<おでいげ>においでおいで

たのしくおしゃべり。そう、おしゃべりは楽しいよ。

辛かろうな 苦しかろうな 悲しかろうな

2014年08月23日 12時47分25秒 | Weblog
偉そうなことは言えません。わたしは毒蛇です。にょろにょろ這い回ってそこへ行ってもここに来ても、体中から毒を出しています。わたしの毒に当ったらたいへんです。毒を出しきるまで生きています。これがわたしという毒蛇の今生の行です。

毒蛇が石の地蔵さまのところへやって来ました。お地蔵さまはお逃げになりません。わたしはぶつくさ呟きます。「おれを毒蛇にしたのはお前だな」と毒づきます。

地蔵さまは、「辛かろうな、苦しかろうな、悲しかろうな」と囁いて、苔石の両手をわたしに合わせておられます。「もうすぐだぞ、もうすぐで夜明けだぞ、もうすぐでカルマ(業火)が消えるぞ」のお声が毒蛇の涙腺を湿らせます。

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帳消しになったらまっさらです

2014年08月23日 12時19分22秒 | Weblog
帳消しの思想。

帳消しとはそれでチャラになることです。

引き受けたらカルマが消えて行きます。

カルマとは業のことです。自分の中に貯めているエネルギーのことです。

プラスに出たりマイナスに出たりします。

早い話が因果応報です。

わたしが差し上げたことがわたしに返ってきますから、これはブーメランのようです。

わたしが相手にプラスを差し上げたのであれば、わたしもプラスを頂きますが、わたしが相手にマイナスを差し上げていたのなら、相手の方角からもマイナスが返ってきます。

ですから、わたしに現れて来たマイナスは単独ではないのです。続きなのです。

わたしが加害したものはわたしが被害をも体験させられます。

わたしの被害を恨んで相手を責めてしまうとわたしの被害は帳消しになりません。

でも、わたしがそれをじっと引き受けて耐えておくともうそこから先には同種の被害は続きません。

お釈迦様は弟子のアングリマーラにそうお告げになりました。

「アングリマーラよ、加害者を憎まず恨まずに、あなたの加害に耐えなさい」と。

アングリマーラとは「殺した人の指を首飾りにして楽しんだ男」という意味の渾名です。

彼はこれを悔いてお釈迦様の弟子になりました。

恨みによって恨みが消えることはない、憎しみによって憎しみが消えることはない。怨念の応酬でもって戦争は止みません。



しめしめ欺し通せたぞと思っていてもカルマはその人の内側に積み上がっていくだけです。

同じ苦しみをわたしが引き受けることになって始めて加害を差し向けた人の苦しみ悲しみがわかるようになります。



帳消しになったら、でも、まっさらです。せいせいします。新しいスタート地点に立てます。

苦しみ悲しみを嘗めた人には次の地点が開けてきます。

病も同じです。病を噛みしめることで次の新しい明るい地点が開きます。

そしてそうなりました。

わたしはそう思って幾つかの病に耐えました。

総じて初めからずっと「拾う神あり、拾う神あり」なのです。捨てられたりはしないのです。
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拾う神あり 拾う神あり

2014年08月23日 12時13分44秒 | Weblog
旅から戻りました。

夕方、自転車を漕いでいつもの白角折神社までサイクリングをしました。

麻痺の足がこの頃元気になっています。力を付けてきているのが分かります。

右脚が漕いだ力を利用して麻痺の脚がぐいぐいぐいぐいとペダルを踏みました。

すっかりいい気持ちになりました。

拾う神あり、拾う神ありです。

左脚に筋肉がついてきているようです。ほんの少しだけふっくらとしてきました。
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結果に見えていたものが次の原因になって行く

2014年08月23日 12時04分10秒 | Weblog
あっはっは、これはわたしがわたしに言い聞かせていることですから、普遍性はないかもしれません。

無結果論はわたしのこころを慰めてくれました。

無結果論というのは今日は明日に続いているということです。

今日の悲しみはゴールではなくて、通過地点の風景だということ。それを覚えてこころを軽くしました。

ものに結果はありません。

結果に見えていたものはすぐに次の原因になってしまいます。

だから、今日の結果をどう受け止めておくかは重要なことです。

結果には種が含まれてありますから、そこから種は発芽します。

水をかけて光を当ててあたためてこころの栄養を施してあげるようにすればいいのです。
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必ずそれだけの訳がある

