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ぬえの能楽通信blog

能楽師ぬえが能の情報を発信するブログです。開設16周年を迎えさせて頂きました!今後ともよろしくお願い申し上げます~

無色の能…『六浦』(その7)

2016-11-14 09:15:05 | 能楽
間狂言の物語を聞いて前に会った女は楓の精であることを確信したワキは読経して重ねての奇跡を待ちます。

ワキ/ワキツレ「所から。心に叶ふ称名の。心に叶ふ称名の。御法の声も松風もはや更け過ぐる秋の夜の。月澄み渡る庭の面。寝られんものか面白や。寝られんものか面白や。

ふうむ。。「待謡」と呼ばれる、これまた定型のワキの謡ですが、ぬえは この場面でも大変違和感を感じるのですが。。
その違和感は後シテの存在意義に関わる重要な問題だと思いますし、この違和感は、本当のことを言わせてもらえば、ぬえは前シテの場面からも感じていることで、つまり能全体に通底するものなのです。
が、そのことについては後に詳しく書きたいと思います。まずは舞台経過の続きを。。

「待謡」を受けて笛が鋭く「ヒシギ」と呼ばれる高音を奏でて、大小鼓が「一声」と呼ばれる登場音楽を奏し、やがて後シテが登場し、舞台に入って謡い出します。

後シテの装束は、面は前と同じ「深井」を掛け、無紅の長絹、大口に無紅鬘扇を持つ、という姿。紅葉しない楓の精を中年の女性の姿で現すのが一番の特徴で、すぐさま思うのは同じ趣向の能『芭蕉』との相似ですね。作品の成立の前後はわかりませんが、能『六浦』が『芭蕉』を意識して作られた、あるいはこの二つの能の作者に関係があるのは容易に想像でき、その可能性は高いのではないかと思います。

後シテ「あらありがたの御弔ひやな。妙なる値遇の縁に引かれて。二度此処に来りたり。夢ばし覚まし給ふなよ。 とワキヘ向きヒラキ
ワキ「不思議やな月澄み渡る庭の面に。ありつる女人とおぼしくて。影の如くに見え給ふぞや。草木国土悉皆成仏の。この妙文を疑ひ給はで。なほなほ昔を語り給へ。
シテ「それ四季をりをりの草木。おのれおのれの時を得て。地謡「花葉様々のその姿を。心なしとは誰か言ふ。
 と大小前へ行き正面へ向き

ああ、違和感がありすぎです。

まず、このシテはなぜ登場したのでしょう。そもそも前シテからして、なぜ僧に声を掛けたのか。
自分の身に悩みや恨みのような感情があって、僧に弔いを求めているのでしょうか? いや、この楓の木はかつてひとつ自分だけが山の紅葉に先立って色づいたことを藤原為相に愛でられて歌を詠んでもらう栄誉を得ました。それどころか、そこから達観して老子の言葉に従い、以後紅葉を止めてしまった、という、いうなれば誇りのようなものを持っている木ですから それもないでしょう。

ここで気になるのが「妙なる値遇の縁に引かれて。二度此処に来りたり」というシテの言葉です。前シテも自分が現れた理由を「お僧尊くまします故に。只今現れ来りたり」と まことにあっさりと表現していますが、この場面でも登場の理由としては同じように やや曖昧な印象を持ちますが、それでも「お僧尊くまします故」というよりは「妙なる値遇の縁に引かれて」という後シテの言葉の方が、前シテのそれよりは一歩踏み込んだ表現ではあろうと思います。

ぬえはこの『六浦』という曲の中で脚本の構想がうまく整合されていない箇所があまりに多すぎることに疑問を抱いていることは前述しましたが、一方 能『六浦』の作者が能の台本を書く、あるいは実際の能の上演に精通している人であったろう、とも考えています。この矛盾はどこから来るものなのか。。ぬえが感じる台本の疑問や不整合は大体このあたりまでに出尽くしていると思うので、改めて列挙しておくと。。

