能『海士』の子方=房前の大臣というのは藤原房前(681~737)の事で、藤原鎌足(614~669)の孫、不比等(659~720)の次男にあたります。鎌足は645年、中大兄皇子とともに蘇我入鹿を暗殺して大化の改新を進めたことで有名で、中大兄皇子はのちに天智天皇となり、鎌足は「藤原」の姓と大織冠の官位を賜りました。藤原の氏寺として『海士』にも表れる興福寺は彼の発願によってその原型となる山科寺が建立された事に始まり、鎌足の子・不比等の時代に奈良の現地に移されて興福寺と改められ、また春日大社は同じく不比等が平城京遷都の際に氏神の鹿島神を三笠山に遷して祀ったのを始まりとします。
不比等は2人の娘を文武天皇、聖武天皇に入内させて皇室の外戚となって権勢を振るい、大宝律令の制定に関わり、平城京遷都を推進し、諡号として「淡海公」を贈られました。不比等以降は不比等の子孫だけが藤原姓を名乗る事を許されたため、事実上藤原家の祖は不比等と考えられます。不比等には4人の息子がおり、それぞれ南・北・式・京の藤原四家の祖となりました。
藤原房前は不比等の次男にあたりますが、四家のうち彼が始祖となる藤原北家だけが繁栄を極め、その嫡流は摂関家として公家の最高家格となりました。平安時代の末以降、北家は近衛・鷹司・九条・二条・一条の五摂家に分かれましたが、その権勢は明治維新まで続き、さらに明治以降は公爵家(五等の爵位の第1)に列せられ、昭和20年の終戦までこの地位は続いています。ちなみに藤原氏は『鞍馬天狗』にも出てくる「源平藤橘」の「四姓」の一つですが、ほかの3家と比べてもはるかに後世まで権勢を振るいました。武家政権の時代となった鎌倉時代以降は形骸化したとはいえ、このように1000年以上にも渡って国政に関与し続けた家というのは、世界的に見ても他に例がないそうです。
なお国宝の『御堂関白日記』(道長自筆)などを蔵する「陽明文庫」は近衛家の文麿(首相)が財団法人にまとめた文庫。また足利義満へ有職故実を教授し、みずからも連歌集『菟玖波集』を撰じ、世阿弥の保護者ともなった二条良基は二条家の人。また北家の嫡流でなくとも、藤原俊成や定家を輩出した御子左家は道長の6子・長家を祖としています。近代になっても西園寺公望首相や、明治天皇の皇后(昭憲皇太后)は一条家の出身、大正天皇の皇后(貞明皇后=昭和天皇の母)は九条家の出身。。と、日本という国の根幹を、藤原家が支えてきたと言っても過言ではないでしょう。
『海士』に話を戻して、この能では唐の朝廷から興福寺に贈られた三つの宝物のうち、面向不背の珠が龍宮に取られたという事件が発端となっています。この三種の宝物は、淡海公と呼ばれた不比等の妹が、その美貌を伝え聞いた唐の高宗皇帝の願いを受けて后として渡海し、唐帝から「その御氏寺なればとて」興福寺へ与えられた、とされているのですが、この所伝や事件の経緯には、能が伝えるほかにもいろいろと微妙に異なった伝承があるようです。これまた興味深い。
不比等は2人の娘を文武天皇、聖武天皇に入内させて皇室の外戚となって権勢を振るい、大宝律令の制定に関わり、平城京遷都を推進し、諡号として「淡海公」を贈られました。不比等以降は不比等の子孫だけが藤原姓を名乗る事を許されたため、事実上藤原家の祖は不比等と考えられます。不比等には4人の息子がおり、それぞれ南・北・式・京の藤原四家の祖となりました。
藤原房前は不比等の次男にあたりますが、四家のうち彼が始祖となる藤原北家だけが繁栄を極め、その嫡流は摂関家として公家の最高家格となりました。平安時代の末以降、北家は近衛・鷹司・九条・二条・一条の五摂家に分かれましたが、その権勢は明治維新まで続き、さらに明治以降は公爵家(五等の爵位の第1)に列せられ、昭和20年の終戦までこの地位は続いています。ちなみに藤原氏は『鞍馬天狗』にも出てくる「源平藤橘」の「四姓」の一つですが、ほかの3家と比べてもはるかに後世まで権勢を振るいました。武家政権の時代となった鎌倉時代以降は形骸化したとはいえ、このように1000年以上にも渡って国政に関与し続けた家というのは、世界的に見ても他に例がないそうです。
なお国宝の『御堂関白日記』(道長自筆)などを蔵する「陽明文庫」は近衛家の文麿(首相)が財団法人にまとめた文庫。また足利義満へ有職故実を教授し、みずからも連歌集『菟玖波集』を撰じ、世阿弥の保護者ともなった二条良基は二条家の人。また北家の嫡流でなくとも、藤原俊成や定家を輩出した御子左家は道長の6子・長家を祖としています。近代になっても西園寺公望首相や、明治天皇の皇后(昭憲皇太后)は一条家の出身、大正天皇の皇后(貞明皇后=昭和天皇の母)は九条家の出身。。と、日本という国の根幹を、藤原家が支えてきたと言っても過言ではないでしょう。
『海士』に話を戻して、この能では唐の朝廷から興福寺に贈られた三つの宝物のうち、面向不背の珠が龍宮に取られたという事件が発端となっています。この三種の宝物は、淡海公と呼ばれた不比等の妹が、その美貌を伝え聞いた唐の高宗皇帝の願いを受けて后として渡海し、唐帝から「その御氏寺なればとて」興福寺へ与えられた、とされているのですが、この所伝や事件の経緯には、能が伝えるほかにもいろいろと微妙に異なった伝承があるようです。これまた興味深い。