郎女迷々日録 幕末東西

薩摩、長州、幕府、新撰組などなど。仏英を主に幕末の欧州にも話は及びます。たまには観劇、映画、読書、旅行の感想も。

幕末残照・長州紀行

2013年05月06日 | 幕末長州
 幕末残照・周防紀行の続きです。
 古い記事ですが、高杉晋作 長府紀行の続きでもあります。

 前回にひき続き、MAP防長紀行をご参照ください。

 

 上の写真は、防府天満宮の石段ですが、「幸せます」と花文字で書かれています。
 「幸せます」は、山口県の方言で、「幸いだ、ありがたい」といった意味で、防府市ではこの言葉が町起こしのキーワードに使われています。

 で、防府日報×FMわっしょい×防府盛り上げ隊がいっしょになりまして、毎週火曜日、FM防府×ユーストリームで、HOFU747STYLEという情報番組の生放送をしております。4月13日に放送されました17回に、山本栄一郎氏が出演し、幕末維新と防府について、語られました。
 YouTubeに録画が上がっていて、長いのですが、概要にタイムスケジュールが載っておりますので、ご参照のほどを。

【HOFU747STYLE 17】山本栄一郎(山口歴史研究会 会長) さん 2013/04/30.mpg


 この日の長州紀行に関係します、山本栄一郎氏の大発見の話は、最後の方に出てまいります。

 山本氏のご専門は、大村益次郎。
 大村益次郎は、適塾で福沢諭吉と肩を並べて学びました蘭学者で、長州を勝利に導いた陸軍の改革者、日本陸軍の創始者的存在です。靖国神社に巨大な像があります。
 最初は生まれ育った鋳銭司の村医者だったんですが、伊予宇和島藩の蘭癖大名・伊達宗城に取り立てられましたことが出世のとっかかりでしたし、宇和島ではシーボルトの娘・イネに蘭学を教え、縁あって、その最後を看取ったのは、イネとその娘婿で伊予大洲藩出身の三瀬周三でしたから、愛媛県にゆかりの人物です。

 益次郎はが明治2年11月に暗殺され、残されました妻は、益次郎のもとに来ていました大量の手紙が、それほど重要なものとは思わなかったようなのですね。一部を残しまして、大方、ふすまの下貼りに使ってしまいます。
 この旧宅が、やがて地元鋳銭司の潮満寺に移築され、昭和10年ころ、ふすまの下貼りに書簡が使われていることが発見されます。
 しかし、調査されないままに時が過ぎ、昭和29年になって、地元の内田伸氏が整理保存、解読にとりかかられます。内田氏は数冊の研究書を残され、現在90を過ぎてご健在だそうですが、この方が、山本氏のお師匠さまなのです。

 で、山本氏の大発見なのですが、すでに内田氏が解読されている書簡で、署名部分がなく、だれからのものかわかっていないものの一つが、「もしかして、高杉晋作のものではないか?」という話です。
 これまで、高杉が大村益次郎に書いた手紙は一通しか知られていませんで、功山寺挙兵の後、慶応元年になって、「桂 (木戸孝允)がどこにいるか知らないか?」と、問い合わせたものです。これ、実は追伸部分でして、内容からいきまして、この手紙の本文部分ではないのか、と考えられるんだそうなんです。

 そんなお話をうかがいつつ、まずは、大村益次郎を祀っています大村神社と、隣接する山口市歴史民俗資料館別館 鋳銭司郷土館です。




 ふすまの下貼りでした手紙は、ここ鋳銭司にはありませんで、本館の山口市歴史民俗資料館別館鋳銭司郷土館所蔵です。もちろん、高杉晋作が書いた、かもしれない‥‥手紙も、です。
 ここで、昔、内村氏が編集されました小冊子「大村益次郎 写真集」を買い求めましたところが、桂の居場所をたずねた高杉の手紙の写真が載っていまして、山本氏に見せていただいた「かもしれない‥‥手紙」の写真とくらべましたところ、私には、筆跡は似ているのではないだろうか、と思えました。




 吉田の東行庵です。
 こちらは再訪でしたが、前回とは様変わりです。私が幕末から離れていた間に、一坂太郎氏がいなくなり、記念館の展示物のうち重要なものは、一坂氏とともに萩へお引っ越ししたみたいなんですね。

 上左の高杉のお墓の灯籠は、木戸孝允、井上馨、伊藤博文が寄進したものでして、上右の写真がその名前のアップです。大江孝允、源馨、越智博文と正式の名乗りで、伊藤が越智を名乗っていたのは知っていましたが、木戸が大江で、聞多が源だって、初めて知りましたわ。高杉は、源春風でしたよね。
 下は、有名な辞世の歌の碑です。

 高杉晋作  「面白きこともなき世に面白く」
 野村望東尼 「住みなすものはこころなりけり」

 あら、「なき世を」じゃなくって、「なき世に」と読んでいるんですね。
 これ、前回来たときにはなかったような気がするのですが。

野村望東尼―ひとすじの道をまもらば
谷川 佳枝子
花乱社


 野村望東尼につきましては、上の谷川佳枝子氏の伝記が、非常に綿密かつ読みやすく、お勧めです。山本氏のご推薦で、読んでみた本なのですが。




 続きましては、高杉が挙兵しました功山寺です。上右の銅像なんですが、安倍首相の母方の祖父、岸信介の献辞が刻まれておりました。伊藤公記念館には、安倍首相の献辞がありましたし、さすが山口県ですね。わが愛媛県は、明治以来、ただの一人も首相を出しておりません。
 下の写真は、七卿がいたといわれます部屋の窓から庭を眺めてみました。
 
 功山寺に隣接して、下関市立長府博物館があります。図録や史料など、独自の出版物が多く、たっぷりと買い込みました。



 長府毛利邸です。
 広瀬常と森有礼 美女ありき10いろは丸と大洲と龍馬 上などに書いておりますが、幕末、長府毛利氏には、伊予大洲藩から藩主の姉が嫁いでいまして、大洲藩がいろは丸を買いましたのもその縁といえなくもありません。

 

 長府の武家屋敷。
 以前に来たときには見る暇がなかったのですが、今回はゆっくりと散策。
 美しい街です。
 次いでまた、山本氏にお願いしまして、前回行けなかった赤間神宮へ、連れて行っていただきました。

 


 高杉晋作と奇兵隊のスポンサーでした白石正一郎は、その晩年、赤間神宮の宮司となりました。
 上左、灯籠の写真に名前があります。
 行きましたのが4月28日で、5月2日から3日間、壇ノ浦に沈みました安徳天皇と平家一門をしのびます先帝祭が行われますため、緋毛氈の通路ができておりました。
 下は、平家一門の墓です。

 えーと、ですね。
 安徳天皇とともに、三種の神器は壇ノ浦に沈みました。
 平安時代、帝のそばにはかならず三種の神器があるべきものでして、平家一門にとりましては、正統の天子であります安徳天皇は、海の底の竜宮城にまで三種の神器を持っていくべき、だったんですね。
 源氏の必死の探索で、八咫鏡(やたのかがみ)の形代(本体は伊勢神宮)と八尺瓊勾玉(やさかにのまがたま)は回収することができましたが、武力を象徴します天叢雲剣(あめのむらくものつるぎ)の形代(本体は熱田神宮)は海底に沈んで回収されませんでした。

 源頼朝の母親が、神剣を司ります熱田神宮宮司の娘であったこともありまして、日本の歴史の中でこの宝剣の喪失は、朝廷から武家に国の武力の統率権が移り、政権が移ったことを象徴するとも、受け取られてきました。
 明治、天子さまが国の武力の統率権を取り返し、源氏を名乗ります徳川家の武家政権が倒れたわけなんですけれども、長州にとりましてのその維新回天は、下関におきます攘夷戦によってこそ、本格的に始まったわけなのです。

 海防僧・月性が予見しましたように、幕府を滅ぼし、天子の元に中央集権化し、身分にかかわらず国防にたずさわるようにならなければ(幕末の武士は役人でしかありませんし、薩摩を除けば日本全国どの藩でも、兵卒の数が少なすぎてお話になりませんでした)、日本は西洋列強の武力には対抗できない!ということが、ここで身にしみたんですね。

 一応、ですが、身分にかかわらない国防軍、奇兵隊のスポンサーでした白石正一郎が、その晩年、赤間神宮の宮司をつとめた、といいますことは、私にとりまして、非常に感慨深いことなんです。

 今回、またしても山口と萩に行けなかったのですが、山本氏のおかげで、楽しく、有意義な旅となりました。
 それで最後に、山本氏の大発見!高杉晋作が書いた、かもしれない‥‥手紙なのですが、内容はともかく、筆跡がどうも高杉のものではないのではないか、という話が、出ているようです。
 では誰の手紙か、といいますと、伊藤博文ではなかろうか、ということらしいんです。

 そういえば伊藤の筆跡にも似ているような気がしまして……、私にはさっぱりわかりませんが、高杉の可能性がゼロになったわけでもなさそうでして、続報を待ちたいと思います。

