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ぬえの能楽通信blog

能楽師ぬえが能の情報を発信するブログです。開設16周年を迎えさせて頂きました!今後ともよろしくお願い申し上げます~

『通盛』…「直ぐなる能」とは(その4)

2016-05-11 11:59:47 | 能楽
ぬえの解釈。。これは能楽師だから考えること、かもしれませんが、稽古をしてみて実際の舞台進行に即して持った印象なのですが。

つまり、この場面。。というよりこの能の前半部分はツレ小宰相の物語なのであって、いうなればツレが主人公であって、漁翁のシテは、「主役」ではあっても「主人公」ではないのではないか、というものです。

ぬえの解釈によれば、入水の場面で小宰相の袖にすがって止めるのは、通盛の化身ではなく、やはり乳母なのです。

それは例えば、次のような、舞台に現れる小さな事象を積み重ねてきたときに考えられるのではないかと思います。いわく、入水を止める場面での言葉。。「この時の物思ひ君一人に限らず。思し召し止り給へ」が、夫の遺言を背いてまで彼の後を追おうとする妻の決意を翻すには、あまりに薄っぺらな説得であること。。これは小宰相の入水に対する通盛思いではなく、やはり乳母の言葉と解すべきでしょう。

そもそも、すでに先に討ち死にしている通盛が、同じく入水自殺を遂げた妻を 今さら引き止める、という構図そのものに違和感があります。僧に対して懺悔のために自分たちの死の有様を仕方話に演じているのだとしても、妻の死に夫の動作は介在できないはずですし。

それから、もしこの能の前場での主人公がシテではなくツレだと考えると、正面に向けて出された舟の先の方にツレが立ち、シテはその後ろに立つことでツレの陰に隠されて客席から見えにくい事も説明がつきます。もちろん、舟を漕ぐのは後ろに乗る人の役目ですし、そこに男性のシテが立ち、女性であるツレがお客さんのようにその前に立つのは当たり前のことです。そうして、もしもシテが前に立ってしまったら、それこそ主役に隠されたツレはまったく舞台に登場した存在意義がなくなってしまう。さらにはそのような位置関係では小宰相が死去したこの場所で彼女の最期を物語るには圧倒的に不利。。というか不可能でしょう。

そんな事からシテが後ろに、ツレが前に立つのは当然なのですが、これによって終始、シテの姿は正面から見えづらい事になります。ところが、この前場の核心となる部分は小宰相の最期です。そうであれば物語はその化身であるツレの口から語られるのが自然ですし、最も効果的であります。そのためにはツレ一人に観客の注目が集まる方が、その効果を最大に高めることができるのです。

現に、ワキ僧から鳴門で死亡した平家の事を問われたシテは「中にも小宰相の局こそ。。」と言いかけて、あえてツレに「もろともに御物語り候へ」と発言を求めます。そうしてこれ以後、ずっとシテとツレとの連吟になるのですが、その中でシテは「こゝだにも都の遠き須磨の浦」の1句を謡うのみで、これに対してツ
ツレは「さる程に平家の一門。。」「さる程に小宰相の局乳母を近づけ。。」「さるにてもあの海にこそ沈まうずらめ。。」と、多くの説明をみずからの口によって行います。

この場面で語り手は明らかにツレ小宰相なのであって、シテは「主役」という立場上、連吟の主導を執るけれども、内容としてはむしろ「もろともに」と言うよりはツレの一人語りと考えるべきでしょう。シテは、舞台への登場からワキ僧との問答など、舟の所有者として、ツレよりも年長者として、一定の主導権は執るけれども、ワキに問われて「鳴門で死去した平家一門」を物語るとき、その話題はおのずから小宰相の悲劇にならざるを得ないです。ですから「や。もろともに御物語り候へ」とシテが言うとき、物語の「主人公」はシテの手を離れてツレに移った、と考えることができると思います。

そうであれば、「乳母泣く泣く取り付きて」と地謡が謡うときにツレの袖にすがって引き止めたのは、やはり通盛の霊ではなくて、「乳母」であったのだと思います。それは、乳母の霊が登場したのでも、また通盛が乳母の役を演じたのでもなく、ただ、そういう光景がその夜に繰り広げられた、ということを視覚的に説明する、演出上の方便として行われるのであろうと考えています。この場面。。ツレが入水を決意するところから、それを乳母が引き止めようとする場面、そしてツレの入水までは、シテは「主人公」であることをツレに譲って、その演技の補助的な役割を勤めているのだと思います。

そしてツレの入水の場面にはまた特筆すべき演出が施されてあります。

それは、ツレが乳母の制止を振り切って、舟から<左側>に下りて膝をつくのに対して、シテは反対側。。<右側>に向いて、ツレの姿を見失った体で海面を見回して呆然とした表情を見せるのです。(注:右・左は演者から見た方向ですので、客席からは逆に。。ツレは向かって右側の舞台中央の方向に舟を下りて膝をつき、シテは向かって左側。。脇正面の客席の方にその姿を探す型をします)

一瞬のことではありますが、シテとツレが あべこべの方向を向いて演技をするので、お客さまには混乱があるかもしれませんね。

これは、舟の作物がシテ柱の先、舞台の右側いっぱいに出されているので、ツレは物理的に舟の右側には下りられない(舞台から落ちてしまう)、という理由もあります。けれどもこの動作の理由はそれだけではないのです。

現に、ツレは入水する直前に「さるにてもあの海にこそ沈まうずらめ」と謡うとき、その後に実際に舟を下りる方向ではなく、やはり<右側>に向くのです。この曲では阿弥陀如来がおわす西方浄土を、ツレから見て<右側>に設定しているのは明らかで、入水した後にシテがツレの姿を探す方向とも一致しています。

それなのにツレはそれとは反対側の<左側>に向かって入水する型を見せるわけですが、つまりこれは、小宰相が入水した、という「事実」あるいは「動作」だけを抽出して見せているのだと思います。「こうして海に飛び込んだ」という動作が観客の目に入れるのが目的で、ツレは舟から下りて膝をつくと、すぐに立ち上がって、後見座に後ろ向きに着座してしまいます。能では常套手段の演出で、この役者はもう舞台上には存在しない、という事を意味する約束事です。そうして、ツレに袖を振りきられたシテ。。乳母は、あわてて「小宰相が飛び込んだ方角」である<右側>の海面を目で探し、それが得られないと分かると呆然と中空を見上げます。このとき、シテ。。乳母が探す方向にツレの役者の身体があってはならないはずです。

ずっと動作が少ない能であるからこそ、この一瞬の動きはとても目に鮮やかに飛び込んできますね。一瞬のうちに観客は舟の<左側>に小宰相が入水した、という「事実」を見、すぐさまその姿を見失った「残された者」。。乳母の悲嘆を<右側>に見るのです。これに気づいた ぬえは、大変優れた演出だと感嘆しました。

付け加えて言えば、ツレを見失ったシテは激しく右左に面を動かして(これを「面を切ル)と言います)海面にツレの姿を求めますが、このとき(役はあくまで乳母であるけれども)、シテが掛けている老人の面。。わけても『通盛』の前シテに使う「笑尉」や「朝倉尉」という面は、面を切ルと大変効果が出る面なのです。ほかにも面を切ルのが利く面には「泥眼」や「般若」がありますが、作者がその効果まで計算に入れて、『通盛』の前シテを、通盛本人が若くして死んだにもかかわらず、あえて老人に設定したのだとしたら。。

先ほど「シテは『主人公』であることをツレに譲って、その演技の補助的な役割を勤めている」と書きましたが、もちろんそのまま「主人公」であることを放棄したままでは終わりません。

ツレの姿を見失って呆然とした有様は、それを制止し得なかった乳母の心でもありましょうし、同時に愛妻を失った(ことを冥土で知った)通盛の悲しみでもあります。シテは自然に乳母から通盛本人へとその主体を移し、喪失感を漂わせたまま、ツレと同じように舟から下りると、正面を向いたまま力なく後ろに下がると、やはり膝をついて座ります。

ツレが一瞬で海に飛び込んだ様子とは対照的に、シテは静かに 静かに膝をつくことで、ずぶずぶと海の中に姿を消した事を表現します。

かくしてワキ僧はここに至って、はじめてこの漁師たちが生きた人間でないことを悟ったでしょう。そうしてシテが再び立ち上がって、これも静かに幕に姿を消したとき、舞台上には二人が登場する前と同じように舟がポツンと取り残されるのです。誰も乗っていないままに波間を漂う舟。。ちょっと怖いですね。

今回は笛が森田流のため、シテが橋掛リを歩んで幕に向かうとき、彩りの笛を吹いてくださいません。無音の中を歩むのはなかなか難しいですが、緊張の糸がとぎれる事がないように歩みたいです。

『通盛』…「直ぐなる能」とは(その3)

2016-05-11 09:34:34 | 能楽
昔物語をしているうちに夫である通盛の死亡を受けて、妻は「主従泣く泣く手を取り組み舟端に臨み」と立ち上がり、入水の決意を語り、涙します。もう完全にツレは小宰相その人であることは疑いなく、続く入水の場面を予感させます。

地謡「西はと問へば月の入る。西はと問へば月の入る。其方も見えず大方の。春の夜や霞むらん涙もともに曇るらん。乳母泣く泣く取り付きて。この時の物思ひ君一人に限らず。思し召し止り給へと御衣の袖に取り付くを〈とツレの右袖に両手をかけ〉。振り切り海に入ると見て〈ツレは左の方へ作物を下り下居〉老人も同じ満汐の。底の水屑となりにけり底の水屑となりにけり〈とシテも作物より下り下居〉。〈中入:シテは幕へ入り、ツレは後見座に下居〉

前半部分の最後の場面です。まずは素晴らしい名文なのですが、演出はそれを上回る素晴らしさです。

ツレは入水の決意を固めると阿弥陀如来のおわす西方浄土を希求し、されども季節は春。夜の霞があたりに立ちこめ、月が没するあたりもおろに霞んで見え分かない。いや、決意はしたけれど、自らの命を絶とうとする悲しみの涙は押さえようもなく溢れて、そのために景色が見えないのかもしれない。。シテは「泣く泣く取り付き」、同じように愛する人を亡くした悲嘆は平家の舟の中に満ちあふれている、あなた一人ばかりではないのだから、どうか思いとどまってください、とすがりつきますが、ツレはそれを振り切って海中に没します。。と。シテも同じように舟から下りると、海中に姿を消すのでした。

シテは(扮装を変えるために)幕の方へ静かに消え行き、ツレは後見座に後ろ向きに座します。これは舞台上から消え失せたことを表し、ただし扮装は変えないため舞台に居残っているので、観客はこの役を舞台にいないもの、として無視しなければなりません。

