長篠落武者日記

長篠の落武者となった城オタクによるブログです。

古瀬間城 ~山城街道301に連なる城~

2013年07月28日 | 落城戦記
山城街道301、というのは私が今勝手に名前を付けてみました。
国道301号って、ものすごい城が多いんですよね。それも比較的保存状態が良い城が。

昔、奥三河山城デジタルスタンプラリーを実施した際、本当は301号を含んだ全体でやれると面白いな、と、思ったんです。まぁ、諸々の事情により奥三河の7城に絞らざるを得ませんでしたが。

この301号は私が惚れ込んで新城市へ移住する(残念ながら現在は仕事の都合で尾張名古屋に戻っていますが。)きっかけになった古宮城も301号上にあります。

この街道、主な城を上げるだけでも、大給城、松平城山城、松平城、大沼城、賽之神城、古宮城、亀山城。いずれ劣らぬ名城ばかり。城としての技巧が凝らされているので見ていて楽しい城ばかりです。

と、この301号は、東海環状自動車道をくぐって、248号と153号とぶつかるんです。
153号に行けば足助へ行きますし、248号を行けば岡崎経由で蒲郡の海まで出られます。

で、301号の大給城には大給松平という有力一族がいますが、この一族が後の徳川将軍家となる松平宗家とは微妙な関係にあった感じでして、今川の討伐を受けていたりします。

この大給松平氏、その先にいる三宅氏、鈴木氏、さらには東濃の遠山氏は、資料の残りがよくないので不明な点が多いのですが、私が拘って調べている奥平氏とともに反今川蜂起を弘治年間にしたりしてまして、私にとっては想像がかき立てられる地域なのです。

元はと言えば、私が資料を読んでいると弘治年間の反今川蜂起は織田信長の策謀によるもの、ということが書いてあって「なんだとう!そんなこと、信長公記のどこにも書いてないじゃん!ええ、そんなんすごすぎぃ!」と思って、様々に調べていくと「?」という部分が多いんで困ってしまったことが、大給松平や三宅、鈴木、遠山と遡らざるを得なくなった原因なのです。

この弘治年間の直前、天文後半頃から織田家というのは旗色が悪い。
織田信長の父親、信秀は、天文17年(1548年)に小豆坂合戦で太原崇孚に撃破され、翌年18年、安城進行を受けて信長の異母兄とも言われる三郎五郎信広が生け捕りにされてしまいます。で、その翌19年後奈良天皇が織田今川に和睦の斡旋を命じます。さらに稲生の堤防が切れて尾張領内がえらいことになった記録もこの年にあります。稲生と言うのは、私の生まれ育った場所から結構近くて、ここが切れる、ということは、尾張の平野部に甚大な被害が出たことが想定されます。
さらに翌20年足利義藤(義輝)が織田今川の斡旋に乗り出てきて今川から織田に対して和睦条件が示されます。そして、翌21年、織田信秀は死去したと言われます。(信秀の死去年数については異説がある。)
で、そこから織田信長は弟信勝(信行)と結構ゴタゴタしたり、守山領有を巡って叔父信光が謎の死を遂げたりと、正直、「ほんとに今川に関ってるような余裕があったのか?」という感じなんですよね。さらに、肝心の弘治2年。この年は織田信長にとっての強力な同盟者斉藤道三が嫡子の義龍に滅ぼされてしまいます。要は、西濃は反織田。尾張の東側は弟信勝の勢力が強い状況なのです。
遠交近攻策の一環として西濃の背後の東濃、尾張東部の背後の三河となんらかの手を結ぶことも策として考えられなくもないこと、後の桶狭間の戦いの印象が強いので、織田信長陰謀説が出てきたのだと思いますが、西三河が仮にそうだからとしても、東三河までそうだと言えるのか、というのは疑問です。

で、色々と調べていくと、岡崎市史や豊田市史が推測で地域豪族が織田の影響を受けた、と、書いてあるから、東三河方面の郷土史も「じゃあ、うちも。」的な感じで書いてしまっているように見受けられます。

まぁ、今川と言う巨大な勢力を前にこの地域が独力で対抗することなどありえない、と、ハナから思い込んでいる、というのもありますが、最近では東濃の遠山、伊保三宅、足助の鈴木の連合軍と奥平・菅沼の一部が組んだのではないか、という説も出ています。私としては、当時の状況からそちらの可能性の方が高いと見ています。

実際、東濃の遠山が天文16年に大樹寺宝樹院に下地を寄進した記録の中に奥平氏の所領である宮崎や阿知波の地名が出てきます。それで「おや?何コレ?」と思ったんですね。

ただ、その年に今川義元から奥平氏に豊田市の高橋地区に医王山砦の関係で所領安堵の書状が出ていたりと、まぁ、私的には、まだ全く整理が付いてない状況なんで、ただ、本に書いてあることのみを列挙している状況です。

で、豊田の高橋地区ねぇ、と、気になっていたら、今年は仕事の関係で豊田市の高橋地区に行くことになりました。

で、その途中、ナビが発見した城が、今回のテーマ古瀬間城です。
(前置きが長すぎる。)



立派な山門!


