私的CD評
オリジナル楽器によるルネサンス、バロックから古典派、ロマン派の作品のCDを紹介。国内外、新旧を問わず、独自の判断による。
 




The Susanne van Soldt Virginal Book (1599)
Ricercar RIC 264
演奏:Guy Penson (virginal), Patrick Denecker (flûte à bec)

楽譜の出版が盛んになったのは、フランスのピエール・アテニャン(Pierre Attaingnant, c. 1494 – 1551/1552)が活字による楽譜の印刷、出版を始めた1528年以降のことだが、16世紀末から17世紀初めに至っても、特に鍵盤楽器のための作品は、主として出版譜ではなく筆写譜で伝えられていたようである。1610年頃にイギリスで出版された「パーセニア(Parthenia or the Maydenhead of the first musicke that ever was printed for the Virginalls)」は依然として例外的存在であった。今回紹介する「スザンヌ・ファン・ソールト・ヴァージナル・ブック」は、1826年にロンドンのノッティンガム・プレースに住んでいた音楽収集家のトーマス・ジョーンズの死により競売に付された遺産の一つとして知られるようになり、1873年に大英図書館が購入したものである。この手稿には、1599年という年数と「スザンヌ・ファン・ソールト(Susanne van Soldt)」と言う名が記されていることから、「スザンヌ・ファン・ソールト・ヴァージナル・ブック( Susanne van Soldt Virginal Book)」と呼ばれている。
 スザンヌ・ファン・ソールトは、アントワープの裕福な商人ヨハネス・パウルス・ファン・ソールト(Johannes Paulusz van Solt/Soldt de Oude, 1550 - )の娘で、1586年5月20日にロンドン、オースティン・フリアースのオランダ教会に於いて幼児洗礼を受けている。ハンス・ファン・ソールトはプロテスタントで、1576年11月4日のスペイン軍によるアントワープの略奪の後にロンドンに亡命したと思われる。一家はその後アムステルダムに戻り、スザンヌは1604年にアムステルダムで、ピーター・ロースと結婚し、1615年8月に死亡している。
 「スザンヌ・ファン・ソールト・ヴァージナル・ブック」は、16世紀終わり頃のフランドルの透かしを持つフォリオ(全紙)27枚を綴じた約28.5 cm x 21 cmの冊子で、33曲が収録されている。その殆どは一人のフランドル人あるいはオランダ人によって記入されており、30、31、33曲目と指使いなどの記入は、後にイギリス人の手によっている。おそらくそれは、スザンヌの教師によるものと思われる。記入されている曲には作者が記載されていないが、16世紀後半のオランダからフランスにかけて広く流布していた舞曲や歌謡に基づいたもので、スウェーリンク以前のオランダ地方の唯一の鍵盤楽器のための曲集である。作曲者については、10曲目の「Susanna Vung Jour」がオルランド・ディ・ラッスス、イギリス人によって記入された30曲目の「Preludium」がジョン・ブル、33曲目の「Pavane Prymera」がおそらくウィリアム・バードの作と思われる。なお、筆者が聴いたところでは、32曲目の「Alemande Loreyne」はジオルジオ・マイネリオ(Giorgio Mainerio, 1530/1540 - 1582)が1578年に出版した「舞曲集第1巻(Il primo libro de' balli...)」に掲載されている「Ballo Francese」と同一曲である。さらにこの曲集の特徴は、内容の1/3に当たる11曲が詩編歌であることで、これがソールト家がプロテスタント、改革派(カルヴァン派)の信徒であったことを示している。この様な内容から見て、この曲集は、おそらく1570年代にオランダで作製され、スザンヌの両親がイギリスに来る際持参したものと思われる。これによって、この手稿は本来、スザンヌ・ファン・ソールトのために特に作製されたものではないことが分かる。「スザンヌ・ファン・ソールト・ヴァージナル・ブック」は、ルネサンス末ヨーロッパにおける鍵盤楽器のための曲集として、非常に貴重な存在である。
 今回紹介するのは、ギ・パンソン(Guy Penson)が2台のヴァージナルを演奏したリチェルカール・レーベルのCDである。ギ・パンソンはベルギー生まれのチェンバロ奏者で、ヘントの王立音楽院で学び、ベルギーを始め各国で演奏活動を行っている。リチェルカール・レーベルには、チェンバロ独奏の他に、リチェルカール・コンソートの一員としても参加して多くの録音を行っている。演奏している楽器は、いずれもアンドレアス・リュッカース作の「ミュスラール(muselaer, muselaar, muselar)」と言う箱形のチェンバロで、長辺の右寄りに鍵盤があり、特に低音部は張られた弦の中央付近をプレクトラムで弾くことになり、ジャックの動きによるノイズを増幅し、さらに弦の振動が大きい場所であるため、短い音符の連奏が困難であるという問題を有している。1台のミュスラールは、ケースの左側に小型のチェンバロが収納されている「母と子(moeder en kind)」と呼ばれる楽器である。このもう1台の小型の楽器は、1オクターブ高く、取り出してケースの上に置き、2段鍵盤の楽器のように演奏したり、ジャックレールを外した楽器の上に置いて、連動させることもできるものである。この2台のミュスラールは、いずれもアントワープのエケレン地区のジェフ・ファン・ボーフェンによる複製である。ピッチや調律については、何も触れられていない。
 このCDに収録されているのは、33曲の内4曲の詩編歌を除く29曲と、ヤーコブ・ファン・エイクのリコーダーのための曲集「笛の楽園(Der Fluyten Lust-hof)」から、「Myn siele Wylt den Herre met Lof sanch Prijsen(詩編103)」と「Herr ick wil uyt ‘s herter grond(詩編9)」が、パトリック・デネカーのリコーダー演奏で加えられている。
録音は、2007年6月にベルギーのボランにある聖アポリネール教会で行われた。CDケースの表紙には、ヨハネス・フェルメールの「ミュスラールを弾く女(Woman at a muselar)」(ロンドン、ナショナル・ギャラリー蔵)が用いられている。このCDは、現在も入手可能である。

