今日は東京でもずいぶん揺れましたが、東北が震源で現地では震度5弱、津波警報や避難勧告も出される、久しぶりの大きな地震でした。警報が解除されてから石巻の関係者にお電話してみましたが、みなさんご無事でした! それにしても石巻の人も「びっくりしました」という程の揺れだったそうです。そういえばこの夏に活動のために石巻に早朝に到着した際、牛丼屋さんで朝食を摂っていたら震度4の揺れが!…この時は地元の方はこの程度の揺れではだ~れも気にもかけていないようで、フツーに時間が流れてゆきました。。それにしても今でも震災の余震が続いているなんて。。
さて女川町の仮設商店街「きぼうのかね商店街」は女川高校の高低2つあるグラウンドのうち高台にある第2グラウンドに建てられていまして、およそ50弱の店舗が寄り集まって営業しているほか、交番や郵便局(ともに海に近い低地にあって被災)、銀行までありました。仮設の交番とういうものは初めてみたなあ。。
中心部では8割の建物が流失してしまったという女川町。仮設商店街はこの6月にお邪魔させて頂いた「コンテナ村商店街」と、この「きぼうのかね商店街」があり、もう解体されてしまったマリンパル女川の「おさかな市場」も万石浦に面して店舗を開いています。この中では「きぼうのかね商店街」が一番最近に、今年の春にオープンしたようですね。
「きぼうのかね」とは、跡形もなく流されてしまった女川駅にあった からくり時計に付けられていた鐘なのだそうで、ガレキの中から一つだけ無傷で発見され、復興の象徴としてここに置かれたのでした。見たところ、鐘はフレームに取りつけられていましたが、ボルトで固定されているようで、実際に鳴らすことはできないのかもしれません。
ここでの楽屋は、商店街の中で釣具店を開いておられる佐々木さんのご厚意で、お店を拝借させて頂くことになりました。
佐々木さんは、すでに6月にお目にかかっているのです。この時の活動で『羽衣』を上演した後、恒例で住民さんに装束を着付ける体験コーナーをしたのですが、この際にモデルとなって唐織を着て頂いたのが、この佐々木さんです。
この時は「もとは日舞のお師匠さんだから」ということで、ほかの住民さんに推薦されるようにモデルを引き受けてくださったのですが。。終了後、佐々木さんは ぬえのそばに寄って来られて。。大粒の涙を流されました(!)
伺えばご主人を津波で失われ、それ以来 日舞はおろか着物を着る気持ちもなくなってしまわれたのだそう。。「あれ以来、はじめて和服を着ました。。」と。。
この佐々木さんに、今回は舞台の後見を勤めて頂くのが ぬえの当初からの計画でした。本当は日舞か何か、佐々木さんとのコラボでの上演を希望していたのですけれども。
…というのも、佐々木さんが亡くされたご主人さまは貝廣(かい・ひろし)さんという方で、昭和初期に女川町を訪れてその時の印象を文に残した高村光太郎を記念する文学碑を建て、その後は「女川・光太郎の会」を立ち上げ、毎年「光太郎祭」の開催に奔走された方なのでした。震災によって貝さんは犠牲となり、文学碑も倒壊しましたが、奥様も尽力され、光太郎の会の努力によって、震災直後の昨年も、そして今年も「光太郎祭」は見事に開催されたのだそうです!
このような文化・芸術に造詣の深い方なら、能の催しのときにご一緒に何か。。と考えたのですが、それは ぬえの浅慮でした。「踊りは。。無理です。あの日がフラッシュバックしてしまう。。」お電話で打合せをした佐々木さんはこう答えられて ぬえは絶句。それで能の後見をお勧めしてみましたが、それなら喜んで、とお言葉を頂いて、今回の上演となりました。
そうしたら、佐々木さんは上演会場の「きぼうのかね商店街」に店舗を構えておられる、と、驚くべき偶然も重なって、楽屋の提供から後見まで一手に引き受けて頂くことになりました!
※今回は画像がありません。。代わりに次のサイトをご紹介しておきますね~
きぼうのかね商店街
「光太郎祭」について
ありし日の「光太郎祭」の様子
亡くなった貝廣さんへ寄せられた言葉
さて女川町の仮設商店街「きぼうのかね商店街」は女川高校の高低2つあるグラウンドのうち高台にある第2グラウンドに建てられていまして、およそ50弱の店舗が寄り集まって営業しているほか、交番や郵便局(ともに海に近い低地にあって被災)、銀行までありました。仮設の交番とういうものは初めてみたなあ。。
中心部では8割の建物が流失してしまったという女川町。仮設商店街はこの6月にお邪魔させて頂いた「コンテナ村商店街」と、この「きぼうのかね商店街」があり、もう解体されてしまったマリンパル女川の「おさかな市場」も万石浦に面して店舗を開いています。この中では「きぼうのかね商店街」が一番最近に、今年の春にオープンしたようですね。
「きぼうのかね」とは、跡形もなく流されてしまった女川駅にあった からくり時計に付けられていた鐘なのだそうで、ガレキの中から一つだけ無傷で発見され、復興の象徴としてここに置かれたのでした。見たところ、鐘はフレームに取りつけられていましたが、ボルトで固定されているようで、実際に鳴らすことはできないのかもしれません。
ここでの楽屋は、商店街の中で釣具店を開いておられる佐々木さんのご厚意で、お店を拝借させて頂くことになりました。
佐々木さんは、すでに6月にお目にかかっているのです。この時の活動で『羽衣』を上演した後、恒例で住民さんに装束を着付ける体験コーナーをしたのですが、この際にモデルとなって唐織を着て頂いたのが、この佐々木さんです。
この時は「もとは日舞のお師匠さんだから」ということで、ほかの住民さんに推薦されるようにモデルを引き受けてくださったのですが。。終了後、佐々木さんは ぬえのそばに寄って来られて。。大粒の涙を流されました(!)
伺えばご主人を津波で失われ、それ以来 日舞はおろか着物を着る気持ちもなくなってしまわれたのだそう。。「あれ以来、はじめて和服を着ました。。」と。。
この佐々木さんに、今回は舞台の後見を勤めて頂くのが ぬえの当初からの計画でした。本当は日舞か何か、佐々木さんとのコラボでの上演を希望していたのですけれども。
…というのも、佐々木さんが亡くされたご主人さまは貝廣(かい・ひろし)さんという方で、昭和初期に女川町を訪れてその時の印象を文に残した高村光太郎を記念する文学碑を建て、その後は「女川・光太郎の会」を立ち上げ、毎年「光太郎祭」の開催に奔走された方なのでした。震災によって貝さんは犠牲となり、文学碑も倒壊しましたが、奥様も尽力され、光太郎の会の努力によって、震災直後の昨年も、そして今年も「光太郎祭」は見事に開催されたのだそうです!
このような文化・芸術に造詣の深い方なら、能の催しのときにご一緒に何か。。と考えたのですが、それは ぬえの浅慮でした。「踊りは。。無理です。あの日がフラッシュバックしてしまう。。」お電話で打合せをした佐々木さんはこう答えられて ぬえは絶句。それで能の後見をお勧めしてみましたが、それなら喜んで、とお言葉を頂いて、今回の上演となりました。
そうしたら、佐々木さんは上演会場の「きぼうのかね商店街」に店舗を構えておられる、と、驚くべき偶然も重なって、楽屋の提供から後見まで一手に引き受けて頂くことになりました!
※今回は画像がありません。。代わりに次のサイトをご紹介しておきますね~
きぼうのかね商店街
「光太郎祭」について
ありし日の「光太郎祭」の様子
亡くなった貝廣さんへ寄せられた言葉