<おでいげ>においでおいで

たのしくおしゃべり。そう、おしゃべりは楽しいよ。

愛の形は無限数∞

2010年01月31日 14時05分05秒 | Weblog
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<彼女の愛を受け入れる>なんて、いろっぽくせまったタイトルのせいだろう、これは。

「ううん、騙されたっ」って悔しがって引き返して行かれただろうな。ごめんなさいね。

この年齢である。いろっぽいことは書けない。
理屈っぽことしか書いていない。これは反省である。
いろっぽいことを書けたら書いた方がいいのである。

人生からいろいろの<いろ>を脱色したら、色艶もなくなって、かさかさになってしまう。

     *

その大切なみずみずしい<いろ>を保っておく秘訣が、どこかにあるにちがいない。

形にあらわれる<からだ>に保っておけないのなら、形のない<こころ>に保っておけそうにおもえる。

そういうビューテイーサロンがあってもいいだろう。そこへ行けば若々しくみずみずしく、春の精になれるというような。

     *

なこともない。

それは長く生きないということである。

     *

100才までの人生を1回生きるのに100年を与えられる。
でも、20才までの人生だったら同じ年月で5回を体験できるのである。

100才 x 1回 = 100年
20才 x 5回  = 100年

計算上ではこうなる。どちらを選択してもよかったのである。

20才で亡くなったらあまりにもそれは悲しいことだ、というふうに現実では考えて、そう言う人は不幸の極の人と憐れまれるだろうけどね。

     *

長く長く生きたいと考えて、いのちにしがみついている人は、人生は一度しかないと固く硬く信じている人である、とは言えまいか。

人生が、たとえば、何度でも生きられるというのであれば、人はどんな選択をするのだろう?

     *

さて、今日はここまでとする。

彼女の愛を受け入れるところは、実はこの人生だけではない。一つ先の駅のあの世でも受け入れられる。

ぼくの考えだとそこでは仏陀に、仏陀の愛に受け入れられる。

二つ先の駅のあの世のあの世でも受け入れられる。仏陀はガンジス川の砂の数ほどもおられて、それぞれが理想とする国土を建設しておられる。
そこの仏国土の仏陀の愛に受け入れられる、そういうことに設定されている。

そこを旅して行くことになっている。仏陀の国は無限数あるので、旅も無限数∞である。

われわれは無限数の旅をして行くから、したがって、楽しみは若さの楽しみだけではない。無限数の楽しみが待っていることになる。愛の形も無限数である。

(あ、仏教では、<愛>とは執着のことであるから、<慈悲・いつくしみとかなしみ>としなければならないかもしれない)
コメント (2)
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