郎女迷々日録 幕末東西

薩摩、長州、幕府、新撰組などなど。仏英を主に幕末の欧州にも話は及びます。たまには観劇、映画、読書、旅行の感想も。

宮廷料理と装飾菓子

2006年12月31日 | 読書感想
宮廷料理人アントナン・カレーム

ランダムハウス講談社

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宮廷料理とはなんぞや? という話が、とあるサイトのとあるスレッドで出ました。
もとはといえば、どうやら『宮廷女官 チャングムの誓い』に啓蒙されたらしきお方が、「日本にはなぜ宮廷料理がないの?」と問いかけたことにはじまった論争だったんですが、「ほんとうに日本には宮廷料理がないのか」というところから、「宮廷料理とはなんぞや?」という話になり、私の結論としましては、「王とその家族の日常食を基本として、そこから発展した宮廷宴会料理」でした。
王とその家族の日常食は、王のいない国にはありませんので、今現在を言うならば、日本には宮廷料理がありますが、韓国にはないことになります。問題は、「そこから発展した宮廷宴会料理」です。
レストランで「宮廷料理」と銘打ったものは、過去の宮廷料理のレシピを元にした再現、創作なのですが、レシピには秘伝の部分が多いですし、韓国料理にしろ中華料理にしろ、どこまで過去の宮廷料理を再現できているかは疑問です。
では、国賓をもてなす料理、いわば外交料理ですが、これが現代版宮廷宴会料理に相当するとしまして、です、現在、世界共通の外交宴会料理はフランス料理で、日本の宮廷も明治からこれを取り入れ、宮中晩餐会はフランス料理が基本、ですよね。どなたかが、「王の臨席しない外交晩餐会の料理を宮廷料理とは言えないだろう」とおっしゃって、これには、頷かされました。
つまり、「そこから発展した宮廷宴会料理」にしましても、王族の臨席がない場合は、宮廷料理とはいえないだろう、ということなのです。

で、宮廷料理人アントナン・カレームです。
この本、たしか、鹿島茂氏の書評を読んで買ったんですが、レシピが載っていて、とても楽しめました。
宮廷料理人といっても、アントナン・カレームは、ルイ王朝の宮廷料理人ではありません。1783年ころ、フランス革命がはじまる6年ほど前、パリの貧しい一家の16番目の子供として生まれました。貧しい夫婦は素朴に王族に憧れていたのでしょうか、王妃マリー・アントワネットにちなんでマリー・アントワーヌという名を息子につけ、アントワーヌが縮んで、アントナンとなったのです。
ほどなくはじまった革命は、やがてパリを無法地帯にしました。なぶり殺されたのはなにも、貴族だけではありません。カレーム一家も不幸にみまわれたらしく、父親は、10歳そこそこの息子を捨て去るのです。
途方にくれたアントナンを救ってくれたのは、忙しい料理人でした。下働きとして雇われ、寝床と食事を得ることができました。王妃マリー・アントワネットが処刑台にのぼる、少し前の出来事であったようです。

一般に、パリのレストランはフランス革命をきっかけに誕生したといわれます。
革命以前のレストランはスープのみを出すところであり、当時のスープとは、食事の一環ではなく、呼吸器の病気を和らげるために飲む嗜好品だったのだそうです。
また、トゥレトゥールと呼ばれる総菜屋も存在したのだそうですが、排他的なギルドに守られたもので、発展の余地にとぼしく、美食を追求するような場ではなかったようです。
ところが、革命によってギルドの制約は解消し、また、貴族に雇われていた料理人たちの大多数が失業しました。そして、首都パリには、フランス各地から代議士たちが単身で押し寄せ、外食の需要が飛躍的に増えたため、料理人たちは、それまでのトゥレトゥールとは一線を画して、スープに力を入れつつ、他の総菜も楽しむことができる「レストラン」を開業するようになったのです。
しかし、現在の感覚からいえば、ちょっと不思議なんですが、当時のパリでもっとも注目を集める料理人といえば、パティシエ、つまり菓子職人だったんだそうです。
いえ、不思議ではないのかもしれません。中世から、宮廷宴会料理の中心となるのは、装飾菓子、ピエスモンテなんですね。

