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ぬえの能楽通信blog

能楽師ぬえが能の情報を発信するブログです。開設16周年を迎えさせて頂きました!今後ともよろしくお願い申し上げます~

能『海士』について(その15)

2006-11-13 02:58:49 | 能楽
このたび、ぬえがいま最も信頼している ぬえの舞台の批評をしてくださる方(前にも書いたと思いますが、ぬえからチケットをお送りした事はあるので住所もお名前も存じているのですが、実際にお会いしたことはないナゾの方。しかし鑑賞歴は相当なものと感じますし、その的確な批評は ぬえにとって自分が勤めた舞台で狙った効果がきちんと現れたかどうかを計るのに最も信頼できる指標)からメールを頂きました。

前回に書いた ぬえ自身による『海士』の総括も、この方からのメールを頂いてから、とは思ったのですが、今回はお出まし頂いたのか ぬえは知らず、やむなく自分だけで短くまとめる事と致しました。やっぱりお出ででしたのね。。

でも、ぬえが「やり過ぎ」「荒い」とビデオを見て思った「玉之段」について、また「まあまあの出来」と思った後シテについて、この方は ぬえと同じ印象を持たれたようです。なるほど。でも ぬえはビデオを見なくても自分の舞台の成果ぐらい「離見」の心で見えなくては、ですね。

さて『海士』の解釈の続きとして、金剛流にある小書をもうひとつ。同流には前回ご紹介した「変成男子」のほかに「八講」という特徴的な小書があります。これは後場の詞章で早舞になるところ、すなわち「天人所戴仰、龍神咸恭敬、あら有難の御経やな」のところで舞にならず、続けて常の場合では早舞のあとのキリの文句「いまこの経の徳用にて」となり、常の終曲の文句「仏法繁昌の霊地となるも、この孝養と承る」のあとで黄鐘の早舞となり、舞のあとで さらにこの小書独特の、次のような文句が挿入されます。

シテ「御法の夜声 時過ぎて 地謡「御法の夜声 時過ぎて、歌舞音曲も時移れば、はや東雲の鳥の声、名残もいつか月も傾く西の海、南の岸に到り給ふ、北の藤波栄ゆくことも、この八講の功徳とかや

これはまた。。藤原氏を意識した文章なのでしょう。流儀を越えてこのように藤原氏への賛美が演出に取り込まれているという点から見ても、やはりこの曲と藤原とは切り離せない深い関係があるのですね。

さて、『海士』についての考察もそろそろ最後になりますが、ぬえはずっと疑問に持っていた事があります。『海士』の後場、具体的には早舞の前からキリにかけては、能の作詞法や囃子の手組から言ってかなり無理のある文言で、とくにキリの文句は太鼓の手組を見ても他の曲では類例を見ないような変則的な手が付けられています。これはどうしたことなのか? ぬえは、囃子の手組の法則性を無視したこの文章にずっと疑問を持っていまして、今回この曲を勤めるまで、漠然と、この部分は『海士』という曲に先行する本説に取材したものなのだろうとは考えていました。

シテ「なほなほ轉読し給ふべし 地謡「深達罪福相。遍照於十方 シテ「微妙浄法身。具相三十二 地謡「以八十種好 シテ「用荘厳法身 地謡「天人所戴仰。龍神咸恭敬あら有難の御経やな(舞)シテ「今この経の徳用にて 地謡「今この経の徳用にて。天龍八部人與。皆遙見彼、龍女成仏さてこそ讃州志度寺と号し。。」

今回の調査で、はじめは『讃州志度寺縁起』からの移植なのか、と思ったのですが、じつはこれは法華経の文句そのままを能に導入したものだったのでした。

「深く罪福の相を達して あまねく十方を照したもう 微妙の浄き法身 相を具せること三十二 八十種好を以て 用って法身を荘厳せり 天・人の戴仰する所 龍神も咸く恭敬す 一切衆生の類 宗奉せざる者なし 又聞いて菩提を成ずること 唯仏のみ当に證知したもうべし 我大乗の教を闡いて 苦の衆生を度脱せん」

早舞の前に置かれる詞章は、この法華経の「提婆達多品第十二」の音読みで、まさに龍女が釈迦の前でその威徳を讃える言葉。またキリの詞章は、同じ部分で龍女が成仏したところの場面の描写です。そして龍女が成仏を遂げるところを目の当たりにして、次の文言が続くのでした。

「爾の時に娑婆世界の菩薩・声聞・天・龍・八部・人とと皆遥かに彼の龍女の成仏して、普く時の会の人・天の為に法を説くを見て、心大に歓喜して悉く遥かに敬礼す。」

能の中には法華経は色濃く投影されていますが、さすがに ぬえも法華経をしっかりと読んだ事はなかったのでした。お恥ずかしい。