 次回はまた、近藤長次郎に帰ります。

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幕末残照・周防紀行

2013年05月04日 | 幕末長州

 謎の招賢閣 防府(三田尻)再訪の続きです。

 そのー、ですね。
 今回の最大の目的は、防府天満宮でしか売っていない幕末維新本!のご披露なのですが、防府天満宮へ行き着きますまでの周防の旅をついでに。かならずしも、順番通りに行ったわけではないのですけれども。
  4月27日(土曜日)から4月29日(月曜日)まで、山本栄一郎氏にご案内いただいた防長の旅は、MAP防長紀行 にマークしておりまして、そのうちの周防のご紹介です。

 

 松山から柳井港へ行きます防予フェリーは、この閑散とした三津港から出ています。
 広島行きなど、主な旅客船は、もう少し北の高浜港から出ていまして、三津港は、防予フェリーのほかは、平成の大合併で松山市に編入されました中島行きの船しか出ていません。
 防予フェリーの船内では、現在、食べ物は売っていないということをネットで見ていまして、しかし、売店に弁当くらいあるだろうと思っていましたら、パンと梅のおにぎりしか、ないんですね。

 

 結果、近くのスーパーにタクシーを乗りつけて買いましたのが、上のノリ弁です。
 デフレを象徴しますような、ものすごい安売りスーパーでして、198円の弁当!でしたから、最低料金とはいえ、タクシー代の方が高くつきました。
 いや、しかし……、このお値段にもかかわらず、おいしい弁当でしたわ。

 

 船内でノリ弁を食し、iPadで遊びつつ、着いた柳井港がまた、人影まばらで、さびれています。
 うーん。昔の方が、まだ人がいたように記憶しています。




 山本氏が迎えに来てくださり、私のリクエストに答えて、柳井港にほど近い月性展示館・清狂草堂へ連れていってくださいました。私にとりましては再訪ですが、山本氏は初めてでおられたそうです。
 写真上左の石碑は、月性の有名な漢詩の一節です

 男兒立志出郷關 學若無成不復還  
 埋骨何期墳墓地 人間到処有青山  

 男児志を立て郷関を出ず 学若し成る無くんば復た還らず
 骨を埋むる何ぞ墳墓の地を期せん 人間到る処青山あり

 月性は吉田松蔭より13歳年上です。
 文化14年(1817年)、山口県大畠町(平成の大合併で柳井市と合併)大字遠崎の浄土真宗本願寺派の妙円寺に生まれました。
 現在の柳井市のあたりは、大方、岩国藩領なのですが、遠崎のみは、周防大島への重要な渡航地として、長州萩本藩の飛地でした。
 周防大島は、能島・因島村上水軍を筆頭に、元伊予河野氏家臣団で、萩本藩御船手組となっていた人々が多く住み着き、その幹部の知行地が多かったですし、海運業の拠点だったのでしょう。遠崎の庄屋は、四国の瀬戸内海沿岸から俵物(清国へ輸出する海産物)を一手に集めて、長崎会所に納めていたんだそうです。

 月性は寺の跡継ぎでしたが、当時の僧侶神官は民間では最高の知識人でした。九州や京阪など各地に遊学。長崎で巨大なオランダ船を目の当たりにして、海防によせる思いを深くした、といわれます。
 ペリー来航の年には30代の半ば。知識僧として名を知られるようになっていました。
 本願寺法主に召されて京へ上り、「護法意見封事」(後に「仏法護国論」として全国の本願寺派一万寺に配布)を上程したり、また長州藩主にも「意見封事」「内海杞憂」を建白します。

 安政元年(1854年)、といいますから、ペリー再来航の年で、ロシア、イギリス、フランスの船団も修交を求めて来た年ですが、朝廷と幕府の間に大きな亀裂が走っているわけでもありませんでしたこの時期に、月性は、「討幕の詔(みことのり)をいただいて、他藩に先立って長州藩が勤皇を首唱するべき」と、藩主に向かって討幕!を上申したんです。幕府を滅ぼし、天子の元に中央集権化し、身分にかかわらず国防にたずさわるようにならなければ、西洋列強の武力には対抗できない、という論理です。

 月性は、松蔭の実兄の杉民治と親交があり、文通によって、松蔭にも多大な影響を与えます。
 革命は死に至るオプティミズムかに書きました松蔭の革命思想形成に、大きな影響を与えた人物でした。
 にもかかわらず、現代、月性の名があまり知られていないにつきましては、月性の直弟子は周防の人々が中心で、赤根武人、世良修蔵、大楽源太郎など、萩藩の中枢からは阻害され、非業の死を遂げた人物が多いことがあるでしょう。
 もう一つ、月性は安政5年(1858年)、井伊直弼が大老に就任し、安政の大獄が幕開ける直前に死去し、そののちの動乱とは関係しませんでした。



 次は柳井市の白壁の町並みです。
 実は、ここを訪れましたのは29日、帰途です。
 時間がありませんで駆け足でしたが、もう一度ゆっくりと訪れたい美しい街です。
 しかし……、祭日にもかかわらず閑散としています。かつての商都の賑わいは、遠く空の彼方に消えてしまった感じです。





 
 続きまして、柳井市の隣にあります光市の伊藤公記念公園・伊藤公資料館です。
 こちらは、山本氏のご推薦。もっとも私も、上の明治43年建築の旧伊藤博文邸が、大規模な補修の上、一般公開されたニュースをローカルテレビで見た覚えがありまして、連れて行っていただきました。
 下の写真は、伊藤博文生家の復元。

 初代内閣総理大臣・伊藤博文公爵は、周防の片田舎のこの束荷村に、農民・林十蔵の子として生まれました。
 伊藤性になったのは、父の十蔵が中間・水井武兵衛の養子となり、その水井武兵衛が足軽・伊藤弥右衛門の養子となって、最下層ながら武家身分を得たためです。
 博文は後年、うちの近所の道後公園・湯築城跡を訪れまして、「遠祖は河野通弘の裔、淡路ヶ峠(松山市東部の丘陵)城主・林淡路守通起であった」と延べています。河野氏は、中世からの伊予の豪族でしたが、豊臣秀吉の四国攻めで破れ、領地を奪われ、家臣団も離散したんです。
 束荷村の林氏60軒は、かつて林淡路守が毛利氏を頼って河野氏再興を願い、破れて、周防に住み着いたその末裔、と言い伝えられていました。

 上の洋館は、功成り名を成し遂げました博文が、その林淡路守没後300年の法要を行うために林一族を集めようと、故郷の村に建築したのですが、明治42年10月、ハルピン駅で安重根の凶弾に倒れ、完成を見ることはできませんでした。
 博文は、9歳のときに、父に呼ばれて故郷を離れ、萩に出ます。
 周防出身者の多くが不運な生涯をたどる中で、そのことが、今太閤と呼ばれた博文の幸運につながったのでしょう。
 幕末の動乱をくぐりぬけて、自らの才覚を生かし、位人臣を極めました博文の一生は、山本氏のおっしゃる通り、ロマンに満ちているのかもしれません(笑)



 ようやく、防府です。
 大正5年に完成しました毛利邸(毛利博物館)
 毛利公爵家の館は、もちろん東京(高輪)にあったのですが、かつての本国にも館が欲しいということで、資金繰りに関しましては異様な能力を誇ります井上聞多が、明治25年からこの地を選んでいた、といいます。当時の長距離交通は海路が中心でして、防府は、山口県の中ではもっとも交通の便がよく、本邸を作るのならばここ、ということでした。

 さすが公爵邸、ともかく敷地が広大で、圧倒されます。
 しかし、訪れた時間が遅すぎまして、今回、廷内の見学はできませんでした。次回、かならず!




