<おでいげ>においでおいで

たのしくおしゃべり。そう、おしゃべりは楽しいよ。

噛むと春がぷんと匂う

2014年04月22日 17時28分36秒 | Weblog
庭のあちらこちらに
蕗がぐんぐん成長している。
爽やかな黄緑の色をしている。
夕風に煽られて大きな葉っぱが揺れている。

これを摘んで来て、丁寧に筋を剥く。
炒り子の出しの薄醤油で煮てもらう。
噛むと春がぷんと匂う。
やわらかくてとってもおいしい。
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部屋には仏陀(の写真)がいっぱい

2014年04月22日 17時01分49秒 | Weblog
仏像写真集がカレンダーになったのを、
もう古くなって使わなくなったのを、
部屋の壁に貼り付けています。

何年分もあるので、部屋は仏像の写真だらけです。

釈迦牟尼世尊がいらっしゃいます。
阿弥陀如来がいらっしゃいます。
大日如来がいらっしゃいます。
薬師如来がいらっしゃいます。
観世音菩薩がいらっしゃいます。
地蔵菩薩がいらっしゃいます。
普賢菩薩がいらっしゃいます。
不動明王がいらっしゃいます。
その他の仏像も何体も何体もいらっしゃいます。
まるで曼荼羅界です。

ときおりその仏さま方のマントラを唱えます。

南無南無南無をします。
わたしを限りなく小さくします。

仏さまと仏さまがお話をなさるのを聞きます。

聞いている気持ちになります。

そうすると「仏さまとわたし」がそこでできあがります。

芥子粒のように小さいわたしですが、仏さまと相対しています。

仏さまに頭を撫でてもらいます。

そんなイマジネーションをします。

それからすやすや眠ります。

撫でてもらっていてもすやすや眠れないときがあります。

無仏のときにいるような苦しみを味わって朝を迎えることもあります。

ここは、しかし、無仏の場所ではありません。

カレンダーの写真集ですがわたしの部屋には仏陀がたくさんいらっしゃいます。
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新緑の安心を得たい

2014年04月22日 16時46分50秒 | Weblog
安心をしていないから
安心を得よう得ようとしている

さもさも
安心を得たような気持ちになっても
日暮れにはもう大雨大嵐になっている

愚かだ
ほんとうに愚かだ
愚かなまんまで日々が過ぎて行く
長い長い年月が過ぎて行く

いただいた人生の全部を
愚かさというクレヨンで
真っ黒に塗りつぶしてしまうことになる

これじゃ
何年を生かされようとも
真っ黒だ
墨のように真っ黒だ

たとえどんなに健康を恵まれても
たとえどんなに幸福を恵まれても
たとえどんなに豊穣を恵まれても
安心に行き着けないのなら
虚飾だ

健康も虚飾だ
幸福も虚飾だ
豊穣も虚飾だ

安心を得たい
生きている間に
絶対の安心というものを得たい

椎の木山の
椎の若葉の
滴る新緑のような
安心を得たい
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欲しがらないでもいい楽しみ

2014年04月22日 16時19分11秒 | Weblog
裸で生まれてきた。
所有するものは何もなく丸裸で生まれてきた。
というのに、その後、死ぬが死ぬまで欲しがる欲しがる。
たくさんたくさん欲しがる。これでいいということがない。
所有できるものならなんでもいいという具合に欲しがる。

両手に抱えきれないものは、貯蔵庫を広々とこしらえる。
そこにも我が物を蓄えに蓄える。
目に見えるものも見えないもの、とにかくなんでもいい。
所有の限りを尽くす。

でも、そこまで努力しても、死ぬときにはまた丸裸である。
すっからかんの一文無しにならねばならない。

どんなに強欲しても、結果的には無欲に等しくされてしまう。
昨日までの強欲の楽しみ。それも灰燼に帰してしまう。
それでやっと無欲の楽しみが始まる。

強欲の楽しみ以外に楽しみがあったと言うことを、
そこではじめて知ることになる。
強欲の楽しみが最上最高だったはずなのに、
所を変えれば価値観が逆転してしまうので、
あれはなんだったんだろうと思うことになる。



所有と無所有。
所得と無所得。

仏陀に帰依をしてしまうと、わが所有が無意味になってしまうに違いない。
他力に与れば、わが所得がいかに小さく粗末だったかを知るに違いない。

自力のなす所有、他力のなす無所有。
自力が拘泥する所得、他力が放棄する無所得。

仏陀の悟りの内容は「大いなる放棄」であった。

安心の世界では自力に依存しなくても暮らしていけるのだ、おそらく。



在りし日の釈迦牟尼世尊は、サンガにあってお弟子達とともに、
無所有と無所得と無住所を実践された。

無欲の楽しみとは欲しがらないでもいい楽しみである。










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