私的CD評
オリジナル楽器によるルネサンス、バロックから古典派、ロマン派の作品のCDを紹介。国内外、新旧を問わず、独自の判断による。
 



上の図は、Cを起点にして右回りに五度上方、左回りに五度下方に12回繰り返して一巡するピュタゴラス音律を示している。赤い文字でHisとあるのは、Fの純正五度上方が、Cと一致しないことを示している。CとHisの差が「ピュタゴラス・コンマ」と言われる。(この図は「野神チェンバロ・オルガン工房」のウェブサイトの「チェンバロの各種調律法のあらましと調律手順」の「五度圏、セント、スキスマ」のページに掲載されている五度圏の図をお借りして、加工したものです。)

楽器、例えばフルートで、ハ長調のド、cの音を吹くと、基音のcに加えて、その1オクターブ上のc’、さらに5度上のg’、その上のc”、さらに3度上のe”と言う風に基音の倍音と呼ばれる音がわずかながらに混ざって鳴る。これらの音はc上の倍音と言い、この倍音の比率や量によって、楽器の音色が決まる。西洋の音階は、この自然倍音を出発点にして出来た。
 一本の糸を強く張って弾くと一定の高さの音で鳴る。この糸の長さのちょうど半分の長さの糸を弾くと、倍の振動数の音が鳴る。もし2/3の長さの糸を弾くと、もとの音をドとすると、ソの音が鳴る。この様に糸の長さを分割して、3/4、3/5、4/5、8/9、8/15の長さの糸で弾いた音によって、ド(1/1)、レ(8/9)、ミ(4/5)、ファ(3/4)、ソ(2/3)、ラ(3/5)、シ(8/15)、ド(1/2)の音階が得られる。これが自然音階である。この自然音階による和音は純正で、非常に美しく響く。それは、それぞれの音の波長の整数倍が、基音の整数倍と一致するからである(ソの波長は、3倍するとドの2倍と一致する:ファは4倍、ミは5倍でそれぞれドの整数倍の波長と一致する)。しかしこの音階は、例えばドの属音であるソを基音とした場合には、音階によっては共通する音もあるが、自然音階としては成り立たない。つまり自然音階では、他の調性への転調が出来ないのである。
 ギリシャの哲学者、ピュタゴラスが考案したとされる音階は、ドとソの関係、完全5度を基本に、それを順次積み重ねることにより1オクターブ内の各音を導き出すものである。しかし、この完全五度を積み重ねることにより構成される音律に於いては、12番目のFの完全五度His(英語ではB♯)がCより高くなることによって生ずる差、いわゆるコンマ(ピュタゴラス・コンマという)が存在する。そして、この差を無視してCで完全五度の輪を綴じると、F - Cの五度は非常に狭くなり、この短い五度の音程が関連する和音は、不快な唸りを生じ、これを「ウルフ」と称している。また、このピュタゴラスの音律によって得られる長三度の和音は、純正よりかなり広くなり、決して美しい響きとは言えない。このピュタゴラス音律の長三度と純正な長三度の差をシントニック・コンマと言い、これはピュタゴラス・コンマより僅かに小さい。そのピュタゴラス・コンマとシントニック・コンマの差をスキスマ(Schisma)という。
 音楽が、単旋律が主体であった中世には、このピュタゴラス音律で特に問題はなかったが、ルネサンスになると、それまで不協和音と考えられていた長三度も協和音と考えられるようになり、次第に調性が重要性を持つようになってきた。それに伴い調性を決定づける長三度の和音に純正な響きが求められるようになり、15世紀から16世紀の初めにかけて、それを記した文書が現れ始め、1571年にジオゼッフォ・ツァルリーノによって正確に記述された。これは、完全5度を4回重ねて得られる長三度が、純正三度より74/73だけ高くなるので、完全五度を1/4シントニック・コンマせばめて重ねて長3度を得るもので、これが1/4コンマ中全音律である。 1/4コンマ中全音律に於いては、11カ所の完全五度を1/4シントニック・コンマ狭くすることによって、8つの長三度を純正にする事が出来る。しかしその代償として、残りの4つの長三度は、非常に広くなり、不快な唸りを生ずる。この中全音律は、限られた調性の範囲内であれば、非常に美しい和音が得られ、ルネサンスからバロック時代の中頃、18世紀の始めまでは支配的な音律であった。