 いよいよ、防府天満宮です。下は境内の春風楼。ここからの防府の眺めは、絶品です。
 ここの歴史館には、ここでしか買えません書籍(歴史書)が、多数ならんでします。山本栄一郎氏が著者の一人として名前を並べておられます『男爵 楫取素彦の生涯』は、その一冊です。

 楫取素彦は、高杉晋作「宇宙の間に生く!」と叫んで海軍に挫折に書いております松島剛蔵の実弟で、吉田松陰の妹婿、つまり義弟です。
 素彦は最初、松蔭の実妹の寿(ひさ)と結婚していましたが、寿は明治14年に病で世を去ります。
 その2年後、素彦は54歳にして、前妻の妹で、久坂玄瑞の未亡人、39歳の文(ふみ)を後妻に迎えます。
 つまり、その実妹を二人まで妻にして、松陰とは濃い縁に結ばれた人でした。

 山本栄一郎氏が書いておられるのは、「書簡に見る明治後の楫取素彦」。
 萩博物館所蔵の楫取素彦書簡184通を解読された労作です。
 この184通、すべてが杉民治宛だそうでして、杉民治は、月性とも友人でした松陰の実兄です。

 民富まずんば仁愛また何くにありや一夕夢迷、東海の雲に書いております萩の乱ですが、反乱軍の側で戦死しました吉田小太郎は、杉民治の実子ですし、民治もあきらかに、反乱軍側に心をよせていた形跡があります。
 楫取素彦も微妙な立場なのですが、そのあたりの機微を、山本氏は的確に解き明かしてくださっていまして、出色のおもしろさでした。
 この本、通販しているのかどうかわからないのですが、どうしても、という方は、防府天満宮にお問い合わせください。

 次回は、冒頭で山本栄一郎氏の大発見をご紹介し、続きまして、その発見とも関係のあります幕末残照・長州紀行をお送りする予定です。

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謎の招賢閣 防府(三田尻)再訪

2013年04月30日 | 幕末長州
 突然ですが、謎の招賢閣 三田尻(防府)紀行続・謎の招賢閣 三田尻(防府)紀行の続きです。

 実は、山本栄一郎氏が防府にお住まいでして、近藤長次郎本についての話もあり、4月27日から3日間、防府に行って参りました。山本氏が車でご案内くださり、長府、下関まで足を伸ばすことができたのですが、その詳細は、またの機会に。

 招賢閣といいますか、三田尻お茶屋・英雲荘なのですが、実は2年ほど前、地元松山のタウン誌かなんかで、補修がなって一般公開されている、という紹介記事を、読んではいたんですね。
 松山から防府に行くには、防予フェリー で柳井港に渡り、JRで行くのが一番の近道なのですが、この国道フェリー、高速船ではありませんから2時間半かかり、飛行機で東京へ行くより長いんです。

 まあ、ですね。松山から近県に遊びに行くなら、一般的にはおそらく、広島が一番多いでしょう。
 高速船もありますし、しまなみ海道をいく手もあります。
 広島市は松山市より大きいですから、観光といいましても、買い物に便利ですし、美術鑑賞、コンサート、観劇などで出かけることが多々あります。
 それにくらべて現代の山口県には、松山より大きい都市がないんですね。

 しかし、防予フェリーを存続させるためにも、愛媛と山口の観光客の行き来は大切ですし、おたがいに宣伝をしております。確か、フェリー会社がらみで、御茶屋・英雲荘の一般公開記事も出ていたように記憶しています。

 ともかく。
 続・謎の招賢閣 三田尻(防府)紀行で、「保存修理後の使い方としても、市民の結婚式などで使う、という話になっているようでして、観光施設ではないのですね」と書いていまして、このとき(平成18年)、防府市教育委員会へお電話したかぎりではそうだったものですから、どの程度の一般公開かわからなかったのですが、再訪したいもの、と思っておりました。

 なんと山本氏は、ちょうど前回私が訪れました時期、公民館として使われておりましたころに、ここで結婚式をなさったのだそうです。
 平成8年から15年にも及びます、長い長い保存修理を終えまして、文化財として一般公開がなりました三田尻御茶屋・英雲荘。
 午前中に行きましたところが、他に観光客がいなくて、館長さんが丁寧にご案内くださいました。
 以下の5組の写真は、上が前回のもの、下が今回のものです。




 かつては、門からして廃墟じみていたのですが、今は整然としております。
 パンフレットと館長さんのご説明に基づき、簡単に三田尻御茶屋の歴史を述べます
 御茶屋とは、藩主の参勤交代や領地視察の折りの休憩、来客迎賓などに使われました藩の公邸で、三田尻御茶屋は、江戸時代初期、萩藩2代目藩主のころに設置されました。
 江戸時代も後期にさしかかりました天明年間、名君として知られます7代藩主・毛利重就が隠居所として使いましたことから、敷地も大きく広がり、建物も数多くなりましたが、どのように使われたのか、詳細は伝わっておりません。
 幕末、ペリー来航2年前の嘉永4年(1851)、維持費が大変だったのでしょうか、大幅に整理され、敷地も狭くなり、
ほぼ現在の広さになりました。




 中心になる建物、大観楼棟です。
 お庭は、現在調査復元工事中でして、以前は森のように緑が濃くしげり放題だったのですが、いまは整備が進み、建物を覆うような植物はありません。
 建物は、基本的に天明年間のものだそうなんですが、改築が重ねられていまして、大観楼棟の内装は幕末の状態の再現をめざしました。
 文久3年8月18日の政変で京都を追われました七卿が、最初に落ち着きました場所がこの三田尻御茶屋。館長さんのお話では、やはり大観楼(棟二階部分)だっただろうと、推測されるそうです。
 



 七卿が滞在したと思われます大観楼(二階部分)です。
 かつての安っぽい電灯はとりはらわれ、ふすまは幕末のころのものを再現していまして、びっくりするほど美しくなっておりました。




 今回、以前の写真とちょっと角度がちがいますが、大観楼(二階)の窓から、瀬戸内海の方向を見ています。
 幕末には、すぐそばまで海が迫っていたそうでして、潮の香がただよっていたのでしょう。




 一階のこの広間、以前、山本氏が結婚式を挙げられたところです。
 館長さんがおっしゃるには、戦後、進駐軍が占領して、畳をはぎ、板敷きにして、ダンスをしたりと、むちゃくちゃな使い方をして、その後もあまり補修ができないままに、赤絨毯をしいて公民館として使われていたのだそうです。
 毛利家の内々の紋・オモダカを図案にしましたふすまがこの上なく品がよく、天井も塗り替えられまして、幕末モダンな趣味のよさに目を見張ります。

 

 この三田尻御茶屋、明治時代には毛利家の別邸として使われ、婦人の居室だったと思われる棟が建て増されました。当然、その部分は明治の意匠に再現されたわけですが、上の写真は、洋風な趣のある、きらびやかなふすまの引手です。
 昭和14年、御茶屋は毛利家から防府市に寄付され、その2年後、太平洋戦争開戦の年に、当時の毛利家当主により、英雲荘と名づけられました。「英雲」は、ゆかりの深い7代藩主重就の法名からとったそうですが、なんと、昭和になって新しくつけられた呼び名だったんです。

 そして、「招賢閣」なのですが、これがけっこう謎なのです。
 以前に書きましたが、「招賢閣」は七卿のまわりに集まりました各藩の志士たち、真木和泉や宮部鼎蔵や土方久元や中岡慎太郎や、その多くは、この後数年で命を燃やし尽くします志士たちが集った会議室で、隣接した敷地に建てられていたと言われます。
 ところが、実は七卿が三田尻御茶屋にいましたのは、わずか2ヶ月で、わざわざ会議室を建てましたかどうか、疑問も出ていまして、三田尻御茶屋そのものが「招賢閣」だった、という説もあるそうです。

 館長さんのお話では、文化財として一般公開されて2年、中岡慎太郎の故郷、土佐の北川村から、足跡をしのんでこられた方々もいたそうです。

 ぼろぼろだった昔を知っております私にとりまして、ほんとうに嬉しい驚きの再訪となりました!
 
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革命は死に至るオプティミズムか

2007年02月18日 | 幕末長州
とりあえず、もしかしたら、昨日の一夕夢迷、東海の雲 の続きです。
松蔭の革命思想、と書きましたが、それを、わかりやすく、とは言いませんが、見事に解き明かしてくれている本があります。
野口武彦氏の『王道と革命の間 日本思想と孟子問題』です。
って、また品切れですね。いえ、昔、私が図書館で借りて読んだ時にも品切れで、当時は、インターネットで古書さがし、もできませんから、必要部分をコピーさせていただきました。

孟子です。孟子には、いやな思い出があります。大学の漢文が、一年間孟子の購読だったんですが、漢文嫌いの私は、さぼりまくって、たしか一度も授業に出ませんで、いざ試験。目の前の白文に、呆然としました。いえ、一応、山かけの書き下しと解釈文は暗記していたのですが、ものの見事に山がはずれまして。

しかし、です。野口武彦氏の上記の本の中の「われ聖賢におもねらず 吉田松陰の『講孟余話』」を読みまして、松蔭先生くらい興味深く孟子を解釈してくださる先生がいたら授業に出たのに、と思ったんですが、一度も授業に出なかったのですから、実は、おもしろいかどうかもわからなかったわけで、つくづく馬鹿です。

えーと、それは置いておいて、です。野口先生がおっしゃるには、松蔭の『講孟余話』は、「ひとくちにいうなら、それは幕末という江戸時代未曾有の、いや、日本の歴史上有数の危機的状況のさなかに生まれ合わせた一青年と孟子との間の、激しい思想的格闘の書」なのだそうです。
朱子の『孟子集註』をテキストにしながら、自由に読み解き、読み破り、「松蔭は孟子にわが同時代者を見出した」と、先生はおっしゃいます。

