昨日、『海士』の申合が終わり、あとは当日を残すのみとなりました。自分としての感触は。。もう一つ、かなあ。。子方の稽古と自分の稽古が ややごっちゃになってしまった反省もあります。謡は研究したのだけれど、型は。あと少しの時間しかないけれどもう少し練って当日を迎えたいと思っています。
ともあれ、この『海士』という曲、ぬえはこれまで考察してきた結果から、後シテを菩薩と捉えることにしました。
変成男子という難解な仏教哲理は、この曲を勤める演者によって、長い歴史の中で複雑で多用な解釈を生んできたと思います。前述した後シテが使用する面の流動性~泥眼か龍女か~もその一つでしょうし、この曲の小書が極端に多いことも解釈の多様性を物語っています。演者もこの曲には振り回されてきた事でしょう。。
観世流に限って言えば、よく目にする小書としては「懐中之舞」があります。これは前シテが裳着胴の姿になったり、玉之段を扇ではなく鎌で舞ったりする変化はありますが、小書の名称の由来としては、常の演出では後シテは早舞を舞う前に子方に経巻を渡してしまうのに、この小書ではシテが経巻を懐中して、舞の終わりに子方に渡す事によるのでしょう。しかしその作業が舞の前後に移動したからといって、曲の解釈に決定的な影響を及ぼすものではありません。
ところが「赤頭三段之舞」となると、後シテが掛ける面は「橋姫」(。。つまり「龍女」)に限定されますし、それに伴って装束も舞衣から厚板の壺折りに変わります。舞は三段で、「懐中之舞」と同じくクツロギが入ります。しかしなんと言っても特筆すべきは、この小書の時はこの曲を「脇能」として扱うのです。
また「解脱之伝」の時には、「赤頭」のときとは反対に、面は増を掛け、天冠に白蓮を戴きます。こちらは完全に天女=菩薩の姿。そして早舞は舞わずに、子方に経巻を渡してから「イロエ」になります。
これらの小書の成立時期はともあれ、ここには早舞は龍女の舞であって、菩薩となった母親の霊は舞を舞うべきでない、という先人の能楽師の共通認識があるように思います。そしてこれらの小書の演出の相違は、浮かばれずに現世をさまよう母の亡霊~供養による龍女への変身~成仏を遂げて菩薩へと生まれ変わった姿、という、母の変化のそれぞれの段階が強調されていると考えることができるのではないでしょうか。それほどまでに『海士』の後シテの解釈が多様である事の、これはひとつの証左でしょう。
さらに言えば、子方にも小書の時の替の型として、後シテから渡された経巻を開いて、後シテが早舞を舞う間、シテを無視してずうっと経巻を読む型も伝わっています。こうなるとシテが舞う早舞の意味は、子方が自分に対して行ってくれた供養への感謝のようなものではなくて、子方へ渡した経巻=法華経=そのものを礼賛し、その威光によって成仏できることに歓喜しているのだと解するべきでしょう。
そのうえに ぬえが注目するのは、「赤頭」のみならず「懐中之舞」にも入るクツロギが、この場合は五段で舞ってもよいのに、クツロギだけは二段目に入れる、という囃子方のキマリがある事です。『融』や『玄象』で五段の早舞を舞うとき、これにクツロギを入れた場合は三段目に入れる約束であるのに、なぜ『海士』だけが? ぬえは、やはり『海士』の早舞は、演者にとってもあまりノリたくないからだと考えています。長大で、それゆえに終盤にはかなりの速度で演奏する事になるクツロギ。これを五段の舞で演じるときは、三段目に入れる事によってすぐその後に続く最終段の四段目は快調で颯爽とした舞の印象になります。ところがクツロギを二段目に配置することで、そのあとにもまだまだ早舞は続く事になり、このクツロギでノリを作りすぎると、あとはとんでもない速度の舞になってしまうので、自然と演奏にも抑制が加わる。『融』や『玄象』など、そもそも遊楽の舞たる早舞が『海士』に導入されるとき、遊舞とは一線を画したい、という欲求がこのキマリに読みとれると思います。
考えてみれば早舞の中でも『海士』は『当麻』に次いでシッカリ目に演奏するキマリになっていまして、これまたこの二つの曲は後シテが女性の姿。そして『当麻』は中将姫がやはり菩薩と変じた姿です。すると早舞には遊舞のための舞、というほかに「菩薩の舞」という解釈があったのでしょうか。このあたりはまだまだ調査の必要がありますが、ともあれ ぬえは今回の『海士』を、小書はないけれども早舞を三段で舞う事にしました。この曲の舞はノリをもって舞う舞ではない、と考えたからです。