ところで、このツレの入水の場面、ほんの10秒くらいの間にめまぐるしく動作が続くところなので、よくご覧頂きたいところです。

シテがツレを止めようと袖に両手を掛けますが、ツレはそれを振り切り、<左>の方へ作物の舟を下りて座ります。一方シテは振り切られて、あっという心で<右>の下の海面を面を切り(鋭く面を動かして見回す)、ツレの行方を目で捜しますが得られず、呆然と面を上げます。この間にツレは立ち上がって、すでに姿は舞台上から消えた心で後見座に行きます。シテは心ここにあらずという風情で、やはり<左>に舟を下り、静かに正面を向くと、そのまま 少し下がって座りこみます。やはり水中に没した体ですが、ツレのように飛び込んだ、という感じではなく、ズブズブと水の中に姿を沈めてゆく風情です。

さて、この場面の理解のために、通盛と小宰相について おさらいしておきましょう。

平通盛は、清盛の弟で「門脇中納言」と呼ばれた教盛(のりもり)の長男で、清盛からは甥に当たります。幼い頃から順調な昇進を続けましたが、一ノ谷の合戦で敗死しました。その妻・小宰相局(こざいしょうのつぼね)は後白河法皇の姉である上西門院に仕えた女房で、宮中一の美人と言われた人です。あるとき女院の花見の供のときに通盛に見初められましたが3年の間返事もせず、あるきっかけから通盛の恋文を女院が見る事となり、女院の仲介で二人は結ばれることとなりました。

それからの二人の仲は睦まじく、平家が都落ちをする際も、多くの公達が戦乱を避けて妻を都に止めて一人都落ちしたのに対して、通盛は小宰相を同伴して都を後にしました。が、結果としてこれが二人とも命を落とす、という悲劇を生むことになります。

一ノ谷の合戦の前夜、女房たちは海に浮かぶ舟に残して男たちは陸に陣を張っていましたが、通盛は小宰相を幕屋に呼び寄せ、二人きりで別れを惜しみました。ところが通盛の弟で勇猛で知られた平教経がこれを見とがめて叱責したので通盛は妻を舟に帰し、翌日の合戦に臨みましたが討ち取られてしまいました。

一ノ谷の合戦に破れると、平家は軍船に乗って対岸の讃岐の屋島に退くために出帆します。その夜、夫が戦死したとの報がもたらされ、小宰相は嘆き悲しみます。やがて夫の後を追って入水する覚悟を決めて、その旨を乳母の老女に告げると乳母は嘆いて小宰相に取りすがりますが、夜が更けると小宰相は、鳴門に停泊している舟の中からひとり船端に臨んで、ついに自らの命を絶って夫の後を追ったのでした。

。。と、ここで能の舞台に戻ると、不思議な事実に行き当たりますね。

つまり、中入の前にツレの袖にシテが取り付いて、自殺を思い止めようとしますが、現実には彼女が自殺を考えたとき、夫の通盛はすでに戦死しているのです。その化身たる前シテ漁翁がツレを思い止まらせようと袖に取り付くの事はあり得ない。。彼女を引き止めようとするのは老女である「乳母」であるはずです。

まあ。。この場面は、小宰相が入水自殺を遂げた「その当夜」の出来事ではなく、小宰相の霊の化身による「再現」であるので、このときに運命を共にしたわけではない乳母が登場しないのは不自然ではありません。

ただ、理詰めで考えれば、小宰相の入水事件が起こったとき、夫の通盛もその現場にはいませんでした。彼はその何日か前の一ノ谷の合戦で すでに落命していたのですから。。

この場面で、なぜ通盛の化身である漁翁が小宰相の入水を引き止めようとするのか? と考えるとき、いろいろな解釈が可能だと思います。

素直に考えれば、夫の死の後を追って小宰相も命を落とすことを、通盛自身が望んでいなかったこと。。これは能の中でも後半の場面に出てきますが、合戦の前夜の夫婦の語らいで通盛は、自分が戦死したらあなたは都に帰って私の後を弔ってほしい、と頼んでいます。つまり小宰相は通盛のこの「遺言」に背いて自ら死を選んでいるのです。

こう考えれば、この場面で通盛の霊が妻の入水を止めようとするのは、自分の後を追って死んで欲しくなかった、という通盛の思いがそのまま投影されているのだ、と解釈することができます。これが最も自然な解釈ですが、しかし、そうだとするとこの場面に描かれる「悲しみ」はいったいどういう事でしょう。通盛と小宰相の夫婦は死後も仲睦まじく冥土で再会したとは ちょっと考えにくいです。おそらく、それぞれ別の場所で落命した二人の魂は、その事実によって永久に離ればなれになっているのでしょう。形ばかりは ひとつの釣り舟に乗っているとしても、です。これはこれで救われない、重い運命を背負い込んでしまった、二人。。

でも、ぬえはこれとは異なる、独自の解釈を持っております。

『通盛』…「直ぐなる能」とは(その2)

2016-05-10 23:41:08 | 能楽
ワキの読経に耳を傾けるシテとツレの二人。風情のある場面ですが、ここでツレが着座するまで、ずっと二人は立ったまま。しかも正面から見るとシテの姿はツレの後ろに隠れてしまって、地謡の中であたりを見回す型さえ見えにくい事になってしまいます。『通盛』という曲は正面席で見るのはやや不利になりますね。中正面の脇正面席寄りのお席の方がシテの姿はよく見えます。

そこで、演者もいろいろ工夫はしておりまして、いわく、周囲を見渡す型の足遣いに注意して、少しだけツレの真後ろに立つのを避けるとか、今回は先輩のアドバイスも受け、師匠のお許しも頂きましたので、定められた型とは少し変えて、早めにツレに着座させようと考えております。

さて経を読む声に心を静めて聞き入る二人にワキ僧も気づき、声を掛けます。

ワキ「誰そやこの鳴門の沖に音するは。
シテ「泊り定めぬ海士の釣舟候よ。
ワキ「さもあらば思ふ子細あり。この磯近く寄せ給へ。
シテ「仰せに随ひさし寄せ見れば
〈と棹に右手をかける〉。ワキ「二人の僧は巖の上。シテ「漁の舟は岸の陰。
ワキ「芦火の影を仮初に。御経を開き読誦する。シテ「有難や漁する。業は芦火と思ひしに。
ワキ「善き燈火に。シテ「鳴門の海の
〈と下居て合掌〉。
シテ/ワキ「弘誓深如海歴劫不思議の機縁によりて。五十展転の随喜功徳品。


先ほど「楫音を静め唐櫓を抑へて」と棹に右手を掛けたシテは、ここでも再び棹に手を掛けながら二足だけ前へ出ます。先ほどの型は、経を聞くために舟が流れないように棹で舟を固定したのであり、こちらはワキに「この磯近く寄せ給へ」と乞われたシテが「仰せに随ひ」舟を「さし寄せ」たのです。本当に舟の作物をワキのそばに移動させるのではなく、二足出ることで舟が「移動した」ということを表現します。能らしい表現方法ですが、やはり型を注視し、台詞を聞き取りながら、でないとすぐに理解するのは難しいですね。

ところでここ。。ちょっと ぬえは違和感を持っています。海に出る「釣り舟」という設定ですが、棹をさしてそれを操縦するのは「川船」の方法ですよね。川船というのは、水底までが浅い川に適した舟で、舟の底が平らなのです。そうして長い竹竿で川底を突くことによって、川の流れに流されずに進むことができるのです。また舟を止めるときも(まさに『通盛』のシテがここでしている型のように)、竹竿を川底に突いて、船頭さんが自分の足を踏ん張ることで舟を固定するのです。

底までが深い海では棹で舟を操縦するのは無理で、海舟の場合は「帆」で進むのでなければ「櫨」を漕ぎながら進むはずですね。舟を止める場合は碇などを海に投げ込むのかな?
まあ、このあたりの齟齬は京都を中心に発達した能では致し方のないところかもしれません。

しかしながら経を読む僧が海岸の岩の上に座し、その下に舟を漕ぎ寄せた漁翁と若い女の二人が殊勝そうに僧の声に聞き入る、というのは風情の良い場面です。僧は日が暮れてあたりが暗くなってきたので、釣り舟の篝火の火を借りて、それを頼りに経を読もうとしたのであり、一方のシテの言葉は、これはちょっとわかりにくいですが、「ありがたや漁する。業は芦火と思ひしに。善き燈火に鳴門の海の」とは、漁という殺生を生業としている身は罪深く心憂いのであり、篝火さえその殺生のための道具であると思っていたのに、僧に乞われて読経の手助けをすることになるとは ありがたいことだ、というような意味です。

地謡「実にありがたやこの経の〈と立ち上がり扇を開き〉。面ぞ暗き浦風も。芦火の影を吹き立てゝ〈と扇にて篝火をあおぐ〉。聴聞するぞありがたき〈と下居〉
地謡「竜女変成と聞く時は。竜女変成と聞く時は。姥も頼もしや祖父は言ふに及ばす。願ひも三つの車の芦火は清く明かすべしなほなほお経。遊ばせなほなほお経あそばせ。


かくしてシテは地謡の文句の中で立ち上がり、腰に挿していた扇を取り出して開き、篝火をあおぐ型をします。僧と漁師たちはこの鳴門の海を介して心を通わせたのでした。

ワキ「あら嬉しや候。火の光にて心静かに御経を読み奉りて候。先々この浦は。平家の一門果て給ひたる所なれば。毎夜この磯辺に出でて御経を読み奉り候。取り分き如何なる人この浦にて果て給ひて候ぞ委しく御物語り候へ。

さて読経も一段落したところで、ワキはシテに声を掛け、この鳴門で命を失った平家の人々について尋ねます。ワキの僧はこの鳴門に住む人ではなく、平家を弔うためにひと夏の間、この所に逗留している、と冒頭に言っていますね。ここはその土地に住む漁師であろうと推測されるシテとツレに、鳴門での合戦の模様を尋ねたのです。

シテ「仰せの如く或ひは討たれ。又は海にも沈み給ひて候。中にも小宰相の局こそ。や。〈とツレを見て〉もろともに御物語り候へ。

シテは当たり前のように鳴門で命を落とした平家の人々のことを語り、その中でもことに哀れな物語として小宰相が入水自殺を遂げた事を語り出そうとしたところで、それまで押し黙っていたツレにも声を掛けて、ともに物語るように促します。

もうほとんど自明の事だと思いますが、もちろんこれはツレが、この海に身を投げた小宰相だからシテはツレに声を掛けたのです。シテはツレが自らの声で僧へ語ることを促すことで、僧に懺悔をし、罪障を晴らそうとしてやったのかもしれません。

ところで…ここで「源平の鳴門の合戦?」と疑問を感じた方もあるかもしれません。じつはその疑問は正解で、阿波の国で源平の合戦はありませんでした。それどころか『平家物語』によれば、この鳴門で命を落としたのは、みずから海に身を投げた、小宰相ただ一人なのです。

