足!です。鹿島茂氏が『妖人白山伯』で、この写真のことに触れておられて、どうしても見たい! と思っていたのです。
そんなに山師面ですかねえ。ひいき目なのか、私には、けっこう品よく見えます。

モンブラン伯爵は大山師か

これまでに、帝政最後のパリ万博について書いた記事は、主に以下です。

『オペラ座の怪人』と第二帝政
帝政パリの『ドン・カルロス』
喜歌劇が結ぶ東西
花の都で平仮名ノ説
無敗で凱旋門賞挑戦の夢破る

一橋慶喜の弟だった水戸民部公子・徳川昭武は、このときわずか14歳。かわいいプリンスです。
プリンス一行の会計係だった渋沢栄一と、イギリスに留学していて挨拶にパリを訪れた林董、民間から参加した清水卯三郎についてはすでに述べましたが、プリンス一行には、函館戦争で医者として幕軍に加わっていた高松凌雲もいます。
彼の兄が、旧幕衝鋒隊を率いた古屋佐久左衛門で、五稜郭で重傷を負い、死去しました。
渋沢栄一は京で、慶応2年の10月ですから、パリへ旅立つ3ヶ月前、幕臣大沢源次郎捕縛事件で新選組の協力を得ました。そのときのことを後年に語って、「近藤の次ぎにいた土方歳三というのが、なかなか相当の人物で」と述べていたりします。
一橋慶喜が将軍となり、孝明天皇が崩御して、暗雲のうちに暮れた慶応2年。明けて一月、プリンス一行は旅立つのです。
王侯貴族がつどい、連夜の舞踏会に競馬と、華やぎに満ちていたパリ。
『プリンス昭武の欧州紀行―慶応3年パリ万博使節』は、細かくプリンスの日程を追い、また博覧会での薩摩との軋轢も、詳しく記しています。
で、もちろん、モンブラン伯の登場、となるわけですね。

もう一冊、ちょっとこれに関係のある本を買いました。
『ジュエリーの歩み100年―近代日本の装身具一八五〇‐一九五〇』なんですが、カラーページが多く、幕末以降の、実に美しい日本の宝飾品の数々を見ることができます。
それで、全面カラーの見開き、左ページにプリンス昭武がスイス大統領から贈られた金の懐中時計、右ページにモンブラン伯が薩摩のために作った薩摩琉球国の七宝の勲章が、載っていたりするんですね。
プリンスの金時計が、なんともいえず美しく、かわいいんですよねえ。なにがって、外蓋の内側に、エナメルで、衣冠束帯姿のプリンスの肖像が描かれているんですが、ちょっぴり美化されてもいて、ため息がでるほど。

このときの薩摩の代表は、家老の岩下方平ですが、彼はプリンス一行よりも先にパリに乗り込み、プリンス到着まで、日本の代表のような扱いを受けるんです。
モンブラン伯の活躍で、薩摩琉球国王の勲章はくばってまわるは、新聞でも独立国であるかのような情報は流すはで、結局、幕府がフランスに申し込んでいた借款を、つぶすんですね。これは幕府にとって、相当な痛手だったでしょう。
しかも岩下方平は、目的を達すると、万博が終わらないうちにパリを去り、慶応3年の9月には、京に姿を現します。
実は、ウェッブ上で、岩下方平がパリで撮した写真を見つけたんですけどねえ。
このとき彼は、ちょうど40歳くらいで、私の想像では、どっしりと太めの重厚なおじさん、だったんですけど、それが。あー、まったくもって予想ははずれ、うっそ! って感じでした。あー、美しい、というわけではないです。
さっさとDLしたんですが、その後、そのページがわからなくなってしまいまして、掲載許可の求め先が、不明です。

京からパリへ、パリから京へ。動乱二都物語、とでも言いたくなります。


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函館戦争のフランス人vol3(宮古湾海戦)

