
Johann Sebastian Bach: Coffee Cantata, BWV 211; Peasant Cantata, BWV 212
L’oiseau-Lyre 00289 417 621-2
演奏:Emma Kirkby (soprano), Rogers Covey-Crump (tenor), David Thomas (bass), The Academy of Ancient Music, Christopher Hogwood
バッハの「カンタータ」に分類される声楽作品の内、教会における礼拝などで演奏される、宗教的内容のものを「教会カンタータ」と呼んでいるが、それ以外のものを「世俗カンタータ」と言う名で分類をしている。しかし一口に「世俗カンタータ」と言っても、 演奏機会に応じて、その形式は様々である。数が最も多いのは、ザクセン選帝候やザクセン・ヴァイセンフェルス候などの誕生日、命名祝日などを祝う祝祭音楽として作曲された、ギリシャ神話に題材を採った作品である。ザクセン選帝候とその家族の祝日を祝う作品は、ライプツィヒの公式行事として演奏されたもので、町庸楽士やライプツィヒ大学の学生によって編成された、コレーギウム・ムージクムなどが加わった編成で演奏された。これらのカンタータは、その機会に一回だけ演奏されるものであったので、バッハはそのほとんどを、他の作品に転用した。中には転用されたものだけが残っているものもある。これらとは異なった、様々な機会に応じて作曲された「世俗カンタータ」がある。今回紹介するのは、そのような作品の中から、「コーヒー・カンタータ」及び「農民カンタータ」の名で親しまれている2曲である。
「コーヒー・カンタータ」(BWV 211)は、「静かに黙って、お喋りしないで(Schweigt stille, plaudert nicht)」という歌詞で始まる、小編成のカンタータである。内容は、当時流行していたコーヒーに夢中な娘リースヒェン(ソプラノ)とそれを何とかやめさせようとする父親シュレンドリアン(バス)、それに語り手(テノール)の3人の登場人物とフラウト・トラヴェルソと弦楽合奏、通奏低音という編成の、軽歌劇とでも言える作品である。歌詞(台本)は、バッハのライプツィヒ時代の多くの教会カンタータや世俗カンタータの歌詞を書いた、クリスティアン・フリートリヒ・ヘンリーツィ(ペンネーム、ピカンダー)が1732年に出版した「真面目で諧謔的及び風刺的詩集(Ernst-Schertzhafte und Satylische Gedichte)」に掲載されている。これに第9曲のレシタティーヴォと第10曲の合唱の歌詞が付け加えられて、「コーヒー・カンタータ」が成立した。もともとこのピカンダーの詩は、バッハのために書いたものではなかったらしく、この詩に基づく他の作曲家の作品が複数存在する。この作品には、自筆総譜とオリジナルのパート譜が残されており、その筆跡や用紙から、1734年の中頃に作曲されたことが分かっている。 バッハはこのピカンダーの詩をもとに、おそらくはバッハ自身が物語の結びを考えてピカンダーに追加の詩を依頼して作曲し、コレーギウム・ムージクムとともに、ツィンマーマンのコーヒーハウスでの演奏会で初演したものと思われる。この「コーヒー・カンタータ」は、多くの教会カンタータや王侯貴族の公式行事のための作品とは違って、軽やかで楽しい曲である。
もう1曲の「農民カンタータ」(BWV 212)は、「おいらの新しい領主さま(Mer hahn en neue Oberkeet)」と言う出だしの歌詞を持ち、自筆総譜の冒頭には「道化カンタータ(Cantate burlesque)」と記されている。このカンタータの成立のきっかけとなったのは、ハレ近郊のディースカウに拠点を置く古い貴族の家系出身のカール・ハインリヒ・フォン・ディースカウ(Carl Heinrich von Dieskau*, 1706 - 1782)が、1742年5月3日に母親のクリスティアーナ・ジビラ・ディースカウ(Christiana Sibylla Dieskau)が死亡したことに伴い、その領地であった、ライプツィヒの南西に位置するクラインチョハーを相続したことに伴って、彼の誕生日である8月30日に催された祝典である。カール・ハインリヒは、ドレースデン宮廷の高官で、音楽を愛好しており、1747年からは、宮廷楽団の管理者であった。1736年に宮廷作曲家の称号を受けたバッハと彼とは、宮廷楽団を通じて面識があったものと思われ、そのつながりから、祝典のための作品を依頼されたようだ。