このへんは演出上のトリックのようなものかもしれません。この地で命を失ったのが小宰相一人だ、としておくとワキは彼女一人を弔うために鳴門にやって来た事になるのですが、それよりも、平家一門の跡を弔う僧の前に、彼の知らない小宰相の悲しい物語が提示される方が、その悲劇を知って重ねて僧が弔う意識が鮮明になりますし、そうなれば後場でシテの通盛とツレの小宰相の二人が登場するのに必然性が生まれるからです。

もっとも。。この地で誰が亡くなったのかも知らずに、鳴門にやって来て、漠然と平家を弔うワキ僧、というのも うかつな事ではありますけれどね。

いずれにしても、シテとツレによる小宰相の入水自殺の物語は、土地の伝承のような他人事の物語から、次第に自らの身の上を語るように迫真を増してゆきます。

ツレ「さる程に平家の一門。馬上を改め。海士の小船に乗りうつり。月に棹さす時もあり。
シテ「こゝだにも都の遠き須磨の浦。シテ/ツレ「思はぬ敵に落されて。実に名を惜む武士の。おのころ島や淡路潟。阿波の鳴門に着きにけり。
ツレ「さる程に小宰相の局乳母を近づけ。
シテ/ツレ「いかに何とか思ふ。我頼もしき人々は都に留まり。通盛は討たれぬ。誰を頼みてながらふべき。この海に沈まんとて。主従泣く泣く手を取り組み舟端に臨み
〈と二人立ち上がり〉
ツレ「さるにてもあの海にこそ沈まうずらめ
〈ツレは右の遠くを見る〉
地謡「沈むべき身の心にや。涙の兼ねて浮むらん
〈ツレはシオリ〉

『通盛』…「直ぐなる能」とは(その1)

2016-05-10 20:39:05 | 能楽
もう時間がないので、とりあえず詞章と型の説明を進めながら能『通盛』をひもといて参ります。
今回の考察の出発点は、修羅能にしては あまりに動作が少ないことで、まあ前半部分は仕方のない面もありますが、後半に至っても。。

こんな事から、せっかくお出まし頂けるお客さまに、「動かない場面」で役者が何を演じているのかを解説する必要があると考えて、機会あるごとに実演の舞台の映像をお見せしながら解説をして参りました。もとより役者は舞台以外の場面で自分の上演の解説をするのは本道ではありませんけれども、今回は長男が「初面」を勤める、ということで、初めて能楽堂に足を運んでくださるお客さまも多く、解説なしでは共感頂けるのは難しい面もありまして。

ところが、この能について 考えを巡らしているうちに、演出の上でかなり工夫が凝らされている曲だということに気が付きました。「動かない」ことを意識して作られている形跡があるし、だからこそ「動く」場面が活きるように作られていますね。現代人の時間感覚からは、その「動かない」場面がどうしても苦痛になってしまうけれども、「溜め」に気を配った作品だと思います。そして、何と言っても『通盛』は詞章が素晴らしいですね。『葵上』と同じく作者も不明な古作の能ではありますが、当時まだ能役者が貴族社会と縁がなかった時代に、この2曲は美辞麗句を駆使して、作者の非凡を窺わせます。この2曲の終末部分の詞章が同文なのも、何か関係があるのかも。

それでは詞章を見ながら舞台進行を見ていきたいと思います。

囃子方、地謡が座付くと、すぐにワキは幕を上げ、笛が名宣笛を吹いてワキの登場を彩ります。

ワキ「これは阿波の鳴門に一夏を送る僧にて候。扨もこの浦は。平家の一門果て給ひたる所なれば痛はしく存じ。毎夜この磯辺に出でて御経を読み奉り候。唯今も出でて弔ひ申さばやと思ひ候。

登場するのは僧で、従僧(ワキツレ)を1人伴っています。
二人はやがて脇座に行き着座して上歌を謡います。

ワキ/ワキツレ「磯山に。暫し岩根のまつ程に。暫し岩根のまつ程に。誰が夜舟とは白波に。楫音ばかり鳴門の。浦静かなる。今宵かな。

これに続けて<一声>の囃子が始まると、後見が舟の作物を出します。骨組みだけの簡素な舟ですが、立派に舟に見えます。特徴的なのはその舟に篝火がつけられていることで、これは『通盛』だけにしか使いません。

舟の作物を出して後見が退くと、若い女(ツレ)を先立てて漁翁(前シテ)が登場し、舟に乗り込むとシテは後見により差し出された竹棹を左手に持ちます。

これにより夜が迫っている鳴門の海岸の岩の上に座して亡き平家の公達たちを弔う僧の姿と、そこに ふと現れた老人と若い女という、やや不自然な二人が乗った舟が現れた、という構図が出来上がります。

シテとツレは舟を自分たちで持ち運んで舞台に据えることは不可能なので、後見によって先に持ち出されるわけで、これは能の常道ではありますが、ワキはすでに「誰が夜舟とは白波に。楫音ばかり鳴門の。。」と謡っていますから、どこからか自分たちに近づいてくる舟の気配は感じています。そこにまず舟が出され、続いてシテとツレが乗船することで、おぼろに、うっすらと舟の姿が海上に現れてくる風情を表すのでしょう。

ツレ「すは遠山寺の鐘の声。この磯辺近く聞え候。
シテ「入相ごさめれ急が給へ。
ツレ「程なく暮るゝ日の数かな。
シテ「昨日過ぎ。ツレ「今日と暮れ。シテ「明日またかくこそ有るべけれ。
ツレ「されども老に頼まぬは。シテ「身のゆくすゑの日数なり。
シテ/ツレ「いつまで世をばわたづみの。あまりに隙も波小舟。
ツレ「何を頼に老の身の。シテ「命のために。シテ/ツレ「使ふべき。
地謡「憂きながら。心の少し慰むは。心の少し慰むは。月の出汐の海士小舟。さも面白き浦の秋の景色かな。
〈と右の方へ見回す〉所は夕浪の。鳴門の沖に雲つゞく。淡路の島や離れ得ぬ浮世の業ぞ悲しき浮世の業ぞ悲しき。〈と面を伏せる〉

。。動かないです。シテもツレも。要するに二人が舟に乗っているのがその原因で、前場の最後にツレが入水する有様を見せるまで、二人はずっと舟の中にいるため、動作をする場所がその舟の上に限られてしまうのです。後述するように、演技がないわけではない。それが限られた場所で小さく行われているため目立たないのです。

そうして、この場面ではシテとツレの二人が登場して、地謡は鳴門の景色を描写していますね。まだシテとワキは出会ってもいないのですが、この景色の描写の場面だけで10分くらは掛かるのではないでしょうか。ストーリーの展開としては甚だゆったりとしたものですが、能はこういう場面を大切にしています。何もない舞台ではありますが、場面の状況をゆったりと地謡が描写し、シテが静かにそれを眺める型をすることによって、鳴門の海に観客を誘導しようとしているのです。

シテ「暗濤月を埋んで清光なし。ツレ「舟に焚く海士の篝火更け過ぎて。
シテ/ツレ「苫よりくゞる夜の雨の。芦間に通ふ風ならでは。音する物も波枕に。夢か現か御経の声の。嵐につれて聞ゆるぞや。楫音を静め唐櫓を抑へて
〈と棹に右手をかけ〉。聴聞せばやと思ひ候〈と面を伏せる〉。

シテとツレの登場の冒頭に、ツレは「遠山寺の鐘の声」を聞いています。そうして ここでワキが経を読む声が二人の耳に響いてくるのです。「遠山寺の鐘の声」は言うなれば伏線で、ワキの経を読む声に、じつはシテとツレの二人は引き寄せられてやって来たのでしょう。もちろん、このシテが平通盛の、ツレはその妻・小宰相局の霊の化身だという事はここでは明かされていませんので、観客はそれが明かされた時点で、最初の場面から、この曲が仏教の。。というか、とりわき法華経の功徳が中心に据えられて構成されていることが理解されることになります。

梅若研能会5月公演

2016-05-10 02:13:29 | 能楽
あっという間にもう来週に迫ってしまいました。ぬえがシテを勤めさせて頂く能『通盛』…来る5月19日の「梅若研能会5月公演」にて この曲を上演させて頂きます。

稽古を始めた当初は「動きが少なくて見せ場がない能だなあ。。」と嘆息していたのですが、意外や大きな発見をしてしまいました。

この度の『通盛』では ぬえの長男がツレとして登場させて頂きます。…かつて子方を勤めていた頃は「チビぬえ」として このブログでもご紹介させて頂いた事もありましたが、彼もいつの間にか高校3年生! そうしてこの日、舞台で初めて面を掛ける「初面(はつおもて)」という、能楽師の生涯の中でもちょっとしたお祝い事を迎える事となりました。

そんな事から今回の公演はチケットの売れ行きが好調でして、だからこそ、動きが少ないこの能について、お客さまが退屈しないように、舞台で役者が何を演じているのか、どうして動きが少ないのか、を機会あるごとに解説するようにしております。ぬえの生徒さんの稽古場でも、時間を見つけて映像を流しながら解説したり。

こうしているうちに、能『通盛』で見落とされている、作者の思い、というような物が見えてきたように感じてきました。古曲とされるこの能を「改作」して現在の形にした、とされる世阿弥が、みずからこの能を「直ぐなる能」と評価していますが、この言葉は単純に言葉通りに解釈してはならないのではないか? という印象も持っています。

残された時間は わずかではありますが、せっかくの機会なので、『通盛』についての ぬえの考えをしばらく述べさせて頂きたいと存じます。

まずは公演の宣伝から! 平日の公演ではありますが、どうぞお誘い合わせの上ご来場賜りますよう、お願い申し上げます~

梅若研能会 5月公演

【日時】 2016年5月19日(木・午後2時開演)
【会場】 セルリアンタワー能楽堂 <東京・渋谷>

 能  通 盛(みちもり)
     前シテ(漁翁)/後シテ(平通盛) ぬえ
     前ツレ(女)/後ツレ(小宰相局) 八田和弥(チビぬえ)
     ワ キ(僧)野口 能弘/間狂言(浦人)大蔵 教義
     笛 寺井 義明/小鼓 田邊恭資/大鼓 高野彰/太鼓 大川典良
     後見 梅若万佐晴ほか/地謡 青木一郎ほか