2006年01月27日 | 日仏関係
函館戦争のフランス人vol2
において、函館戦争に参加したフランス陸軍伝習隊教師たちのお話をしたわけなんですが、今回は、伝習隊に属していなくて、個々に函館に駆けつけた残りのフランス人たちのお話です。

まずはフランス海軍の見習い士官であった、アンリ・ポール・イポリット・ド・ニコールと、フェリックス・ウージェーヌ・コラッシュです。
この二人は、軍艦ミネルバ号に乗り組んでいて、明治元年五月に横浜に到着し、十月までいたのですが、その間にブリュネ大尉と知り合ったものか、十月十八日に一日だけの上陸許可をもらい、脱走して、商船を乗り継ぎ、函館に至りました。
二人とも二十歳そこそこで、日本語を学んでいたそうなのですが、戦いのロマンを求めたんでしょうね。

宮古湾海戦におけるアポルタージュ作戦は、ニコールの発案でした。
写真は、このとき旧幕軍が奪おうとした甲鉄艦、ストーン・ウォール・ジャクソン号の後の姿です。
ストーン・ウォール・ジャクソン号は、鉄壁のジャクソン、という意味でして、アメリカ南軍の名将の名を冠して、南軍がフランスに発注していた最新の軍艦でした。
しかし、南北戦争終結で不要になり、幕府がアメリカと買いとり契約を結んで、半分だったかは支払ってあったんです。
ところが、日本に到着したころには、戊辰戦争の最中でして、当初、アメリカは局外中立を盾に新政府への引き渡しを拒んでいたのですが、旧幕府軍に引き渡すわけにもいかず、ついに、新政府に渡しました。

アポルタージュ・ボールディング、接舷攻撃は、砲が発達していない帆船時代の海戦では、もっとも一般的なものだったんだそうです。以下、個人サイトの掲示板でお教えていただいたことです。
その伝統から、かならず欧米の艦船には、軍艦乗っ取りのための斬り込み戦闘専門の海兵隊がいて、これが、現在のアメリカ海兵隊の前身なのだとか。

旧幕海軍には、海兵隊がいなかったのでしょう。臨時の海兵隊として、神木隊・彰義隊を、三艦に乗り込ませ、その検分役、つまりは海兵隊の総指揮官として土方歳三、その側近として新選組相馬主計、同役野村利三郎が、旗艦回天に乗り込んだわけですね。
ニコールはその回天に、コラッシュは高雄丸に、そして蟠龍には、後で述べますが、一般から参加したフランス人のクラトー、と、それぞれ、フランス人が一人づつ乗り込みます。
結果的に、この作戦は失敗します。
回天艦長、甲賀源吾は戦死し、ニコールも砲弾を受けて負傷。
高雄丸は座礁し、コラッシュは、上陸した他の日本人たちとともに降伏して、南部藩の捕虜となるのですが、このコラシュが、後にフランスで、このときのリアルな挿絵入りの手記を出版して残しています。
内容は、簡略ながら、鈴木明氏の『追跡』に載せられているのですが、挿絵は一枚しかなく、残念だったのですが、それが、クリスチャン・ポラック氏の『絹と光』に、おそらくは全部、載っていたのです。買ってよかった本でした。

ニコールは、ブリュネ大尉たちとともに降伏寸前の五稜郭から抜け出し、コラッシュも結局、フランス公使に引き渡されて、二人は海軍を首になり、フランスへ帰されます。ところがその翌年、普仏戦争が勃発。
二人とも、一兵卒としてフランス陸軍に志願し、セダンの戦いでニコールは戦死。コラッシュは負傷しますが生き残り、明治4年、手記を出版したわけです。
セダンの戦いは、フランス軍にとっては無惨なものでした。

蟠龍に乗り込んだクラトーは、水兵だったといわれます。ただ、フランス海軍を脱走して函館戦争に参加したわけではなく、横浜に住み着いていて、だったようで、五稜郭脱出後、そのまま日本に居残り、明治になってからですが、築地の居留地でホテル・メトロポールを経営しました。
銀座の木村屋は、このホテルでパン作りを習ったと、いわれています。