中世ヨーロッパの饗宴~もてなしの儀式

上のサイトさんはかなり詳しいのですが、洋の東西を問わず、古代、中世の宴会料理というのは、非常に儀式色が強いんです。神への捧げものの変形、といえると思うのですが、その宴会の主題にちなんだ装飾菓子が、食卓のメインとなります。装飾菓子は、その大部分は食べることができる材料で造りますが、基本的には食べるものではなく、食卓を豪華に飾るものなのです。
洋の東西を問わず、と言いましたが、その場で食べることを目的とせず、菓子や果物を飾る風習は、中華宮廷料理や李朝宮廷料理、そして古代から中世にかけての日本の宮廷料理にもあります。



上の水原華城と李朝宮廷実録 で説明しました写真、当時(ちょうどフランス革命の頃)の李朝宮廷宴会料理の果物飾りを再現したものです。奥の方には、模様を描きながら菓子を積み上げたものも再現されていたのですが、写っていません。
李朝では、幕末に近い時期でもこういう素朴な、積み上げ式の飾りものなのですが、中華王朝では、南宋あたり、つまり日本で言えば平安朝あたりから、蜜づけの野菜だかで動物などを彫刻した飾り、などもあったそうです。
手元の『中国名菜ものがたり?中国・飲食風俗の話 』に、12世紀半ば、つまり平安末期ころ、南宋の王族が皇帝を招いて開いた宴会のメニューが載っています。並べられた184種類もの豪華な料理のうち、半分ほどは以下のような飾り物でした。

八種類の新鮮な果物を星のようにきれいに積み重ねたもの、一二種類の乾かした果物、十種類の良い香りの花、十二種類の蜜漬けを材料にして小動物、鳥類などを彫刻したもの、十二種類の乾かした果物に香薬をまぶしたもの、十種の乾燥肉、八種類の殻をむいた松の実とか落花生、または銀杏などの乾果。

このうち、「蜜漬けを材料にして小動物、鳥類などを彫刻したもの」は、中世ヨーロッパ宴会料理の「マジパンやパイ皮で英雄や怪物、動物などを形作ったお菓子(装飾菓子)」と、あまり変わりがないわけです。
日本の場合は、どうなのでしょう。鎌倉時代あたりまでは、やはり素朴に積み上げていたようなのですが、例えば菱葩餅(ひしはなびらもち)、俗に言う花びら餅などの細工菓子になってからは、積み上げることはあまりなくなったのではないかと思うのですが、私にはよくわかりません。ただ幕末まできますと、ちょっと気になる話があります。
明治維新の直前、リュドヴィック・ド・ボーヴォワール伯爵というフランスの青年貴族が来日し、『ジャポン1867年』という紀行を記しているんです。
その中に、フランス公使館で催された「日本式の大晩餐会」の様子が見えて、日本式の「ピエスモンテ」(フランス語の装飾菓子、英語ではエクストラオーディネール)が出てきます。

離れておかれた数個のテーブルの上に、日本人の非常に愛好する「ピエスモンテ」を嘆賞することができた。
そのひとつは、たっぷり1メートル四方はあったが、鶏卵、魚類、花、人参等々でひとつの風景をあます所なく表して居た。そこには、長ねぎの細い繊維でつくった数本の川、かぶらを彫刻し、けばけばしい色を塗りたくったおしどり、生野菜の野、人参の煉瓦でつくった橋があった。
別の台は漁を表していた。マヨネーズの波のただ中に没し、卵の白味を泡立たせたクリームの泡に覆われたじゃがいもの岩山の上に、ひとりの漁師が、かぶらで網目をつくった長居網を曳き、縮んだかきと跳びはねる棘魚とを数限りなく寄せ集めていた。
最後に一匹の大きなひらめが前に出る。魚は数本のマストと微風にふくらむ数枚の頬で飾られ、ガリー船に変えられていた。
それを箸をつかって、われわれは全部平らげたのである。