そしてこんな冠木門が。


門の入口近くでスズメバチだかアシナガバチだかの巣があるようで、危ない!と思う。
湿気と暑さで汗が垂れるわ、それで蚊が寄ってくるわ。

だから夏の登城はだめなんだよねぇ、と改めて認識する。
まぁ、所要の途中で城向きの格好をしていない、というのもいかんのですが。
常なら完全フル装備で肌の露出はほとんど無く、蚊よけも散々にスプレーしていきますから。

結構整備されていました。
縄張図はこんな感じ。

※現地案内看板より。

案内看板が麓と頂上付近では言ってることが少々違います。麓の方はお寺の方が立てられたのかな?という感じで、頂上付近の方がなんとなく詳しい感じがします。それによりますと、
「松平氏が高橋荘攻略の拠点として永正3年(1506年)に松平宗忠(長沢松平家)に築城させたと言われています。」とのこと。
高橋荘攻略の拠点、ということは、一体、この時点で高橋荘の主は誰なんだ、というのが疑問。
永正の頃だと中条氏あたりが、まだ、力をそこそこ持ってたんじゃないのか?確か。
で、松平氏が勢力を伸ばして中条被官の三宅や鈴木と諍い出したのか?

実は永正三年は今川氏親が謎の三河侵攻をしてるんですね。
斯波氏領国の遠江攻略の関係で背後の三河まで影響力を及ぼそうとしたといわれています。

ま、なんかあっても不思議じゃない年。それが永正三年。
ちなみに、長篠付近で言えば、野田菅沼氏がこの年に成立します。

と、なると、今まで野田菅沼氏の成立が家臣団の謎の分裂から誕生した経緯を一度書きましたが、今川侵攻に伴う勢力変化で親今川派が勝った、ということも考えられますね。

などと、偶然見つけた城から、あれこれ考え出して混乱しております。

能書きはいいので、この城ですが整備されていますので、階段を登るとこんな感じで本丸に続くような感じです。


そこから続く本丸と思しき部分には立派な展望台が作られていまして、眺めは最高です。


個人的には、階段から登った部分から本丸に入ると言うよりは、その下をぐるりと回りこませて、虎口的なものをくぐらせて侵入させたんじゃないのか、と、見ましたが、はたしてどうでしょうかね?。


まぁ、時間の無い中で見たものですから何ともいえませんが・・・。

その裏には墓とかありまして、城よりも標高が高いのです。


城よりも標高が高い部分がそのまま残ってるのも面妖な、と、思い見ていますと林業作業用に作られた道なのか、でも、なんとなく「城?」とか思ってしまう部分もある。


まぁ、しっかりみてないので気のせいかもしれません。

なんにせよ謎が多かった、というのが感想です。
でも、長年「高橋地区」というのが地図や文書でしか見てなかったのですが、実際に意識して訪問したことで、少し意識が変わりました。

そういう意味では、ありがとう、古瀬間城、という感じです。


これで、最近頓挫していた奥平関係の書類をもう少し読む気が起きてきました。
さて、整理しなおすか・・・。

4 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
高橋荘 (高村)
2013-08-04 11:28:29
ご無沙汰しております。1506(永正3)年頃だと、高橋荘の名義上の支配は中条氏でしょうけど、広瀬・鈴木氏の台頭が始まっていたんじゃないかと個人的には思っています。高橋荘はちょっと面白い経緯があって、尾張か三河かはっきりしないんですよね。興味深い土地です。

※別件ですが、9月の初旬に名古屋へ行くこととなりました。恐らく夜になりますが、ご都合宜しければ情報交換会をしませんか? ご興味おありでしたら、書き込んだURLからメールをお送り下さい。
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中条氏 (うらにわ)
2013-08-05 23:08:19
やはり中条氏でしょうね。高橋荘はやたらと書状に名前が出てくるので気になる場所です。ようやく地理的感覚がつかめました。長いこと愛知県に住んでるんですけど、案外知らない地域なのです。

※URLを通じてお返事させていただきました。ぜひよろしくお願いします。
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申し訳ありません (高村)
2013-08-07 23:05:45
せっかくご連絡いただいたのですが、私のサイトで誤作動が生じておりました。現在は復旧済みですが、フォームの情報はロストされてしまいました。本当にすみません。

もし宜しければ、もう一度お試しいただけませんでしょうか……。
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セキュリティで (うらにわ)
2013-08-07 23:29:26
当方も送信するときにセキュリティ警告(メールアドレスをつけておりますので)が出てきて送信時に手間取っています。ひょっとして、それで無ければいいのですが。先ほど(8月7日午後11時27分頃)お送りしました。一度ご確認ください。
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