南飛騨からこんにちは

田舎で農業しながら、日々気になること、ふるさとのこと、おもしろかったこと、趣味のことなど気軽に書きます。

禅昌寺へ

2014-01-06 | 写真

久しぶりに萩原町へ買出しに行き、帰路禅宗・妙心寺派の禅昌寺へ寄りました。自宅から北へ約20kmの国道41号沿いにある古いお寺です。近くにはJRの高山線禅昌寺駅があります。新しくなった禅昌寺駅と駅前にあった道祖神のような石像です。残念ながらまだ正月休みの延長で歴史資料館などは閉まっていました。

  

禅昌寺は、享禄元年(1528年)頃に、飛騨国萩原郷の桜洞城主・三木直頼(みつきなおより)により、三木氏の一族出身といわれる杲天宗恵(こうてんそうけい)が創建し大雄山円通寺の明叔慶浚(みんしゅくきょうしゅん)大和尚が開山したとされています。最初の創建地は、萩原郷の桜洞城近辺とする説と、現在の中呂説があります。天文23年(1554年)に慶安年中(1648年 - 1652年)に中呂の大雄山圓通寺の寺号を禅昌寺と改め現在に至っているとのこと。山門には、三木氏と同じ家紋が掲げられています。

山門写真

庫裡

本堂

本堂内部

かって三木氏は飛騨守護京極氏の飛騨守護代でした。三木氏が飛騨に勢力を築くきっかけとなったのは、応永十八年(1411)に起った「応永の乱」で、この乱は、姉小路尹綱が所領問題をめぐる幕府の措置に怒り、幕府に通じていた小島・向小島の両城を攻撃したことに始まり、姉小路の行動は、幕府に対するあきらかな挑戦であったため、将軍義持は京極高数を大将に命じて姉小路氏を討伐したそうです。このとき、三木氏も京極氏に属して出陣し軍功をあげたため三木氏発展の原点となった益田郡竹原郷を与えられました。

その後、三木氏は豊臣秀吉配下の金森氏に攻撃され滅亡しました。現在この地域で三木氏の末裔として姓が残るのは小坂・乗政・火打地区のお寺の住職といわれています。


 



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