マヨネーズ??? 日本の料理なの? と疑問なんですが、中華料理では現在でも、野菜やゆでた肉などで、大皿に鳳凰を形作ったり、という飾り料理がありますし、日本料理でも、大皿に刺身を盛る場合、いろいろ趣向を凝らすことはありますよね。これは、いってみれば、積み重ね飾り料理の変型でしょうし、菓子ではないにもかかわらず、ボーヴォワール伯爵が「ピエスモンテ」と言ったのは、なかなか鋭い表現なのかもしれないんですよね。

日本古代の宮廷宴会料理が、干し物や菓子ばかりが多くて、ろくに食べるものがないように言われていますが、それは、記録に残るものの多くが飾り物であり、また宴会といえば、料理よりも、だれがどういう音楽を演奏し、どういう舞いを舞ったかが重視され、実際に食べた料理の記録が少ないからでしょう。
洋の東西を問わず、前近代の宴会というものは、歌舞音曲などの出し物と、その場で食べるわけではない飾り料理が主役なのではないんでしょうか。

17世紀、太陽王ルイ14世治下のフランスに、ヴァテールという伝説的な料理人がいました。
『宮廷料理人ヴァテール』という映画がありましたが、これは、コンデ公がルイ14世をもてなすために、ヴァテールに任せて開かれた3日間の大宴会、という実話を元にしたお話しです。ヴァテールはやはりピエスモンテ製作の名人で、映画でも、食べるわけでもない砂糖菓子の花が重要なアイテムとして出てきます。また、ヴァテールは料理を取り仕切るだけではなく、機械仕掛けのスペクタクル、アトラクションの演出まで手がけていまして、どうも、当時の名料理人というのは、そういうものであったようですし、宴会料理の花は、ピエスモンテ(装飾菓子)だったのです。
このコンデ公の大宴会というのは、1671年4月のことです。日本で言えば江戸時代の前期、4代将軍家綱の時代。
中世ヨーロッパでは、砂糖は貴重品でしたので、王侯貴族といえども大量消費はできませんでしたが、16世紀、新世界に砂糖キビのプランテーションが開かれ、やがて生産量が上がり、17世紀のこのころには、爆発的に供給量が増えるんですね。
砂糖が潤沢に使えるようになるにつれ、ピエスモンテ、砂糖装飾菓子も巨大化し、非常に凝ったものになっていったのではないのでしょうか。
グリム童話、ヘンゼルとグレーテルの魔女のお菓子の家は、巨大なピエスモンテなんですよね。

そして、フランス革命後もなお、宴会料理の花はピエスモンテでした。野心と向上心に燃えたアントナン・カレーム少年も、菓子職人に弟子入りし、ピエスモンテで名を成して、やがて、美食家で、ナポレオンの元で外務大臣を務めたタレーランに見込まれるんですね。フランス外務大臣の宴会料理を任されただけでなく、タレーランの後押しで、ナポレオンの宮廷宴会料理にもかかわり、名を売ります。
その後の職歴は華麗で、イギリスの摂政皇太子、ロシア皇帝アレキサンドル1世、ウィーン会議中のオーストリア宮廷などに雇われ、宴会料理の総指揮をとるんです。
そして、その晩年、最後に雇われたのは、ナポレオン戦争で成り上がったユダヤ系金融ブルジョワ、ロスチャイルド家でした。
この本は、1829年のパリ、ロスチャイルド家が催し、アントナン・カレームが取り仕切った晩餐会の描写にはじまるのですが、目玉のピエスモンテは「列柱の王妃」。マジパンをホウレンソウで緑に染め、苔まではやした、やはりマジパンの岩石庭園の上に、繊細な砂糖細工、飴細工で、写実的に、古代ギリシャ風の神殿を造りあげるんです。もちろん、この時代になってきますと、実際に食べる料理も実においしそうなんですが、しかし、それでもやはり、メインはピエスモンテ、装飾菓子だったんです。
ピエスモンテは、砂糖菓子といっても、土台は菓子ではなかったりしますし、長持ちのする、建築物のようなものである場合が多いんですね。1871年の普仏戦争のときまで、アントナン・カレームが最後に作ったピエスモンテがパリに保存されていたそうなんですが、砲撃で失われたのだとか。