   ~~~休憩 15分~~~

狂言 狐塚 小唄入(きつねづか・こうたいり)
     シテ(太郎冠者)  大蔵彌太郎
     アド(主 人)   大蔵 基誠
     アド(次郎冠者)  吉田 信海

能  井 筒 物着(いづつ・ものぎ)
     前シテ(里女)/後シテ(紀有常女) 梅若 泰志
     ワキ(旅僧)宝生欣哉
     笛 松田弘之/小鼓 古賀裕己/大鼓 柿原弘和
     後見 梅若万佐晴ほか/地謡 伊藤嘉章ほか
                     (終演予定午後5時50分頃)


【入場料】 指定席6,500円 自由席5,000円 学生2,500円 学生団体1,800円
【お申込】 ぬえ宛メールにて QYJ13065@nifty.com

伊豆の国市子ども創作能「鎌倉まつり」公演(その2)

2015-04-14 23:24:12 | 能楽
そして いよいよ子ども創作能『伊豆の頼朝』です。ぬえが書いた子ども能の台本としては3作目で、まさに伊豆で頼朝が挙兵した事件を扱っています。

頼朝(コウミ=6年)が北条政子(あっこ=6年)と北条時政(ケイゴ=5年)を従えて登場、後白河法皇の院宣を受けて挙兵を決意します。





政子は戦勝を祈願して八幡神に舞を奉納。一同は勇んで平家追討に立ち上がります。





地謡は4年生のタカラをはじめ子どもたちのみ。ちゃんとプロの囃子方の演奏に合わせて謡います。



一方こちらは平家の伊豆目代・山木兼隆の屋敷。ちょうど8月の三島大社の祭礼の日にあたり、兼隆(ソオ=6年)は わずかな郎党(きっぺ、たかのり=4年、まさと=4年)とともに屋敷に居残っていました。





兼隆の屋敷を急襲した頼朝軍。郎党も奮戦します。





頼朝と兼隆の一騎打ち。ちょっと史実とは違いますが。ついに兼隆は捕らえられます。こうして源氏の世が花開いたのでした。







終わってみて。。そうだなあ、良い舞台ではあったけれど、あの子どもたちにとって、全員がベストな演技だったか、と問われれば、ぬえは否と答えるでしょう。

終了後のミーティングでも彼らにそのことは伝えたし、鎌倉市観光協会の方から成果を問われて、同じことを答えました。観光協会の方は「厳しいですねー。。」と驚かれたようですが、彼らの実力はあんなものではない。一生懸命に与えられたお役を勤めた子も多かったし、ちょっとしたアクシデントがあってもすぐに克服した子など個人的には称賛したい子もあったのだけれど、雰囲気に呑まれたのかな、実力を出し切れなかった子もいたように ぬえには思えます。

まあ、そりゃ、小学生にそこまで要求するのは酷、という意見もあるでしょうが、何度も最高の舞台を ぬえに見せた彼らだからこそ、ぬえはまだ余地が残された舞台だったと感じました。彼らはもっと出来るのです。そうして ぬえに言われたことは彼らにもわかっていると思います。

1回だけしかない本番に賭ける。。能は良いシステムを持っていますね。彼らの次の舞台は真夏の花火大会のイベントです。そのときにはまた ぬえは大喜びで彼らを誉めてあげられるよう願っています。

伊豆の国市子ども創作能「鎌倉まつり」公演(その1)

2015-04-13 12:43:15 | 能楽
昨日、4月12日(日)、ぬえが指導する 伊豆の国市子ども創作能は鎌倉市のお招きを頂いて「鎌倉まつり」に出演させて頂きました。

もう恒例となった行事で、伊豆の子どもたちが鎌倉で上演するのは今年で4年目になります。鎌倉市と鎌倉市観光協会さまには いつも大変親切にして頂いて、子どもたちも毎年 鎌倉に行くのを楽しみにしております。

静岡県にある伊豆の国市は伊豆長岡温泉や大仁温泉が有名ですが、じつは源頼朝が流された蛭が小島がある場所で、そのほかにも多くの史跡を残す歴史の宝庫です。頼朝はここで平家に対して挙兵し、ついにこれを滅ぼすと鎌倉に幕府を置きました。頼朝によって始められた武士による政権は明治維新まで続くことに。頼朝の挙兵に限って考えてみれば、いわば伊豆がスタート地点で鎌倉がゴールということになります。こうして5年前に、ゆかりのある市町村が協力して頼朝の史跡を中心として観光などを活性化しようという「頼朝ジャパン」という事業が始まりました。

ぬえが指導する伊豆の国市子ども創作能でも頼朝の挙兵を扱った『伊豆の頼朝』という新作の台本の創作能を上演していたので、このご縁で鎌倉市のイベント「鎌倉まつり」に招聘頂くことになりました。

今年は鎌倉市も伊豆の子ども能を大変大きく取り上げて頂き、「鎌倉まつり」のチラシにも1ページをつかって大々的にご紹介頂きました。会場となる鎌倉宮さまもいつも子どもたちを温かく迎えてくださり、関係の方々にはいつも大変感謝しております。

さてこの日は前後の数日ずっと雨が降り続いているのに、なぜか「鎌倉まつり」当日だけ見事に晴れ渡りました! 早朝6時半にバスで伊豆を出発した子どもたちも10時前に無事鎌倉に到着。





まずは鎌倉宮から徒歩数分の場所にある伝・頼朝の墓に参詣して、みんなでこれから上演する『伊豆の頼朝』の一節を謡って奉納しました。鎌倉市観光協会の遠藤さんも引率頂き、子どもたちのために わざわざ頼朝の伝記や墓についての言い伝えなどを記したプリントまで用意してくださいました。







奉納のあとは、開演時刻まで時間があるので、今回唯一の自由時間。鶴岡八幡宮を見に行ったりおみやげを買いに行ったり、自由にしていいよー、と言ったら。。

「そこにある公園で遊びたーい」

ええ。。? 鎌倉までわざわざ来たのに。。??



公園で遊んでから(笑)、やがて会場に戻って舞台掃除。これは ぬえが毎度、神社などでの公演のたびに子どもたちに課している奉仕作業です。使わせて頂く舞台への感謝をし、併せて多くの大人の協力によって公演ができることを感謝して。掃除のあとはお祓いも受けさせます。神様の前で奉納するのですから、神様へのご挨拶も忘れずに。



やがて東京からお囃子方も到着され、舞台で申合。



このあたりでちょっと予定の時間から遅れが出始めたので、子どもたちは急いでお弁当を食べて、着替えて。。立ち方の子に装束を着付けるのは ぬえ一人なので、毎回1時間掛かる計算なのでちょっと焦りましたが、なんとか多少の時間の余裕を残して着付けも完了、いよいよ公演が始まりました。

今回は鎌倉市長さんもお見えになり、最後まで熱心に子どもたちの熱演をご覧頂きました。



まずは ぬえが講師演目として仕舞『玄象』を勤めます。地謡は初の試みとして子どもたちに謡ってもらいました。まるで王様気取りじゃね。



次に子ども仕舞。2年生になったばかりのセイヤの『猩々』と、4年生の きっぺによる『敦盛キリ』。





子ども舞囃子『小袖曽我』。これは伊豆が舞台の物語なので、折を見つけては子どもたちにやらせる演目です。ちょっと難しいですけどね。今回の上演は中学3年の ひとちゃんと、6年生の よっちの二人。



突然ではありますが...

2015-01-26 00:19:31 | 能楽
毎々 ぬえの能楽通信blogをご愛顧頂きましてまことにありがとうございます。

突然ながら 身内に不幸が起きてしまい、ただいま対応に忙殺されております。

たぶん2~3日で最初の山場を越えて落ち着くとは思います。

それまでしばらくお暇を頂戴させて頂きますこと、お許しください。




つひに行く道とはかねて聞きしかど 昨日今日とは思はざりしを

愛してる

2014-12-03 04:34:06 | 能楽
この週末、静岡県・伊豆の国市で ぬえが指導する「子ども創作能」『ぬえ』の公演がありました。
この街が誇る能楽公演「狩野川能」の第一部、入場無料の催しとして、仮設とはいえ本格的な能舞台に子どもたちを上がらせての上演は じつに5年ぶりの快挙でした。まさに悲願の達成。

そうして22人の子どもたちもノーミスで演技を完了、15年間に渡る「子ども創作能」の歴史の中で、間違いなく輝かしい1ページを築きました。

愛してる。努力に努力を重ねて、泣きながら、がむしゃらに ぬえが出した課題を乗り超えて ここに到達した君たちを。

思えばこの夏、「。。良くなかった」と公演後のミーティングで、これも ぬえとして15年目で初めて発したかもしれない言葉を聞いてショックを受けた小学生たち。その後の稽古でも決して機嫌がよいとも言えない ぬえでしたが、まさかここまでの完成度を ぬえに見せつけるとは。「どうだ」「これでも良くない、って先生は言うの?」と言わんばかりでしたねー。

こちら、1年生と新入会員6人による仕舞『玄象』。はじめて上る能舞台に緊張。。はあまりしてなかったみたいだなー。ママさん方5名も地謡でサポート。これ、ときどきやるのですが、ママさんは我が子の動作に目を奪われて、自分が謡うどころではないのですって。ま、賑やかしに。





こっちは3年生のきっぺの仕舞『屋島』。これは同じ年齢の小学生の中では、能楽師の子どもを除けば彼が日本一上手だろうと思います。子ども能とは別に個人的に古典の曲を稽古してくれているのですが、興味は深いようだし、ちょっとした工夫も自分なりに加えているようだし。あと稽古で直されたところは同じ間違いを絶対にしないね。これは大したもんだ。



ナオコちゃんと よっち(5年)の母娘による舞囃子『小袖曽我』。男舞は短く詰めましたが、ママの方はお稽古を始めてまだ半年くらいじゃないだろうか。ああ、それなのに仕舞も難しい『小袖曽我』を舞囃子で課すなんて、なんて非道なの? ぬえ。だってぇ伊豆が舞台の曲なんだもん。



さてお待ちかねの子ども創作能『ぬえ』です。今回の大臣はまさかのケイゴ(4年)が立候補して役を射止めました。。が、謡はしっかりしているけれども、その身長で狩衣が着れるのだろうか。着れました。なせばなる。



頼政役は ゆっきー、猪早太役はウレシ、鵺役はリカちゃんの6年生コンビで、こちらは慣れた配役で安心して見ていられます。むしろ小ぬえ役の5人、ケイゴ、ソオ、コウミ、アッコ、よっちのほぼ5年生チームは、橋掛リで舞働を舞うなど、はじめての能舞台で、その特殊な形状の舞台で舞うのは大変だったろうと思います。













