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ぬえの能楽通信blog

能楽師ぬえが能の情報を発信するブログです。開設16周年を迎えさせて頂きました!今後ともよろしくお願い申し上げます~

『歌占』。。運命が描かれる能(その8)

2008-05-20 23:02:25 | 能楽
面を掛ける、掛けないという極端な選択肢の幅がある能『歌占』。前回類例として『鷺』と『善界』を挙げてみましたが、年齢制限によって面を掛ける場合がある『鷺』や、演者の工夫によって怪異性を出すために面を用いることがある『善界』と、『歌占』とは面に対する捉え方がずいぶん違うような気がします。

たとえば『鷺』で「延命冠者」を掛けた場合は、この面を掛けるのは古くからのしきたりではありますが、正直に言わせて頂ければずいぶん無理な面の選択で、お客さまにも違和感が感じられるのは間違いないでしょう。どこまでも「直面の代理」として面が使われていて、いわば『鷺』という能のシテの性格を表すために注意深く選ばれた面ではないからです。言葉を選ばずに言わせて頂ければ、『鷺』で面を掛ける場合、それは「覆面」に過ぎないのです。

また一方『善界』では面を使う場合と直面では大きく前シテの印象が異なってきます。魔道を日本に広めるために来日した中国の大天狗・善界坊が日本の天狗・太郎坊に会って情報を集め加勢を求める、という前場は、終始人目につかない山中で行われる密議の場面です。山伏姿で現れる両者ですが、これが面(シテは「鷹」、ツレは「千種怪士」など)を使うと、いかにも化け物の化身の謀議に見える。これは現代の演者が工夫として始めた演出が広まったのですが、成功した例と言えるでしょう。

ところが『歌占』では面を用いる、用いないの選択の別によって、シテの性格が大きく変わってくることがありません。これはシテが生身の人間の役だからで、面を使うかどうかで変わってくるのはあくまでもシテの風情、といった程度に過ぎないでしょう。

なぜ『歌占』にこんなに極端な選択肢の幅があるのかと考えるとき、やはりこれはシテの特異な風体と、その曖昧な人物像によるのでしょう。若い神職の姿でありながら白髪。そして短冊をつけた小弓を肩にかついで登場して、辻占いをしている。。どうも怪しいヒトと言うほかありません。

同じような異形の人物、それも生身の人間としての役となると、ほかに『放下僧』や『望月』が思い浮かびます。が、これらはいずれも直面で勤めることになっていて、面を掛ける、という選択肢もなければ、演者の工夫によって面を掛けることを試みたという話も聞いたことがありません。それは、これらの役がいずれも「敵討ち」という生々しい行為を行う役であることが大きな理由でしょう。面を掛けて敵討ちはちょっとしにくい。。『望月』は獅子舞を見せるための覆面をしていますが、やはり敵討ちの場面では獅子頭も覆面も脱ぎ捨ててしまいます。

ところが『歌占』のシテは流れ者で、特別の目的を持って登場した人物ではないのです。舞台に登場した段階ではこのシテの人物像は はなはだ曖昧で、むしろ彼が行う占いの不思議な結果が、登場人物たちに事件を巻き起こしてゆく、というストーリーなのです。シテはむしろ事件の中では受動的な役割で、運命に弄ばれる人間です。そうした人物像の曖昧さが、直面をも許し、また面を掛けることも拒絶せず、どちらを選んでも能楽師自身にしても違和感がない、という不思議な現象を起こしています。

ちなみに『歌占』のシテの特異な扮装については上記に書きましたが、短冊をつけた弓を持つ役には『放下僧』の後ツレに類例が、また若い人物でありながら白髪、という設定は『鶴亀』のツレ(または子方)の「亀」に類例がありますことを報告しておきます。

さてこうして『歌占』では演者の選択によって面を使うか、あるいは直面で演じるかを決めるわけですが、これはまあ、なんという大きな決断をシテに強いるんでしょう、この曲は!