孟子は朱子学のテキストで、朱子学は江戸時代の御用学問ですから、もちろん通常は道徳書として講釈されるのですが、もともと「革命」の書である要素を、含んでいるのだそうです。
そういったイメージを、端的にあらわしているのが、江戸時代中期、上田秋成の『雨月物語』におさめられた『白峰』。平安末期の保元の乱に破れ、讃岐の松山(白峰)に流され、憤死した崇徳上皇のお話です。ちなみに、明治元年、明治天皇は、崇徳上皇の霊を慰めるため、白峰神社を造営されました。
それはともかく、です。「汝聞け。帝位は人の極なり。もし人道上より乱すときは、天の命に応じ、民の望にしたごうてこれを伐つ」と、崇徳上皇の霊は、物語の中で宣言するのですが、これこそ、孟子の革命思想、なのです。
どこが、って、えーと、下手な説明をしますと、です。
「帝の位は人間の中ではもっとも重いものであるけれども、帝もまた人間である。帝が人の道にはずれたときには、天の命令、民衆の望みに答えて、これを伐つ」というのですから、革命ですよね。
この孟子の革命思想を崇徳上皇に吹き込んだのは誰なのか。『保元物語』によれば、上皇とともに乱を起こして敗死した、左大臣・藤原頼長です。頼長は、現実に孟子を読破していたそうですが、当時の認識では、「革命」思想と思われていたわけでは、ないのだとか。ただ、江戸も中期になれば、孟子イコール不吉な革命思想、といったようなイメージがあって、上田秋成がうまく使った、と。

孟子の有名な言葉があります。
「民を貴しとなす。社稷これに次ぎ、君を軽しとなす」
また下手な説明をしますと、「民がもっとも尊い。国家がその次で、君主はその後にくる」でしょうか。
これを、松蔭は、「これは、人の上に立つ者が自らをいましめる言葉だ」と受け流し、ここから、「異国のことはしばらく置く」といって、国体論を展開するんですね。
「この君民は開闢以来一日も相離れ得るものにあらず。故に、君あれば民あり、君なければ民なし。この義を弁ぜずしてこの章を読まば、毛唐人の口真似して、天下は一人の天下に非ず、天下の天下なりなどと罵り、国体を忘却するに至る」
つまり、ですね、「我が国では、国のはじまりの時から、帝と民は一心同体で、離れたことがない。それが我が国の歴史であり、根本なのだから、それを忘れて他国のまねをするべきではない」ということでしょう。

この国体論のどこが革命的かといいますと、帝と民は一心同体である、ということは、松蔭の他の著作とも照らし合わせてみますと、幕府も藩も突き抜けて、民が帝と一心同体である、となりえる論理展開だから、です。
天保12年(1841)、といいますから、松蔭が孟子に取り組んだ時期から、およそ20年近く以前の話でしょうか。土佐で、秘密裏に天保庄屋同盟が生まれています。これは、現実的には庄屋の地位向上を主張するものであったのですが、将軍も藩主も、そして庄屋も、帝の臣下であることにかわりはないと、簡単に言ってしまえば、帝の前にはみな平等だという、国学的な一君万民思想に通じる思考を内包していました。
ですから、土佐の庄屋であった中岡慎太郎は、松蔭の思想をすんなりと理解できたとも、いえると思うのです。

しかし、と野口先生は続けます。松蔭は、天皇を神格化しているのか、といえば、けっしてそうではない、と。
「天子は誠の雲上人にて、人間の種にはあらぬ如く心得るは、古道かつてしかるにあらず。王朝の衰えてよりここに至り、またここに至りてより王朝ますます衰ふるなり」
「天子を雲の上の神さまのように思うのは、まちがいだ。昔はそうではなかった。天子が政治の主権をなくされてから、そういうことになったのだ」というのですから、史実に即した認識ですよね。
そして、あとが続きます。「天子が政治的な意志をもたれていた昔に帰ることが望ましいのだけれども、軽率に事がおこなわれると、かならずそれを口実に悪政を行う者が出てくるだろう」と。

これだけでも鋭い分析にうならされるのですが、松蔭はこういった認識のもとに、長州藩の学者、山県太華との書簡による論争で、ついに、倒幕論に至るのです。
私もちょっぴりは経験があるのですが、他人さまとの論争というものによって、自分でも意識していなかった方向へ、論理が展開していき、あらま、私はこう考えていたんだーと、論争相手に感謝することがあります。くらべるのもおこがましい、といいますか、私程度のは単なる思いつきでしかなかったりするのですが、松蔭と太華の論争は、実にスリリングに、時代の危機を切り開く論理を構築していくのです。

結論から言えば、です。結果、「主上御決心、後鳥羽・後醍醐両天皇の覆轍だに御厭ひ遊ばされず候はば、愚策言上もっとも願ふところに御座候」とまで、松蔭は唱えるようになりました。
後鳥羽天皇は鎌倉幕府、後醍醐天皇は室町幕府と、ともに武家政権に戦いを挑み、敗れて流された天皇です。その失敗をおそれることなく、ぜひ、民に勅を下して、主権意志を示していただきたい、と。
帝と民が一体となって立ち上がる、草莽崛起論です。

しかし、では、どうやって草莽が主上を‥‥‥、天皇を動かすのか。
現実に、幕末に起こったことは、孝明天皇は決して倒幕を望まれはしなかった、という悪夢でした。
例えば、英国へ渡った土佐郷士の流離 2 で書きましたが、孝明天皇の勅命は、久光上洛にともなう西日本の志士たちの期待を、あきらかに裏切るものでした。
8.18政変も、もちろんそうだったでしょう。
そして、その悪夢の果てに、「玉(天皇)を奪われ候ては実に致し方なき事と甚だ懸念」という大久保利通の言葉にありますような、マキャヴェリズムに行き着きます。
こうなってくると、「天皇の主権」は、表象でしかありません。
それが、革命の現実というものなのでしょうけれども、では、思想家である松蔭は、天皇の意志と草莽のめざす方向の乖離を、どう考えていたのでしょうか。
「至誠にして動かざる者、未だこれあらざるなり」という確信を、「死に至るオプティミズムとでも呼びたくなるようなパトス」として、松蔭は所有していたのだと、野口先生はおっしゃるのです。そして、その信念に全身全霊を預けた、夾雑物のない松蔭の生涯は、美しい、と。

たしかに、大久保利通のマキャヴェリズムがなければ、維新は成立しなかったかもしれません。
しかしまた、松蔭の、常識では考えられないような熱情がなければ、そもそも倒幕の火は、ともりえなかったかもしれない、とも、いえるのではないでしょうか。


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一夕夢迷、東海の雲

2007年02月17日 | 幕末長州
『秋月悌次郎 老日本の面影』

作品社

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品切れ本のデーターを貼り付けても、という気がするのですが、古書で手に入りました。
ふう、びっくりしたー白虎隊 で書きました『落花は枝に還らずとも 会津藩士・秋月悌次郎』を読んでから、ぜひ読みたいと思っていた本です。
本論にはあまり関係ないのですが、勝海舟というお方は‥‥‥ の矢田堀鴻とも知り合いだったとは。二人とも、昌平坂学問所にいたんですから、あたりまえといえばあたりまえなんですが、長岡藩の河井継之助とともに、長崎のオランダ海軍伝習所にいた矢田堀を訪ねる一こまは、後のそれぞれの運命の転変を思えば、晩年の悌次郎がかかえた「老日本の面影」が、けっして単純な懐古ではなかったことを、うかがわせてくれるものです。

そして、さすがに、松本健一氏の描く秋月悌次郎像は、枯淡な墨絵のようでありながら、「保守」思想家であることのパトスを、強く感じさせてくれるものでした。
私、あまり漢詩には詳しくないのですが、といいますか、昔教育実習をしたときも、漢文の授業だけは逃げさせてもらったほど苦手ですが、「行くに輿無く、帰るに家無し」の悌次郎の絶唱は、さすがに知っていました。しかし、その晩年に西郷隆盛の墓に参った時の七言絶句には、松本氏のおっしゃるように、たしかにより深く、響くものがあります。

 生きて相逢わず、死して相弔す
 足音よく九泉に達するや否や
 鞭を挙げて一笑す、敗余の兵
 亦これ行軍、薩州に入る

しかし、この本で驚いたのは、『非命の詩人 奥平謙介』が同時に収められていたことです。
奥平については、民富まずんば仁愛また何くにありやで少し触れましたが、かつて一度だけ面識があった‥‥、といいますか、長州を訪れた悌次郎に、まだ若かった謙介は、詩文を見てもらったことがありました。時は流れて戊辰、北越口で長州軍の参謀をしていた謙介は、会津降伏の後、猪苗代で謹慎する悌次郎に、心のこもった書状をよせるのです。その名文は、悌次郎の心をゆすっただけではなく、永岡久茂など、後に思案橋事件で、萩の乱に呼応することになる会津藩士たちの琴線にも、強く触れたのだそうです。

