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身は已に私に非ず

2016年01月16日 17時14分11秒 | Weblog

「身已に私(わたくし)に非ず、命は光陰に移されて暫くも停め難し」      曹洞宗経典「修証義」第一章より

さぶろうの受領を記す。狭く浅いので読者諸氏で広大とされよ、深められよ。

肉体はわたしのものか。わたしのものであったが、もはやわたしのものでなくなっている。

わたしのものであったら、自由にできるはずである。病まないでいられるはずである。老いずにすむはずである。

自由にはならない。我が身と思っていたのに、自由にはならない。

病む。老いる。壊れる。崩れる。死ぬ。そういう事実ががしみじみと分かって来る。

では、問う。わたしは肉体か。

肉体である。肉体を生きている。肉体が伴わなければわたしは生きて行くことは出来ない。

いのちの場所は肉体か。いのちはここを住み処としている。

いのちの時間(光陰)は肉体の時間か。そうか。ぴったり一致しているか。

肉体が病めばいのちが病む。肉体が老いたらいのちが老いる。抵抗は出来ない。

では、肉体が死ねばいのちも死ぬのか。

それだけならば、そこに仏は無用である。

肉体はわたしのものであったか、ほんとうに。いのちはわたしのいのちであったのか。

仏のおいのちを生きていたのではなかったのか。

わたしの肉体を生きていると見せて、実は仏のお命を生きていたのではなかったのか。

生死の中に仏あれば生死なし。

わたしの生死を生きていたのではなかったのだ。仏のおいのちを追体験していたのだ。

生まれて老いて病んで死ぬ。肉体はこれを体験する。四苦を嘗める。嘗めて学ぶ。仏を学ぶ。仏のおいのちを学ぶ。四苦の法を学ぶ。四苦を解脱する道を学ぶ。

「身已に私に非ず、命は光陰に移されて暫くも停め難し」この真実を学んだのはわたしの中の仏のおいのちであった。

摩擦して火を起こして輝くものがある。あかあかと輝くものがある。わたしの中にあかあかと輝きだしたものがある。

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仏法聞き難し。聞き難けれどいま已に聞く。われはこれを聞く。道元禅師の説かれた仏法を聞く。

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