私的CD評
オリジナル楽器によるルネサンス、バロックから古典派、ロマン派の作品のCDを紹介。国内外、新旧を問わず、独自の判断による。
 



J. S. Bach: Matthäuspassion BWV 244
Deutsche Harmonia mundi RD77848
Christoph Prégardien (Evangelista), Max van Egmont (Jesus), Christian Fliegner (Soprano, Chor I), René Jacobs (Alto, Chor I), Marcus Schäfer (Tenor, Chor I), Klaus Mertens (Bass, Chor I), Maximilian Kiener (Soprano, Chor II), Davis Cordier (Alto, Chor II), John Elwes (Tenor, Chor II), Peter Lika (Bass, Chor II), Tölzer Knabenchor, La Petitte Bande, Gustav Leonhardt(総指揮)

バッハの「マタイ受難曲(BWV 244)」が初演されたのは、1727年という説と1729年という説がある。永らく1729年が初演の年と考えられてきたが、ジョシュア・リフキンが1975年に発表した論文で、1727年の可能性が高いという説を唱えて以来、1727年初演説が有力となっている。しかし、依然として1729年が初演の年という考えも根強い。バッハはその後何度も手を加え、1736年3月30日に演奏するに際して、新たに総譜とパート譜を作製した。おそらく初演の際の楽譜が、度重なる修正によって判読が難しくなったために作製したものと考えられる。この際に作製された総譜は、非常に入念に書き込まれており、冒頭の楽章の中のコラールの旋律や聖書の言葉を引用している箇所、福音書記者によるレシタティーヴォやイエスの言葉は、赤いインクで記入されている(この自筆総譜のファクシミリ版は、葛の葉さんのウェブサイト「バッハの教会カンタータを聞く」の「カンタータの楽譜」のページから、2つのPDFファイルとして、閲覧、ダウンロードが可能である)。ところがこの自筆総譜は、まだバッハの生存中に損傷を受けた。現存する自筆譜を見ると、表紙とそれに続く譜面12葉(24ページ)の、綴じ目から見て外側が途中で切り取られ、新しい紙を補って、楽譜を記入してある。補った部分の幅は最初の葉で約10.5 cm、12葉目で約5 cmである。5線は最初のページは手書きで、1葉目の裏からは5線ペンを用いて引かれている。新たに書き込んだバッハの筆跡は、当初のものよりいくらか年月を経てからのものであることが分かっている。この損傷は、手稿が部分的に水に浸かったか、譜面上でインク壺を倒したかによるものであろう。


写真は1736年作製の自筆総譜の10葉目表面の上半分。第1楽章が終わり、福音書記者のレシタティーヴォが始まる。右の色の濃い所が、後から補った部分。福音書記者の歌詞が赤いインクで記入されているのが分かる。(Johann Sebastian Bach: PASSIO DOMINI NOSTRI J. C. SECUNDUM EVANGELISTA MATTHAEUM, Faksimile-Reihe Bachscher Werke und Schriftstücke, herausgegeben von Bach-Archiv Leipzig, Band 7, VEB Deutscher Verlag für Musik Leipzig より)