後二人、函館戦争にフランス人が参加しています。
一人はトリポー。元フランス陸軍にいた人だといわれますが、経歴もその後のことも、まったくわかっていません。
もう一人のオーギュスト・ブラディエは、横浜の商人でした。函館戦争に参加したときには30歳です。脱出後は元の商人に返り、日本女性と結婚して、明治4年に男の子が生まれ、その二年後には死去し、横浜の外人墓地に葬られました。
残された息子は、日本国籍で育てられ、リヨン郊外のモンテリマールという父の故郷へ、何通かの手紙を書きました。フランス片田舎の村の親族は、その手紙を大切に長く保存していて、鈴木明氏がそれを発見します。
氏の『追跡』は、日本とフランスにまたがって、函館戦争に参加したフランス人のその後を克明に追っていて、読み応えのある本です。

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函館戦争のフランス人vol2

2006年01月20日 | 日仏関係
函館戦争のフランス人vol2

この写真は、函館市立図書館にあったんだそうです。
篠原宏氏の『陸軍創設史 フランス軍事顧問団の影』によれば、昭和11年に北海道史編纂された時に、見つけだされたのだとか。
また同書によれば、まったく同じ人々が、同じときに撮ったもので、顔の向きとかポーズなどが少々ちがっているものがあり、それは、石黒敬七氏が大正年間にパリの骨董店で見つけ、複写した写真なのです。

函館戦争のフランス人vol1

上の昨日の記事のブリュネ大尉単独写真ももそうなのですが、この軍服こそ、フランス式に、上着が青でズボンが赤、なんでしょうねえ。で、帽子とかのモールは金なんでしょう。

フランスの軍艦マーチ

上記の記事で、「はあ、それにしても、当時のフランス軍って、上着が青でズボンが赤って……、将校もそんな派手な軍服なんでしょうか」と書きましたが、どうも、そうだったようなのです。
鹿島茂氏の『怪帝ナポレオン三世 第二帝政全史』によれば、普仏戦争では、ド派手なのでよく目立って、射撃の的になったとか。プロシャ軍は上下チャコールグレーだったか、ド地味な軍服です。
古写真で見れば黒一色ですからシックなんですけど……、赤と青。
そりゃあ、ブルネ大尉は似合ったでしょう。でも日本人は、どーなんでしょ。デザインがちがうようなので、色もちがうんでしょうか。もし、日本人が着ているのも赤と青だとすれば、よく着ましたよね。

昨日ご紹介したクリスチャン・ポラック著『絹と光 日仏交流の黄金期』では、この写真の人物名が特定されています。

前列左から、細谷安太郎、ブリュネ大尉、松平太郎、田島金太郎(応親)。
後列左から、カズヌーブ伍長、マルラン軍曹、福島時之助、フォルタン伍長。

で、この写真なんですが、函館で発見されたので、函館で撮ったと思われがちなんですが、篠原氏は、函館へ行く以前、江戸において、浅草の内田九一による出張撮影ではないか、と、推測されています。
土方歳三の写真についても、江戸、あるいは横浜撮影説があったんですよね。
それぞれの人物については、鈴木明氏の『追跡』が詳しいんですが、四人の日本人はみな、伝習隊関係者と推測されています。
松平太郎は、鳥羽伏見の戦いで歩兵頭。江戸へ帰ってから陸軍奉行並となり、榎本艦隊に資金をまわした人物ではないか、ともいわれていまして、函館では副総裁です。
天保1十年(1839)生まれですから、明治元年には29歳。
田島金太郎は弱冠17歳の幕臣です。伝習では砲兵隊に属し、ブリュネ砲兵大尉に習った士官です。仏語習得が抜群だったようで、榎本軍の外交文書で、フランス語のものは、すべて彼の手によるようです。
北海道へ鷲之木へ上陸した旧幕軍は、大鳥隊と土方隊に別れて進軍しますが、川汲峠に向かった土方軍には、フランソワ・ビュフィエ軍曹が同行し、通訳のためでしょうか、田島金太郎もこちらに加わっていました。
細谷安太郎も幕臣で砲兵伝習を受けたもようですし、福島時之助についての詳細はわかってないのですが、伝習を受けた幕臣士官であったことはまちがいないでしょう。