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等身大のマリー・アントワネット

2006年12月27日 | 読書感想
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『マリー・アントワネット』

早川書房

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イギリスの歴史文学者、アントニア・フレイザー著の『マリー・アントワネット』です。
一月に公開される映画の原作本。


映画マリーアントワネット 公式サイト

中学生のころにシュテファン・ツヴァイクの『マリー・アントワネット』を読んで、夢中になった思い出があります。なにがよかったって、やはりあの贅沢です。なによりも、プチ・トリアノンのお庭造り。ああ、もちろん、うってかわった以降の運命の転変が、よけいつかの間の贅沢に、かけがえのない甘い蜜の味を加えてくれていたんですけどね。
夢は、消えてしまうはかない夢だから、よかったりします。
王太子妃のころ、皇女のプライドを持って、ルイ15世のお妾さんデュ・バリー夫人とやりあうあたりは、大奥を思わせてドラマチックでしたし、フェルゼンとのしのぶ恋も、大奥の古典、吉屋信子の『徳川の夫人たち 』と、通じるものがある感じでした。最後に、誇りを守って断頭台にあがるあたりもそうなのですが。
あまりにも、そのイメージが強すぎまして、他の作品を読む気がしなかったのですが、今度の映画がおもしろそうでしたし、本屋で見かけて、つい原作を買ってしまいました。

等身大のマリー・アントワネットかな、という感じです。
著者は、かなりツヴァイクを意識している感じでして、まあ古典ですから、意識する方があたりまえなのでしょうけれど、ツヴァイクのしくんだ悲劇性、物語性は、かなり薄められています。
それだけに、すらすら夢中になって読める、という感じではないのですが、皇女でも王妃でもなく、一人の女としてのマリー・アントワネットが、ごく身近に感じられます。そして、その身近さゆえに、フランス革命の野蛮な側面が、より強く迫ってきたりもするのですが。
ともかく、原作を読んだことで、映画がより楽しみになりました。
『下妻物語』の乗りで、「ロココ、それは十八世紀のおフランスを支配した、もっとも優雅で贅沢な時代」を、楽しめそうな予感がします。
ソフィア・コッポラ監督なら、「やがて哀しき」もうまく表現してくれていそうかな、と、思ったりするのですよね。



余談になりますが、マリー・アントワネットの肖像は、いやに頬が赤いんですよね。
私はまた、失礼ながら赤ら顔なのか、とずっと思っていたんです。
この本で初めて知ったことですが、当時のフランスでは、高価な紅で頬を真っ赤に塗る化粧法が、男性をも含む貴族の礼儀だったのだとか。ヨーロッパの他の宮廷には、そんな化粧法はなく、マリー・アントワネットは嫁入り先の風習に従っていただけだそうで。
この当時のフランス宮廷は、すでに欧州ファッションの中心になって久しいですし、大方の流行は他国の宮廷もまねるのですが、真っ赤な頬、というのは、ねえ。やはり、やりすぎの感が強かったんでしょうか。
ま、真っ赤な頬はともかく、当時から、フランスのファッション産業は、欧州各国の貴族、富裕層を引きつけて、経済の大きな柱だったわけですし、フランス王妃たるもの、ファッションリーダーとなってこそお国の役に立てるというもの。
フランス経済の行き詰まりは、アメリカ出兵の戦費によるところが大なのですから、稼ぎ頭の美の産業に貢献する王妃の贅沢に、文句をつけるのは馬鹿げていますよね。


