私的CD評
オリジナル楽器によるルネサンス、バロックから古典派、ロマン派の作品のCDを紹介。国内外、新旧を問わず、独自の判断による。
 



Johann Sebastian Bach: Drei Sonaten und drei Partiten für Violine solo, BWV 1001-1006
Deutsche Harmonia mundi 05472 77527 2
演奏:Sigiswald Kuijken (Violine)

バッハの無伴奏ヴァイオリンのためのソナタとパルティータ(BWV 1001 - 1006)には1冊の自筆譜が存在する。これは、バッハの自筆譜の中でも最も美しいものの一つである。その表紙には”Sei Solo. a Violino senza Baßo accompagnato. Libro Primo. da Joh: Seb: Bach. ao. 1720”と自筆で記されていて、この自筆譜が1720年に作製されたことを示している。バッハはこの作品を別の、おそらくは製本をしていないバラバラの用紙上に書き込み、様々な修正をし、それを最終的に1冊の楽譜として浄書したものと思われる。そのことは、筆写譜の中に、この自筆譜からではなく、製本されていない手本から筆写したと思われる手稿が複数存在するからである。その内の一つには、バッハが1717年より前に使用していた記譜法が見られることから、この曲がヴァイマール時代(1708年から1717年)にすでに作曲されていた可能性を指摘する研究者もいる。


自筆譜の冒頭部、ソナタ第1番の第1楽章(自筆譜のファクシミリ版:“Sei Solo. a Violino senza Baßo accompagnato. Libro Primo. da Joh: Seb: Bach. ao. 1720”, Bärenreiter-Verlag Kassel,Basel, Paris, London, New York, 3. Auflage, 1964 より)

