『長篠落武者日記』を名乗っておりますが最近長篠付近の話がない、と、我ながら思っておりました。
久方ぶりの新城市内の城についてです。
少し前になりますが「石田を歩こう会」というイベントがあることを知りまして参加してきました。
地元の方々による歴史案内ガイド付き健康増進大会。
長篠、設楽原、と、言えば教科書レベル。
古宮城、作手城塞群、と、言えば城縄張萌えの当然レベル。
宇利城、と、言えば「風は山河より」読者公認レベル。
しかし、石田城、新城古城、石田陣屋、と、なると、「え?」という人も多いのではないかと。
石田地区は、非常にざっくりと申し上げますと新城橋という豊川を結ぶ橋の辺りの地域です。
武田信玄最期の戦い、野田城攻めの際、宇利方面から侵入した武田軍は対岸の野田城を囲むため、豊川が浅くなる石田付近で渡河し、道目記城(現在横浜ゴム社員寮)に本陣を置いたといわれています。
この辺りで鮎を取るための網漁に参加したことがあるので豊川へ入ったことがありますが、実際、歩いて渡れます。
さらに、風は山河よりを読まれた方には「石田合戦」というとお解りいただけるかと。
永禄五年(1562年)に今川方になっていた野田城を菅沼定盈が奪還。奪われた今川勢は城を取り返そうとするが失敗。そこで、近くにあった新城古城を攻め落とすことで今川氏真に申し開きをしようと考え、攻め寄せたところ、城主菅沼定氏が近くの万福寺に潜んで迎撃。今川勢を撃退。体勢を立て直した今川勢は再度攻め寄せますが菅沼勢に大破されてしまい大将稲垣十郎左衛門が討死をしてしまいます。
そんな石田地区の城達はどんな城なんでしょうか。
まずは「石田城」からでした。
※中央のこんもりがそれ。
※標柱もあります。
※堀。結構広いです。
石田城は天正18年(1590年)7月に池田輝政が吉田城主となった際、家老の片桐半衛門正義は、新城市平井、杉山、野田7千石を与えられ、石田西金国という変わった地名の場所に城を築きました。これが石田城です。
もともと、現在の新城小学校の辺りに長篠合戦後に奥平信昌が築いた城があった訳ですが、なぜか半衛門は一旦入場するもののこの城を使わず、石田城を築きました。
関ヶ原の戦いの後、池田輝政は姫路城へ移封され半衛門も移封。石田城は廃城となります。
なぜ半衛門は石田城を築いたのか。
一説には、徳川の影響力が非常に強い地域(奥平信昌の正室は徳川家康長女亀姫)だったので、豊臣大名であった池田輝政には徳川色一掃の使命があったことから、新しい時代を知らしめるためだった、と言われています。
また、片桐半衛門は池田輝政から養子を迎えており、養子に新城城を譲り自らの隠居城とするために作ったのではないか、とも、言われています。
石田城ですが、豊川と道目記川に挟まれた長篠城に似た選地。
幅の広い堀と土塁に囲まれた方形単郭の城です。
大手側からの道はクランク状になっており、横矢を意識したものと思われます。
※土塁上から虎口を臨む。
また、現在は無くなっていますが、古図面を見ますと大手口は枡形になるような構築物があったようです。
※城内は茶畑です。
また、城の北側にも虎口が開いていますが、こちらは道の曲げ方と土塁の構築の仕方が見事です。
※横矢を掛けるんでしょう。
北側には吉田往還が走っており、豊橋と信州、遠州を繋ぐ重要な街道だったそうです。
領主の館、という感じですが、堀幅の広さは鉄砲を意識したものでしょうし、単なる館ではなく防御機能はそれなりにある城です。
その後、泉蔵寺へ。
※四脚門が立派。写真右は大銀杏。
秋葉街道とも繋がり、常夜燈があったそうです。その隣には大銀杏が。
説明で始めて知りましたが、銀杏は水気の多い木だそうで火伏せの役割があったそうです。なるほど。
もっとも、足元には銀杏爆弾が散っておりまして、そのまま家に帰ると家の中が異臭騒動になりそうでした。
寺の中には、長寛2年(1164年)に領主の命令で竹下一族が石田村を開拓した時期からある十王堂があります。
※閻魔様を始めとする十王様。
新城市内にはやたらと十王堂があります。
それだけ、十王信仰が厚かったということでしょう。
ちなみに、この泉蔵寺。酒の飲みすぎで遺体が腐らなかったと言われている、あの若山牧水の歌にも詠まれているそうです。
「豊川の ほとりにいます 泉蔵寺」
う、うーむ。
ほんとに牧水の歌なのか?