 しかし、音楽がより多くの調性への拡大を求めてくると、この中全音律では、不協和が生じることになり、これを解消しようとする様々な調律法が考案された*。17世紀後半以降、様々な提案が成されてきたが、その初期の代表的なものが、アンドレアス・ヴェルクマイスター(Andreas Werckmeister, 1645 - 1706)による音律で、その最も重要な著書「音律について(Musicalische Temperatur“ [1691])」で、第Iの音律(純正調)、第IIの音律(中全音律)に次いで第IIIの音律として提示した。ヴェルクマイスターは、調性の自由度を増すために、長三度をその使用頻度に応じて、「音感が我慢出来る程度に**」純正からずらすことによって、ウルフを解消し、調性によって和音の純度が異なっているとはいえ、すべての調性が実用に耐えるものにした。具体的には、C - G、G - D、D - AとH - Fisを1/4ピュタゴラス・コンマ狭く調律し、それによってC - E、F - Cをほぼ純正に近く、それに次いでG - H、D - Fis、B - D、さらに Es - G、E - Gis、A - Cis、H - Dis、そしてCis - F、Fis - B、Gis - Cと、次第に長三度は純正より広くなる。このヴェルクマイスターの提案した音律は、かなり広く受け入れられていたようで、北ドイツのオルガンの巨匠、ディートリヒ・ブクステフーデもこの音律をリュベックの聖マリア教会のオルガンに採用していたという説がある。


 ヨハン・ゲオルク・ナイトハルト(Johann Georg Neidhardt, c. 1680 - 1739)は、1724年に発表した論文(Sectio Canonis Harmonici,)において複数の音律案を提唱し、その内今日「ナイトハルトの音律」として最も良く知られている音律では、完全五度を純正、1/6ピュタゴラス・コンマ、1/12ピュタゴラス・コンマと細かく調整している。また、「大きな町のために(für eine große Stadt)」提案した音律は、実際に1736年から1739年にかけてアルテンブルクの宮廷教会のオルガンがこの音律で調律された。しかしその調律は非常に複雑で、普及することはなく、むしろ20世紀後半になって、オルガンの調律に採用されるようになった。


 バッハに教えを受けたことがあるヨハン・フィリップ・キルンベルガー(Johann Philipp Kirnberger, 1721 - 1783)は、1766年に、D - Eを11/12ピュタゴラス・コンマ(=シントニック・コンマ)狭く、Fis - Cisを1/12ピュタゴラス・コンマ(いわゆるスキスマ)狭くする音律、いわゆる「キルンベルガーの第I音律(Kirnberger I)」を発表した、これによりC - Eの長三度のみ純正となる。さらに1771年に出版した「純正作曲技法(Die Kunst des reinen Satzes in der Musik)」に掲載されたいわゆる「キルンベルガーの第II音律(Kirnberger II)」において、D - A、A - Hを1/2シントニック・コンマ狭く、Fis - Cisを「スキスマ(Schisma)」分狭くする音律を提唱した。これによって、C - E、G - H、D - Fisの長三度が純正になる。このキルンベルガーの第II音律は、調律が比較的容易なこともあって、19世紀に入っても用いられていたようで、特にベートーフェンがこの音律を採用していたと言われている。ちなみに、今日電子鍵盤楽器等で採用されている「キルンベルカーの第III音律(Kirnberger III)」は、1876年にキルンベルガーがヨハン・ニコラウス・フォルケルに宛てた手紙の中で触れていたもので、当時は公にはなっていなかった。この音律が使用されるようになったのは、20世紀に入ってからである。