・ワキが日蓮、あるいは日蓮宗の僧と考えられるのに訪れた寺が「称名寺」(しかも真言律宗)●
・鎌倉に土地勘がない◆
・まして称名寺の伽藍規模を知らない(前シテが「人も通わぬ古寺」という)◆
・ワキが前シテの素性を尋ねず、シテも化身としての身分を言わない▲
・ワキが紅葉しない楓について事情を聞く前に楓の木に歌を詠む異例の展開●
・地謡がはじめて登場するのは中入の場面で、それもたった4行だけ▲
・待謡でワキが称名(念仏)を行う◆
・待謡でワキが「寝られんものか面白や」と言うのに後シテは「夢ばし覚まし給ふなよ」と言う◆
・ワキに「なほなほ昔を語り給へ」と促された後シテは、楓が紅葉しなくなった自分の昔語りではなく、まったく違う物語を語る●

ぬえは、あるいは、『六浦』の作者には失礼だけれども、この曲は能に習熟した作者があまり力を入れずに作ったのか、とも最初は思ったのですが。。

が、曲を読み進めていくうちに、作者の意図も読めてきました。
たしかに。。鎌倉に土地勘がなく、微妙に能全体の整合性を壊す箇所(上記◆の箇所)もないわけではないですが、能を冗漫にしないために敢えて能の定型の段取りを短縮しようとした箇所(同▲)があり、まして、一見疑問を抱かせる展開ながら、じつは能『六浦』の重要なテーマに欠かせない、計算された場面(同●)もあります。この作者の意図。。能『六浦』のテーマが、これ以後の場面で徐々に明らかになってゆきます。

シテ「まづ青陽の春の始め。地謡「色香妙なる梅が枝の。かつ咲きそめて諸人の。心や春になりぬらん。
シテ「又は桜の花盛り。地謡「たゞ雲とのみ三吉野の。千本の花に若くはなし。
 と扇を開きユウケン扇
地謡「月日経て。移れば変る眺めかな。桜は散りし庭の面に。 と右ウケ 咲きつゞく卯の花の。垣根や雪に紛ふらん。 と正面に向き左足拍子 時うつり夏暮れ秋もなかばになりぬれば。 と角トリ 空定めなき村時雨。 と右上を見上げ 昨日は薄きもみぢ葉も。露時雨もる山は。 と中にてサシ込ヒラキ 下葉残らぬ色とかや。 と左右打込 扇開き

クセからシテは舞い始めますが、これも簡素な型の連続ですね。

注意しなければいけないのは、ワキに促された「昔を語り給へ」という言葉とは違って、このクセ(の前半)では四季折々の草花の盛りを春・夏・秋と順を追って数え上げ、自然の賛歌のような文言であることです。これが「上端」と呼ばれる、長大なクセの文言のちょうど中央あたりに位置して、シテが謡う部分から様相が一変してゆきます。

無色の能…『六浦』(その6)

2016-11-08 17:09:40 | 能楽
間狂言が語る文言から能『六浦』の成立時期の話に、少々話題が飛躍しすぎた感もありますが、それにはちょっとした理由があります。というのも、この能が成立した時代背景、よりも、ぬえは この能がどこで誰によって作られたか、が気になっていまして。

能の作者はハッキリと観阿弥・世阿弥のように作者がわかっている曲もありますが、じつは多くは作者不明で、現行曲の中にも もうひとつ台本が練られていないように感じる曲もあったりします。その点、前述したように ぬえは能『六浦』の作者は能の台本を書くことに精通している人物だと思っていて、あるいは能を実際に上演していた能役者であろうと考えています。もっとも観阿弥や世阿弥をはじめ、現在判明している多くの能の作者はそのまま能役者であることの方が一般的ではありますが。。

また一方、『六浦』の舞台が都から遠く離れた相模国であることも、ぬえの興味を大きく引きつけています。

京都や近畿ではない、地方が舞台となっている能は少なからずあるのですが、『安宅』や『小袖曽我』のように、有名な歴史的事件があって、その事件を能に作る場合には現地を舞台に設定するのは至極当然なのでそれは例外として、越中国が舞台となっている能『藤』などのように、どうもその土地に関係した人物が作った、言うなれば「ご当地ソング」として作られた能もあります。

同じ草木の精が主人公の能『六浦』は『藤』と同類で相模国の人が作った能なのかもしれない、と当初 ぬえは漠然と考えていたのですが、どうやらそれはなさそうです。

これが端的にわかるのがワキの「道行」の文章で、『藤』ではこんな感じ。

ワキ/ワキツレ「雪消ゆる。白山風も長閑にて。白山風も長閑にて。日影長江の里も過ぎ。さゝぬ刀奈美の関越えて。青葉に見ゆる紅葉川。そなたとばかり白雲の。氷見の江行けば名に聞きし。多枯の浦にも着きにけり。多枯の浦にも着きにけり。