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バロン・キャットと伯爵夫人

2006年12月26日 | 生糸と舞踏会・井上伯爵夫人
『食客風雲録―日本篇』

青土社

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個人掲示板の方で、築地梁山泊時代の中井桜洲について、この草森紳一著『食客風雲録―日本篇』が詳しいとお教えいただき、さっそく購入しました。たしかにとても詳しく、中井の足跡を跡づけてくれていまして、買って正解、だったんですが、一つだけ、ひっかかったことがありました。井上武子伯爵夫人の素性です。
鹿鳴館と伯爵夫人 に書きましたように、築地梁山泊は、中井桜洲と井上馨、後の井上伯爵夫人、武子さんの三角関係の舞台だったんですね。それで、なぜ私が、武子さんを幕臣の娘だと断定したかと言いますと、ひとつは、近藤富江氏の『鹿鳴館貴婦人考』 (1980年)に、はっきり、幕臣新田某の娘と書かれていまして、さらに小説ながら、神坂次郎氏の『猫男爵?バロン・キャット』が、武子夫人の父親、新田(岩松)満次郎を主人公にして、幕臣岩松氏(維新以降新田と改姓)を描いたものでして、小説ですから細かな筋立てはフィクションでしょうけれども、基本設定が嘘だとは思えなかったからなんです。
で、草森氏の『食客風雲録』にも、中井の結婚について、大隈重信の回想が引用されていました。
「ところでその頃、何の気まぐれでか、新田義貞か誰かの子孫だと云う、新田満次郎と云う名門の旗本の娘さんを妻に貰って、あまり間のない時であった」
あー、ちゃんと大隈も武子さんの素性を語っているじゃないの、と、思うまもなく、です。草森氏はこう続けているのです。
「中井弘三(桜洲)は、一時、同じ官僚の金井之恭の家で居候していた。彼は群馬の豪農の出身で、書家として鳴らした。新田義貞の子孫だという。維新前、金井は新田満次郎を首領に推し、赤城山で挙兵している。大隈の言う新田満次郎の名が、ここで出てくる。(中略)ただし、大隈の言う新田満次郎は、旗本でなく、阿波出身の勤王家である。のちに有栖川宮の支援のもとに神道の宗派をおこし、その官長となる」
ええっ?! 阿波出身の勤王家??? 神道の宗派をおこし、その官長となる???
新田満次郎は、岩松満次郎俊純、バロン・キャットじゃなかったの???
えーと、まだ読んではいませんが、神坂氏の小説だけではなく、『猫絵の殿様?領主のフォークロア』って本も出ていますし、幕臣新田岩松家の猫絵は、群馬大学図書館にコレクションがあるようですし。新田岩松家旧蔵粉本コレクション
なにがなにやらわからなくなりまして、「維新前、金井は新田満次郎を首領に推し、赤城山で挙兵している」を手がかりに検索をかけましたところ、どうやらこれは、慷慨組の赤城山挙兵(赤報隊哀歌 )らしいとわかり、あわてて『相楽総三とその同志 上 』を本棚からひっぱり出してみたのですが、詳細はわかりません。
なぜに新田満次郎が阿波出身の勤王家になっているんでしょう???
草森氏がなにをもとにおっしゃっていることなのか、お心当たりのある方、どうぞご教授ください。

