こうやって次第次第にさみしくなっていくんだろうね。さみしさが深くなっていくんだろうね。それでも容易に心を合わせないとはどういうことだろうね。さみしいのなら、人に手を差し伸べて、交流交際を申し入れたらいいだろうに、それを拒む。ぎこちない性格のままのさぶろう。
今夜は弟の通夜だ。明日荼毘に付す。葬儀はしない。阿弥陀仏の誓願が成立しているから、それを疑ったりはしない。往生成仏を疑ったりしない。これでいいはずだ。読経もしない。追善する必要がないから追善のための供養もしない。これは弟の遺言だ。
弟がいなくなった。これからさびしくなるだろう。いないということが実感されてくればいよいよ喪失感が前面に出て来るだろう。
葬儀は、これまでお世話になってきた人たちへお礼を述べる儀式でもある。ご縁によって生かされてきたいのちを縁者に感謝する儀式でもある。ここをどうするか。新聞広告で礼状を書いてそれですましていいのかどうか。家族葬はこれをどうクリヤーできるだろう。
旅立ち。古来、この国では、鉦を叩き銅鑼を鳴らし笛を吹いて葬送してきた。さみしくないようにとにぎにぎしく。では、今夜は夜空にハーモニカを出して来て「里の秋」を吹いてあげようか。「里の秋」がさみいのなら、恋の歌カンツオーネでもいいけれど。