「白山」「長江の里」「刀奈美の関」「紅葉川」「氷見の江」。。歌枕などで都の人にも知られている地名もあるかもしれませんが、現実的には現地の人でなければワキの旅行の行程をイメージすることはできないでしょう。

ところが『六浦』の「道行」はこんな文章です。

ワキ/ワキツレ「逢坂の。関の杉村過ぎがてに。関の杉村過ぎがてに。行方も遠き湖の。舟路を渡り山を越え。幾夜な夜なの草枕。明け行く空も星月夜。鎌倉山を越え過ぎて。六浦の里に着きにけり。六浦の里に着きにけり。

「星月夜」は鎌倉を導く枕詞のような語で、「鎌倉山」は万葉集にも登場する当時からの名所。これを除けば「逢坂の関」これに続く「湖」は当然 琵琶湖のことで、どちらも都の人には親しんでいる地名です。つまり『六浦』の「道行」には琵琶湖~鎌倉山までの間の景物がそっくり脱落してしまっていることになる。。すなわち能『六浦』の作者は関東の地理には詳しくない人物であり、この能は『藤』のような相模国の「ご当地ソング」ではなく、~多くの能と同じように~都や南都など当時の中央で活躍した能役者かその周辺で作られた能の可能性が高い、ということです。

ではなぜ そのような都の近くで活躍していたであろう作者が、わざわざ地理もわからない東国の相模国を舞台に選んで『六浦』を書いたのでしょうか。

そこがこの能の最も面白いところで、この作者の興味深い人物像に ぬえは思いを馳せています。もっとも、まだ ぬえには作者の姿がハッキリと見えているわけではなく、また資料の乏しいこの能で作者像まで迫ることはかなり難しいと思われますが。。

が、たとえばワキを日蓮、あるいは日蓮宗の僧であると思わせるように設定してあること、能の定型をよく知っていて、あえて(?)そこから脱却しようとして書かれたかのような台本、紅葉しない楓を若い女性ではなく中年として描く特殊性、そして都から遠く離れた相模国を舞台に設定するエキゾチシズム。

これだけでもこの作者の非凡がよく伝わってくると思いますが、もうひとつ つけ加えるなら前述の「道行」のあとに続くワキの独白の一文ですかね。

ワキ「千里の行も一歩より起るとかや。遥々と思ひ候へども。日を重ねて急ぎ候程に。これははや相模の国六浦の里に着きて候。

ここに現れる「千里の行も一歩より起る」という言葉は『老子』に見える言葉で、

九層之臺 起於累土、千里之行 始於足下。(64章)

(九層の台は累土に起こり、千里の行は足下に始まる。

これ、まさしく『六浦』のテーマともいえる文言「功成り名遂げて身退くは。これ天の道なりといふ古き言葉」も同じ老子の第9章から採られた言葉なのです。

富貴而驕 自遺其咎。功遂身退 天之道。
(富貴にして驕るは自ら其の咎を遺す。功遂げ身退くは天の道なり。)

老子の熱烈な支持者でもある能『六浦』の作者。伝書や記録類にその名前はいくつか記載されているものの、信頼性に欠けて もうひとつ確証が得られないこの作者に ぬえの興味も尽きません。

が。まずは引き続いて能『六浦』の舞台経過の説明に戻りたいと思います。

無色の能…『六浦』(その5)

2016-11-07 01:07:30 | 能楽
シテが「行方も知らずなりにけり」とシテ柱で正面に向いてヒラキをすると、その姿は消え失せた体になります。静かに橋掛リを歩んで中入するシテの横顔は、能独特の風情ですね。このとき笛方の流儀により「送り笛」といって笛の独奏でシテが橋掛リを歩むのを彩ってくれることがあります。

シテが中入すると、それ以前に目立たぬように登場して橋掛リ一之松の裏欄干前の「狂言座」に控えていた間狂言がおももむろに立ち上がります。間狂言は六浦の里の里人の役で、舞台に入るとワキを見つけた体で言葉を交わし、ワキに促されるままに称名寺の不思議な楓について 所の言い伝えを物語ります。

