<おでいげ>においでおいで

たのしくおしゃべり。そう、おしゃべりは楽しいよ。

それを疑ったりはしない

2015年11月01日 09時03分32秒 | Weblog

こうやって次第次第にさみしくなっていくんだろうね。さみしさが深くなっていくんだろうね。それでも容易に心を合わせないとはどういうことだろうね。さみしいのなら、人に手を差し伸べて、交流交際を申し入れたらいいだろうに、それを拒む。ぎこちない性格のままのさぶろう。

今夜は弟の通夜だ。明日荼毘に付す。葬儀はしない。阿弥陀仏の誓願が成立しているから、それを疑ったりはしない。往生成仏を疑ったりしない。これでいいはずだ。読経もしない。追善する必要がないから追善のための供養もしない。これは弟の遺言だ。

弟がいなくなった。これからさびしくなるだろう。いないということが実感されてくればいよいよ喪失感が前面に出て来るだろう。

葬儀は、これまでお世話になってきた人たちへお礼を述べる儀式でもある。ご縁によって生かされてきたいのちを縁者に感謝する儀式でもある。ここをどうするか。新聞広告で礼状を書いてそれですましていいのかどうか。家族葬はこれをどうクリヤーできるだろう。

旅立ち。古来、この国では、鉦を叩き銅鑼を鳴らし笛を吹いて葬送してきた。さみしくないようにとにぎにぎしく。では、今夜は夜空にハーモニカを出して来て「里の秋」を吹いてあげようか。「里の秋」がさみいのなら、恋の歌カンツオーネでもいいけれど。

 

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さみしい

2015年11月01日 08時51分28秒 | Weblog

でも、悲しい。さみしい。喧嘩もできなくなった。語り合って酒も飲めなくなった。弟が身罷った。「おおい」と呼んで遊びに来ることもなくなった。梅が咲いても桜が開いても、連れだって遊びに行くこともできなくなった。あれこれもっとやさしくしてやればよかった。意見を違わせずもっと受け入れてあげたらよかった。弟を亡くした兄はいよいよ一人になった。

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次の上級学校へと進んだ弟よ

2015年11月01日 07時54分07秒 | Weblog

寒い。ねんねこ綿入れを着込んだ。おこたにあたたまった。それでも寒い。おしっこに立つ。ああ、弟はもうおしっこもウンチもしなくていいようになったのだ、と思った。

肉体の束縛を離脱してゆうゆう自由自在の身になったのだ。おめでとう。狭っ苦しいところ(肉体)からいきなり解放されたから、十中八九、大安楽して飛び跳ねているのかもしれない。

今生の修行が終了したので、卒業を許された。次の上級学校へと進んだ。諸仏諸菩薩の出迎えを受けて、学帽の新入生はいまごろ、もしかしたら、ちょっとだけ緊張をしているかも知れない。

オリエンテーションでは次々と教師陣の紹介があっているだろう。たくさんたくさんの教師陣が控えているから紹介だけでも時間が長引くはずだ。先輩たちが大勢で手を取り足を取りして手伝っているはずだ。本式に授業が始まるのはもう少し後になるだろう。

成仏した者は、一息ついたら、ていったって随分あとのことになるだろうけど、「還相廻向(げんそうえこう)」にまわることになる。なにしろ仏だ。自分を楽しむだけではおさまりがつかない。

この娑婆に戻って来て(還相)、仏徳を廻向する活動に勤しむことになるが、まだそれはおいおいでいいはずだ。「仏としての覚悟」「仏のするべき実践」Ⅰ・Ⅱなどのカリキュラムをこなしてからになるだろう。

仏は慈悲のかたまりだから、苦界の救済に趣くのだ。朝寝昼寝は御法度だろう。

カリキュラムにはしかし体操の時間、芸術の時間、料理の時間なども入っているから、こういうときには割とリラックスもしていられるだろう。「仏陀語や宇宙語の語学研修」もあるだろう。パラダイス・ピクニックや、先輩連、同胞連との懇親会を兼ねた遠足、ときには宇宙大旅行というのも組み込まれているから、うきうきして楽しんでいられる時間もあるだろう。

これまで救済される立場だったのが、これからは救済をしていく立場に立つ。ごっつい慈善事業だ。慣れないうちは戸惑いも多いだろうが、立派な教師陣が控えている。仲間になってくれる菩薩も大勢だろうから、にぎやかにしていられるに違いない。

ところで、霊(スピリット)の衣服はどうなっているのかい、弟よ。そっちは寒くはないかい。いろいろ新大陸の情報を送って欲しいところだ。

 

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弟が仏界へ旅立った

2015年11月01日 07時20分23秒 | Weblog

弟が旅立った。阿弥陀如来の真如界へ。10月31日、20時50分だった。前の日に、「明日死ぬ」と明言してその通りとなった。禅僧のようだった。胃に溜まった胃液、腸の消化液のようなどす黒い液体が口の中へ逆流してきて、何度かごぼごぼ吐いた。それが苦しそうだったが、あとは呼吸がしだいにゆっくりになり、遠くなり、止まった。家族・親族の多くに見守られながら。息を引き取る直前、「阿弥陀さんを頼めよ。まっすぐにお浄土へ行くんだぞ」と大声をかけるとこくんと頷いたように見えた。苦界の苦しみを離れて、安らかな表情を浮かべた。弟の遺言で家族葬をすることになった。僧も呼ばず読経もせずということになった。弟は、寺は持たないが、得度した僧だった。「極楽往生は決まっているしその覚悟もできているから葬送の儀式は無用だ」と言い残していたからだ。仏道を探求して歩いた66年の生涯だった。人に媚びず、毀誉褒貶に走らず、己の信じる道を歩けたのだから、いい人生を生きたのではないかと思う。

 

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