ユージン・ジャン・バチスト・マルランは、ビュフィエと同じく歩兵軍曹。
フランソワ・アルチュール・フォルタンは、騎兵隊伍長です。
カズヌーブは異色で、フランス帝室種馬飼育場付伍長であり、ナポレオン三世が慶喜公に贈ったアラビア馬の飼育調教のために来日し、伝習に加わりました。
フランス伝習教師として来日していたフランス人のうち、函館戦争に参加したのは、この写真の四人と、先に述べたビュフィエ軍曹の五人です。

函館戦争の後、本国で陸軍勤務に復帰したブリュネ大尉を除けば、残りの四人は、再び日本の土を踏みます。
ビュフィエ軍曹、マルラン軍曹、フォルタン伍長は、わずか二年後の明治三年、当時大阪にあった兵部省に雇われ、マルラン軍曹は明治五年に死去。神戸外人墓地に葬られました。
ビュフィエ軍曹、フォルタン伍長は、さらに東京に移った兵学寮に雇われ、フォルタン伍長のその後はわかっていませんが、ビュフィエ軍曹は、明治14年に日本で死去し、横浜の外人墓地に眠っています。
鈴木明氏は、このビュフィエ軍曹が日本女性と結婚し、日本に子孫を残していたことを突き止めたのですが、息子のオーギュスト・ルイ・ビュフィエは、フランス国籍で、日本で生まれて日本で育ち、フランスの地を踏んだことがないにもかかわらず、第一次世界大戦でフランスから招集令状がきて、四十を超えた歳で、ヨーロッパへ出征したのだそうです。

最後に、カズヌーブ伍長です。
カズヌーブ伍長は、函館で重傷を負っていました。
これも鈴木明氏の『追跡』によるのですが、明治六年三月、カズヌーブ伍長が明治新政府に提出した意見書が、残っているのだそうです。
日本軍馬の馬種改良に関して、フランスから連れて来たアラビア馬の活用を建言しているのです。
慶応三年、カズヌーブがフランスからつれてきた26頭のアラビア馬は、戊辰戦争の混乱で、その大方が行方不明になってしまったのですが、カズヌーブは9頭の所在を確かめているといい、さらにさがせばまだ見つかるはずだ、としているんですね。
彼は、馬たちをさがしていたように思えます。
そして、気になるのが、以前に書きました下の記事です。

桐野利秋とアラビア馬
大正十年発行、有馬藤太の『維新史の片鱗』、流山で新撰組の近藤勇捕縛した経緯が書かれていることで有名な本なのですが、この後書きに、「立派な功績が他の人の事績になっていたり」する例として、以下の一行があるんです。

「桐野とアラビア馬」が「大西郷の妾」と化し(大正八年十一月発行ポケット)

カズヌーブ伍長は、この意見書が契機となったように、明治六年四月に宮内省に雇われるのですが、ちょうどこのころ、桐野は、熊本鎮台司令長官から陸軍裁判所長官に転任し、東京へ帰っているんです。
あるいは、カズヌーブ伍長と桐野に、接点があったのではないか、と思うのですが。
もっとも、桐野は同年十月には辞職して鹿児島に帰っております。
そして、カズヌーブ伍長は翌年、陸軍省に雇われるのですが、そのわずか五ヶ月後、なぜか福島県の浪江町で逝去しています。葬られた場所は、わかりません。
アラビア馬をさがしていたのではないかと、そんな気がするんです。