発売元:Ricercar

注)「スザンヌ・ファン・ソールト・ヴァージナル・ブック」については、ウィキペディア英語版の”Susanne van Soldt Manuscript”を参考にした。また、ミュスラールについては、同じくウィキペディア英語版の”Virginals”を参考にした。なお、このミュスラールは、今日ヴァージナルと呼ばれることが多いが、エリザベス朝とそれに続く時代のイギリスでは、チェンバロ、クラヴィコード、スピネットなどその大きさや形に関わりなくヴァージナルと呼ばれていた。現在では主に1つの弦が張られた箱形のチェンバロをヴァージナルと呼んでいる場合が多いが、ここでは厳密を期して、ミュスラールと呼ぶ。

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コメント ( 3 ) | Trackback ( 0 )


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コメント
 
 
 
はじめまして (sbiaco)
2011-09-21 00:05:41
この記事で興味をもって本CDを買ってみました。その解説中に diminution という言葉が使われていますが、これはどういう意味なのでしょう、ちょっと気になっています。
 
 
 
Diminutionとは (ogawa_j)
2011-09-21 10:53:36
sbiacoさん、コメントありがとうございます。
"diminution"と言う言葉は、音楽に於いて幾つもの意味があるようですが、このスザンヌ・ファン・ソールト手稿に関しては、音符を短い音価に分割する変奏を意味しているようです。イギリスのリコーダーのための変奏曲集"The Division Flute"の"division"も同様な意味です。変奏の技法としては、最も基本的なものと言えるでしょう。
 もう一つの意味は、もとの旋律の音価を短くすることで、「縮小」と訳せるでしょう。この逆が"augmentation"で、これは「拡大」と訳せ、主題の音価を拡大することを意味しています。これはカノンやフーガなどの対位法的技法として用いられるものです。
 他にも、音程の「減」を意味することもあります。完全4度あるいは完全5度より半音低い音程をそれぞれ減四度、減五度と言います。その逆に半音高い音程は増四度、増五度と言います。
 他にも、減五度を含む和音を減和音、例えば" C dim"と言う風に書く場合もあります。
まあこの後の2つぐらいになると、sbiacoさんの質問からは離れて、単なるウンチクの披露になってしまいましたが・・・。
 
 
 
ありがとうございます (sbiaco)
2011-09-21 20:21:57
音符を短い音価に分割する変奏、という説明は明快ですね。手持ちのCD(Faventina -- Mala Punica)の解説に「音楽的註解とは……単純なメロディに手の込んだ変奏を加えて豊かにすること、一名 diminutions」とあって、どうして「減少」を意味する言葉がむしろ「拡張」の意味で使われているのかふしぎに思っておりました。
 
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