ニョニョのひとりごと

バイリンガルで詩とコラムを綴っています

連載 「君たちへのラブレター9」 (ふるさとへの道)

2020-07-02 11:17:34 | 詩・コラム
連載 君たちへのラブレター9 (ふるさとへの道)



                     
「朝鮮学校無償化除外反対」を広範な日本の人々に訴えるため、日本語で「ふるさと」という詩を書いた日から一年が経った2011年7月、私は生まれ故郷、青森県平川市碇ヶ関(いかりがせき)を生まれて初めて訪ねたの。




 72年前、身重であった私のオモニ(君たちのチュンジョ外ハルモニ)は、北海道にいるというアボジを探すため、6歳の姉と3歳の兄の手を引いて京都から列車に乗り、何回も乗り継いだんだよ。

途中、列車の中で産気づいてしまったオモニが、しかたなく碇ヶ関で降りて、あてもなくさまよっていたとき、親切に声をかけてくださった方がいたの。その方が営んでいた木賃宿にたどり着いたオモニは産婆の到着を待てずに赤ちゃんを産み落としたんだけど、その赤ちゃんがまさしく私だったんだよ。

6ヵ月後に北海道に渡り,生きていくためやむなくドブロクを作ったことが「罪」になり刑に服していたアボジを待つ間、馬小屋で暮らした日々、アボジの出所後、函館に移り零下20度の浜で私をオンブしたままイカ裂きをしながら私たちを育ててくれたオモニ。

学校に通うことになった姉が、ひどいいじめに耐えかねて登校を拒んだ為、朝鮮学校を探して東京の池袋に引っ越した事、空襲で片足になったハラボジが京都にいるという便りを聞き一年足らずで京都に戻ったこと、坂の下の半洞窟の家で暮らしながら、祖父の引くリヤカーに乗り<ボロおまへんかー>と京都市内を回りながら生活した日々…

 5歳になるまで出生届も出せず、自分の生まれた場所の住所も知らないまま、青森から北海道、北海道から東京、東京から京都、京都から大阪へと転々と引越しを重ねてきた私たち家族にとって故郷とは一体なんだろうかといつも思っていた。

 2011年3月11日、想像を絶する東日本大震災が起き、津波のため故郷を根こそぎ流されてしまった人々の痛ましい姿をニュースで見ながら、私は何かにとりつかれたように思い続けたの。(行かねば、行かねば、今、生まれ故郷を探さねば必ず後悔する。)

  私はインターネットで見つけた碇ヶ関総合支所に「私の生まれ故郷を探してください。碇ヶ関という村の自炊旅館だったそうです。」という手紙と、自伝史のような詩「ふるさと」をFAXで送り協力を求めたわ。

  交信を始めてから一ヶ月が過ぎた頃、碇ヶ関支所から「お探しの木賃宿跡がついに見つかりました。隣に住んでいた方も見つかりました。碇ケ関に着いたらすぐ支所に来てください」という夢のようなメールが送られてきたの。


 7月9日、東北朝鮮初中級学校での慰問コンサートを無事終えた次の日の朝、私はハルべと共に高速バスで弘前まで行き、奥羽線に乗り換え「碇が関」に到着した後すぐに総合支所を訪ねたんだ。










日曜日だと言うのに支所長さんと、交信を続けていた黒滝さんが迎えてくださったの。

 碇ヶ関関連の書物や地図、明日の予定表、おまけに青森リンゴやジュースばかりか、生まれ故郷での夜を楽しんでくださいと70匹もの平家蛍までガラス瓶のホテルに入れて持たせてくださった。あまりにもの手厚いもてなしに言葉が出なかったわ。

翌朝、支所長さんと一緒に木賃宿の跡地に向かったの。小高い山のふもとの閑静な場所に跡地はあったわ。跡地の入り口には江戸時代に山から引っ張ってきたという白沢の水場が残っていたの。手を伸ばし沢の水に触れて見た。




  冷たい!手のひらで水をすくい一口含んでみると、なんともいえない感慨に胸が震え優しかったオモニの笑顔が浮かんだんだ。

 支所長さんと一緒に木賃宿があった頃から隣に住んでいたという花岡チエさんにお会いしたわ。花岡さんは60数年前のことを一つ一つ思い起こしながら話してくださった。



 花岡さんのおかげで木賃宿の御主人の名前が外崎さんだったことも、この木賃宿が旅館代の払えない貧しい人々をいつでも迎え入れてくれた有難い自炊旅館であったことも知ることが出来たの。



 終戦間もないあの時代に、一目見れば朝鮮人であることが分かっただろうに見ず知らずのよそ者を暖かく迎えてくださった外崎さん。私の命の恩人、感謝してもしきれない。貴重な証言をしてくださった花岡さんの手を取り心から感謝したわ。

 その後、支所長さんの案内で碇ヶ関の名所をひとつひとつ回りながら私は思ったの。碇ヶ関の人たちは何故こんなにも親身になってくれたんだろう?「探せませんでした。」の一言で片付けることもできただろうに、詩「ふるさと」を読んで、同じ郷里を持つ者として他人事とは思えなかったと一緒に泣いてくださった黒滝さん。自分の事のように心配してくださった総合支所の皆さん!