しかし。。中学生が勤めた地頭、後見はさすがの風格でした。地謡は。。かつて15年前は ぬえが地頭を勤めて、子どもたちは口パクでかろうじて ぬえに従って謡う、という程度でしたが、いつの頃からかもう地謡は子どもたちに任せるようになりました。プロの囃子の演奏に合わせて子どもたちだけで地謡を謡う。。これも全国でここでしか出来ないことだと思います。それどころか地謡を彼らに任せた当初、謡い方はいわゆる「雨だれ拍子」といって緩急のない のっぺりした謡い方にして囃子に合いやすくしていたのですが、段々とレベルが上がってくるにつれて ぬえもハードルの高さを上げていって。。専門的になりますが「トリ」の間であっても、さらにその間で謡い出すのが難しい幸流小鼓がお相手でも間をはずさないレベルにまで到達しています。今回は久しぶりに地頭の大役をサラ(中1)が見事に勤めました。



後見。。ときどき子どもにやらせている役目ですが、今回は能舞台での上演ということで、幕揚げからすべての仕事をやらせました。舞台上での物着もあり大役だったと思いますが、さすがずっと子ども能に携わってきた中学生。居ずまいからして決まっていました。



トップ画像は今回ママさんたちに撮って頂いた画像の中で最も ぬえが好きなものです。幕を出る直前の頼政役の ゆっきーと猪早太役の うれし。幕を揚げる用意をしているのが ぬえとともに後見を勤めた ゆかべー とイチイ(中1)です。この緊張感は ぬえたち能楽師が幕を揚げて出る直前となんら変わらなかったです。

終演後のミーティングでは市長さんに激励のお言葉を頂き、またこの日のためにわざわざ駆けつけてくださった気仙沼の村上緑さんが震災のあとの気仙沼の復興について 子どもたちに話をしてくれました。





緑さんは「子ども創作能がこれほど素晴らしいとは思っていなかった」「この街だけで上演しているのはもったいない」「気仙沼の人々にも見せてあげたい」と言ってくださいました。またこの日 第二部の有料の能楽公演のために集まって来られた能楽師の先生方からも「子どもたち、すごいですね~」「どれくらいお稽古すればこんなに出来るようになるのですか?」なんて ぬえに感想や質問を頂きました。子どもたちのおかげで ぬえも鼻が高かったです!

まあ。。間違いなく小学生が出演する能楽公演では全国トップのレベルでしょう。みんな、お姉ちゃんが主役やってる姿に憧れて参加したり、来年は6年生だから主役をやるぞ、と自宅でひそかに稽古を積んだり、そうして15年間の切磋琢磨と、そういう向上心が伝承され続けて、彼らはここまで上ってきました。

次回は2月に市内の神社で行われるイベント「梅まつり」への参加に向けて、また楽しいお稽古の時間が再開されます! これは年度の最後の公演だというので、恒例として子どもたちは学年に関係なく、誰でも主役に立候補できることにしています。その代わりお役に決まったら責任は全うすることを条件に。以前、誰でも主役やって良いと言ったら1年生が「はい!」と手を挙げてしまって。予想外の展開で ぬえもドキドキしましたが、なんと当日は無事に大役を勤め果たしたのでした。

可能性には終わりはないですね。限界なんてそう簡単に見えるものじゃない。そもそも能の型というものは、少しマジメに勉強すれば誰でも舞えるように作ってあるのです。楽しむだけでもちゃんと成立するし、そこより奥に進むにはコツもあって、それはずっと奥深いところまで続いている。そこが能の素晴らしいところだと思います。彼らはそこにすでに気づいているんじゃないかな。こうして舞台を勤める責任ということを感じて、ちゃんと全うして見せた姿に ぬえは惜しみない拍手を贈ります。

壮大な童話…『舎利』(その9)

2014-11-26 02:19:18 | 能楽
先週、『舎利』の上演が終わりました!
何というか。。波瀾万丈の舞台でした。計算したところ、工夫したところは上手く行ったのですが、勢い余って一畳台から転げ落ちるハプニングも。。
こういう、いわゆる「失敗」という事は起こさない主義の ぬえなのですが、そして万が一そんな事が起きれば今ごろ頭をかかえて引き籠もっているはずなのですが。。
まあ、今回は勇み足というか、勢い余ってというか。。自分で笑ってしまいました。
幕に入って師匠にお礼を申しあげるのですが「あ、あの。。落っこっちゃいました。。」と申しあげたところ、師匠も「お前。。大丈夫かぁ?」と。。笑いをこらえながら。。

でも、あちこち、ちょっと荒削りな能になっちゃいましたね。細かいミスは多かったと思います。夏の『二人静』の正反対の出来になりました。
ぬえは飛んだり跳ねたり、切能が大好きですけれども、今回はアクロバティックな工夫をし過ぎてしまったかも、です。もう少し冷静に、思い切りよく出来るように。。つまり稽古が足りないのだと思います。
切能を面白く見せる以上、確実な成果がなくては話になりません。1週間経ったいま、そういう自戒を考えております。

さて、この秋の早い頃、ぬえは京都に行く機会がありまして、それならば、と能『舎利』の舞台になった泉涌寺を訪れてみました。今回はその画像がメインのご報告です。

トップ画像が例の「舎利殿」で、泉涌寺では塔ではないのですね。「天井を蹴破り」まさにそういう描写が似合う(と言ってはお寺に失礼か)伽藍でした。残念ながら内部は通常は非公開でしたが、同門の先輩は拝観して、仏舎利と、その横におわします韋駄天もご覧になった事があるののだそうです。



で、舎利と韋駄天の像の実際はこんな感じ(拝観した際に購入した絵葉書を転載させて頂きました)。





韋駄天、優しいお顔なんですね。能とはちょっと雰囲気が違うな。

この「み寺」にはもう一つ大切な宝物があって、それが「楊貴妃観音」です(絵葉書より転載)。



これは舎利とともに宋から伝来した十六羅漢のうちの一体で、その表情の美しさから現在「楊貴妃観音」と呼ばれていますが、能『舎利』の中でワキが「大唐より渡されたる十六羅漢。又仏舎利をも拝み申さばやと存じ候。」と言っているように舎利と同等に往古より拝された著名な仏像であるようです。

さて。。最後に『舎利』についてとっておきのお話しをひとつ。。

じつは京都東山・泉涌寺蔵の仏舎利について、奇妙なお話しがあるのです。

それは『園太暦』(えんたいりゃく)という南北朝期の公家の日記で、そこに泉涌寺の仏舎利ほか寺宝が盗難に遭った事件があり、不思議な展開によってそれらが寺に返された、というもの。

この記事を知ったのは『観世』誌 昭和57年12月号に載る『「舎利」をめぐって』という座談会の記事の中で神戸大学の熱田公教授が紹介されたのを見たからで、ちょっと図書館で調べてみました。

『園太暦』は「続群書類従完成会」によって翻刻されていましたが、ぬえが行った国立能楽堂の図書室には『園太暦』はあったものの、『観世』誌に紹介された記事が載っているはずの「巻六」は蔵書がなく。。 仕方なくオンラインで調べてみたところ、国文学研究資料館が高知県立大学蔵の写本『園太暦抄』の影印本を公開しているのを発見しました。

かなり大変でしたが記事を探した結果、当該の記事は『観世』誌で紹介された「延文四年二月」ではなく同年(1356)三月十二日の条でした。

目次に「三月十二日 泉涌寺ノ舎利盗人之ヲ取ル 重テ出現ノ事」とあるのがその記事で、この目次と併せて ぬえがヘタな読み下し文でご紹介すると。。

三月小
十二日 天ノ傳聞 今日臨時ノ舎利會ヲ修ス。是件ノ御舎利 去月紛失シ、今月一日出現ス 之ニ依テ臨時ヲ修スト云々。
今月泉涌寺舎利會ノ事當寺ノ佛舎利ハ名声世ニ被リ利益他ニ異ル。而シテ今年二月盗人ノ為ニ紛失ス。廿七日付見之寺事破損之重代財宝及佛舎利多ク以テ紛失ス)今月一日不慮ニ出来リ給フ。(其子細ハ一日丑ノ刻カ)後ノ山立桂松其ノ外炬火(注=きょか=松明のこと)多クシテ高声ヲ以テ御舎利ノ事尋ネ出ス事有リト。衆僧早ク是ヲ請取ル可キ旨之ヲ示ス。僧衆恐怖ヲ成スと雖モ少之遂ヲ以テ山中ニ向フ。件ノ御舎利松樹ノ上ニ奉案シ其辺立明自余ノ財宝同ク其辺ニ積置リ。十六羅漢、種々ノ唐繪、珠幡己下(=以下)寺家ノ重宝車二両許リニ積ム程之ヲ運置シ、一部ノ物ヲ着タル小袴ノ男一人出来タリ、此ノ御舎利己下尋ネ出シ奉ル事有リ。依テ返シ渡ス所也。此ノ内少々定テ不具ノ事有ルカ。其ノ條強テ尋ネ沙汰スルニ及ブ可ラズ。若シ糾明ヲ致サバ寺家ノ為損容有ル可キカ云々。僧衆殊テ其ノ旨ヲ存ス可シ。曾テ(=かつて)沙汰ニ及ブ可カラザル之由返答ス。此ノ間山中ニ弓箭兵杖ヲ棒ル曾(勇カと注記あり)士宛モ僧衆旁傷ニ備ル心ス。然ルヲ而無為ニ請取ル事ハ家ノ大慶 衆僧高逆左右ニ能ハズ。此事寺辺謳歌ス。件ノ強盗、近辺悪徒ノ所為勿論カ。而ヲ件ノ盗人張本二人不慮ニ欠当(=決闘)損フ。今恐怖之度(ところ)八歳ノ小女ニ御舎利依託シ早寺家ニ返ス可シ。之ヲ然リトセズンバ急損己ニ後悔ス可キカ之由之ヲ言間、此ノ事ニ依テ返シ渡シ奉ル所故ニ出来カ。末代ト雖モ不可説ノ奇特ナル者乎。寺家此ノ事ニ感徹シ臨時ノ舎利會ヲ行フ。(或舎利會ハ毎年九月也)其儀早旦件ノ御舎利ヲ以テ禮ノ間ニ出シ奉リ、此ノ処ニ於テ衆儀梵讃、錫杖己下種々此用舞楽人参向 音楽ヲ奏シ、御舎利ヲ渡シ奉リ法塔ニ於テ衆僧囲繞、舞人壱ニ婁絶其曲、法塔ニ於テ相従シ奉リ、舎利講ヲ修ス。寺僧覚曾、導師ノ為式之次ニ頗敬白之子細有云々。先ズ依テ奇代之事ノ為ニ傳聞ヲ以テ之ヲ勤ム。

すいません、一部読み下すことができない部分はそのままに掲出しました。

。。それにしても、とても興味深い内容です。
現代語訳を付してもよいのですが、前掲『「舎利」をめぐって』で熱田教授が解説しておられる表現が秀逸なので、そちらをご紹介させて頂きましょう。

