戦国の覇王、織田信長。
どちらかというと世紀末に空から降ってくる恐怖の大魔王的な存在として記されるような彼でございますが、ちょっと親しみを覚える、オヤジ的なエピソードを名将言行録で発見しました。
その名も「おおぬるやま」。
『大緩山(おおぬるやま)』
天正元年(1573年)八月、信長が越前(福井県)の朝倉義景を攻めた際、義景は2万の兵で刀根山に陣をしき、信長軍の先鋒は刀根山の麓である大緩山に陣を敷いた。
信長は櫓に登り、敵陣を見てから言うには、
「敵を見てみたらよー、絶対今夜撤退すると思うんだわ。ほんだで、先鋒の奴らは気を緩めたらいかんぞ。わかっとるな?」
と、何回も先鋒に使者を送った。
部下達は
「なんで殿はそんなことを言うのだろうか?敵は大軍で山に陣取って地の利を得ているし、大合戦を前にして、引くとは思えないのだが・・・?」
と疑っていた。
しかし、夜になっても信長は櫓にいて、敵陣を睨み続ける。
丑の刻(午後2時くらい)に「おお、敵が引いとるて!」と叫んで、法螺貝を吹かせる。
信長は馬に乗り、
「ワシが何回もいっとるのに、大緩山に陣取る先鋒の奴等信用しとらんでかんわっ!!! あのくそたわけ共が油断してまっとるなら、ワシの馬回りのお前らは、逆に手柄のチャンスだわ。かかれぇっ!」
と、叫んで真一文字に敵陣に突入していった。
大緩山の先陣は信長親衛隊に遅れて突撃する羽目になり、親衛隊で勝利をおさめた戦いとなってしまった。
これ以降、常に信長は、油断している者に「大緩山」と言って、笑ったとさ。
と、いうことは、

とか、

とか、

とか、言ってたんでしょうか?
あの信長様が。
おおぬるやま、という響き。
これがまた、ぬるさ爆発で、そんなところも気に入ったのかもしれません。
でも、きっと上機嫌の時だけだったのでしょう。
なぜなら、この合戦は朝倉氏を滅亡に追い込んだ越前攻略戦の始まりの戦いのことだと思われます。
そして、このとき、どうやら親衛隊に遅れて到着した前線武将達を信長は激しく叱責したようです。
その時、当時織田家中では最大勢力とも言ってよかった佐久間信盛が、よせば良いのに、
「そうおっしゃっても、私ほどの者は家臣として持つことはできないでしょう。」
と怒って反論してしまったようです。
そして、7年後、突如として佐久間信盛は織田家を追放となり、あちこち追い回されて悲惨な最期を遂げることになります。
そんな状況を知っている羽柴秀吉や柴田勝家にしてみれば、
「この大緩山が!」
と発言した信長の目が笑っていないことを見て、脂汗を垂らしながら、
「は、ははははは。う、上様、参りましたなぁ。あははははは。あはははは。」
と、上ずった声で笑っている様子が目に浮かびます。
ちなみに、この名将言行録に収録されている大緩山とは、山田山が正式名称のようです。
一度、登ってみたい山ですね。
どちらかというと世紀末に空から降ってくる恐怖の大魔王的な存在として記されるような彼でございますが、ちょっと親しみを覚える、オヤジ的なエピソードを名将言行録で発見しました。
その名も「おおぬるやま」。
『大緩山(おおぬるやま)』
天正元年(1573年)八月、信長が越前(福井県)の朝倉義景を攻めた際、義景は2万の兵で刀根山に陣をしき、信長軍の先鋒は刀根山の麓である大緩山に陣を敷いた。
信長は櫓に登り、敵陣を見てから言うには、
「敵を見てみたらよー、絶対今夜撤退すると思うんだわ。ほんだで、先鋒の奴らは気を緩めたらいかんぞ。わかっとるな?」
と、何回も先鋒に使者を送った。
部下達は
「なんで殿はそんなことを言うのだろうか?敵は大軍で山に陣取って地の利を得ているし、大合戦を前にして、引くとは思えないのだが・・・?」
と疑っていた。
しかし、夜になっても信長は櫓にいて、敵陣を睨み続ける。
丑の刻(午後2時くらい)に「おお、敵が引いとるて!」と叫んで、法螺貝を吹かせる。
信長は馬に乗り、
「ワシが何回もいっとるのに、大緩山に陣取る先鋒の奴等信用しとらんでかんわっ!!! あのくそたわけ共が油断してまっとるなら、ワシの馬回りのお前らは、逆に手柄のチャンスだわ。かかれぇっ!」
と、叫んで真一文字に敵陣に突入していった。
大緩山の先陣は信長親衛隊に遅れて突撃する羽目になり、親衛隊で勝利をおさめた戦いとなってしまった。
これ以降、常に信長は、油断している者に「大緩山」と言って、笑ったとさ。
と、いうことは、

とか、

とか、

とか、言ってたんでしょうか?
あの信長様が。
おおぬるやま、という響き。
これがまた、ぬるさ爆発で、そんなところも気に入ったのかもしれません。
でも、きっと上機嫌の時だけだったのでしょう。
なぜなら、この合戦は朝倉氏を滅亡に追い込んだ越前攻略戦の始まりの戦いのことだと思われます。
そして、このとき、どうやら親衛隊に遅れて到着した前線武将達を信長は激しく叱責したようです。
その時、当時織田家中では最大勢力とも言ってよかった佐久間信盛が、よせば良いのに、
「そうおっしゃっても、私ほどの者は家臣として持つことはできないでしょう。」
と怒って反論してしまったようです。
そして、7年後、突如として佐久間信盛は織田家を追放となり、あちこち追い回されて悲惨な最期を遂げることになります。
そんな状況を知っている羽柴秀吉や柴田勝家にしてみれば、
「この大緩山が!」
と発言した信長の目が笑っていないことを見て、脂汗を垂らしながら、
「は、ははははは。う、上様、参りましたなぁ。あははははは。あはははは。」
と、上ずった声で笑っている様子が目に浮かびます。
ちなみに、この名将言行録に収録されている大緩山とは、山田山が正式名称のようです。
一度、登ってみたい山ですね。