函館で戦ったフランス人たちのうち、日本に骨を埋めた男は他にもいるのですが、それはまた次回。

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函館戦争のフランス人vol1

土方歳三 最期の一日
桐野利秋とアラビア馬


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函館戦争のフランス人vol1

2006年01月19日 | 日仏関係
函館戦争の旧幕軍にフランス人が参加したことは、かなり、知られてきていると思います。
その中心だったジュール・ブリュネ大尉は、映画『ラスト・サムライ』のオルブライトのモデル、ともいわれているのですが、どうせだったら、日仏合作で描く映画・函館戦争を、見てみたいですねえ。
著作権フリーになっている様子ですので、1969年のもの、といわれる写真を載せましたが、ブリュネ大尉は、なかなかいい男、なんです。

鈴木明著『追跡』(集英社)
篠原宏著『陸軍創設史 フランス軍事顧問団の影』(リブロポート)
『函館の幕末維新 フランス士官ブリュネのスケッチ100枚』(中央公論社)

以上が、私がこれまで持っていた函館のフランス人に関する本なのですが、このたび、下記の古書を手に入れました。

クリスチャン・ポラック著『絹と光 日仏交流の黄金期』(アシェット婦人画報社)

在日フランス商工会議所が企画した非売品のようでして、シャネルとエールフランスがかなりの資金を出したもよう。
シャネルの洋服は馬鹿高いですが(えーと、ちょっとかわいいな、と思った、ごくカジュアルな夏のTシャツ一枚が10万していて、仰天しました)、役に立つものですねえ。
日本語とフランス語、双方で書かれているのですが、詳しくて、図版が多くて、実にいい本です。
引用されている、明治2年3月28日付のブリュネの手紙には、土方さんも出てきます。

Le chef detat-major general se nomme Hijikata.
Cest lancien second daimyo-chef des Sinsen-gumi de Yedo.

総司令長官は土方という男で、江戸新撰組の副長です。

これは、「現在の組織の概要」として、ブリュネ大尉が、まず大鳥圭介を陸軍奉行として紹介し、自分はその代役である、とした上で、

マルラン旅団(半旅団長・本多、大川)
カズヌーブ旅団(半旅団長・春日、伊庭)
ブッフィエ旅団(半旅団長・松岡、神木)
フォルタン旅団(半旅団長・瀧川、小杉)

と陸軍を四旅団に分け、最後に、その総司令官は新選組の「Hijikata」である、と記しているんです。
とすれば、大鳥圭介は軍政の長、土方は伝習隊現場総司令官、ということで、きっちり本人たちの役割分担意識は出来上がっていたのではないかと、そんな気がします。

ああ、それにしましても、見たいですねえ。日仏合作、函館戦争映画。
それこそ、日本女性のおかげで莫大な利益を得ているだろうシャネルさん、恩返しに出資しませんか? いえ、私はイタリアブランド好きで、シャネルは買ったことがないですけど(笑)

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二人の皇后とクリノリン

2006年01月04日 | 日仏関係
フランツ・ヴィンテルハルターが描く、ウージェニー皇后と女官たちです。色とりどりのクリノリンドレスが、とても華やか。

これまでも、このブログに何回か登場させました第二帝政期のパリ、なのですが、その栄華は、五稜郭陥落の翌年、普仏戦争とそれにともなう内乱で、あっけなく崩壊してしまいます。
ナポレオン三世は、ナポレオンの甥ではあるのですが、亡命先で育ち、いろいろと苦労を重ねた人です。
女性関係は、かなり乱脈でした。
スペイン貴族だったウージェニー皇后が、ナポレオン三世を射止めたのは、身体を許さないでじらしたので、他に仕方がなくなって結婚となった、といわれております。

このウージェニー皇后、鹿島茂氏の『怪帝 ナポレオン三世』によりますと、かなり政治に口を出したお方で、普仏戦争でも、パリから前線の夫に指令を出したというのですが、それが本当だったとすれば、とんでもないお話です。
同じ負けるにしても、下手な負け方、になってしまいますわね。