松本氏は、奥平謙介を、ある意味、悌次郎の対極にある「ロマン的革命家」と位置づけています。
なるほど、言われてみれば確かに、萩の乱の中心にあったのは、前原一誠ではなく奥平謙介であったのでしょうし、その奥平と連携していた永岡久茂は、評論新聞に務めていたのです。
評論新聞には、熊本協同体を組織して西南戦争に参加した宮崎八郎もいましたし、「不平士族」と一言で片付けてしまうことのできない、反政府勢力の結集があったのです。評論新聞とつながっていた桐野利秋については、「六年の冬掛冠帰省の後は、居常国事の救うべからざるを憂嘆し、皇威不墜の策を講じ、国民をして文明の域に立たしめんことを主張し、速に立憲の政体に改革し、民権を拡張せんことを希望する最も切なり」という、市来四郎の論評もあります。

佐渡の知事であった時代の謙介が、地役人の家禄を止めて、開墾に従わせ、自らもいっしょになって農作業に励んだ、というエピソードをなども、謙介が、明治維新の革命としての側面に、過酷なまでに忠実であったことを、うかがわせます。
これは、あるいは私の記憶ちがいであるかもしれないのですが、明治維新を「社会民主主義革命」と規定した若き日の北一輝は、生まれ育った佐渡に残る、奥平謙介の伝説に惹かれていた、のではなかったでしょうか。
実は、松本健一氏の北一輝伝を、読んだのかどうか、思い出せないのです。上が記憶ちがいでないとすれば、おそらく、松本氏が書かれていたものだったと思います。読んだのだとすれば、図書館で借りた本だったのでしょう。

 身を致し誓って、妖気を掃わんと欲す
 一夕夢迷、東海の雲
 今日の和親、宿志に非ず

これは、謙介が「松蔭遺稿を読みて感有り」と題した詩の最初の部分なんですが、松本氏の解説によれば、「一夕夢迷、東海の雲」とは、松蔭がアメリカに渡ろうとしたことを指していて、しかし現在の日本のありさまは、松蔭がめざした「攘夷」ではない、ということになります。続いて、「今の政治家は尊攘檄徒をなだめるために、あざとく松蔭先生を利用しているだけで、日常に愛読することを忘れ、遺稿を燃しているに等しい」とまで詩っているとなりますと、昨日の坂本龍馬と中岡慎太郎 で書きました、慎太郎の「夫れ攘夷というは皇国の私語にあらず」という言葉が、浮かんできます。
久坂玄瑞、高杉晋作亡き後、もっとも濃厚に松蔭の革命思想を、理論的に受け継いでいたのは、中岡慎太郎ではなかったでしょうか。
奥平謙介は、感性でそれを受け継いでいたのだと言われてみると、確かにその通りだったのでしょう。
そしてそれが、たしかにロマン派とでも呼ぶしかないような、不器用なものであったればこそ、秋月悌次郎が悼むにふさわしい面影となって、謙介は黄泉路に赴いたのかもしれません。


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民富まずんば仁愛また何くにありや

2007年01月21日 | 幕末長州
『評伝 前原一誠 あゝ東方に道なきか』

徳間書店

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前原一誠という人は、松下村塾の一員なのですが、高杉晋作を筆頭に、久坂玄瑞、入江九一、吉田稔麿、伊藤博文などなど、にくらべますと、あまり知られてない、といいますか、知られていないだけではなく、不人気です。
不人気の原因は、やはり、不平士族の反乱として知られる明治9年の萩の乱の首領として担がれ、刑死しているからでしょうけれども、年齢が高く、高いわりに幕末風雲時に派手な動きをしていない、ということもあるでしょう。
天保5年生まれですから、松蔭より四つ下、高杉より五つ上で、松下村塾の中では最年長の一員です。とはいえ、木戸孝允(桂小五郎)より一つ下、井上 馨より一つ上で、もしも前原に政治的力量があったならば、明治新政府で重きをなしただろう年齢です。いえ、重きをなさなかったともいえないのですが。
ともかく、です。颯爽とした、とか、切れ者、だとか、胸のすくようなイメージはなく、とっさの決断力には欠けたところがあり、生真面目で、頑固で、おまけに暗く、まあ、あれです、私好みの人物ではありません。
にもかかわらず、なぜこの本を読んでいたかというと、やはり萩の乱は、西南戦争に無関係ではありませんし、それよりなにより、吉田松蔭の叔父で学問の師である玉木文之進、松蔭の甥で後継者となるはずだった吉田小太郎、と、松蔭の身内が前原を盛り立て、萩の乱に参加していたからです。小太郎は戦死、文之進は松蔭の妹に介錯させて、切腹して果てます。
例えば、高杉が生きていたとしたら、どうしただろう? という思いがありました。

個人掲示板の方で、ちょっとこの前原のしたことを思い出すような話がありまして、読み返してみました。
といいますか、この評伝の中で、私の印象にもっとも強く刻まれていたのは、明治新政府の占領地越後で前原が試みようとした仁政でした。
後年のことですが、大隈重信はこういっていたのだそうです。
「前原はかつて公職を帯びて新潟県にいた。その時、救荒の詔勅の下った際、聖意に答え奉らんとする至誠からではあったが、指令を監督官庁である民部省に請ふ事なく、恣に新潟県の租税を半ばに減じた。それは儒流政治家の慣用手段で、何か事があれば直に租税を免ずるのを仁政と考へるシナ一流の形式政治に有勝のことであった。が、それはただに官紀維持の上から、監督官庁として座視し得ないのみならず、事実左様した仁政が続出すると、中央政府の政費を支へる事が出来ぬ。そこで君(大隈)は、直ぐに前原の処置を難じたが、前原はそれを憤り、救荒の詔勅の下った事を盾に取って、聖意この如きに、ひとり聚斂の酷使あって之をはばむのは心得ぬと抗議した」
これは、『大隈侯八十五年史』からなんですが、『大隈候昔日譚』でも前原を名指しで、似たようなことを言っていまして、大隈にとっては、晩年にいたるまで、よほど腹が立った出来事であったようです。
明治元年、ようやく東北の戦火がおさまろうかというころ、です。大隈は、ほとんど一人で、新政府の金の工面を背負い込んでいましたから、無理もない怒りといえば、そうなんですけれども、実は、前原の「仁政」には、まだ続きがあったのです。

戊辰戦争は、上野戦争の後、会津藩の処置をめぐって東北列藩同盟が成立し、北陸東北へ戦場が移ります。
越後口では、河井継之助率いる長岡藩や、飛び地領に陣取る桑名藩、新潟港を握る米沢藩などの善戦で、長州の山縣有朋、薩摩の黒田清隆が率いていた官軍側は苦戦。前原一誠は、長州から干城隊を率いて応援にかけつけ、戦勝後も、そのまま越後府判事となって、民政にたずさわることになりました。
なぜかといえば、おそらく、前原一誠の手腕は、軍事にはなく、民政にあったからなんですね。
それについては、実績がありました。四境戦争で、長州が占領した小倉藩領を、前原は見事に治めていたのです。

前原一誠、もとの名は佐世八十郎は、毛利家の旗本ともいえるれっきとした藩士の家柄に生まれましたが、わずか四十七石。当時の武士の暮らしはきびしく、一誠の父親は、今の小野田市にあった代官所勤務を引き受け、畑仕事をしたり、陶器を焼く内職をしたり、漁にまで出たといいます。
一誠は田舎で育ち、貧しかったために勉学も遅れました。萩の親戚の家に寄宿して塾に通ったりもしたのですが、やがて、落馬によって足を痛め、健康も害しました。
学問が遅れていることを自覚したまま24歳となり、松蔭にめぐりあいます。
「勇あり、智あり、誠実人にすぐ」と、松蔭は一誠を評しています。
貧しくとも、れっきとした藩士の家柄であったことは、その後の一誠の志士活動を制限します。松蔭が、老中の間部詮勝暗殺を計画したときには、父親の画策で、長崎のオランダ海軍伝習に、藩から派遣されて行きます。
その後、長州の尊皇派として、江戸、京都へも出るのですが、諸藩の志士とまじわったり、朝廷に出入りしたりということはほとんどなく、藩の内務に携わることが多かったようです。
8.18クーデターの後は、長州に落ちた七卿の世話係、その後、攘夷戦に備えた下関で、れっきとした藩士だけの干城隊の指導を受け持ち、そのやる気のなさに憤慨したりもします。攘夷戦に参加していたため、禁門の変とは無縁で、「俗論党」が支配した中では九州の志士と連絡をとり、高杉晋作の高山寺挙兵では、ぴったりと高杉によりそって補佐します。
そうなんです。一誠がだれよりも信頼をよせていたのが高杉であり、高杉もまた、一誠を信頼していたのですね。

長州の四境戦争、小倉口の戦いも、そうだったんです。高杉が病で倒れた後、高杉の後を引き継いだのは一誠です。
ほかに、人材がなかったのです。小倉口には、山縣有朋率いる奇兵隊とともに、長府藩兵などがいたのですが、れっきとした藩士でなければ、長府藩兵からの信頼が得られませんし、かといって、ただの藩士では奇兵隊が納得しません。一誠は、ずっと裏方に徹して、藩庁と諸隊の調整や兵站などを受け持っていて、高杉のような軍略家ではありませんでした。しかし、小倉口の戦闘指揮だけではなく、高杉が担当していた長州海軍までもが、一誠の受け持ちとなります。
高杉の死は、松蔭の死にまさるほどの衝撃を、一誠に与えたでしょう。