 「マタイ受難曲」は、2つの合奏群(独唱、合唱、オーケストラ)の編成になっており、さらに冒頭の合唱には、別のコラールの旋律を歌うパートがある。このような編成での演奏は、ライプツィヒでは、オルガンと合唱隊、オーケストラが収容できるバルコニーが一つしかない聖ニコライ教会では不可能で、2つの合奏群を対比して配置できる聖トーマス教会で演奏されていた。聖トーマス教会には、会堂の側面に2つめのオルガンが設置されたバルコニーがあり、ツァハリアス・ヒルデブラント製作のオルガンは、1727年には演奏可能であったようだ。このオルガンとバルコニーは、上に述べたコラール旋律を歌うに打ってつけの設備であった。教会歴の主要な日の礼拝におけるカンタータ等の演奏は、聖ニコライ教会と聖トーマス教会で交互に演奏されていた。聖金曜日の受難曲の演奏に関しては、1727年、1729年共に聖トーマス教会で演奏された。1729年にも「マタイ受難曲」が演奏され、その際の歌詞を印刷して会衆に配布したものが残っていたようで、それをもとに、ベルリンのジング・アカデミーの指揮者カール・フリートリヒ・ツェルターが1729年に演奏されたことを、メンデルスゾーンが1829年に「マタイ受難曲」を復活演奏した際に書いたことが1729年初演説の発端となっている。
 この「マタイ受難曲」の成立と関連しているのは、1728年11月19日に、アンハルト=ケーテン候レオポルトが死去し、その埋葬式と追悼説教が1729年3月23日と翌24日にあって、その追悼説教の際に、バッハが「葬送音楽(BWV 244a)」を演奏した事である。この「葬送音楽」には、1727年10月17日にライプツィヒで演奏された、ザクセン選定候妃兼ポーランド王妃、クリスティアーネ・エバーハルディーネのための「哀悼頌歌(BWV 198)」から2曲、「マタイ受難曲」から10曲が転用されている。バッハが曲を転用する際、世俗曲から宗教曲への転用が常で、その逆は他に例がない。そのため、葬送音楽とはいえ、教会での礼拝とは関係のない作品に、宗教作品である受難曲からの転用はあり得ないという考えが、「マタイ受難曲」の1729年初演説を補強していた面もある。1729年の聖金曜日は4月15日であったが、その準備が必要な時に、ケーテンで「葬送音楽」を演奏するため、楽曲を準備し練習をする事が重なると、極めて多忙であっただろうと思われる。しかし「マタイ受難曲」がすでに1727年に初演されていれば、同じく1727年に演奏された「哀悼頌歌」とともに、「葬送音楽」へ転用することは、レオポルト候の死から4ヶ月ほどの間に、しかも降誕祭から受難、復活祭に至る時期に有っては、好都合なことであったと思われる。
 しかし、「マタイ受難曲」は、一気に無から作曲されたのではなかったようだ。何しろレシタティーヴォを含めると、数え方にもよるが68曲に及ぶ大曲を作曲するに当たっては、ヴァイマール時代に作曲されたと思われる受難曲など、いくつもの曲を転用したようだ。このことは、決して作品の価値を貶めるものではなく、当時としては普通に行われていたことである。1724年に初演された「ヨハネ受難曲(BWV 245)」の場合も、いくつかの楽章がヴァイマール時代に作曲されたものの転用であることが分かっている。そしてこの「ヨハネ受難曲」も何度も手を加えられ、1725年に演奏された際に含まれていたコラール「おお人よ、その罪の大きさに泣け」は、「マタイ受難曲」の1736年の稿に、第1部の最後の楽章(第35楽章)として転用されている。
 今日演奏される「マタイ受難曲」は、新バッハ全集の第II部門第5巻と同様、1736年に作製された新しい総譜、パート譜に基づくものである。1727年の初演の際の総譜もパート譜も失われてしまったので、どのような形であったか分からないと考えられてきたが、バッハの弟子で、娘婿であったヨハン・クリストフ・アルトニコルが作製したと考えられていた総譜の筆写譜が、最近アルトニコルの弟子であったことのあるヨハン・クリストフ・ファールラウスによるものであることが分かり、その成立事情は依然不明であるが、失われてしまった最初の自筆総譜をもとにした写譜である可能性が高いと考えられるようになり、一旦アルトニコルの筆者譜の写真版として新バッハ全集の第II部門第5a巻として出版されていたものが、2004年に第5a巻として楽譜化して出版された。これによって、「マタイ受難曲」の成立とその後の変遷が、従来よりは明らかになってきた。
 ここで紹介するCDは、グスタフ・レオンハルトを総指揮者とする、ラ・プティット・バンド、テルツ少年合唱団等によるオリジナル編成の演奏によって1989年に録音されたものである。同じくオリジナル編成の録音といえば、1971年にテルデックから発売されたハルノンクール指揮の3枚組のLPがあった。この録音もCD化されて、ワーナー・クラシックスのカタログに載っているので、入手可能である(Teldec 2292-42509-2)。バッハが実際に演奏した際の編成は、特別な礼拝の際には、より多くの人員を動員出来たとは思えるが、それにしても限られたものであったことが想像出来る。レオンハルトの演奏も、ハルノンクールによる演奏も、それに比べると大きな編成ではあるが、今日ますます一般化する女性の独唱者、混声合唱団を加えた編成によるバッハの宗教曲の演奏、録音とは一線を画す、明らかにバッハの演奏に近い響きで、「マタイ受難曲」を聴くことが出来るCDであることに間違いはない。

発売元:Deutsche Harmonia mundi

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コメント
 
 
 
聖金曜日を前にして、バッハのマタイ受難曲 (渡邉奎吾)
2010-09-12 16:41:06
たまたま最近ケーテン音楽祭でBWV 244aを聴いてきた関係で、このサイトの記事を読ませていただきました。大変良くまとめられているように思います。参考になりました。

ところで一点、教会歴の主要な日の礼拝におけるカンタータ等の演奏が、”聖マルコ教会と聖トーマス教会で交互に・・・”という部分の、”聖マルコ教会”は、”聖ニコライ教会”ではないでしょうか。
もちろん誰にでもある、単なる誤記をされているものと思っております。
 
 
 
聖ニコライ教会です (ogawa_j)
2010-09-13 10:30:15
渡邉奎吾さん、ご指摘ありがとうございます。うっかり間違いました。
 BWV 244aは、レオポルト候追悼のカンタータですね。「マタイ受難曲」からの転用が多いのですが、どちらが先に作曲されたのかということが議論になっていました。通常バッハは世俗曲から宗教曲へ転用することが多いので、これを不文律と考える立場の人は、この追悼カンタータの方が先に作曲されたと考えていましたが、現在「マタイ受難曲」は、すでに1727年に初演されていたという説が支配的で、そうするとこの原則は当てはまらなくなります。しかし追悼カンタータが、世俗作品と言えるかどうか問題ですが・・・。
 ご指摘の箇所は、早速修正しておきました。
 
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