ともあれ、この『海士』という曲、ぬえはこれまで考察してきた結果から、後シテを菩薩と捉えることにしました。
変成男子という難解な仏教哲理は、この曲を勤める演者によって、長い歴史の中で複雑で多用な解釈を生んできたと思います。前述した後シテが使用する面の流動性~泥眼か龍女か~もその一つでしょうし、この曲の小書が極端に多いことも解釈の多様性を物語っています。演者もこの曲には振り回されてきた事でしょう。。
観世流に限って言えば、よく目にする小書としては「懐中之舞」があります。これは前シテが裳着胴の姿になったり、玉之段を扇ではなく鎌で舞ったりする変化はありますが、小書の名称の由来としては、常の演出では後シテは早舞を舞う前に子方に経巻を渡してしまうのに、この小書ではシテが経巻を懐中して、舞の終わりに子方に渡す事によるのでしょう。しかしその作業が舞の前後に移動したからといって、曲の解釈に決定的な影響を及ぼすものではありません。
ところが「赤頭三段之舞」となると、後シテが掛ける面は「橋姫」(。。つまり「龍女」)に限定されますし、それに伴って装束も舞衣から厚板の壺折りに変わります。舞は三段で、「懐中之舞」と同じくクツロギが入ります。しかしなんと言っても特筆すべきは、この小書の時はこの曲を「脇能」として扱うのです。
また「解脱之伝」の時には、「赤頭」のときとは反対に、面は増を掛け、天冠に白蓮を戴きます。こちらは完全に天女=菩薩の姿。そして早舞は舞わずに、子方に経巻を渡してから「イロエ」になります。
これらの小書の成立時期はともあれ、ここには早舞は龍女の舞であって、菩薩となった母親の霊は舞を舞うべきでない、という先人の能楽師の共通認識があるように思います。そしてこれらの小書の演出の相違は、浮かばれずに現世をさまよう母の亡霊~供養による龍女への変身~成仏を遂げて菩薩へと生まれ変わった姿、という、母の変化のそれぞれの段階が強調されていると考えることができるのではないでしょうか。それほどまでに『海士』の後シテの解釈が多様である事の、これはひとつの証左でしょう。
さらに言えば、子方にも小書の時の替の型として、後シテから渡された経巻を開いて、後シテが早舞を舞う間、シテを無視してずうっと経巻を読む型も伝わっています。こうなるとシテが舞う早舞の意味は、子方が自分に対して行ってくれた供養への感謝のようなものではなくて、子方へ渡した経巻=法華経=そのものを礼賛し、その威光によって成仏できることに歓喜しているのだと解するべきでしょう。
そのうえに ぬえが注目するのは、「赤頭」のみならず「懐中之舞」にも入るクツロギが、この場合は五段で舞ってもよいのに、クツロギだけは二段目に入れる、という囃子方のキマリがある事です。『融』や『玄象』で五段の早舞を舞うとき、これにクツロギを入れた場合は三段目に入れる約束であるのに、なぜ『海士』だけが? ぬえは、やはり『海士』の早舞は、演者にとってもあまりノリたくないからだと考えています。長大で、それゆえに終盤にはかなりの速度で演奏する事になるクツロギ。これを五段の舞で演じるときは、三段目に入れる事によってすぐその後に続く最終段の四段目は快調で颯爽とした舞の印象になります。ところがクツロギを二段目に配置することで、そのあとにもまだまだ早舞は続く事になり、このクツロギでノリを作りすぎると、あとはとんでもない速度の舞になってしまうので、自然と演奏にも抑制が加わる。『融』や『玄象』など、そもそも遊楽の舞たる早舞が『海士』に導入されるとき、遊舞とは一線を画したい、という欲求がこのキマリに読みとれると思います。
考えてみれば早舞の中でも『海士』は『当麻』に次いでシッカリ目に演奏するキマリになっていまして、これまたこの二つの曲は後シテが女性の姿。そして『当麻』は中将姫がやはり菩薩と変じた姿です。すると早舞には遊舞のための舞、というほかに「菩薩の舞」という解釈があったのでしょうか。このあたりはまだまだ調査の必要がありますが、ともあれ ぬえは今回の『海士』を、小書はないけれども早舞を三段で舞う事にしました。この曲の舞はノリをもって舞う舞ではない、と考えたからです。