誰しも故郷を持つけど私たちのように、異国で生まれ育った者にとって故郷とは一体どんな意味を持つのだろう。私たちの国が植民地にならなかったならハンメが日本で生まれるということはありえなかったし、貧困と差別がなかったなら根無し草のように流されるままに生きることもなかったはずだとおもったわ。

 ハンメは自分の生まれ故郷を探していたけど決してそれは場所ではなく、私のルーツである父と母の人生そのものを知りたかったからかも知れない。二度と奪われてはならない祖国と、国を奪われた民がたどらねばならなかった辛い人生を、後世に伝えなければならないという使命感があったからかも知れない。



 ユニ、ユナ、リファ、ユファ、ヒジョン、スファ 私の愛しい孫たち!

 驚いてはいけないよ。ハンメはその年、生まれ故郷を探しただけではなく、両親が生まれ育ち先祖の骨が埋まっている故郷―済州島にまで行って来たんだよ。

 2011年5月の東北支援奈良朗読会に参席された写真家の安海龍さんから、「朝鮮学校無償化除外反対アンソロジー」を韓国で是非翻訳出版したいという申し出があったの。文芸同大阪文学部の皆さんはじめ全国から寄稿してくださった作者自身にもお願いして日本語をハングルに訳したわ、それを安さんが韓国に持って行き翻訳家の姜さんが新たに修正され「학교 가는 언덕길」(ハッキョへの坂道)として11月に韓国で出版されたの。

 その時ちょうど俳優の権海孝さんもウリハッキョの生徒たちが描いた絵にエッセイを付けて「私の心の中の朝鮮学校」というエッセイ集を出版されたので、その二冊の本の出版を祝う記念の集いが催されることになったの。夢みたいでしょう?

 それで「2011年11月27日に2冊の本の合同出版記念朗読会をソウルで行うのでぜひ来てください」と河津聖恵さんと私に正式に招待状が来たのよ。びっくりしたけどついにこの日が来たかという感慨で胸がいっぱいになり、なんの迷いもなくソウルに行く決心をしたわ。

 河津さんといろいろ相談しながら行く準備をして11月27日早朝、ついに関西空港を出発したの。
 前にも話したけど、2003年6月に行われた第21回韓国演劇祭に正式招待され公州とソウルには行ったけど、故郷の済州島にはまだ一度も行ったことが無かったので、朗読会が終われば次の日28日には済州島に行き、両親の墓参りをし、故郷に一人暮らす長兄にも会おうと思い、済州島に行く準備もして家を出たの。




 ソウルでの朗読会には日本からもたくさんの方々が来てくださったの。広島の河野美代子さんに宝塚の田中ひろみさんらが応援に駆けつけてくださったし、アンソロジーにご自身の作品を掲載してくださっていた愛沢革さんも朗読で出演してくださったの。また次兄夫婦と姉も応援に駆けつけてくれたの。

 私は「ふるさと」をウリマルで読み、河津さんは自作詩「ハッキョへの坂」の1連だけをウリマルで読み、後は日本語で読まれたわ。そして最後にホ・ナムギ先生が創作された「子どもたちよ これが俺たちの学校だ」を二人でバイリンガルで交互に朗読したの。本当に暖かい拍手を頂いたなぁ。あの日の感動は生涯忘れることができないと思うよ、




 朗読会と懇親会も終わり、次の朝、河津さんは日本に帰り、私は一人で済州島に向かったの。済州空港で次兄夫婦、姉と待ち合わせていた私は、高鳴る胸を押さえながらついに故郷―済州島に足を踏み入れたの。





 故郷の家は古かったけど鍵の付いていないゆったりした家だった。庭に入った途端,密柑の甘い香りが漂い倉庫にぎっしり積まれた密柑を手に取り頂いたわ。なんて甘いんだろう、あんなにおいしいミカンを食べたのは生まれて初めてだった。これが故郷の味なんだと思ったら勝手に涙が出たわ。

 私たちは、親戚の人の車に乗って西帰浦にある共同墓地に埋葬されている両親の墓を訪ねたの。アボジが亡くなってちょうど30年が経っていたわ。今頃来たかとアボジが苦笑いしているような気がしたけど、心を込めてお墓の前にひれ伏し、親不孝を許してと心でお願いしたの。でもアボジの娘として恥ずかしくない人生を送って来たことをアボジはきっと見ていてくれたような気がしたわ。





 60年以上も離れ離れに暮らしていた兄弟が仲良く両親の墓の前に座り、両親の昔話に時を忘れたとき、ハンメは思ったの。どれだけ多くの離散家族がいまだに会うことさえ許されず、悲しみを耐えながら暮らしているのかと…早く祖国が一つにならねば!自分の両親の墓参りさえ30年もできなかったこの怒りを誰にぶつければよいのかと思った。

 ウリハッキョを守るため書いた拙い一編の詩「ふるさと」がもたらした生まれ故郷との再会。そして夢にまで見た両親の眠る故郷―済州島への帰郷!私はこの日の感激を胸に生まれ故郷碇ケ関の方々のように、国籍や民族の違いを越え、1人の人間として隣人を愛し朝日友好の架け橋になろうと心の底から思ったの。



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