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おじさんはなぜ時代小説が好きか

2006年12月24日 | 読書感想
『おじさんはなぜ時代小説が好きか』

岩波書店

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「おじさん」ではなく、うちの母は時代小説が好きです。
買ってくる文庫本は、ほとんどが時代小説。昔はけっしてそうではなく、結婚前からの蔵書は世界文学全集的なものでしたし、私がまだ学生だったころには、時代物といっても、永井路子氏の古代ものだとか、歴史もの、といっていいジャンルしか読んでいませんでした。
ところが現在、母が読んでいる時代小説は江戸時代ものの完全なフィクションが主で、藤沢周平が一番のお気に入りです。
私は、現在母が好んで読んでいるような、いわゆる時代小説が、とりわけ好きというわけではないのですが、NHKの再放送で『蝉しぐれ』を見て、これはなかなかいいわ、と、母の本棚から原作をひっぱり出して読みましたところが、たしかに、しっくりとくる、いい小説でした。
年をとっての母の時代小説回帰、といいましても、母は若い頃にたいして時代小説を読んでいたわけではないので、回帰といっていいものかどうか、なのですが、ともかく、「なぜ?」と思っていたところへ、この本『おじさんはなぜ時代小説が好きか』が出まして、著者が関川夏央ですし、手にとってみたような次第です。

やはり、といいますか、当然のように藤沢周平は取り上げられていますし、それも『蝉しぐれ』が中心となっています。
関川氏いわく、「時代小説『蝉しぐれ』はきわめて洗練されたおとぎ話だともいえます。友情と名誉、恥、約束、命のやりとり、忍ぶ恋、そういうものは、命のやりとりを除いて現実に私たちの生活の中にあります。たしかにおとぎ話ですけれども、根も葉もあるおとぎ話です」
『蝉しぐれ』の舞台は、江戸の文化、文政期なのですが、この時代は、関川氏によれば、江戸の文化が爛熟した最盛期で、現代日本の原型がすでに成り立っていて、なおかつまだ幕末の動乱ははじまっておらず、現代と同じように平和な日々が続き、日本の原風景を描くにふさわしい時期なのだ、ということなのですね。
時代小説、といっても、現代の作家が描くわけですから、基本的には現代の物語なのですが、現代を舞台にすれば、生々しすぎたり、そらぞらしくなったりしかねない物語が、江戸を舞台にすることで、根も葉もある大人のおとぎ話になるのだというのです。

山本周五郎、吉川英治、司馬遼太郎、藤沢周平、山田風太郎という、すでに故人となった大家を一章ごとに取り上げ、七章は趣向を変え「侠客」の成り立ちを論じ、最後の八章で、「おじさん」はなぜ時代劇が好きか、という本質的な問題に立ち返ってしめくくられています。
うならされたのは、幕末維新における明治新政府の姿勢を評して、「ひとくちにいって、完成し成熟していた日本型近代を、やや野蛮な西洋型近代に強引に転換するというものでした」と、断言されていたことです。
実際、文化、文政期に至った江戸は、「日本型近代」といってよく、やはり、日本人のおとぎ話の舞台であるにふさわしい「極楽」だったのだと思えるのです。

最後に、関川氏の関川氏たるゆえんは、第三章の司馬遼太郎の項目と最終章で展開されている、「日本は大陸アジアではない」という視点でしょうか。
司馬遼太郎氏の短編に、『故郷忘じがたく候』という、薩摩藩の朝鮮陶工を題材にしたものがあります。
秀吉の朝鮮出兵に際して日本へつれてこられ、薩摩郷士として根をおろしながら、半島の祖国に望郷の念を抱き続ける朝鮮陶工のお話なのですが、荒川徹氏が、『故郷忘じたく候』(代表作時代小説〈平成15年度〉収録)という、朝鮮半島を故郷とは思いたくなかった人々の物語を書いておられるとは、はじめて知りました。
「たんに司馬遼太郎作品の倒立ということではなく、秀吉出兵と俘囚の歴史問題を、戦後的歴史観で処理しようとする日韓両国の通念に対する異議申し立てでもあります」と関川氏。
なるほど。『故郷忘じたく候』、さっそく購入して感慨深く読みました。
しかし、えらく値段が上がっていますねえ。
とりあえず、この問題に詳しいコラムが毎日新聞のサイトにありましたので、リンクしておきます。 第55回 異説「故郷忘じがたく候」