これは延文四年(1359)といいますから、世阿弥が生まれます四、五年前ですね。泉涌寺の舎利が盗まれるという事件がございました。この舎利とか、十六羅漢などの宝物が、すっかり寺の倉庫から盗まれたのです。舎利はもちろん最も大切な寺の宝物ですから、それが盗まれたということで、大騒ぎをしていたところ、数日後の夜中に、泉涌寺の裏山で、「舎利が見付かったぞ」という大きい声がするわけです。そこで寺の僧が見に行くと、舎利は松の木の上にちゃんと安置してあり、十六羅漢や、その他の盗まれた宝物は、二両の車に積んで置いてある。そこへ一人の男が現れ、「少し足らないかもしれないけどお返しする。これ以上あんまり追求するとためにならんぞ」というような啖呵を切って引き上げたというのです。あとで判ったことですが、盗んだのは近所の者らしく、この張本人二人が喧嘩を始め、二人共死んでしまうということがおこったのです。他の残った者が、どうしたらいいかとおののいていると、舎利が八才の少女に乗り移り、早く寺に返さなければ一味全部が死んでしまうと言うわけです。いわば託宣ですね。そういうことがあって、それで返す、その方法として、夜中に裏山へ、ということらしいのです。

『太平記』に記された、釈迦入滅時に足疾鬼が牙舎利を奪って逃げ、それを韋駄天が取り返した、という。。これは日本で生まれた物語であり、それとは系譜を別にしながら、牙舎利を伝えるという泉涌寺に起きた盗難事件と不思議な奇譚が存在するのですね。そしてさらにそういう不思議な話を統合した印象を持って能『舎利』がお客さまを楽しませる舞台として編まれる。そうでありながら能『舎利』には「信仰の深さ」という厳然としたテーマがあります。ただのショーとさせないぞ、という作者の意気込みが伝わってくるかのよう。

なんだか今回はまとまりがありませんが、そういう長い歴史の中で培われ、育て上げられた「壮大な童話」を、ちゃんと信仰を土台に敷いて能『舎利』を作り上げた名もなき先人に、ぬえは敬意を表したい、と そんな気持ちで舞台を終えました。なんだか気持ちがハッピーになる、そんな能なのではないかと思います。

【この項 了】

壮大な童話…『舎利』(その8)

2014-11-19 02:17:01 | 能楽
すぐに舞働。型は『土蜘蛛』とほとんど同じですかね。舞台で一度シテとツレが打ち合って橋掛リに行き、ここでも打ち合って、さらに橋掛リでクルクルと追いかけて二人舞台に戻って終わり。

『大会』にも似た型ですが、面白いのは『舎利』と『大会』はどちらもシテがツレに打擲される役で、この舞働の中でも2度、戦いの中でシテはツレに打たれます。ぬえの師家ではそういう場面ではシテは膝を屈して袖を頭に返しますね。これは師家の型の特徴なのかもしれません。

二人舞台に戻って向き合ってヒラキ、地謡が謡い出してさらに追いつ追われつの展開となります。

地謡「欲界色界無色界。 と三つ拍子踏み化天耶摩天他化自在天。三十三天攀ぢ上りて。 とシテは一畳台の上を通って大小前に行き、ツレはそれを追い行き帝釈天まで追ひあぐれば。 とシテは一畳台に飛び乗り、ツレも後より一畳台に飛び乗り梵王天より出であひ給ひて。もとの下界に。追つ下す。 とツレはシテを打ち、シテは台より脇座の方へ飛び下り右袖を頭に返して下居

これより急に囃子の位が静まって「イロエ」となります。また出てきた「イロエ」!

この「イロエ」は先に問題となった「出端」の替エとは違って純然たる所作事で、そしてまた他のどの能にも類例のない『舎利』独特の型でもあります。言い直せば、このように戯曲上ある場面をクローズアップするとき(能にはいろんな形はありますが、よく使われる手法ではあります)、地謡に拠らず囃子でその場面の雰囲気を伝えようとする場合、これは曲により内容が千差万別になるわけで、それが舞にならず短時間の所作事であれば、これを些末な分類にせず「イロエ」とひと括りにしているのかも。

『舎利』の場合、型としてはシテは脇座より立ち上がり静かに左に廻り(師家の本来の型では後ろに下がり:以下同断)大小前より脇座へ出る(再び正に向いて脇座の方へ出る)というもので、ツレも台より静かに下りて右に廻り、太鼓座前より脇正へ出る。。というもの。

上演場面としては急に役者の動きと囃子がゆっくりになるところで、解釈の仕方はいくつかあると思います。この直前にシテが袖を頭に返しているので、これは姿を隠したと考えられ、シテとツレが互いに相手の姿を見失ってその所在を探っている、というもの。ところが ぬえの先輩は、高速で戦っている場面をスローモーションで見せているのではないか、という意見でした。

どちらも成立する解釈です。そうして、この「イロエ」があるために、演出上はただ飛んだり跳ねたりする戦いの場面にひとつの転換をもたらし、それは能として大変効果があります。

シテとツレがそれぞれ脇座と脇正に行きかかるとき、再び囃子は急調になって地謡が「もとの下界に。追つ下す」と謡います。この謡い方が難しいところで、太鼓観世流ではイロエの終わりに「半打込」という短い終止の手を打って、それを聞いて地謡が謡い出すのですが、太鼓金春流では終止の手を打ち始めたところに いきなり地謡が「もとの下界に」と謡い込みます。

。。このところ、じつは観世流太鼓も本来は金春流と同じ「謡い込み」なのですが、同流の手付けには「今ハセズ」と注記があります。そして今回 稽古能を通じて囃子方に確認したところ、前述の「今ハセズ」にもかかわらず、近来は観世流でも「謡い込み」の方が実演上は多い、とのことで、それでは、というので ぬえも今回は「謡い込み」にして頂くことにしました。

地謡「もとの下界に。追つ下す。 とツレはシテを打ち、シテは安座
シテ「左へ行くも。 とシテは立ち上がり
地謡「右へ行くも。前後も天地も塞がりて。 とシテは正へヒラキすぐに台に乗り疾鬼は虚空にくるくるくると。 と左にいくつも廻り渦巻い廻るを。韋駄天立ち寄り宝棒にて。 とツレも台に上がり疾鬼を大地に打ち伏せて。 とシテは台より前へ下り台に腰掛け首を踏まへて牙舎利はいかに。出せや出せと責められて。 とツレはシテを打ち泣く泣く舎利を指し上ぐれば。 とシテは舎利を両手で右肩の上に上げ韋駄天舎利を取り給へば。 とツレは舎利を両手に持ち台より下り幕へ走り込みさばかり今までは。 とシテは台に後ろ向きに飛び上がり安座、すぐに立ちより後ろ向きに飛び下り足早き鬼の。いつしか今は。 と角へ出左にソリ返リ、幕の方へ向きグワッシ二つ仕足弱車の力も尽き。 と三之松へ行き右へ飛び返り左袖を頭に返し心も茫々と起き上りてこそ。失せにけれ。 と立ち上がり左袖を返して留拍子、幕へ引く

最後はシテとツレの戦いのクライマックスです。シテは前後も天地も塞がって往生し、空中で錐もみの旋回をしますが、韋駄天はそれを止めてシテを打ち伏せ、さらに打擲して舎利を返すように要求し、ここにいたりシテはついに観念して舎利を出してツレに渡し、ツレは喜んで舎利を捧げて幕に走り込みます。失意のシテとしては少々派手な型がついていますが、シテは角でソリ返り、さらに舞台でグワッシ、それより橋掛リに走り行き幕際にて飛び返り、あと立ち上がって袖を返して留拍子を踏んでトメ。

いや、なんとも童話的なファンタジーにあふれた能だと思います。『大会』のときにも思ったけれど、先人のユーモアに微笑せざるを得ませんね。

がしかし、今回この能を勤めさせて頂くについて台本をよく読むと、この曲が決してショーとしての面白みばかりを追求して作られた能とは言い切れないと思います。

前シテの長大で難解なクセの詞章。。それは仏法の礼賛であって、しかも末法の世に至って天竺ではすでに仏法は廃れ、仏法東漸によって、見仏聞法の利益が遠く離れたこの日本で実現できるという奇跡。

。。この能は童話のような楽しさがありますけれど、それは悪鬼であるシテ・足疾鬼もやはり仏法を礼賛する信者である、という善心の存在が、舎利の強奪という重苦しい話題を根底から明るく照らしているのです。

前シテも後シテも行う一畳台の上での旋回、前シテが舎利塔を奪ったあとに舎利台を踏み潰すこと、そうして後場が人間界を離れた天上界での空中戦という壮大な発想。

どれを見ても他の能にはない作者独自のアイデアにあふれた能だと思います。

今回は ぬえも作者のアイデアに敬意を表して、より面白い演出を加えてみました。
もう明日が公演当日なのですが、こういう楽しい能もあるのだという事を ぬえは広く知って頂きたいと思っております。

壮大な童話…『舎利』(その7)

2014-11-18 01:46:11 | 能楽
『舎利』に「出端」は重複しないのに、なぜこの曲では「出端」ではなく「イロエ」で後シテが登場するのでしょう。ぬえはそれは、『舎利』という曲が、後シテが積極的に登場しない、おそらく唯一の能だからではないかと考えています。

能の後シテは、多くの場合 執心のために浮かばれない魂をワキ僧に救済して欲しい、とか、帰らない昔の思い出に囚われたまま永遠にその思い出の中を彷徨っているとか。。はたまた神が人を救済しようと影向するとか、人に害を加えようと怪物が登場するとか、ともかく目標と対象を持って、何事かを「為す」ために登場して来ます。

ところが『舎利』のシテ・足疾鬼は、言うなれば前半。。前シテで自分の目的である仏舎利を強奪する事に成功しているのですよね。ですから後シテのこの登場は、人間の化身姿から鬼の姿に戻って、悠々と空中を引き揚げて行く様子なのです。彼がこれから何かをしようとするのではなく、彼の身にこれから何事かが起きる、そういう 戯曲上では中途半端な場面なのだと思います。

『舎利』の「イロエ」はそういう場面の感じを表現するために選ばれたわけですが、前述のようにこの「イロエ」は「出端」とほとんど替わらない楽曲です。こういう場面を修飾するのであれば、後シテの登場にはちょっと躍動的で積極性も感じられる「出端」よりももう少し静かな、抑揚のない平板な感じの音楽でもよさそうなものですが、また一方、どこまで行っても後シテは鬼神なのですよね。

鬼としてのシテの登場という、やはり物々しい威風の感じも欲しい場面で、そこで登場音楽としてはこの曲のために新たに作曲はされなかったけれど、事実上は「出端」を用いていながら笛が「イロエ」を吹くことで「出端」の積極性を抑制している、そういうように ぬえは考えています。

実際、師家の『舎利』の型付ではここはシテは「幕ヲ上 ソロソロト出ル」と書かれていました。些末になりますが「出端」で登場する場合の約束事である、シテが幕内で「右ウケ」する型もありません。どこかの解説書で、この後シテはゆっくりと登場するけれども、本当は疾風怒濤の勢いで天空を翔るのだ、というような説明を見ましたが、ぬえはそうではなく悠々と、散歩をするように空中を歩んでいるのだと思っています。