戦勝の後、長州藩の預かりとなった小倉藩領の民政を、一誠は担当します。このとき、どうも一誠は、奇兵隊を率いる山縣と、藩庁を預かる木戸孝允への不審を、芽生えさせたようなのです。
まずは、小倉藩領からの奇兵隊の引き上げです。戦勝におごる奇兵隊は、小倉藩領に駐屯していたのですが、これが領民の不評を買っていました。奇兵隊は、身分をとわずに成り立った軍隊ですが、それだけに、問題もまた起こりやすかったのです。以下は、一坂太郎氏の『長州奇兵隊 勝者のなかの敗者たち』からの引用です。

平成四年(1992)のある夏の日、下関市で行われた講演会が終わり、帰ろうとしていた私を引き留めたお爺さんが聞かせてくれた奇兵隊の話が、いまも耳に残っています。
「奇兵隊などというのは、どこにも行き場のない、荒くれ者の集まりだった。仕方がないから、奇兵隊にでも入るか、という感じじゃった。やれ、あの家の鼻つまみ者が奇兵隊に入ったとか、町のものは噂した」
これはお爺さんが幼いころ、幕末当時を知る祖母から聞いた話だそうです。

一坂氏は、それを裏付けるような話を奇兵隊士の日記から引いて、一般の人からは好意的に見られていなかったのが事実ではないか、とし、さらに、そのお爺さんが祖母から聞いたという隊士の無銭飲食や、報国隊士が文句を言っただけの料亭の主人を斬り殺した話をあげておられます。
本拠地の下関でさえそうであるならば、占領地での傍若無人ぶりは、察せられます。
一誠の懸命の要望にもかかわらず、奇兵隊はなかなか引き上げようとしなかったのですが、よくやく引き上げさせて、そして、年貢半減を、一誠は実行したのです。これには、長州藩庁がなかなか首を縦にはふりませんでした。長州の諸隊人数は、四境戦争でふくれあがっていて、それを、占領地からの収入で食べさせていく計算でした。武器の購入などで、藩財政は逼迫していて、年貢半減が好ましいはずはなかったのです。
それでも一誠は、「預かっただけの土地の領民を大切にしなければ、長州の評判が落ちる」と、粘り強く交渉し、ついに年貢半減を勝ち取るのです。

つまり、一誠が越後口でしたことには、すでに実績があったのです。
明治元年は天候不順で、日本全国、春から長雨が続き、信濃川をかかえる新潟では、梅雨時に堤防が決壊したまま、田畑は水につかり、ほとんど収穫のない地域も多い、という惨状でした。その上に、戦禍です。
人夫としてかり出された農民の賃金さえ、中央政府は出し渋っていて、当初、年貢半減を交渉していた一誠は、結局許可の無いまま、それを実行に移します。
事情はちがいますが、新政府の許可を得た上で公卿を担ぎ、年貢半減を宣伝して信州に進軍していた赤報隊が、偽官軍として処分されたばかりです。一誠の首がとばなかったのは、一重に、彼が長州の松下村塾出身者だったからでしょう。
さらに、続きがありました。
信濃川は、日本で一番長い川として知られますが、新潟に流れ込んで後、日本海沿岸にそびえる弥彦山系にはばまれ、内陸に蛇行することで、氾濫源が大きくなっています。このため、弥彦山南麓に日本海に水を落とす水路をつくれば、洪水は軽減されることがわかっていて、すでに分水計画があり、幕府に陳情したこともあったのですが、さまざまな藩の領地が入り乱れ、利益が折り合わなかったり、一つになって事業を興すことも難しく、また多大な資金が必用で、手がつけられないでいたのです。
しかし、この年の未曾有の水害に、地元では分水工事を求める声が上がり、関係諸藩も協力して、建白書が提出されていました。
その分水工事の費用を出せと、一誠は中央に迫ったのです。160万両といわれる大金です。立ちあがったばかりの明治新政府に、そんな金があろうはずもありません。「それならば、5年間分の越後の年貢を分水工事に使わせてくれ」と、一誠はねばります。東京に陳情に出かけた一誠は、足止めされて参議に祭りあげられ、一誠の請願が受け入れられることはありませんでした。
実は、こういった「仁政」をしていたのは、一誠だけではなかったのです。
例えば、豊後岡藩という小さな藩の志士、小河一敏は、藩によって幽閉されていましたが、王政復興がなって許され、中央に出て、鳥羽伏見の戦いの直後、天領だった堺県の知事になります。

JA堺市 小河一敏

上に書いているとおり、やはりこの年の長雨で氾濫した大和川の治水工事に手をつけ、どうも明治2年ではなく、正式には3年のようなのですが、ともかく免官され、明治4年には、なんの嫌疑かもわからないまま、鳥取藩邸に幽閉されます。

「誠実人にすぐ」という松蔭の一誠評は、やはりあたっていたのです。
一誠は、松蔭の教えに誠実であり続けたのではないのでしょうか。以下は、松蔭の『未焚稿』より。
「世の論者、民を仁し物を愛すると曰はざるはなく、国を富まし兵を強くすると曰はざるはなし。しかれども農勧めずんば富強何によりてか得ん、民富まずんば仁愛また何くにありや。農を勧むるは民を教ふるにあり、民を富ますは稼穡にあり。いやしくも道を学びて国のためにせんとする者、これを独り高閣に束ね度外に置くべけんや」
また松蔭の父への手紙には、「武士わづかなりとも殿様より知行をもらひ、百姓どもに養はれ、手を拱して美食安座つかまつり候君恩国恩に報い」という文句が見えます。松蔭の家は粗食だったと思いますが、「武士は農民に養われているのだから、なによりも農民の暮らしの安泰を考えることが一番」という武士としての自覚、日本版ノーブリス オブリージュは、叔父の玉木文之進から伝えられたものであったでしょう。
治水は、農村のインフラ整備です。
たしかに、新政府にそんな金銭的余裕はありませんでしたし、各地で仁政を競いあえば、ただでさえ揺れている中央政府の求心力にひびが入ります。
それでも、水害でほとんど収穫がない場合の年貢半減は、責められることではないように感じますし、小河一敏のした程度の防水土木工事を、問題にしなければならなかったのだろうか、とも思うのです。

そして、もちろん士族にもさまざまな人々がいたわけでして、松蔭の示したようなノーブリス オブリージュを自覚している者は、あるいは少数派であったかもしれません。
しかし一誠とともに萩の乱の中心となった奥平謙輔は、戊辰戦争でも、長州藩の隊長として前原とともにあり、ふう、びっくりしたー白虎隊で書きました会津の秋月悌次郎に、礼をつくしくした書状をよせ、鹿鳴館のハーレークインロマンスに出てまいります、大山巌夫人、山川捨松の兄・山川健次郎など、会津藩俊英の教育を引き受けます。捨松のアメリカでの生活は、一歩先にアメリカ留学を果たしていた兄の存在にささえられていました。
戊辰戦争の後、奥平は一誠とともに越後府にあり、佐渡の統治を手がけたりしますが、一誠が中央に足止めされた明治2年8月には、職を辞して萩へ帰ります。これは私の想像ですが、一誠の「仁政」を入れようとしない政府中央に、失望したのでしょう。なんのための維新だったのかと。
松下村塾では学んでいませんでしたが、奥平もまた、日本版ノーブリス オブリージュを身につけていた人ではなかったでしょうか。
萩の乱で捕らえられ、処刑される前のことです。牢獄の羅卒に、元会津藩士がいたのだそうです。奥平は、「自分がこうなったことを秋月さんに告げてくれ」と頼み、その羅卒は秋月に手紙を書き、それを見た秋月は、終夜痛哭したのだそうです。
それに……、そうでした。萩の乱に呼応しようとして果たせなかった思案橋事件の永岡久茂、中根米七らは、会津藩士でしたし、彼らは評論新聞を通じて、薩摩にも期待をよせていました。同じように越後でも、呼応の動きがあったんだそうです。

平成15年第3回(6月)見附市議会定例会会議録(第3号)

昨年9月15日の新潟日報に大橋一蔵の絵と革命家一蔵の起伏に満ちた一生のドラマがつづってありましたので、引用させていただきます。「昔越後に偉人ありき。一切の名誉、栄職を断ち一途に世のため突き進んだ大橋一蔵。維新前後の大変革期に身命を賭して国事に奔走された志士大橋一蔵は、嘉永元年(1848)2月16日、蒲原郡下鳥村(現見附市)代官大橋彦蔵の長男として生まれ、明治元年(1868)、越後府知事代行四条のもと、府判事となった松下村塾の俊才前原一誠は、年貢半減令を発し、また蒲原農民積年の宿願、信濃川分水を上申する。明治6年西郷隆盛らが下野し、新政府打倒の嵐各地にあがる。一蔵は深く前原に傾倒し、萩に帰郷したまま前原を訪ねること3度、薩摩へ西郷を訪ね、桐野と談合。萩、越後の同時蜂起を計るが、こと敗れ、前原は死し、一蔵は県庁に出頭、自訴した。時に29歳。「一身の寸安を偸んで恥を後世に残すことは欲せず」と。