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江戸は極楽である

2006年12月23日 | フリーメーソン・理神論と幕末
江戸は夢か

筑摩書房

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久しぶりに、突然書きます。
個人掲示板の方でこの本を思い出させていただいて、けっこうこれは、明治維新の本質にかかわる問題かな、と。

水谷三公氏の『江戸は夢か』は、手元にあるちくまライブラリー版が、1992年の発行になってまして、現在の江戸時代再評価のはしりのような書であったかと思うのです。
「江戸は極楽である、しかし失われる運命にあった極楽である」という福沢諭吉の言葉が、はしがきの冒頭に引かれていまして、なにやらここいらあたり、なぜいま江戸ブームなのか、という理由が見えてくるのではないか、という気がしないでもないんです。
つまり、福沢諭吉の著述を水谷氏が現代的に言い直した表現では、「江戸時代は経済的な平等政策が行き渡り、一種社会主義的な極楽社会だった。鎖国を守り、自分たちだけでやっていられるなら、この極楽をずっと楽しんでいられたかもしれない。しかし、対外的解放体制に移行した今となっては、国際的競争力向上のため、国内でも弱肉強食と不平等配分をさけることはできない」となり、これは、「江戸時代」を「太平洋戦争中にはじまり、戦後確立して最近まで存続した社会主義的な日本の経済体制」に置き換えると、昨今の世界経済グローバル化にあわせた結果の国内格差拡大懸念、という問題と、重なって見えてくるからなのです。

この本のお話は、明治五年、アメリカはワシントンでくりひろげられた、まだ若い薩摩人二人の大喧嘩にはじまります。
アメリカ駐在公使役だった26歳の森有礼と、大蔵省次官級役人で28歳の吉田清成です。
どちらも、幕末の薩摩藩が、ひそかにイギリスに送り出した留学生で、わけてもこの二人は、藩の仕送りが途絶えた後もアメリカに渡って勉強を重ね、維新後に新政府に呼び返された俊英です。
ただ、この二人、同じ経験を重ねながら、日本人が西洋近代の受け入れをどうなすべきかについて、根本的な見解の相違を持っていたようなのです。

幕末、日本へ来た外交官に、ローレンス・オリファントというイギリス人がいました。水戸攘夷藩士によるイギリス公使館襲撃で刀傷を負い、帰国するのですが、日本文化に好感を持ち続け、留学してきた薩摩藩士の面倒もみるんですね。
オリファントは、スコットランドの名門の出なのですが、スウェーデンボルグのキリスト教哲学に傾倒していました。スウェーデンボルグは、18世紀スウェーデンの科学者にして鉱山技師、政治家にして神学者、という人物です。
スウェーデンボルグの神学が革新的だったのは、キリスト教文明圏を特別なものと考えるのではなく、イスラム教も仏教も包括して、根源的な生命、普遍的な神の概念を提示したことなんじゃないんでしょうか。
で、スウェーデンボルグ信奉を通じてのオリファントの友人に、レーク・ハリスというアメリカ人の宗教家がおりました。
ハリスは、スウェデンボルグ神学から発展して、いわば原始共産制とでもいった宗教運動をくりひろげていたのですが、「共産制」といっても、けっして個人の能力を否定するものではないですし、功利的な経済活動を否定するものでもないんです。
まあ、そうですね、富の再配分は個人の宗教心と道徳観にゆだね、有志が個人の良心にしたがって新しい社会をめざす、とでもいったところなのじゃないのでしょうか。いえ、まったくもって私、よくわかっていないのですが。
ま、ともかくオリファントは、薩摩藩から帰国命令を受け、仕送りを断たれてなお欧米での勉学に心を残していた薩摩藩留学生たちに、ハリスを紹介するんですね。
ハリスの教団に入ることで、アメリカでの生活が保障され、勉学を重ねる道もある、ということで、薩摩藩留学生のうち6人がアメリカに渡ります。
その中に、森有礼と吉田清成はいたのですが、吉田清成はハリスの教団が肌にあわず、すぐに飛び出して、ラトガース大学で政治学を学びました。一方の森有礼は、ハリスに共鳴して教団に残り、ハリスの勧めで、維新直後の日本に帰国したんですね。

