3月10日の夜のちょっとした会合で話題が丸馬出に及びました。その際、高橋延年氏から素晴らしい丸馬出がある城がある。とお聞きし、どうしても見たくなったのが3月25日の城旅の動機です。途中で上野南本城だの松岡城だのとんでもない物件に遭遇し危うく『遭難』しかかりましたが、何とかたどり着きました。
この大島城、期待にたがわぬ名城です。現在、城は丸ごと「台城公園」という公園になっています。

○大島城
大島城跡は松川町南端の古町地籍に所在しています。城跡の西側一帯は大嶋町と呼ばれた往時の城下町である古町の平坦面に続き、北から南、西の方向は天竜川に面した段丘崖で、特に北から東側は天竜川の激流が裾を洗う断崖絶壁となり、眺望にすぐれた天然の要害の地に城が構えられていることが知られます。
大嶋城跡は東西360m、南北225m程の範囲で、規模の大きな複雑な空堀によって区画された郭は大きく三つに分けられ、西より三の丸、二の丸、本丸と続き、馬出・井戸曲輪をはじめとする小曲輪を各所に配置しています。大島城は旧記によれば「台城」「大蛇ヶ城」「猿ヶ鼻城」の呼び名があり、一般的には「台城」あるいは「台城の城」と呼ばれて古くよりこの地方の人々に親しまれてきました。しかし、こうしあた呼び名は城にまつわる伝説からきたもので、往時は「大島の城」と呼ばれていたものとみられます。(参考 『大島城跡』発行:松川町教育委員会)
大島城の縄張について『大島城跡』の説明を要約しますと、元亀2年(1571)に秋山伯耆守信友(虎繁)が大規模な修復を行い、高遠城・飯田城とともに伊那郡経略の拠点となったそうです。城普請の際の文書が残っているそうでして、下伊那二十一郷の百姓が人足として徴用されたとか。結果的にこれだけ迫力のある城でありながら、天正10年(1582)には織田氏の伊那郡侵攻により戦わずして自焼陥落。この時の城番は武田逍遥軒信廉。(以上参照『大島城跡』)
この後、高遠城で仁科五郎盛信が抵抗らしい抵抗をみせますが、武田家は一気に崩壊し天目山麓で武田勝頼一行が無念の自刃を遂げ滅亡します。
さて、この大島城、公園に入る入口から、もうすごい。
車を運転しながら「すげーーーーー!」と一人で絶叫しました。だって、いきなりこの三日月堀ですよ。

で、たぶん堀を埋めて作ったと思われる駐車場に車を止め、三日月堀を堀底まで降りて堪能した後、城内へ侵入。

いきなり右手に巨大な丸い土塁上のものが現れ「馬出」とか言ってる。なぜここに?と思ったのですが、縄張図を見て疑問氷解。
現地は公園化されてわかりにくいですが、縄張図をみると、本来は先ほどの三日月堀から現在民家となっている丸馬出を経て三の丸に入り、二の丸へ渡るのが正解のようです。その場合、三の丸・二の丸間の連絡通路を防御しつつ、本丸近くにある井戸を防御する役割がこの馬出だと思います。この馬出から塹壕状の土塁が複雑に走っており迷路状になっています。こりゃあ攻め込んだら迷う。

右手に折れて三の丸へ侵入。二の丸との間の堀がこれ。

弧を描きながらの大規模な堀に萌えない城ヲタはいない。
そして本来の入口であった付近へ向かうと、現在は人家が立っており中は拝見できず。でも、三日月堀に守られた丸馬出から土橋でつながる三の丸の入口には両袖枡形があったらしいのです。写真のまきが置いてあるあたりが枡形内部。私が写真撮影をするために立っている高台が枡形の土塁です。

三日月堀→丸馬出→両袖枡形。見事な武田流築城術三連コンポにやられてしまいます。
そして三の丸をぐるりと回って二の丸へ向かい、脇にあるなんや訳のわからないうねうねした感じの堀にいちいち絶叫しながら本丸へ。とにかく土木量が半端ない。この本丸と二の丸の間の広いこと!

そして本丸内部。広い!

木が無ければ天竜川が一望できます。とにかく奥三河と比較して思うのが曲輪がでかいこと。相当な兵力を駐留させることができたでしょう。
忘れてならないのが井戸。井戸そのものもすごいが、井戸自体が曲輪になっており必見です!