これらのすべてを、「不平士族」「守旧派」とひとくくりにかたづけてしまう傾向に、私は疑問を抱かずにはいられないのです。


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高杉晋作「宇宙の間に生く!」と叫んで海軍に挫折

2006年02月03日 | 幕末長州
「大丈夫、宇宙の間に生く、なんぞ久しく筆研につかへんや」と、高杉晋作は、大喜びしたんです。
万延元年(1860)、桜田門外で井伊大老が暗殺されたころ、高杉晋作は数えの22歳で結婚したばかり。藩の軍艦教授所に学んでいて、遠洋航海に出る丙辰丸の士分乗組員(つまりは海軍士官見習)に選ばれての大喜び、なんですが。
遠洋航海たって、たかだか江戸まで、です。

丙辰丸は、伊豆から船大工を招き、長州藩が独力で作り上げた洋式帆船でした。
なぜ伊豆からかといえば、これより6年ほど前のこと、安政の大地震にともなった津波で、ロシアの軍艦ディアナ号が破損し、修理のため駿河湾へまわったところが、暴風のため沈没。帰国のための帆船を、伊豆の戸田港で建造し、伊豆の船大工たちは、西洋帆船の造船を学んでいたんです。
その虎の子の洋式帆船を、長州藩は大阪との往復にのみ、使っていました。波穏やかな瀬戸内海航路、です。江戸へ行くような「遠洋航海」には、けっして出しませんでした。
それに不満だったのが、長崎のオランダ海軍伝習で、勝海舟と同窓だった、丙辰丸艦長の松島剛蔵です。
この年の一月、幕府の咸臨丸は、アメリカへ、本当の遠洋航海に出発しています。それを、たかだか江戸へ行くくらいで「遠洋航海」と言われてはたまりません。藩に嘆願書を出し、ようやく認められて、江戸まで「遠洋航海」をすることとなったのです。

高杉さん、すごい勢いです。
「宇宙の間に生きる大丈夫が、机にしがみついて閉じこもりになっていられるか!」
とでもいった意味でしょうか。
ところがところが、太平洋に出たところで、船酔いにでも苦しめられたのでしょうか。航海の後には、「予の性もとより疎にして狂。自ら思へらく、その術の精微をきわむるあたわずと」と書き、船を離れます。
「性格がおおざっぱで、狂い気味なんだからさ、航海術なんぞというちまちま細かなものは、向いてなかったね」、ですかしら。

航海術って、どちらかといえば技術系専門職、ですからねえ。たしかに、向いてなかったんでしょう。
もっともこのときから六年の後、第二次征長戦において、高杉は海軍総督を命じられます。
松島剛蔵はどうしていたか、ですって? このお方が維新まで生きていたら、長州閥も海軍に理解が深かっただろうに、と、思うんですよねえ。
そうなんです。松島剛蔵は、すでに元治元年(1864)、俗論派による藩内の政変で、斬首されてしまっていました。
彼は、吉田松陰の妹婿の実兄で、木戸考允(桂小五郎)が水戸藩士と結んだ密約は、丙辰丸船上で結ばれ、艦長の彼も署名したほどの尊攘派でした。
文久三年(1863)の馬関攘夷戦にも、積極的に参加しています。

長州は、丙辰丸に次いで、同じような洋式帆船、庚申丸を製造。両舷に八門のカノン砲を設置しました。砲の据え付けは、オランダ海軍士官に助言を受けて行われています。
さらに、二隻を購入してもいました。一隻は癸亥丸というイギリス製の小さな木造帆船でしたが、砲が10門。
もう一隻は壬戌丸といって、鉄張り蒸気船です。ただし壬戌丸は、藩主のご座船のような役割をする船で、軍艦ではなく、砲はありませんでした。
洋式船としては四隻を所有していたわけなのですが、丙辰丸にもしっかり戦えるだけの砲はなく、戦艦は、庚申丸、癸亥丸の二隻です。
松島剛蔵が艦長だった庚申丸は、アメリカ商船を砲撃し、次いでオランダ軍艦をも、癸亥丸といっしょに襲います。癸亥丸の艦長は、松島剛蔵に同じく、オランダ海軍の伝習を受けた福原清助です。
オランダ軍艦の乗組員は、心底、信じられなかったでしょう。

アメリカ合衆国の軍艦ワイオミング号は、南軍の巡洋艦をさがして香港に来て、見つからないまま在日アメリカ人保護を命じられて横浜にいたところへ、自国商船が襲撃されたとの知らせを受けました。
さっそく、報復のため馬関へ。停泊中の壬戌丸、庚申丸、癸亥丸を発見し、一番りっぱな壬戌丸を旗艦と見て、突進します。
庚申丸、癸亥丸は果敢に砲撃戦をいどみ、ワイオミング側は10名の死傷者を出しますが、壬戌丸、庚申丸は撃沈され、癸亥丸も修理不可能なまでの大破。
長州艦隊は全滅してしまったのです。

ここまでの参考文献、高杉晋作に関する部分は、『高杉晋作全集』なども見ておりますが、主に、村松剛著『醒めた炎―木戸孝允』全四巻(中公文庫)です。
この本は、巻末に出典がまとめられていて、すぐれものかと。

ところで、突然、長州海軍を思い浮かべましたのは、「宮古湾海戦において甲鉄(ストーン・ウォール)に乗っていたのはだれなのか」という疑問を提示されたTBをいただいて、大山柏著『戊辰役戦史』(時事通信社発行)を見てみましたところ、以下のように書いていました。

甲鉄について朝廷はこれを買い入れると同時に、長藩にお預けとなしたので、おもな乗組員は長人がこれに当たり、船将には中島四郎が任命され、百三十から百五十名が乗り込んでいた。

さらに篠原宏著『海軍創設史 イギリス軍事顧問団の影』(リブロポート発行)を見てみました。これには宮古湾海戦に関する記述はなく、明治元年6月、榎本艦隊が品川沖にいて、アメリカが旧幕府海軍と新政府、どちらへの甲鉄引き渡しも拒んでいたころの、こんなエピソードを乗せています。

長州藩士六、七十人が、「ストン・ウォール」を手に入れてそれに乗って帰るためにイギリス汽船に乗って兵庫から横浜に来た。一行は、横浜駐在の政府当局者と連絡し、同艦を引き渡すことはできないと言われて引き揚げた。

つまり長州は、よほど戦艦を欲しがっていたようなのです。
それで、松島剛蔵と攘夷海戦を思い出したわけでした。
長州はワイオミングとの海戦で、三隻を失い、それ以降、満足に戦艦を持てないでいたんですよね。
もともと水軍の横行していた土地柄です。臣下に、元の村上水軍も組み込まれていましたし、御船手組の水夫たちもいたはずです。幕府の水夫が、元の塩飽水軍が主だったことを考えますと、長州はそもそもは、海軍を育てるに有利な土地柄だったはずなのです。
攘夷戦の段階で、操船技術はすでに培われていて、死傷者の数まで書いてなかったのですが、陸がすぐそばですし、死者はあまりなかったはず。
ただ、元の村上水軍は、周防大島に移住していたのですし、海軍には、周防出身者が多く、松島剛蔵亡き後、長州政庁で力をふるって予算をとりえる人材がなかった、とはいえます。
長州における周防出身者の冷遇は、よく知られていることです。
それで、高杉が海軍総督に座ったのでしょうけれども、座って間もなく、高杉も病に倒れます。
維新当時の長州は、乗組員は召し出せばいるけれども、船はなし状態、だったのではないんでしょうか。

「甲鉄は誰が動かしていたのか」とおっしゃる疑問は、甲鉄が大型船であったことから、操船技術が難しいものではないのか、ということだったのですが、それに関しては、個人サイトの掲示板で詳しい方にお聞きしましたところ、さして変わるものではない、とのことでした。
なお、函館戦争のフランス人vol3(宮古湾海戦) では省きましたが、甲鉄艦の詳しい履歴を、上記『海軍創設史 イギリス軍事顧問団の影』から、要約して補っておきます。

もともとは、アメリカ南軍が、ミシシッピー川での北軍との戦闘を考えて、フランスのボルドーにある造船所に発注した2隻のうちの一つで、スフィンクスという名でした。喫水が浅く、海洋向きの船では、ないんですね。
南軍の敗色濃厚となったため、フランスの造船業者が、一隻をプロシャに、スフィンクスをデンマークにと、交戦中の2国に売りこんだところが、デンマークは敗戦で契約を破棄。ここで船名がオリンダとかわり、南軍の武器調達係の大佐が、オリンダを洋上奪取。アポルタージュですねえ。
ここで名前がストーン・ウォールとなり、北軍軍艦の追跡を受けて、キューバに逃げ込み、キューバに売り渡し。
北軍といいますか、合衆国政府が請け出して幕府に売り渡した、ということです。