 この様な、長三度の純正さを残しながらも、調性の自由度を拡げようとして提唱された音律は、「巧みな音律(独:wholtepmerierte Stimmung、英:well-tempered temperament、仏:tempérament bien temperé )」と呼ばれているが、この名称の起源は、1681年にヴェルクマイスターが出版した音律に関する本の表題に用いた用語がもとになっていると考えられており***、バッハの「巧みに調律された鍵盤楽器・・・([Das] wohltemperiertes Clavier...)」もこのヴェルクマイスターの著作の表題から取られたもののようだ。ヴェルクマイスターやキルンベルガーの音律に於いては、多くの完全五度は純正であり、その点ではピュタゴラス音律が基準になっていると言える。
 その後さらに調性の自由度を拡げるために考案された音律は、イタリア、パドゥアの教会音楽家フランチェスコ・アントーニオ・ヴァロッティ(Francesco Antonio Vallotti, 1697 - 1780)が提唱した、1/6ピュタゴラス・コンマを6箇所の完全五度で狭くする音律や、イギリスの科学者トーマス・ヤング(Thomas Young, 1773 - 1829)が提唱した、1/6ピュタゴラス・コンマを6箇所で完全五度で狭くする音律などがあるが、さらに長三度の純正な響きからは外れ、かろうじて和音の美しさを残しているものの、次第に平均律に近づいている。




 この様な17世紀末から19世紀初頭にかけて提唱された音律のほかに、20世紀なって歴史的演奏に重点が置かれるようになってから、様々な観点から考案された音律が登場する。たとえば、ジョン・バーンズのいわゆる「バーンズ/バッハ音律(John Barnes Bachstimmung [1979])」は、バーンズがバッハの「巧みに調律された鍵盤楽器のための前奏曲とフーガ」から導き出したという、F - C、C - G、G - D、D - A、A - E、Fis - Cisを1/6ピュタゴラス・コンマ狭くした音律で、狭くする完全五度の箇所がヴァロッティやヤングの音律と一箇所だけ異なるものである。


 また、バッハの「巧みに調律された鍵盤楽器のための前奏曲とフーガ」第1巻の自筆譜表紙上部に描かれた装飾を、バッハが調律法を示したものであると考える試みとして、ブラッドリー・レーマンが示した「解読」による音律も、1/6ピュタゴラス・コンマと1/12ピュタゴラス・コンマの組み合わせによる音律で、既存の音律とほとんど同一である。レーマンの「解読」は、その方法に無理があり、導き出された音律とバッハとの関係は無いと考えて良いが、この音律は、例えばリチャード・エガーが「ゴルトベルク変奏曲」(BWV 988)などの演奏に採用している****。

 北ドイツに残るアルプ・シュニットガーとその工房により建造されたオルガンの多くを修復し、元の状態に戻す作業を行ったユルゲン・アーレントの工房は、種々の音律を採用している。オランダ、フローニンヘンのマルティニク教会のオルガンでは、1977年に修復の際、ナイトハルトの音律を、北ドイツ、シュターデの聖コスメ教会のオルガンでは、1975年に終了した修復で、オルガニストのハラルト・フォーゲルの助言によって、C - G、G - D、D- A、A - E、E - H、H - Fisを1/4シントニック・コンマ狭く、Fis - Cis、Cis - GisとB - F、F - Cを純正に、そしてGis - Es、Es - Bを1/5シントニック・コンマ広く調律する、修正中全音律を採用している。さらに、1985年に修復を完了した、ドイツ、ノルデンの聖ルートゲリ教会では、F - C、C - G、G - D、D - A、A - E、E - H、H - Fisを1/5ピュタゴラス・コンマ狭く、Fis - Cis、Cis - Gis、B - Fを純正に、そしてAs (Gis)- Es (Dis)とEs (Dis) - Bを1/5ピュタゴラス・コンマ広く調律している。また、1993年に完了したハンブルクの聖ヤーコビ教会の修復では、F - C、C - G、G - D、D - A、A - E、E - H、H - Fisを1/5シントニック・コンマ狭く、Fis - Cis、Cis - Gis、B - Fを純正に、そしてAs (Gis)- Es (Dis)を1/5シントニック・コンマ、Es (Dis) - Bを1/10ピュタゴラス・コンマ広く調律する、独自の1/5コンマ中全音律で調律している。これらの調律は、いずれも中全音律の主旨を生かしながらも、より多くの調性に対応することを目的にしていると言える。その上で、バロック時代のオルガン作品にはあまり用いられない調性を犠牲にすることによって、この目的を達成していると言えよう。この様な、ルネサンスからバロック時代に実際に行われていた音律ではなく、新に考案された音律を用いることには、賛否両論があるだろうが、これは複製楽器に於いて、音程の正確さや演奏の用意さを考慮して、歴史的楽器の特性を「現代化」する傾向と軌を一にする流れと言って良い。筆者は個人的には、この様な傾向には賛同出来ない。