なお、今回 ぬえの『舎利』でお相手を願う笛方・森田流の寺井家では独自の伝承を保っていて、ほかの笛方の各流儀・家で「イロエ」を吹くところ、寺井家では『舎利』は「出端の替エ」と捉え、掛リと呼ばれる冒頭部だけ常の「出端」とは異なる「替エノ譜」を吹き、幕揚げの段は常の「出端」の通りとなるそうです。これまた解釈の違いで面白いことですね。

シテの扮装はシカミの面に赤頭、厚板の着付の上に法被・半切という、鬼神の典型の装束ですが、左手にさきほど奪った舎利を抱えています。もっとも前シテが奪うのは舎利塔で、後シテではそのうち塔の部分と宝珠に付けられていた火焔をはずした舎利玉だけを持っています。

さて「イロエ」で登場した後シテは「ソロソロ」と橋掛リを歩み、舞台に入ると段々と右へ廻ります。どうやら空中を進む彼の後ろから何者かが近づく気配。。 その刹那、囃子は突然 急速になって、「早笛」へと演奏を転じます。

「早笛」は極急調な躍動感にあふれた登場音楽で、龍神とか、そのほか勢いのある鬼神の役に多用されます。わくわくするような躍動感を感じさせる登場音楽としては随一の効果がある囃子でしょう。

シテはこれを聞いて(まあ戯曲的には遠くに自分を追い来る者の姿を認めて、ということでしょう)、急いで脇座の方へ走り行き、一畳台の角をぴょんと跳び越えて脇座のあたりに下居、右袖を被きます。

ここで一畳台について説明しなければなりません。前シテの場面ではこの一畳台の上に舎利台を置き、さらにそのうえに舎利塔が載っているので、一畳台は言うなれば舎利殿の中にある「須弥壇」と考えることが出来ます。ところが前シテが舎利塔を奪い去って幕の中に走り入ると、後見は踏み潰された台は引くけれども、一畳台はそのまま舞台に残しておきます。

後シテが登場する場面は天空なので、一畳台は要らないはず。。しかし実際の舞台では、この一畳台に乗ったり下りたり、シテとツレは組んず外れず、台を効果的に使って闘争のさまを見せます。要するに演技が印象的に見えるから一畳台は残されているのでしょうが、ぬえはこの一畳台を空に浮かぶ一片の雲だと考えています。

ですからこの部分も、シテは後から追いかけてくる韋駄天のスピードを見て、これでは逃げても追いつかれると観念し、雲の影に隠れたと ぬえは解釈しています。袖を頭に被くのも能では姿を隠した、という意味の定型の型です。

「早笛」に乗って後ツレ・韋駄天が登場しますが、この「早笛」、観世流の太鼓では「ハシリ」と言って、常より早く役者が登場するためのキッカケの手を打ちます。これは常よりも早く幕揚げをすることで、より急迫した登場をする意味が込められていて、能『安達原』『昭君』のほか『大会』やこの『舎利』など天神の面を掛けるツレの役に用いられます。

常座に立った後ツレ・韋駄天が謡い出し、シテも姿を見つけ出されてこれに応じます。

ツレ「そもそもこれは。この寺を守護し奉る韋駄天とは我が事なり。 とヒラキこゝに足疾鬼といへる外道。在世の昔の執心残つて。またこの舎利を取つて行く。いづくまでかは遁すべき。 とシテへ向きその牙舎利置いて行け。 とヒラキ
後シテ「いや適ふまじとよこの仏舎利は。 と立ち上がりながら袖を払い、ツレへ向き誰も望みの。あるものを。 と両者ヒラキ
地謡「欲界色界無色界。 と数拍子踏み

これより二人の闘争場面になります。

考えてみればこの後シテの場面、舞台となっているのは天空です。
言うなれば2機の戦闘機が空中戦を行っているのが後の場面で、こういう場面設定もほかの能には見られないものだと思います。

壮大な童話…『舎利』(その6)

2014-11-16 22:14:36 | 能楽
前シテが地謡のうちに幕のうちに走り込むと、橋掛リ一之松の裏欄干。。狂言座に控えていた間狂言が大声を出して橋掛リを転げ廻ります。

『道成寺』の間狂言と同じ演出で、前シテが舎利殿の天井を蹴破って逃げ去ったその轟音を、雷が落ちたと思って大騒ぎになるのですが、『舎利』のようなスペクタクルの能にはまことに良く似合った演出だと思います。

狂言方・大蔵流の詞章の例をここで掲出しておくと。。

ああ、桑原々々。桑原々々。さてもさても鳴ったり鳴ったり。したたかな鳴り様であった。今のは神鳴か、または地震か知らん。何にもせよ、胸がだくめいてならぬ。(舞台へ入りながら)まづ御舎利へ参り、心を鎮めて胸のだくめきを直さう。(舎利台を見て)南無三宝。お舎利がお見えない。(名乗座へ帰り)さてさて合点の行かぬ事ぢゃ。何者が取って失せた事ぢゃ知らん。おお、それそれ。最前往来のお僧にお舎利を拝ませ申したが、定めて彼奴が取って失せたものであらう。まだ遠くは参るまひ。急いで追掛けう。(正面へ走り進みワキを見て)いや、是に居らるる。いやなうなう。お僧はお舎利を何と召されたるぞ。(脇「愚僧は存ぜず候」)いやいや左様にはおりゃるまひ。それ故最前申すは、当寺のお舎利は聊爾には拝ませ申さね共、お僧の事にて候間、某が心得を以て拝ませ申したる上は。お僧が知らひで誰が知らふぞ。さては妄語ばしおしゃるか。(脇「いやいや妄語などは申さず候。それに就き不思議なる事の候間、近う御入り候へ」)心得申し候。(真中に座し)さて思ひ合する事と仰せ候は。如何様なる事にて候ぞ。(脇「御舎利を拝し申し候所に。いずくともなく童子一人来られ。御舎利を取り天井を蹴破り。虚空に上ると見て姿を見失ひて候。なんぼう不思議なる事にては候はぬか」)(一畳台の上を見る)や、誠に天井がくわっと破れてある。さては最前おびたたしう鳴ったは、これを破った時の音であらう。左様の事とも存ぜず、咎もなきお僧を疑ひ申して候。真平御免あらうずるにて候。これに付き思ひ合はする事の候。語って聞かせ申さうずるにて候。(正面へ直り)さても、釈尊入滅の刻、足疾鬼と申す鬼神。ひそかに双林の元に立寄り、御歯をひとつ引掻いて取る。仏弟子達、驚き騒ぎ、止めんとしたまへ共、片時の間に四万由旬を飛び越へ、須弥の半ば、四王天まで逃げ登り候を、韋駄天追掛け、取り返し給ひ、大唐の道宣律師に御渡し被成候が、その後我が朝へ御渡りあって、則ち当寺の宝と成り給ひて候。(ワキに向かい)さては我等の推量には。古しへの疾鬼が執心、仮に人間と顕れ、仏舎利を取って逃げたると存知候。さて是は何と仕り候ぞ。(脇「昔も今も仏力神力に変る事は有るまじく候間。此の度は韋駄天に祈誓あれかしと存じ候」)実々昔も今も、仏力神力の替る事有るまじく候間、韋駄天へ祈誓申し、再びお舎利を取り返し申さうずる間、御僧も力を添へて賜り候へ。(脇「心得申候」)(一畳台の前へ行き片ヒザ数珠取り出し手に掛けて)実々昔も今も仏力神力の替る事夢々あるべからず。一心頂来万徳円満釈迦如来。信心舎利を韋駄天取り返し給ひ。再び当寺の宝と成し給へ南無韋駄天、南無韋駄天(南無韋駄天にて数珠する。終りて数珠懐中に入れ板付に座す。能済み脇に付き入る)

この韋駄天に祈る間狂言の言葉に付けて太鼓が打ち出し後シテの登場音楽たる「イロエ」となります。

一体、「イロエ」という言葉は能楽の囃子事としては大変曖昧な用語ですね。ひとつの規範というものがなく、どちらかというと他の用語で律しきれない囃子事は多くの場合「イロエ」という呼び方にされている印象さえあります。

現に能『舎利』ではもう1か所「イロエ」があるのですが、それはこの後シテの登場場面で奏される「イロエ」とはまったく異なるものです。

「イロエ」とはシテの所作を修飾する、という意味の「彩色」を語源としているという説が有力ですが、前述のように一定の規範というものがありません。…そうは言っても、一方では同じやり方で演じる一群の「イロエ」、というものもあるので話は複雑です。

その一定の同じやり方で演じられる「イロエ」とは大小鼓がノッて地を打ち行き、そこに笛がアシライを吹く、というもので、この間シテは静かに角へ行き、正へは直さずに左へ廻り、正中で一度正面を向くのをキッカケに大小鼓は打上の手を打ち、シテはその間にもうひとつ左へ小さく廻って大小前で左右します。戯曲上の意味というものはほとんどないのですが、強いて言えばシテの不安な揺れ動く気持ちを表現していたり、人間ではないシテの神秘性を高める、という程度の効果があるでしょうか。必ず女性のシテが舞うのもこの定式の「イロエ」の特徴で、『船弁慶』の前シテ、『桜川』『百萬』『花筐』などの狂女能のシテ、また『楊貴妃』『杜若』など本三番目能のシテが舞います。

この定式のイロエ以外の「イロエ」は、これは千差万別と言える違いがあって、とても「イロエ」という一語で表すのは不可能ですね。『熊野』の「短尺ノ段」と呼ばれる部分、『杜若』『養老』に小書がついた場合に演じられる舞のあとの短い動作、『弱法師』は狂女能のイロエと基本的には同じものでしょう。

この「イロエ」に類する囃子事。。シテの動作の修飾的な囃子事には「立廻リ」というものがあります。これも曖昧な用語で、「イロエ」との区別もかなり不分明。一説には太鼓が入るものを「立廻リ」、大小物を「イロエ」と区別するのが本義、とも耳にしたことがありますが、『忠度』『歌占』『橋弁慶』『通小町』など大小物の「立廻リ」も数多くありますし、それらと太鼓物の「立廻リ」がある『阿漕』『山姥』『恋重荷』とを比べても、シテの所作に共通するような一定の法則はありません。

さて『舎利』の「イロエ」なのですが、これはまたこれまで述べてきたような所作事の一種としての「イロエ」とはまた一線を画す、登場音楽としての「イロエ」です。

そうしてこの登場の「イロエ」は、太鼓入りの能の後シテが登場する場面ではごくごく一般的な登場音楽である「出端」とほとんど同じものです。「出端」との おそらく唯一の違いは笛が「出端」の譜ではなく「イロエ」の譜を、休止なく吹き続けていることだけではないかと思います。

じつはまたこの登場の「イロエ」は『舎利』のほかにも奏される能があって、それは『道明寺』『白鬚』『東方朔』の3曲で、これはこれで一群と呼べるまとまりを示しています。