ちなみに「堀底の井戸」も武田流築城術の一つ。天水だまりの場合が多いそうですが、天竜川沿いだから掘れば沸いたかもしれません。井戸内部は石組みで、現在も残っています。そして、この井戸は土塁で周囲を囲い見えなくしています。井戸へ入る虎口には天然石を活かして狭くしてあり、もうこの用心深さには脱帽です。

こんな城落とせるんか!?と、突っ込みたくなりますが、実際、落ちている訳です・・・。すごい造形の割りに、自焼陥落という運命を辿ったのは奥三河の古宮城と同じ。
まさに「人は城、人は石垣、人は堀」なんですね。どんなに立派に作っても守る人がいなければ駄目な訳です。
もっとも、武田信玄は本当にこの言葉を言ったらしい訳ではないですけど。
造形がすごいだけに、その末路に一抹の悲しさを感じます。
もののあはれ。
この大島城、期待にたがわぬ名城です。現在、城は丸ごと「台城公園」という公園になっています。

○大島城
大島城跡は松川町南端の古町地籍に所在しています。城跡の西側一帯は大嶋町と呼ばれた往時の城下町である古町の平坦面に続き、北から南、西の方向は天竜川に面した段丘崖で、特に北から東側は天竜川の激流が裾を洗う断崖絶壁となり、眺望にすぐれた天然の要害の地に城が構えられていることが知られます。
大嶋城跡は東西360m、南北225m程の範囲で、規模の大きな複雑な空堀によって区画された郭は大きく三つに分けられ、西より三の丸、二の丸、本丸と続き、馬出・井戸曲輪をはじめとする小曲輪を各所に配置しています。大島城は旧記によれば「台城」「大蛇ヶ城」「猿ヶ鼻城」の呼び名があり、一般的には「台城」あるいは「台城の城」と呼ばれて古くよりこの地方の人々に親しまれてきました。しかし、こうしあた呼び名は城にまつわる伝説からきたもので、往時は「大島の城」と呼ばれていたものとみられます。(参考 『大島城跡』発行:松川町教育委員会)
大島城の縄張について『大島城跡』の説明を要約しますと、元亀2年(1571)に秋山伯耆守信友(虎繁)が大規模な修復を行い、高遠城・飯田城とともに伊那郡経略の拠点となったそうです。城普請の際の文書が残っているそうでして、下伊那二十一郷の百姓が人足として徴用されたとか。結果的にこれだけ迫力のある城でありながら、天正10年(1582)には織田氏の伊那郡侵攻により戦わずして自焼陥落。この時の城番は武田逍遥軒信廉。(以上参照『大島城跡』)
この後、高遠城で仁科五郎盛信が抵抗らしい抵抗をみせますが、武田家は一気に崩壊し天目山麓で武田勝頼一行が無念の自刃を遂げ滅亡します。
さて、この大島城、公園に入る入口から、もうすごい。
車を運転しながら「すげーーーーー!」と一人で絶叫しました。だって、いきなりこの三日月堀ですよ。

で、たぶん堀を埋めて作ったと思われる駐車場に車を止め、三日月堀を堀底まで降りて堪能した後、城内へ侵入。

いきなり右手に巨大な丸い土塁上のものが現れ「馬出」とか言ってる。なぜここに?と思ったのですが、縄張図を見て疑問氷解。
現地は公園化されてわかりにくいですが、縄張図をみると、本来は先ほどの三日月堀から現在民家となっている丸馬出を経て三の丸に入り、二の丸へ渡るのが正解のようです。その場合、三の丸・二の丸間の連絡通路を防御しつつ、本丸近くにある井戸を防御する役割がこの馬出だと思います。この馬出から塹壕状の土塁が複雑に走っており迷路状になっています。こりゃあ攻め込んだら迷う。

右手に折れて三の丸へ侵入。二の丸との間の堀がこれ。

弧を描きながらの大規模な堀に萌えない城ヲタはいない。
そして本来の入口であった付近へ向かうと、現在は人家が立っており中は拝見できず。でも、三日月堀に守られた丸馬出から土橋でつながる三の丸の入口には両袖枡形があったらしいのです。写真のまきが置いてあるあたりが枡形内部。私が写真撮影をするために立っている高台が枡形の土塁です。

三日月堀→丸馬出→両袖枡形。見事な武田流築城術三連コンポにやられてしまいます。
そして三の丸をぐるりと回って二の丸へ向かい、脇にあるなんや訳のわからないうねうねした感じの堀にいちいち絶叫しながら本丸へ。とにかく土木量が半端ない。この本丸と二の丸の間の広いこと!

そして本丸内部。広い!

木が無ければ天竜川が一望できます。とにかく奥三河と比較して思うのが曲輪がでかいこと。相当な兵力を駐留させることができたでしょう。
忘れてならないのが井戸。井戸そのものもすごいが、井戸自体が曲輪になっており必見です!

ちなみに「堀底の井戸」も武田流築城術の一つ。天水だまりの場合が多いそうですが、天竜川沿いだから掘れば沸いたかもしれません。井戸内部は石組みで、現在も残っています。そして、この井戸は土塁で周囲を囲い見えなくしています。井戸へ入る虎口には天然石を活かして狭くしてあり、もうこの用心深さには脱帽です。

こんな城落とせるんか!?と、突っ込みたくなりますが、実際、落ちている訳です・・・。すごい造形の割りに、自焼陥落という運命を辿ったのは奥三河の古宮城と同じ。
まさに「人は城、人は石垣、人は堀」なんですね。どんなに立派に作っても守る人がいなければ駄目な訳です。
もっとも、武田信玄は本当にこの言葉を言ったらしい訳ではないですけど。
造形がすごいだけに、その末路に一抹の悲しさを感じます。
もののあはれ。