森有礼と吉田清成と、どちらが深く西洋近代を受け入れていたかといえば、やはり森有礼なのじゃないんでしょうか。なにしろ帰国後の森有礼は、文明開化のためにはキリスト教を受け入れ(信仰の自由を認めろ、というより、キリスト教を国教化しろ、というのに近いんです)、英語を国語にしろ、というようなことまで言っていたりしたこともあったのですから。
まあ、今はキリスト教は流行りませんが、「英語を国語にしろ」に近いような言説は、昨今のグローバル化危機感からか、現在もよく聞きますね。

ともかく、その森有礼と吉田清成が、アメリカで再会してなぜ大喧嘩をしたか。
実は大蔵省の清成は、士族の秩禄奉還を一手に任されていまして、奉還者を救済する資金として、外債募集を計画し、実行するためにアメリカに渡ったんですね。
前年の明治4年、廃藩置県が成り、それにともなって、各藩が抱えた士族の処遇が、問題となっていたわけなんです。
吉田清成の見解では、「士族の禄とは地方公務員の俸給のようなもので、廃藩置県で士族は失業したのであるから、退職金と失業手当を渡して救済する必用がある」というものでした。
ところが有礼は、そうは考えませんでした。「禄とは給金ではなく、農地を基本とする私有財産だ。私有財産を一方的に政府が奪うということは、個人の権利を侵害する古めかしい東洋流の横暴だ」というのですね。
これに対して、従来の歴史家は、「進歩的といっても森有礼は鹿児島士族なので、封建的な鹿児島の階級的な立場にとらわれていた」とか、あるいはもっと好意的なものでも、「鹿児島は商品経済が発達せず遅れていて、城下士も郷士のように農地を所有している形態になっていたので、鹿児島士族の有礼は私有財産と見た」というような見解だったわけなのですが、喧嘩相手の清成も鹿児島士族なのですから、どうも説得力に欠けていたんですね。
これを、水谷氏は、「有礼が西洋的な所有と権利の観念を全面的に受け入れていたから、こういう見解になった」と、おっしゃるのです。
つまり、ヨーロッパの貴族的土地所有は、封建制下の「封」に由来し、簡単に言ってしまえば、鎌倉武士が幕府から認められたと同じように、王から占有権を認められた貴族の封土が、やがて法に守られた私有財産となり、その法整備が進む過程で、貴族ではない一般人の財産権も認められるようになってきたんですね。
そういうヨーロッパの歴史を踏まえると、財産権は個人の権利であり、貴族だからといってその例外ではなく、それを侵害するのは政府の暴挙、となるわけです。



上は森有礼、下のリンクは北大図書館所蔵写真の吉田清成です。なんとも濃ゆい大喧嘩でしょう?

吉田清成写真

このときアメリカには、岩倉使節団が滞在していました。
その一員だった木戸孝允も、留守政府が企てた士族の家禄処分の話を、苦々しく思ったようですが、それはなにも、「家禄は私有財産なので奪うのは不当」と思ったからではなく、「留守政府の思惑はあまりにも性急すぎて、士族を追い詰めることになってしまう」と思ったからでして、基本的には、清成と同じ理解です。
つまり、日本の士族は公務員として俸給をもらっていたのであって、西洋貴族のように、土地を領有していたわけではなかったのですね。
だからこそ、廃藩置県もあっけないほど簡単にできてしまったわけでして、幕末の日本を、「幕府が倒れた後はドイツのような諸侯連合国になるだろう」と見ていたイギリス外交官の見方も、大きくはずれていたわけなのです。

ではなぜ、江戸の日本は西洋の封建制と大きくちがっていたのか。
この本は、楽しく、わかりやすく、それを解説してくれています。


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