このカンタータが農民を題材としたものとなった背景には、当時ドレースデンの宮廷で、このような道化じみた内容の作品が愛好されていたことがある**。作品は、全体を通じて農民の歌謡や舞踏の音楽を彷彿とさせる曲からなっていて、事実その多くはそれらの引用ではないかと考えられている。歌詞は、「コーヒー・カンタータ」と同じピカンダーによるもので、農民の訛りを盛り込んだユーモラスな内容である。14曲目のソプラノのアリアと20曲目のバスのアリアを除いては、一つ一つの曲はせいぜい2分程度の短いもので、非常に平易で親しみやすい旋律を持っている。冒頭の序曲も2分ほどの長さでありながら、7つの舞踏風のテンポの緩急が交替するバッハの他の作品にはない楽章である。20曲目のバスのアリアは、1729年に作曲されたと思われる世俗カンタータ「フェープスとパンの争い」(BWV 201)の第7曲の転用であり、14曲目のソプラノのアリアも1732年8月3日のザクセン選帝候兼ポーランド国王アウグストII世の命名祝日のためのカンタータ「国の父である国王あり」(BWV Anh. II、音楽は失われた)からの転用ではないかと考えられている。このカンタータには、作曲しながら作製した自筆総譜が残っているが、この2曲に関しては、すでに存在する別の自筆譜から書き写したと思われる整然とした筆跡で記されている***。
バッハの世俗カンタータの演奏に関しては、教会カンタータなど宗教行事で演奏された作品とは違って、女声の参加は当然と考えられて来た様に見える。実際、筆者の知る限り、バッハの世俗カンタータを男声のみで演奏した録音はひとつもない。しかしながら、オペラが存在しなかった当時のライプツィヒでは、果たして女性歌手が存在したかどうか疑わしい。特に市の公式行事などで演奏された、規模の大きな世俗カンタータの場合は男性がソプラノもアルトも歌ったのではないかと筆者は考えている。この点はいずれそのような世俗カンタータを取り上げる際に、改めて触れたい。
しかし、今回取り上げた「コーヒー・カンタータ」は、おそらくツィンマーマンのコーヒー・ハウスで演奏されたと思われるし、「農民カンタータ」もクラインチョハーの貴族の邸宅で演奏されたと思われるので、女性歌手が加わった可能性はある。もともと歌手であったアンナ・マグダレーナ・バッハが、ライプツィヒに移ってからも歌手として活動していたかどうかは不明だが、あるいは彼女が参加したのかも知れない。1730年10月28日付で、1700年3月にともにリューネブルクに赴いた学友、ゲオルク・エルトマンに宛てた手紙の中で、「・・・私の現在の妻は、綺麗なソプラノで歌います・・・」と書いており、その可能性を推定させる。
今回紹介するCDは、ソプラノをエマ・カークビー(Emma Kirkby)、バスをデーヴィッド・トーマス(David Thomas)、テノールをロジャース・コーヴェイ=クラムプ(Rogers Covey-Crump)、アカデミー・オヴ・エインシェント・ミュージック、クリストファー・ホグウッドの指揮による1986年録音の、オアゾ・リール盤である。1973年にホグウッドにより創設された楽団が、最も意欲的に演奏会、録音に従事していた時期のもので、20年以上前の録音だが、デジタル録音によって、鮮明で溌剌とした演奏を楽しむことが出来る。なお、このCDは、現在EMI傘下でオリジナル楽器演奏のレーベルとして存続しているオアゾ・リールの00289 417 621 2としてカタログの掲載されている。
発売元:EMI Classics
* 雑学豆知識:このディースカウ家は、往年のバリトン歌手、ディートリヒ・フィッシャー・ディースカウの遠い先祖に当たるのだそうだ。
** {農民カンタータ」の成立事情については、新バッハ全集第I部門第39巻「ライプツィヒ市及び大学のための祝典音楽、貴族及び市民のための表敬音楽」のヴェルナー・ノイマンによる校訂報告書p. 121 - 123を参考にした。
*** Johann Sebastian Bach: Cantate Burlesque (Bauernkantate), Faksimile nach dem Autograph, Henle Verlag, München-Duisburk, 1965 で確認出来る。なお、序曲の筆跡も、他の楽章と比較すると美しく、事前に下書きをした可能性があるように思われる。

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