国道41号線を北へ向かい、下呂温泉約15キロ手前・保井戸地区の国道沿いにある植え込みの中に、ひっそりお地蔵さんがまつられています。
1945年1月10日9時過ぎ、ここの益田川第4鉄橋から、焼石駅を出た汽車6両編成のうち、2・3両目の客車が転落し、死者45名の大事故となりました。
太平洋戦争のなか大きく報道もされず、事故原因も完全に解明されることなく過ぎてしまいました。
この事故でこの地域の中原村村長細江氏はじめ同行した役人、下呂温泉水明館の初代館長滝氏ほか地域の方が亡くなられました。
私もそのような事故が昔あったとは聞いていましたが、内容は知りませんでした。この事故の詳細を知ったのは、8年前で、この事故で九死に一生を得られた故細江森夫氏が記録をまとめられたものを読ませていただいたおかげです。哀悼の意を込めて殉難された方のお名前を示します。
この冊子をまとめられた故細江森夫氏によれば、事故の原因は落石と推定されています。記述は詳細で、列車への乗車位置や、犠牲者の遺族の調査なども記されていました。犠牲者の中には朝鮮半島から移住した朝鮮人の名前も数名ありました。
この供養の地蔵尊を管理されているのは、下呂温泉の水明館です。国道41号を通られる機会がありましたなら吾妻屋もありますので休憩がてら当時をしのび立ち寄ってみてください。
以下に2006年発行の「中原の名所・史跡・伝承」(中原ふるさと研究会発行)から「列車転落事故」の内容を紹介します。
JR高山線、焼石駅から下呂駅に向かう第4益田川橋りょう、この上を列車がなめらかに走り去って行く。・・・・・・
この風景に半世紀以上前、列車転落事故の大惨事を思い起こす生き証人はもう残り少なくなりました。事故は終戦前の昭和20年(1945)1月10日、岐阜発~富山行きの普通列車(6両編成)の前2~3両目が脱線して転落。その車両には、萩原町で開かれる郡会議に出席する当時の中原村村長以下村の幹部や村民他多数、その他乗客等2歳から70歳までの45人が死亡、50人以上が大怪我をしたと伝えられています。当時の新聞も、一面は戦争の非常事態記事のみで、ロ-カルの小さな記事として片隅に掲載されただけ、原因究明はなされなかったという。その後、風化されて人々の記憶も薄れる中、50回忌追悼法要が遺族主導で行われ、関係者の心に一つの区切りがつけられました。現在、鉄橋のたもとに供養の地蔵尊が祀られています。
今から20年以上前に、岐阜から下呂へ向かう車中で、祖父からお地蔵さんを教えられ、事故の事を知りました。数年前に気になり、お参りに行ったのですがここだろう、と思われる場所へは行けたのですが、お地蔵さんは見つけられず…今回久し振りに下呂へ行くため、場所を探していてこちらのページにたどり着きました。
お陰様で、今回はお参りに行けそうです。
有り難うございました!
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