間「かやうに候者は。六浦の里に住まひする者にて候。今日は志す日に当たりて候間。称名寺へ参らばやと存ずる。まことに称名寺は。隠れなき御寺にてあるに。近くに住みながら。再々参らぬは。近頃疎かなることにて候。いや、これに見慣れ申さぬお僧の御座候が。何処より何方へ御通りなされ候ひて。この所には休らうて御座候ぞ。
ワキ「これは都方より出でたる僧にて候。御身はこのあたりの人にて渡り候か
間狂言「なかなかこの辺りの者にて候
ワキ「左様に候はば。まず近う御入り候へ。尋ねたき事の候
間狂言「心得申して候。さて御尋ねありたきとは。如何やうなる御用にて候ぞ
ワキ「思ひもひも寄らぬ申し事にて候へども。山々の紅葉。今を盛りと見えて候に。これなる楓に限り。未だ紅葉せず。たゞ夏木立の如くに候。それにつき様々子細ありげに候。ご存知においては語って御聞かせ候へ
間狂言「これは思いも寄らぬ事をお尋ねなされ候ものかな。我らもこの所には住み候へども。左様の事詳しくは存ぜず候さりながら。凡そ承り及びたる通り。物語申さうずるにて候。
ワキ「近頃にて候
間狂言「さる程に。鎌倉の御事は天下に隠れましまさねば申すに及ばず。それにつきこのあたりを六浦の金沢と申して。此処もとにては名所にて候。すなはちこの寺は金沢の称名寺と申し候。またこれなる御庭の楓は隠れもなき名木にて候。その子細は。いにしへ鎌倉の中納言為相の卿と申す御方。この所へ御下りなされ候。その折節はいまだ秋も半ばにて。山々の楓ひと葉も紅葉仕らず。青葉ばかりなるに。これなる御庭の楓は色美しく照り添ひ。今を盛りと紅葉仕りて候間。為相の卿不審に思し召し。御歌を詠ませられたると申す。その御歌は。如何にしてこのひともとに時雨けん。山に先立つ庭のもみぢ葉と。かやうに詠ませられければ。まことに草木心なしとは申せども。また心も御座ありけるか。その次の年より。この木に限りひと葉も紅葉仕らず。年々青葉ばかりにて暮れ申す程に。見る人毎に不審をなさるゝ御事にて候。これと申すもさすがに為相の卿の御歌に詠み給ひて候へば。この後紅葉仕りても詮なしと存じ。年々青葉ばかりにて暮らすと見えたり。それを如何にと申すに。功成り名遂げて身退くはこれ天の道と申す事の候へば。あっぱれこの言葉を以て紅葉致さぬ物にてあらうずると。仰せらるゝ御方も御座候。これは御尤もなる御事にて候。
間狂言「まず我らの承りたるはかくの如くにて候が。ただいまのお尋ね不審に存じ候。
ワキ「懇ろに御物語候ものかな。尋ね申すも余の儀にあらず御身以前に。何処ともなく女性一人来たられ。楓の謂はれ懇ろに語り。まことは楓の精なりと言ひもあへず。そのまゝ姿を見失ふて候よ
間狂言「これは言語道断。不思議なることを仰せ候ものかな。それは疑う所もなく。これなる楓の精にて御座あらうずると存じ候。それを如何にと申すに。草木心なしとは申せども。四季折々の時を違へず。花咲き実成り候へば。心の御座あるは必定にて候。左様に思し召さば。暫くこのところに御逗留なされ。ありがたき御経をも御読誦あって。重ねて奇特をご覧あれかしと存じ候。
ワキ「近頃不思議なる事にて候ほどに。暫く逗留申し。ありがたき御経を読誦し。重ねて奇特を見やうずるにて候
間狂言「御用の事候はば。重ねて仰せ候へ。
ワキ「頼み候べし
間狂言「心得申して候


まことに。。能の定型にきっちりと嵌ったような やりとりですね。

間狂言が物語る内容には考察すべき問題が多く、その能が作られたよりもずっと後世に間狂言の文言だけ新作されたと思われる場合もあり、また能の台本と密接に結びついていて、能の成立時から間狂言の文言や動作が想定されているのが明らかなものもあり。

能『六浦』の間狂言は「語り間」と呼ばれる形式です。間狂言としては最も多用される演出だと思いますが、これは前シテが後シテの化身として登場し、後場でその本性を現す。。いわゆる「複式夢幻能」と呼ばれる能の場合に多く使われる間狂言の形式です。