2014年08月23日 11時52分45秒 | Weblog
ここではマイナスに甘んじていてもいいのです。

マイナスはプラスの準備期間です。

わたしたちは波のエネルギー体ですから、浮いたり沈んだりを繰り返して、進んでいるのです。

現在のマイナスが終着地点ではありません。次へ次へ繋がって行きます。

恐がらなくていいのです。

マイナスをどれだけ多くどれだけ長く含めていられるかがその人の総和全体量を押し上げてくれます。

プラスをプラスとして受け取れるのはマイナスの力なのです。

せっせせっせとマイナスを積み上げておくとプラスがプラスとしてこなせるのです。

恐がらなくていいのです。

そうせしめられているのには必ずそれだけの訳があるのです。
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体内の神鳴りを宥(なだ)める

2014年08月23日 11時33分22秒 | Weblog
奇っ怪なことがありました。夜中のことです。わたしの両手の指の十指の先が放電をし始めました。きみの瞳は100万ボルトという歌が流行ったことがありましたが、指電力は何ボルトあったのでしょう。ジリジリジリジリします。痺れたようになっています。痛いといった方が適切です。

雷は空の放電です。エネルギーを空で貯め込んでいられないで、放電をするのは雷です。わたしはゴロゴロと鳴ったりはしませんが、わたしの神鳴りは気違いになってしまいそうでした。必死でこれに耐えました。

指を布団の中に隠しても収まりません。体内の神鳴りを宥めるのに一苦労をしました。

気のことをプラーナと呼んだりしているようです。このプラーナはこころの電力です。わたしがいつまでもここ(地球)に居座っているので、広大な宇宙中を生息範囲としているプラーナが地団駄を踏んで帰りたがっているのです。

これはわたしだけのことではないと思います。ここは狭いのです。狭いところにギュウギュウ詰めになって暮らしているので、この混雑と軋轢を抜け出したいと言ってきかないのです。夜中になって静かになると、自由と解放をねだるのです。みなさんはそういうことがありませんか。
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この宇宙とは何者ぞ このわたしとは何者ぞ

2014年08月23日 11時21分28秒 | Weblog
わたしには宇宙を照らすだけの力はありませんから、
宇宙にとってのわたしは完全無力です。
その完全無力のわたしを宇宙全体が昼も夜も明るく耀かしています。
だからといって宇宙がわたしに返礼を求めているふうもありません。
わたしは明るく耀かされているばかりでいいのです。
そうやってわたしはわたしの小さなこころを明るくしていさえすればいいのです。

ときおり、わたしを包摂している「この宇宙とは何者ぞ」と思ってしまうことがあります。そして同時に宇宙全体によってそれだけ明るく温かく耀かされている「このわたしとは何者ぞ」とも思ってしまうのです。

宇宙がわたしを包摂していますが、わたしも宇宙を堂々と包摂しています。この堂々たるわたしとは、何者なんでしょう。
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ほんとうにそうなんでしょうか

2014年08月23日 10時40分34秒 | Weblog
わたしには宇宙銀河団を耀かせる力はありませんが、よくしたものであります、宇宙銀河団が総動員してわたしを耀かせています。

ありがたいことであります。これでわたしにマイナスはつきません。ふっふっふです。わたしはにこにこをします。わたしはいつもプラスなのです。

わたしの総資産は宇宙銀河団の総資産に一致します。これは堂々たるものです。そこでわたしは堂々と胸を張っていられます。

今日は久しぶりに夏空が見えています。空の青さが目に染みます。涼風も吹き渡っています。



地球に人類が出現したまでは予定通りの進行でしたが、それを喜んで胸を張ることを忘れたのでしょう、敵と味方を形成して戦争をするようになりました。悲しいことです。

宇宙銀河団の総資産を共有してどれだけでも楽しんでいていいはずなのに、それをすっかり反故にしています。

人は人を憎み、民族は民族を憎み、社会は社会を憎み、国は国を憎んで暮らしています。

わたしたちは耀かされているのです。わたしたちがどんなに無力であっても尚且つこころ安らかに生きて、それを楽しんでいけるようになっているはずです。



わたしたちは不安を覚えて仕方がないのでしょうか。不安をぬぐい去ろうとするかの如く、力を持とう持とうとしたり、権力を持とう持とうとしたり、他者を圧して支配する力を拡大しようとしています。

しかし、結果的には相互の憎悪と敵意を引き継ぐだけになってしまいました。



わたしには月を照らす力もありませんが、よくしたものです、月がわたしを照らしていてくれます。

わたしには太陽を創造する力がありませんが、太陽は既に創造されてわたしを毎日当たり前の顔をして照らしています。これだけでわたしは生命活動を維持していけるようになっています。



しかし、これで安心したり満足したりしては人類の進歩や発展が手に入らないという恐怖心に駆りたてられているように見えます。

星々に耀かされているばかりでは進歩も発展もないのでしょうか。ほんとうにそうなんでしょうか。

わたしたちはみな一人残らず宇宙全体によってひたすら耀かされている尊い存在なのです。
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