 18世紀に入って活発となったいわゆる「巧みな音律」は、平均律という最終目標に向かう過渡期の音律と見る考えもあるが、筆者はこの考えにも賛同出来ない。平均律によって得られる和音は、純正和音から「一様にずれている」のであり、その響きは純正和音からはほど遠く、決して美しいとは言えない。実際音楽家たちは、鍵盤楽器奏者を別として、演奏中に合奏する者同士で音程を調整し、純正な和音になるように努力をしている。ルネサンスやバロック、さらには古典派、ロマン派の音楽を、作曲された当時の楽器、演奏習慣にもとづいて演奏する、いわゆる「歴史に応じた演奏(Historically Informed Performance)」が普通に行われるようになった現在、その時代の音律を採用するのは当然のことになっているので、聴く側も、その様な音律の存在を意識し、実際にそれぞれの音律による演奏を聴くように心がけて欲しいものである。
 「私的CD評」で紹介しているCDの多くでは、様々な音律で調律された鍵盤楽器が使用されているが、特に「三種類のチェンバロでバロックから初期古典派の名曲を聴く」、「ジャン・アンリ・ダングルベールのクラヴサン組曲を聴く」、それに「北ドイツのオルガンの名器で聴くブクステフーデ」をはじめとしたオルガン作品の多くのCDで、様々な音律の響きを体験出来る。

注1)音律の表について:この表は、音律の12の半音それぞれの長三度と完全五度の純正との差を平均律の半音を100とするセント値で示したものである。つまり数値が0の場合その和音は純正である。この表を見て分かることは、音律は時代と共に純正な和音を重視することから外れ、調性、転調の自由度を重視するようになって来たことを示している。その終着点が平均律(等分律)となったわけだが、その代償として、和音の美しさ、調性の性格を犠牲にすることになった。

注2)音律については、Herbert Kelletat, Zur musikalischen Temperatur, I. Johann Sebastian Bach und seine Zeit, Merseburger, 1981、「標準音楽辞典」音楽之友社、第1版、1966年、”128 musikalische Temperaturen im mikrotonalen Vergleich”(ドイツ語)、ウィキペディアドイツ語版の「中全音律」など、各音律に関する項目を参考にした。

* REIKOさんのブログ「 ヘンデルと(戦慄の右脳改革)音楽箱」の「F.クープラン「神秘の障壁」と音律」をはじめとして、曲に応じて中全音律のウルフを回避する様々な試みが紹介されている。また、REIKOさんは最近、「音律の右脳改革鍵盤館♪」と言うブログを始められて、もっぱら音律についての記事を投稿しておられる。

** “...so viel das Gehör ertragen kann”, Andreas Werckmeister “Harmonologia Musica” (1702)

*** Orgel-Probe oder kurtze Beschreibung … wie durch Anweiss und Hülffe des Monochordi ein Clavier wohl zu temperiren und zu stimmen sey…, Frankfurt am Main und Leipzig, 1681

**** 興味のある人は「<再論> 暗号化されたバッハの調律法?(その1)」および「<再論> 暗号化されたバッハの調律法?(その2)」を参照のこと。

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