登場した前シテを里の者と思いこんだワキが、シテの言動や、ふいに消え失せてしまったことに不審を抱いたところに、折良く現れた現実の所の住民が間狂言です。彼と問答をする中で、ワキは前シテがじつは人間ではなく幽霊や草木の精など超自然的な存在であったのだと確信し、その者のためにワキが弔いをする「待謡」などの場面に繋げ、これが後シテの登場の直接の動機となる、という定型的な演出効果があります。観客にとっては後場の前にシテの素性や、かつてシテをめぐって起きた事件を再確認することになり、シテはその間に楽屋で扮装を改めるという作業ができるわけです。

が、この「語り間」が物語る文言はシテ方の演技とはとは直接の関係が深くないため、能が作られた当初の文言からの改変が容易に行われる可能性があります。

語り間の中には、『鵺』や『船橋』などに前シテが語らなかったシテに関する謂われを物語るものがあり、言うなれば前シテが物語った物語をさらに補強して、後シテが登場する前に、その性格を明確にする語り間もあります。こういう場合は能が作られた当初から間狂言の文言も規定されて、それがそのまま伝わっている可能性が高いと思われますが、上掲の『六浦』の語り間の文言のように、前シテが語った内容をほとんどそのまま なぞっている場合もあって、この場合は間狂言の文言の成立と能の成立とが時期を同じくしているのかどうかの判定は難しくなります。

結論から申せば『六浦』の間の文言が能の成立と同時期に作られたものか、後世に改変されたのかは、詞章だけを見てはわからない、ということになってしまいます。さらに言えば、『六浦』という能が持つ独特の舞台設定が、間狂言の文言の成立時期の判定を より難しくしている面もありますが。

無色の能…『六浦』(その3)

2016-10-30 09:46:32 | 能楽
「鎌倉の中納言為相の卿」とは鎌倉時代の公卿・藤原為相(冷泉為相 1263-1328)のことで、為相は定家の孫で冷泉家の祖、また『十六夜日記』の作者として有名な阿仏尼(1222?-1283)の子です。『十六夜日記』は所領紛争のための訴訟を起こすために鎌倉へ下った作者の紀行日記ですが、全体は短いものながら多くの歌を収めていて、日記というよりは私歌集と言ってよいほど。そしてこの『十六夜日記』で描かれた鎌倉旅行の目的である幕府への訴訟こそが我が子為相のために行われたものでした。

阿仏尼は僧籍にありながら俗世との交わりを続け、為相の父・藤原為家の側室となりました。為家の没後、その所領の相続について正妻の子・為氏(御子左家の当主1222-1286)と争いになり、阿仏尼は我が子・為相のために鎌倉幕府に訴えるために、50歳代にして鎌倉への旅行を決意したのでした。当時為相は10歳代で、訴訟相手の為氏は為相よりもずっと年上。。阿仏尼と同年代の人ですから、未熟な為相の助力をするために老齢にむち打って鎌倉訴訟を決意したのでしょう。

為相も母を訪ねてしばしば鎌倉を訪れていて、歌人として阿仏尼とともに鎌倉歌壇で重要な役割を持っていたようです。鎌倉での訴訟は為相側の勝訴に終わりましたが、母・阿仏尼の晩年はよくわからず、勝訴を見届けないまま没したのだとか。ちなみにこの相続争いが元になって御子左家は分裂し、嫡流の二条家・京極家・冷泉家に分かれることになりました。為相は現在に続く冷泉家の祖となりましたが、この為相は晩年は鎌倉に住してそこで没しています。もっとも能『六浦』で為相は「鎌倉の中納言」と呼ばれてはいますが、彼が中納言になったのはこの鎌倉訴訟よりずっと後のことです。

能『六浦』の中心をなす歌「いかにしてこの一本にしぐれけん。山に先だつ庭のもみぢ葉」は為相の私家集『藤谷集』に納められていて、この歌集は為相が鎌倉・藤谷(ふじがやつ=「やつ」は「谷」の鎌倉での独特の呼び方)に住んだことから名付けられたもの。鎌倉在住時代の為相が詠んだ歌であれば、なるほど鎌倉からほど近い金沢の六浦へ紅葉狩に出かけた為相が称名寺に立ち寄って詠んだという可能性は高そうですが、実際には『藤谷集』にはそのような詞書きはないそうで、称名寺の楓を詠んだ歌かどうかはわからないようです。