しかし、ヨーロッパのファッションリーダーとしては、華々しい活躍をしたお方です。
なんといっても、パリは当時から、ファッションの中心地、です。欧州だけではなく、アメリカからも、パリへ洋服を作りにくる女性がたくさんいたのですし、ファッションは、素材となる絹織物やその他もろもろの装飾品も含めて、フランスを富ませる大きな産業、だったのです。
その最大の広告塔が、ウージェニー皇后です。
バロック、ロココの昔へ帰ったような、絢爛豪華なクリノリンドレスは、ウージェニー皇后が流行らせた、といわれています。

この時代、オーストリア帝国にも、美しい皇后がおられました。
ババリアの狂王ルートヴィヒ二世の従姉妹で、ヴィスコンテの映画『神々の黄昏』ではロミ・ーシュナイダーが演じていた、皇妃エリザベートです。
このお方のクリノリンスタイルは、薄い紗を幾重にも重ねたような白いドレスの肖像が残っておりますが、息を呑む美しさです。
オーストリア宮廷の堅苦しさを嫌い、皇妃の務めを放って、放浪を重ねていたという変わった皇妃です。

しかし、普仏戦争の数年前、普墺戦争の敗戦で帝国が苦境に陥ったときには、ハンガリーへ出かけて支持を訴え、オーストリア・ハンガリー二重帝国として、帝国存続の基盤を強固なものにすることに、尽力しています。
政治的に見るならば、エリザベート皇后は、肝腎なところで、実に賢明に動かれているのですね。
ハンガリーの皇后として戴冠したときの衣装は、とても美々しいクリノリンスタイルなんですが、ウィーンのファッション産業はパリの足元にもおよびませんから、広告塔としては、ウージェニー皇后のような自国への貢献には、なっていませんけどね。
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無敗で凱旋門賞挑戦の夢破る

2005年12月25日 | 日仏関係
あー!!!!! 負けてしまいました。ディープインパクト。
うちの地方は、中央競馬の馬券売り場がなく、地方紙は三冠馬誕生のニュースさえ、まったく載せないほどですので、現在の競馬に詳しいわけじゃあ、ないんです。
でも、東京にいたころは、けっこう見ていましたし、少しながら馬券も買っていました。好きな馬の晴れ舞台には、府中まで足を運んだこともあります。

私は、追い込み馬というんでしょうか、後方にいて、直線一気に刺す馬が好きです。しかし、後方から前へ出るには、大外をまわらなければならなくなることが多いですし、進路があかなかったりで、不運に泣き、三冠馬などには、なかなかなれないんですね。
今年の皐月賞を見て、びっくりしました。
皐月賞は短距離です。短距離だと、先行馬の方が、通常有利なんです。
ところがディープインパクト、出遅れて最後方をいき、大外をまわって、直線、楽々と勝ったんです。
うそだろ~!? と、驚くと同時に、もちろんファンになりました。
ダービーの勝ち方も圧倒的でした。
菊花賞は、ちょっと不安だったんです。逃げた馬が、非常にうまかった。スローで逃げられると、追い込み馬は、最後、届かないんですよねえ。
それでも勝ってしまったディープインパクト。
先日、日本語版ニューズウィークを買ってきましたら、ディープインパクトが記事になっていまして、来年、凱旋門賞に挑戦する予定があるようなことを書いていました。有馬記念に勝って、無敗の凱旋門賞挑戦を期待したのですが……。
勝ったハーツクライのルメール騎手、上手かったですねえ。
先行馬に届かない、という悪夢を見てしまいました。

昔、凱旋門賞を見てみたくて、あのときもエミール・ゾラの『ナナ』を、読み返していたんですよね。
ロンシャン競馬場で、凱旋門賞に勝つ日本馬を見たい! 夢です。
1867年、維新の前年、日本使節団はナポレオン三世にロンシャン競馬へ招待され、競馬を見て、上流階級が賭博をすることに驚いたのですよね。
鹿島茂氏の『怪帝ナポレオン三世』によれば、ロンシャン競馬場も、ナポレオン三世によるオスマン大改造の一環として計画されたもので、1857年に完成し、1863年にはパリ・グランプリが催されて、いまなお世界の競馬ファンを集めている、のだそうです。