なぜ「出端」とほとんど替わりがないのに、わざわざ「イロエ」とするのか。それは『舎利』を除く前掲の3曲では「出端」が奏されていて、さらにそれとは別の役が登場する際に「イロエ」が奏されるのです。たとえば『道明寺』ではまずツレ天女が「出端」で登場し、そのあとに後シテ白大夫神が「イロエ」で登場し、『白鬚』では逆にまず後シテ白鬚明神が「出端」で現れ、ついでツレ天女が「イロエ」で登場。『東方朔』ではやはり後シテ東方朔が「出端」で登場し、通常は地謡が謡う中でツレ天女が登場しますが、替エとして「下リ端」または「イロエ」で登場する場合もある。。すなわちこれらの曲では同じ「出端」が2度演奏されるので、重複を避けるために一方の「出端」を「イロエ」に替えているのです。

ところが『舎利』には登場音楽としての「出端」はありません。なぜこの能では「出端」ではなく「イロエ」としているのか。

壮大な童話…『舎利』(その5)

2014-11-14 08:30:30 | 能楽
クセまでは舎利の功徳。。分けても仏法発祥の地たる天竺の聖地が荒廃して遺跡となっている現在。。すなわち末法の世を具現している現実にあって、信奉する者にとって目前に牙舎利が安置されている泉涌寺のありがたさを礼賛する内容で、そこにおいては見知らぬ者同士のワキ僧とシテ里人との心の交流が描かれています。

クセの文章をシテとワキのどちらが語っているか、を考えたとき、サシからクセの上端にかけて、長文を謡う地謡の中でところどころ謡う役がシテであることから、どうしてもシテがワキに説き聞かせる場面という印象を与えますが、実際には舎利を通じて二人が話し合ったこと。。末世に至り仏法が天竺で衰微したこと、しかし仏法東漸により教えや遺物などの宝物が唐土を経て日本に伝えられた奇跡、そしてこの泉涌寺で現実に釈迦の遺骨を拝している二人の幸運について交わされる会話と捉えるべきでしょう。

ところがクセも終わりに近づいたころ。。二人が会話を交わしている間に、二人を取り巻く周囲の様子が一変してきます。

ワキ「不思議やな俄かに晴れたる空かき曇り。堂前に輝く稲光。こはそもいかなる事やらん。
シテ「今は何をか包むべき。
 とワキへ向きその古への疾鬼が執心。猶この舎利に望みあり。 と舎利塔へ向き許し給へや御僧達。 とワキへ向き
ワキ「こはそも見れば不思議やな。面色変はり鬼となりて。
シテ「舎利殿に臨み昔の如く。
 と居立、作物をキッと見
ワキ「金棺を見せ。
 と立ち上がり
シテ「宝座をなして。
 とヒラキ

能『舎利』の前半のクライマックスの場面です。シテは自分が足疾鬼の執心と明かし、釈迦入滅のときにその牙舎利(=歯)を盗み取ったが取り返された恨みから、再びこの泉涌寺で本望を遂げようというのです。

「疾鬼が執心」と言っているので、足疾鬼はすでにこの世を去っているのですね。このあたり、前シテの登場時に「聞法値遇の結縁に。一劫をも浮ぶこの身ながら。二世安楽の心を得るに」と言っているのに呼応して、釈迦の説法を目前で聞いた聞法の功徳によって生涯の安楽は約束されたけれども、生まれ変わった後世は安楽が叶わず、執心だけがこの世に留まっている、というのです。

「金棺」は釈迦が葬られた棺で、「宝座」はその棺を安置した場所。「昔の如く」とシテが言っているので、釈迦入滅の場面が現世に絵巻物のように壮大に繰り広げられたと解することもできますが、ここはむしろ「(まざまざと思い出される)その当時のように」という意味だと思います。

地「栴檀沈瑞香。栴檀沈瑞香の。 と数拍子踏み上に立ち上る雲煙を立てて。 と角へ行き正へ直し稲妻の光に飛び紛れて。もとより足疾鬼とは。 と大小前にてヒラキ足早き鬼なれば。 と数拍子踏み舎利殿に飛び上りくるくるくると。 と一畳台に飛び上がり左へいくつも廻り見る人の目をくらめて。 とサシ廻その紛れに牙舎利を取つて。 と舎利塔を両手にて取り上げ天井を蹴破り。 と作物の台を踏み潰し虚空に飛んであがると見えしが行くへも知らず失せにけり。 と両手で舎利塔を捧げ持って幕へ走り込み行くへも知らず失せにけり。

こうして足疾鬼の執心は、まんまと舎利厨子を強奪することに成功しました。

この場面、シテが一畳台に飛び上がってその場でクルクルと廻ったり、作物の舎利塔を奪ってからその台を踏み潰すなど、およそ他の曲にはない型がふんだんに盛り込まれています。こういうところを見ると、先人のユーモアと想像力の高さに感服しますね。

こうした訳で、作物の舎利塔を載せる台は『舎利』の上演のたび毎に演者が自作するのです。

ただの箱なのですが、中身は踏み潰す型のために壊れやすく作ります。先輩の経験を参考にして、今回は天板と底板をベニヤのような集成材で、壁の部分をバルサ材で作りました。それも四方に壁を立てるのではなく左右二方だけにして、さらにバルサ材の壁にカッターナイフで切り込みを入れて。。

これで簡単に踏み壊せますし、その割には木材が割れる音も大仰に鳴るので、いかにも踏み壊した感じに映ると思います。

ところでこの場面、理屈としては舎利を置く台を踏み潰したのではないのです。地謡が「その紛れに牙舎利を取つて。天井を蹴破り。虚空に飛んであがると見えしが行くへも知らず失せにけり。」と謡っていますので、じつは前シテは逆さまに飛び上がり、天井の板を踏み破って昇天したのです。

こういうところもあえてリアルに状況を再現しようと型を考えるのではなく、舎利台を踏み潰すことによって、それを天井に見立てることで表現するのは非凡な才能だと思います。

ふたつの影…『二人静』(その16)

2014-11-11 22:38:08 | 能楽
昨日、今月に ぬえが勤める能『舎利』のお稽古を師匠につけて頂いたその日、梅若玄祥師と ぬえの師匠・梅若万三郎師による舞囃子『二人静』が上演され、ぬえも拝見して参りました。

師匠の芸をあれこれ詮索することは出来ませんが。。なる。。

自分が7月に『二人静』の能のツレを勤めてから、師匠のお言葉(ふたつの影…『二人静』(その15) を参照ください)の意味をずっと考えていた ぬえでしたが、やはり師匠の目指された『二人静』は相舞のシンクロではなく、役者としての個性を重視する行き方であったように思います。

驚くべきは、通常の『二人静』の相舞は舞台を左右に分けて、シテとツレのそれぞれが舞台の左右半分ずつを使って舞うのですが、今回の上演では舞台を前後二つに分けて舞っておられました(!)

それが周到に計算された演出であったことは、シテとツレが向かい合う型があるところでは ちゃんとお二人が並んで立たれたことからも明白です。

以前もご紹介したように、お二人の先生はほとんど打合せというものなしにこの日の舞台を勤められたようですが、どうも仄聞したところでは申合の際も実際に舞台では舞わず、最終確認のような打合せをされただけだったとか。

一つには、二人の役者が前後に立つことには、相手の動きがより見えやすい、という利点があって、今回はそこを狙ったのも理由のひとつなのではありましょうが、立体的な『二人静』の上演となって、とても斬新に拝見し、その意味についてもまた考え込まされてしまいました。。

それにしても良く型が合っていました。そうして、無理に合わせようともしておられなかったですね。扇を拡げて右に外し、顔の前に立てる上扇のタイミングは、いつも見ている師匠のそれ そのものでありました。そこはお二人のそれぞれのタイミングなのですから合っているわけではない。。でも合っているのです。説明が難しいですが違和感がない不揃い、とでも言うべきでしょうか。

美しかったです。そして風格がありました。体型も芸風も、それぞれ対称的とさえ言えるほど異なった個性をお持ちの先生方だと思いますが、それぞれが完成している場合、これほど違和感がないものなのか。言うなれば取り憑かれた菜摘女と、それに取り憑く静との間には、明らかに個性の違いがあるはずで、そこを演じた舞台だったように感じます。

いや、もとより、舞囃子というものは役者の舞を表現するものであって、菜摘女も静も そこにはいない、と言うべきですね。いうなれば二人の演者の肉体や培ってきた芸の差を、あえて露呈することを前提に組み立てられた舞でありましたし、そういう計算はちゃんとなされているのはハッキリと見てとれました。

先に書いたように舞台を前後に割って舞われた相舞は、同じ舞を演者を並べて鑑賞する、という『二人静』の相舞の型をあえて変更したものです。ここに至って考えてみるに、並立しない、という演じ方は、無理なシンクロはあえてしない、という演者の意思表明だったのかもしれません。

やはりこの4ヶ月間 ぬえが考え続けてきたように、『一人静』という能を同時にひとつの舞台で上演する、というような意図が先生方にあったのだとは思いますが、実際にはそんな ぬえの想像力をさらに超えた工夫がありました。打合せはほとんどなさらなかったそうではありますが、そこには周到な計算もあった。ぬえには到底たどり着くことのできない境地、なんて精神論を持ち出して済ませてしまうことは簡単なのではありますが、むしろ深い舞台経験から生み出されたアイデアで組み立てられた、技術論をしっかりと根底に置いた舞台であったように思います。

たまたまこの7月に ぬえが『二人静』の能を勤め、同じ年に師匠が『二人静』の舞囃子を舞われました。偶然ではありますが、こんな幸運があるかしら。師匠の舞台の予定が ぬえの舞台より後だったために、そして師匠も ぬえがこの曲を勤める頃が、ちょうど師匠もそろそろご自分の舞台の構成の組み立てを始められた頃に重なったために、前述(ふたつの影…『二人静』(その15)でご紹介したような師匠の『二人静』についての取り組みの方法や抱負を知る機会が ぬえに訪れたのです。

もし今年 師匠がこの曲を勤められる機会がなければ、この曲について、師匠のこれほど深い取り組み方を知ることはなかったでしょうし、また もしも舞台を勤める順序が逆で師匠が先に舞囃子を勤められたら、その頃まだ ぬえは自分の舞台の組み立て方に追われている頃だったでしょう。そうであれば、これほどまで ぬえと異なる解釈がある事も知らず、真剣に師匠のお舞台を拝見することもなかったかも。。

幸運ではありましたが、また芸の奥深さを知って愕然とした。。そんな4ヶ月間でありました。。