写真は、以前にも使いましたが、長州海軍の本拠地だった三田尻を、七卿が身を寄せたお茶屋の大観楼から眺めたものです。

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高杉晋作と危機の兵学

2006年01月23日 | 幕末長州
この写真は、東行記念館が所蔵していた、吉田松陰の講義録『孫子評註』の写本です。写っている指はおそらく、一坂太郎氏のものです。
きゃあー!!! 『孫子評註』だっ! わあっ!!! 撮らせてくださーい。
ってことだったと思うんです。この本の由来もちゃんとお聞きしたはずなんですが、さっぱり覚えてません。
『孫子評註』に黄色い声を上げるのもおかしなものですが、その所以はといば、私の高杉によせる思いの中心に、この『孫子評註』があったからなのです。
えーと、いくら「男は容姿だ」という信念を持った私といえども、です。容姿にのみこだわっているわけではないですし、桐野のことは別にしても、高杉晋作は、容姿ぬきに好きだったりします。
つーか、どこからどう見ても、晋作さんの容姿はよくないですよねえ。

彼らのいない靖国でも

上の記事に出てまいります、野口武彦氏の『江戸の兵学思想』(中央公論社)なんですが、たしか当時、長州の奇兵隊と明治の徴兵制の関係を考えていて、手にとってみたのだと思います。
つまり、近代国民国家と近代軍隊は不可分ですから、兵学思想をぬきにして、明治維新を考えることはできないはずなんですね。
しかし従来……、といいますか、おそらく戦後、なんでしょうけれども、歴史学にそういう発想は、ありませんでした。

あまり一般に知られてないことなのですが、吉田松陰は、もともと藩の軍学者なのです。松陰が養子に入った吉田家は、山鹿流の兵学を家学としていました。
その松陰が、ペリー来航以来の危機を目前にして、兵学的思考で孫子を読み抜き、現実に引き寄せ、近代西洋の脅威と対峙したとき、それは敵である近代西洋の兵学に通じるものとなりました。
そして、「これを亡地に投じて然る後存し、これを死地に陥れて然る後生く」という孫子の一節は、長州一国を死地に投じて日本を変革しようとする、革命思想に変じるのです。

その松陰の兵学的な革命論を、もっとも濃厚に受け継いだのが高杉晋作でした。
後の奇兵隊の発想は、松陰の思考を発展させて、生まれたものです。
松陰は自らを死地に投じ、死を目前にした牢獄から、高杉晋作に何通かの手紙を書いています。
その中で、孫子の版本の差し入れを望み、また、「久坂玄瑞に高杉へ『孫子評註』を贈るよう頼んだがどうなっているか」と気にしているんです。
野口武彦氏は、この本の最後を、以下の言葉で締めくくっておられます。

勤王思想家としての松陰は、当初から幕府打倒を叫んでいたのではなかった。
諫幕から倒幕への転換は、ほかでもない「死地」の思想戦、激烈な内面の思想闘争のはての決意だったのである。
後世、吉田松陰を精神主義にまつりあげてしまったのは、その兵学的著述などろくすっぽ読まなかった連中である。

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高杉晋作 長府紀行

2006年01月22日 | 幕末長州
十数年前の旅です。三田尻(防府)へ行った次の日、とてもご親切な山口県出身の方に、長府の功山寺と東行庵を案内していただきました。




功山寺挙兵のときの高杉晋作の銅像です。
うーん。ピントがあってないですねえ。実は銅像の下に私がいて、双方にピントをあわせるのは、難しかったんでしょう、おそらく。




功山寺の山門なんですが、下手くそな写真ですよねえ。私が撮ったんです。




こちらは、たしか、東行庵にあった高杉の銅像だったはず。
だったはずって……、よく覚えてなかったりします。
(ぐぐってみましたら、東行庵はまちがいないのですが、銅像ではなく陶像、でした)
久坂玄瑞の法事
に書きましたように、一坂太郎氏をお訪ねして、桐野利秋についての情報をお願いしましたのは、このときです。



東行記念館に展示してあった「いろは文庫」です。
元治元年、晋作が京都から、妻お政(雅子)に宛てて書いた手紙に、以下の一節があるんです。

近日の中大阪へ帰り候故、さ候わば曽我物語、いろは文庫など送り候間、それを御読みなされ心をみがく事専一にござ候。
(一坂太郎著『高杉晋作の手紙』新人物往来社発行 より)

長州は八・一八政変で京を追われ、進発論が盛んだった時期です。
高杉は藩主の命で、進発論の最先鋒だった来島又兵衛を説得しようとして、罵られ、自分が脱藩して勝手に京へ上りました。帰藩後、投獄、謹慎となりますが、そのおかげで、池田屋事変、禁門の変敗戦という長州の窮地を、無事やりすごした、ともいえます。
そういう時期に、妻にいろは文庫を贈っていた、というのが、私にはとても印象的でした。
「心をみがく事専一にござ候」なんぞと、堅苦しい書き方をしていますが、いろは文庫って、ご覧のように絵入りで、為永春水が手がけた人情本なんですね。けっして、堅い本ではありません。
萩では手に入らない、きれいな絵入り読み物を妻のために買うって、なんだかかわいいじゃありませんか。
雅子さんが後年に語り残していることなんですが、高杉は彼女をを連れて料亭へ行き、芸者をあげて遊んだことがあります。「なにがおもしろいのかわからなかった」と、彼女は述懐しているんです。
当時、江戸の幕臣の妻は、夫とともに、柳橋の料亭や隅田川の遊覧屋根船に芸者を招き、三味の音と洗練された料理を楽しんだりすることが、けっこうありました。
おそらく、そんな江戸の風流を妻にも経験させてあげたいと、江戸遊学期間がけっこうあった晋作さんは、思ったんじゃないんでしょうか。




やはり東行記念館に展示してありました、有名な辞世の歌の色紙です。

高杉晋作  「面白きこともなき世を面白く」
野村望東尼 「住みなすものはこころなりけり」

野村望東尼は、筑前藩士の未亡人で、元治元年の暮れ、亡命してきた晋作を山荘に匿い、勤王方の藩士たちに協力した罪もあって、姫島に流されます。それを晋作が助け出し、長州で晩年をすごして、臨終にも立ち会いました。
望東尼との交流を見ましても、晋作さんは、ずいぶんとかわいげのある男だったんだろうな、と思うのです。

僭越ながら、今回は、晋作さんの上の句に続けてみました。

  面白きこともなき世を面白く 君翔けゆきぬ風のはるけき


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続・謎の招賢閣 三田尻(防府)紀行

2006年01月17日 | 幕末長州
昨日の記事、謎の招賢閣 三田尻(防府)紀行
どうも、すっきりしませんで、ただいま、防府市教育委員会へ電話をしまして、真相をお訊ねしました。

まず最初に、現在、三田尻御茶屋(旧構内付大観楼)は、国の史跡になっています。

そして、招賢閣という呼び名と三田尻御茶屋の関係なんですが、正式には、三田尻御茶屋全体が招賢閣だったわけではなく、招賢閣という名の会議室があり、その建物は、現在はないそうなのです。
しかし、幕末の志士たちが「招賢閣へ行く」と言った場合、御茶屋全体を、招賢閣と呼び慣わしていたことも、また事実のようです。
そして、招賢閣は会議室なのですから、七卿が滞在したのは、やはり、写真の英雲荘だったのです。
また、大観楼とは、そういう名の建物が別にあったわけではなく、英雲荘の二階部分を、そう呼んだのだそうです。
さらに、英雲荘も花月楼も、まったくの立て替えであったわけではなく、古い建物ではあったのですが、改築の手が大分入っていた、ということのようで、英雲荘は現在、明治時代の姿に戻すために、保存修理中です。
花月楼の保存修理はすでに済んでいて、防府市民がお茶会で使用しているとのこと。

十数年前に訪れた時、観光案内所で聞いても場所がわからず、防府市の係の方に場所をお聞きして、わざわざ案内してもらった、と言いますのも、当時、英雲荘は、公民館のような使われ方をしていたから、だったようです。
保存修理後の使い方としても、市民の結婚式などで使う、という話になっているようでして、観光施設ではないのですね。
しかし、希望があれば案内もしてくださるそうですし、それは、保存修理中の現在でも、そうなのだとか。

あー、だから、つまり、です。
写真に撮った部屋が七卿の居室だったと聞いたのは、聞き間違いではなく、英雲荘で志士たちをしのんだのも、けっして勘違いであったわけではなかったのです。

十数年前の防府は、不思議な雰囲気を持った街でした。
戦災にあってなかったためでしょうか、古書店に立ち寄れば、戦前の教科書とかが、無造作に置いてあったりしたんですね。
山頭火の街でもありますし、伊予松山とは縁が深く、もう一度行けたら、と思います。


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