こうなったら、無敗でなくてもかまいません。
ぜひ、ディープインパクトには、凱旋門賞に挑戦してもらいたい!
そして……、見に行きたいものです。
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フランスの軍艦マーチ

2005年12月16日 | 日仏関係
昨日、アマゾンに注文していた本やCDがまとめて届きました。
まずは、これから。

鹿島茂著『怪帝ナポレオン三世 第二帝政全史』講談社発行

まだとばし読みしかしてないのですが、図版が多いし、熱のこもった記述で、おもしろく、お買い得な本でした。
一番ありがたかったのは、ナポレオン三世の外交や戦争についても章がさかれていることで、アマゾンでさがしたんですが、普墺(プロイセン・オウストリイ)戦争や普仏戦争を解説してくれている日本語の本って、いま、ほとんど出てないんですよね。

もう、なんといいますか、あきれました。
なににって、弟2帝政期のフランスの脳天気に、です。戦争に関する限り、幕末の幕府に、ほんとうによく似ています。
普仏戦争って、フランスの方から、宣戦布告したんです。
以前にも書きましたが、スペインの王位継承問題、という、直接フランスには関係のないお話で、たしかに、プロイセンのビスマルクが策を弄して、フランス人を怒らせるような記事をわざと流したのですが、はっきりいって、他人が見たらどーでもよかろうに、と思うようなことです。おまけにナポレオン三世は、戦争なんかしたくなかったわけですのに、なんで国を挙げて燃え上がるかな、と。
で、当然、なんの準備もできてないわけでして、ピクニック気分で戦争をはじめて、兵站がまるでなってない。
このフランス軍の兵站がなってなかったのは、クリミア戦争のときからわかっていたことだそうで、すでにクリミア戦争で、計画性のなさ、兵站の悪さにより多大な戦病死者を出しながら、経済発展にかまけて、まったく軍政の改革に手をつけられないまま時間はたち、普仏戦争です。
……って、あら、現在のどこかの国にもちょっと似てますね。
以前に、戊辰戦争の幕府伝習隊のシャスポー銃に触れて、「弾薬切れだったんじゃないのか」と書きましたが、どうやら正解のようです。伝習を授けてくれたフランス陸軍自体が、普仏戦争でシャスポーの弾切れに泣いたそうで。

はあ、それにしても、当時のフランス軍って、上着が青でズボンが赤って……、将校もそんな派手な軍服なんでしょうか。明治初期の軍服はフランス軍をまねたので、とても派手だったような話を、以前になにかで読んだような気がするんですが、いくら桐野でも、青と赤の軍服なんて、きれいに着こなせていたのかどうか、ちょっと不安です。

当時のフランス軍の行進曲ってどんなんだろうと、とりあえず、下のCDも注文していました。

ギャルド/軍艦マーチ(日本、アメリカ、フランス名行進曲集)

ギャルド・レビュブリケーヌ吹奏楽団というのは、フランスの陸軍参謀本部に所属する世界有数の吹奏楽団なのだそうです。団員はパリ音楽院の出身者から、厳しい試験を経て選抜され、極めて高い演奏をするので有名だとか。
いや、フランスの行進曲って、ほんと、ピクニックみたいな楽しい乗りだな、と思ったのですが、すばらしかったのは、軍艦マーチと君が代行進曲です。踊り出したくなる君が代って、はじめて聞きました!
小さい写真なんですが、ギャルドの騎乗写真があって、ステキな軍服です。軍艦マーチを演奏してくれるなら、ぜひ見に行きたい!

だからねー、フランス軍って、戦争しない方が断然いいみたいですね。
コメント (6)
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