長篠落武者日記

長篠の落武者となった城オタクによるブログです。

名奉行 新見伊賀守

2015年01月11日 | 日本史
甲子夜話続編を読んでいたら、 名奉行について書いてあるのですが、その内容の一部にとんでもないことが書いてあったのでご報告。閲覧注意。

〇 大坂の刑罰


※十手の折畳み傘
 ・・・
 新見伊賀守が大坂町奉行のとき、巡視の時牢屋の構えが江戸と違い湿気の酷いところで、さらに造りも悪かった。
 そのため、入牢した者は、皆病気になって十人のうち一人でも無事に刑期を終えることができたら良い状況だった。そのため、自他ともに入牢=死を覚悟していた。
 新見伊賀守が言うには、
「入牢が刑罰を下す場ではない。その罪の軽重により、或いは死罪、或いは遠島などの刑罰が課されるのである。それが処分であり入牢ではない。これでは天命に背き、あまりに酷い。よって、江戸と同じような造りにせよ。」
 しかし、同僚たちは賛成しない。
 そこで新見は江戸の幕府に申し出て、遂に大坂の牢屋の改善を行った。
 また、大坂での火あぶりの刑は、銅壷のような物の中に火を入れ、罪人を壷に縛りつける。そのうち壷の中の火が激しくなって、罪人は熱さに耐え切れず絶叫して焚死する。また、鉄の環を立てた銅柱に通し、鎖で罪人を環に繋ぐ。そして、火を四方から焚きつけると、罪人は熱さに耐えかねて柱の周りをぐるぐると走り回り、遂に悶絶死する。
 これらは刑罰とはいえ、残忍であるのでやめよう、と、同僚に提案したが、またも無視されたので、これまた江戸に東西で刑罰が違うのはいかがなものか、と、申し出て改善された。
 ・・・

ここに出てくる新見(しんみ)伊賀守は、天保年間に大坂西町奉行を勤め、安部川を浚渫して日本一低い山として有名な天保山を作った江戸時代の幕府の役人で、将軍の御側御用取次などをやっており、江戸に強い人脈を持っていたことが想像されます。

しかし、江戸時代も末期に近い時期、大坂の牢屋は「入牢=死」を意味するような状況で、なおかつ、銅の壺を罪人に抱かせて、壺の中で火を炊くだの、暑さに耐えかねてぐるぐると走り回って焼け死ぬような火炙りの方法が残っていた、というのがおどろきです。しかも、それは江戸の新見からすると江戸の方法と違い、残忍極まりなく見えた、ということのようです。

大坂の人達は当たり前だと思っていたようですけど。。。

今では残忍な方法による死刑は禁止されていますが、まだ200年前の日本でも結構な方法が執行されていたようです。

しかしまぁ、そんな光景を見せられていた庶民、というのも、それに慣れるんでしょうね。
だから大坂の役人は「なんで変えないかん?」という感覚だったのだと思います。

でもまぁ、怖ろしい方法を考えつく人もいるもんですわ。

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