 また、この作品はバッハがヴァイマール時代に知り合ったヴァイオリニスト、後にドレースデン宮廷楽団のコンツェルトマイスターになった、ヨハン・ゲオルク・ピゼンデル(Johann Georg Pisendel, 1687 - 1755)を想定して作曲されたという考えもあるが、バッハが特定の音楽家のために曲を書いたと言うことを証明するものは何もない(いわゆる「ゴールトベルク変奏曲〈クラフィーア練習曲第4部 BWV 988〉がヨハン・ゴットリープ・ゴールトベルク(Johann Gottlieb Goldberg)を想定して作曲され、その雇い主であるヘルマン・カール・フォン・カイザーリンク伯爵に献呈されたという、ヨハン・ニコラウス・フォルケルに由来する挿話は、伯爵への献呈の辞を欠いているなど、疑わしい点がある)。
 バッハは特定の奏者のためというよりも、むしろそれぞれの楽器の能力を十分に生かすことを目的として作曲したと考える方が正しいように思われる。一例を挙げれば、ヴァイオリンだけではなく、チェロやフルートのための作品の場合も、その多くは楽器の音域いっぱいを使い切っている事などである。
 バロック時代には、無伴奏の旋律楽器のための作品は決してまれではなかった。しかしこのバッハの作品は、それらのすべてを凌駕して、現代までを含めても、無伴奏ヴァイオリンのための作品の頂点にあるといって良い。フーガやシャコンヌのような対位法、パルティータに含まれる舞曲の韻律の表現など、奏者には技巧を誇示する事を超えた多様な表現力が要求される。
 この作品の重音奏法に関して、バロック時代の弓は、張力を調整して3弦あるいは4弦を同時に弾くことが出来たのではないかという説を生み出したことは、以前に「自在弓」による演奏のCDの稿で言及したが、その際述べたように、3声、4声を同時に弾かなくても、それを聞き取ることは可能なので、この説は根拠のないものであると言えるだろう。
 また、この作品に関して、その中に様々な象徴的な記号が埋め込まれているという説を立てる研究者がおり、中でもパルティータ第2番のシャコンヌにいくつものコラールの旋律が織り込まれている事を論じた、ヘルガ・テーネの論文が、ケーテンの歴史博物館が発行する「ケーテンのバッハ」第6刊に掲載されている*。この刊にはCDも添付されていて、クリストフ・ポッペンのヴァイオリン、ドレースデンの十字架合唱団員のボーイソプラノとアルトによって、実際にそのコラールを加えたシャコンヌの演奏を収めている。これに続いて次の第7巻では、ソナタ第1番の各楽章にもコラールの旋律が織り込まれているという論文が掲載され、これにも上記と同じ奏者による演奏を収めたCDが添付されている**。バッハの作品に関しては、以前からその中に様々な象徴や描写が織り込まれているという説を唱える人が後を絶たない。このテーネの説は、一見突拍子もないことのように思えるが、論文には全曲の譜例が添えられ、実際の演奏のCDが添付されていて、著者の強い意志が感じられる。しかし、これらの論文を読み、添付のCDを聞いたうえで筆者は、その説に賛同するというわけには行かないと感じている。これだけ譜例や演奏で実証されているように見えても、筆者には、どうしても都合の良い音を拾い出して、こじつけているのではないかという疑念を消し去ることは出来ない(なお、このことに関しては、ブログ「一日一バッハ」の2007年6月13日のコメント欄で、aeternitasさんと触れている)。
 ここで紹介するCDでヴァイオリンを演奏しているジギスヴァルト・クイケンは、その兄弟のヴィーラントやバルトルトとともに、オリジナル楽器によるバロック音楽の演奏を先導してきた音楽家達の一人である。1944年にベルギーのディルベクに生まれ、ブリュージュとブリュッセルの音楽学校で学びヴァイオリン奏者となったが、子供の頃にルネサンスの楽器と出会ったことをきっかけに古楽に興味を持ち、そのことがバロック・ヴァイオリンの奏法に影響を与えた。1969年に現代楽器のように顎で挟むのではなく、肩で支えるバロック・ヴァイオリンの奏法を復活させ、1971年から1996年まで、ハーグの音楽学校で多くのヴァイオリン奏者を育成した。1964年から1972年までは、兄のヴィーラント・クイケンらが1959年に創設したアラリウス・アンサンブル・オヴ・ブリュッセル(Alarius Ensemble of Brussels)に属し、グスタフ・レオンハルト、ロベルト・コーエンやヴィーラント、バルトルト等とともに活発に録音、演奏活動を行った。1972年にはラ・プティット・バンドを結成、以来今日までバロック音楽、古典派の音楽の演奏、録音を続けている。このCDでは、1700年頃、ミラノのジオヴァンニ・グランチーノ作のヴァイオリン、18世紀前半の無名の作者による弓を使用している。永年にわたり、一貫してバロック・ヴァイオリンを弾いてきたジギスヴァルト・クイケンの演奏は、非常に明瞭な録音によりこの作品のすばらしさを見事に聴かせてくれる。
 バロック・ヴァイオリンによる、バッハの無伴奏ヴァイオリンのためのソナタとパルティータのCDは、筆者が記憶しているだけでも、ほかに寺神戸亮、ヤープ・シュレーダー、レイチェル・ポッジャー、ルーシー・ファン・デールによる演奏のものがある。こういう事は、オリジナル楽器によるバロック音楽の演奏のレコードが出始めた1960年代後半には考えられなかったことである。いずれも個性ある、優れた演奏であるが、それらの中でも、ジギスヴァルト・クイケンの演奏を筆者が最も推薦したい。このDeutsche Harmonia mundiの2枚組CDは、現在もカタログに載っており、入手可能である。

発売元:Deutsche Harmonia mundi

* Herga Thoene, Düsseldorf: “Johann Sebastian Bach. Ciaccona - Tanz oder Tombeau. Verborgene Sprache eines berühmten Werkes” in Veröffentilichungen des Historischen Museums Köthen/Anhalt XIX, Cöthener Bach - Heft 6, 1994, p. 14 - 82

** Herga Thoene, “»Ehre sey dir Gott gesungen« Johann Sebastian Bach. Die Violin-Sonate G-Moll. BWV 1001, der verschlüsselte Lobgesang” in Veröffentilichungen der Bach-Gedekstätte Schloß Köthen und des Historischen Museums für Mittelanhalt XX, Cöthener Bach - Hefte 7, 1998, p. 1 - 113

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