長篠落武者日記

長篠の落武者となった城オタクによるブログです。

満光寺の鶏

2015年02月11日 | 日本史
 最近、ブログの更新が滞っているのは、本業が忙しかったこともありますが、気になったことを調べだしたらドツボッた、ということもあります。

 それは「青龍山満光寺」。

 新城市山吉田にあるお寺です。
 

 遠州流の見事な庭があります。

 
 なかなか面白い逸話を持っているので、まずはご紹介。

〇 家康公の危機を救った満光寺とニワトリ

 1570年頃(元亀年間)家康が若い頃、武田信玄の軍勢に追われて逃げる途中、満光寺に一泊し、一番ドリが鳴いたら起こせと頼んで寝ました。ところがその夜半に突然ニワトリが鳴いたので、住職が家康一行を起こした。一行は大急ぎ闇の中を出発した。夜明けと共に武田軍が寺を包囲したが、家康一行は危機一髪命拾いした。家康はこの恩がえしとして、満光寺のニワトリに三石の扶持を与えた。その後、1649年(慶安二年)家光から寺領二十石が与えられた。「山の吉田の満光寺さまのとりになりたや、にわとりに」と、今でも民謡として歌いつがれている。
(満光寺パンフレット)

 お寺にあった説明書きではもう少し詳しく書かれており、
「家康は慶長六年(1601年)伊奈備前守忠次を通じ、鶏に三石の黒印状を与え感謝したという。」
と、あります。

 ちなみに、このお寺、鶏がいました。今、三石は与えられていなさそうです。


 さて、この話。
 いつ徳川家康が逃げたのか、そして、どういうシチュエーションで、具体的にはどこからどこへ何の戦いで逃げたのか、ということが気になっていました。
 どうせ、調べればすぐにわかるだろう、と、思って調べてみると、意外にも「元亀年間」という、ぼやっとした話ばかり。「なぜ?」と思い、そのうち調べよう、と、思っていたら名古屋へ帰る羽目に。
 一度、同じように調べている人がおり、その人は浜松から長篠へ家康が向かったと思っていました。

 が、私は根拠がある訳ではないのですが、浜松を放棄して家康が信玄から逃げていく、というシチュエーションは考えられないので、それは無いだろう、と、内心思ったことを覚えています。(浜松を放棄して家康が逃げたら、遠江は家康領国として存在しえなくなります。)

 久々に気になってネットで調べていたら、「山吉田の部屋」という謎の頁を見つけました。たぶん、山吉田財産区のホームページだと思われます。
 かなり詳しく書いてあり、現在更新されているかは不明ですが、何がすごいって、黒印状の写しと思われる写真も載っているのです。
 
 この写しを読んでおりましたら、山吉田村は八名郡だったんですね。
 新城市に住んでいるとき、長篠付近の方々と山吉田の方々は交流があまりない印象を受けました。と、いうか、山吉田が地域の中で浮いている、という感じです。その時鳳来町史を読んでいたら、鳳来町になるための合併時に、山吉田村の取り扱いが問題となり、山吉田は独立して存在する案もあったと書いてありました。それだけ、独立の気風が強いのが不思議だったのですが、豊川西側の設楽郡と郡が違う。どうにも、この郡が違う、というのが風俗や気質の違いにつながり、地域的な交流がない、というのが印象です。

 話が逸れました。
 
 山吉田の部屋なるHPによれば、満光寺パンフの中の民謡は、領主交替で年貢が苦しくなったのを受けて、三石の扶持を受けている鶏を羨んで詠んだ、と、されており、パンフだとただ単に羨ましい、という話ですが、結構切実な響きを持った歌と言うことが分かります。

 また、伊奈備前がなぜ登場するのか、という点も、検地奉行として当時天領だった山吉田を訪れた伊奈備前が逗留先として満光寺に泊まり、話を聞いたら色々と由来があるので三石の黒印となった、と、理由がそれぞれ書いてあります。ちなみに、寺領の発給文書としては黒印状を用いられるそうなので、黒印状を貰っている、ということは、かなり正確性を持っていると考えてられます。

 が、ここまで精確に書かれているのに、私の知りたい「いつ鶏が鳴いたのか。」という肝心な点については、
「元亀元~3年」
 と、残念ながら幅を持たせて書いてあります。

 無念。

 久々に、史料を読みながら調べてブログに書こうと思ったのが運の尽き。
 元亀年間は、厄介なのです。

 久々に、つづく

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