どうにも短歌などには疎いので・・・。
寺を出ますと吉田往還が。
このうねり具合。
きっと旧道のままなのでしょう。
旧道萌えには堪らないと思います。(実際そういう人を見ました。城に限らずいろんな人がいるんですね。)
さて、長くなりましたので、石田陣屋や新城古城は次の回へ。
久方ぶりの新城市内の城についてです。
少し前になりますが「石田を歩こう会」というイベントがあることを知りまして参加してきました。
地元の方々による歴史案内ガイド付き健康増進大会。
長篠、設楽原、と、言えば教科書レベル。
古宮城、作手城塞群、と、言えば城縄張萌えの当然レベル。
宇利城、と、言えば「風は山河より」読者公認レベル。
しかし、石田城、新城古城、石田陣屋、と、なると、「え?」という人も多いのではないかと。
石田地区は、非常にざっくりと申し上げますと新城橋という豊川を結ぶ橋の辺りの地域です。
武田信玄最期の戦い、野田城攻めの際、宇利方面から侵入した武田軍は対岸の野田城を囲むため、豊川が浅くなる石田付近で渡河し、道目記城(現在横浜ゴム社員寮)に本陣を置いたといわれています。
この辺りで鮎を取るための網漁に参加したことがあるので豊川へ入ったことがありますが、実際、歩いて渡れます。
さらに、風は山河よりを読まれた方には「石田合戦」というとお解りいただけるかと。
永禄五年(1562年)に今川方になっていた野田城を菅沼定盈が奪還。奪われた今川勢は城を取り返そうとするが失敗。そこで、近くにあった新城古城を攻め落とすことで今川氏真に申し開きをしようと考え、攻め寄せたところ、城主菅沼定氏が近くの万福寺に潜んで迎撃。今川勢を撃退。体勢を立て直した今川勢は再度攻め寄せますが菅沼勢に大破されてしまい大将稲垣十郎左衛門が討死をしてしまいます。
そんな石田地区の城達はどんな城なんでしょうか。
まずは「石田城」からでした。
※中央のこんもりがそれ。
※標柱もあります。
※堀。結構広いです。
石田城は天正18年(1590年)7月に池田輝政が吉田城主となった際、家老の片桐半衛門正義は、新城市平井、杉山、野田7千石を与えられ、石田西金国という変わった地名の場所に城を築きました。これが石田城です。
もともと、現在の新城小学校の辺りに長篠合戦後に奥平信昌が築いた城があった訳ですが、なぜか半衛門は一旦入場するもののこの城を使わず、石田城を築きました。
関ヶ原の戦いの後、池田輝政は姫路城へ移封され半衛門も移封。石田城は廃城となります。
なぜ半衛門は石田城を築いたのか。
一説には、徳川の影響力が非常に強い地域(奥平信昌の正室は徳川家康長女亀姫)だったので、豊臣大名であった池田輝政には徳川色一掃の使命があったことから、新しい時代を知らしめるためだった、と言われています。
また、片桐半衛門は池田輝政から養子を迎えており、養子に新城城を譲り自らの隠居城とするために作ったのではないか、とも、言われています。
石田城ですが、豊川と道目記川に挟まれた長篠城に似た選地。
幅の広い堀と土塁に囲まれた方形単郭の城です。
大手側からの道はクランク状になっており、横矢を意識したものと思われます。
※土塁上から虎口を臨む。
また、現在は無くなっていますが、古図面を見ますと大手口は枡形になるような構築物があったようです。
※城内は茶畑です。
また、城の北側にも虎口が開いていますが、こちらは道の曲げ方と土塁の構築の仕方が見事です。
※横矢を掛けるんでしょう。
北側には吉田往還が走っており、豊橋と信州、遠州を繋ぐ重要な街道だったそうです。
領主の館、という感じですが、堀幅の広さは鉄砲を意識したものでしょうし、単なる館ではなく防御機能はそれなりにある城です。
その後、泉蔵寺へ。
※四脚門が立派。写真右は大銀杏。
秋葉街道とも繋がり、常夜燈があったそうです。その隣には大銀杏が。
説明で始めて知りましたが、銀杏は水気の多い木だそうで火伏せの役割があったそうです。なるほど。
もっとも、足元には銀杏爆弾が散っておりまして、そのまま家に帰ると家の中が異臭騒動になりそうでした。
寺の中には、長寛2年(1164年)に領主の命令で竹下一族が石田村を開拓した時期からある十王堂があります。
※閻魔様を始めとする十王様。
新城市内にはやたらと十王堂があります。
それだけ、十王信仰が厚かったということでしょう。
ちなみに、この泉蔵寺。酒の飲みすぎで遺体が腐らなかったと言われている、あの若山牧水の歌にも詠まれているそうです。
「豊川の ほとりにいます 泉蔵寺」
う、うーむ。
ほんとに牧水の歌なのか?
どうにも短歌などには疎いので・・・。
寺を出ますと吉田往還が。
このうねり具合。
きっと旧道のままなのでしょう。
旧道萌えには堪らないと思います。(実際そういう人を見ました。城に限らずいろんな人がいるんですね。)
さて、長くなりましたので、石田陣屋や新城古城は次の回へ。