ではなぜ能『六浦』の舞台が称名寺とされているのかが問題になります。結論から言ってしまえばその理由はわからない、という事になってしまうのですが、称名寺を実際に訪れた ぬえは、いろいろ思うところはあります。

称名寺は住宅街の中に忽然と現れた、という印象がぴったりの大伽藍で、まさかこんなところに、と思わせる広大な境内を持ち、その中心をなすのはこれまた大きな池でした。

称名寺という山号といい、浄土庭園をすぐに想起させる池を中心にした伽藍配置といい、やはり浄土宗の寺院かと思えば、なんとこの寺は真言律宗でした。この寺を創建した北條実時(御成敗式目で有名な三代執権の北條泰時の甥1224-1276)の時代からそうだったようで、鎌倉で起こった新仏教と源平争乱での荒廃から復興の道を歩んできた南都仏教との勢力関係をよく知りませんが、真言律といえば忍性が鎌倉に開いた極楽寺がありますから、忍性の影響によって最初から真言律の寺として建立されたのでしょう。

すいません ぬえも不勉強で、浄土系の寺でなくても「称名寺」と称することは普通なのか、あるいは「称名」という言葉は必ずしも阿弥陀仏を唱えることに限らないのか、よくわからないのです。さらには称名寺の庭園に浄土庭園の印象を持つ ぬえが間違っているのか、いや、むしろ ぬえは称名寺の庭園に、寝殿造りの邸宅を寺に改装したのか、とさえ思ったのですが、鎌倉時代に? 鎌倉の地に寝殿造り? それはあり得ないですね。。 そうして能『六浦』では、こんな称名寺に日蓮宗を思わせる僧が訪れる。。じつは『六浦』は、ナゾだらけの能なのです。

ともあれ、舞台に話を戻して、シテは「山々の紅葉未だなりしに。この木一本に限り紅葉色深く類ひなかりしかば。為相の卿。。(中略)。。と詠じ給ひしより。今に紅葉をとゞめて候。」と説明していて、これが能『六浦』の異色なテーマとなっています。

このあとがまた異色で、

ワキ「面白の御詠歌やな。われ数ならぬ身なれども。手向のために斯くばかり。古り果つるこの一本の跡を見て。袖の時雨ぞ山に先だつ。
シテ「あらありがたの御手向やな。いよいよこの木の面目にてこそ候へ。
とシテは舞台に入りワキへ向き
ワキ「さてさて前に為相の卿の御詠歌より。今に紅葉をとゞめたる。謂はれは如何なる事やらん。


このワキは自分のことは「さん候これは都より始めてこの所一見の者にて候が」とシテに自己紹介していますが、シテの素性を尋ねませんね。他にも例があるとは思いますが、初対面同士のシテとワキであってみれば、ワキが「御身は如何なる人にて候ぞ」とシテに尋ね、シテも「これはこの辺りに住まひする者にて候が。。」などと自分の身分を(実際には化身である本性は隠して)名乗ることが多いと思うのです。能『六浦』ではそのやりとりが省かれているばかりか、ワキはシテから聞いた為相の歌に興味を示して、みずからもこの不思議な楓に対して歌を手向ける、という異色の構成になっています。

これについて、ぬえは観世流大成版謡本の前付けにも紹介されている尭恵(1430-?)の『北国紀行』にある

同じ比六浦金澤をみるに。亂山かさなりて嶋となり。靑嶂そばだちて海をかくす。神靈絶妙の勝地なり。金澤にいたりて稱名寺といへる律の寺あり。むかし爲相卿。「いかにして此一もとに時雨けむ山に先たつ庭の紅葉葉」と侍りしより後は。此木靑はかは玄冬まで侍るよし聞ゆる楓樹くち殘て佛殿の軒に侍り。
  さきたゝは此一もとも殘らしとかたみの時雨靑葉にそふる


との関連を連想します。文明18年(1486)2月の記で、その時代は為相より200年後の室町時代のことではありますが、このように為相が称名寺の楓を歌に詠んだことはこの頃には人口に膾炙していたわけで、成立の過程も作者ももうひとつはっきりしない能『六浦』ではありますが、この能の作者が青葉の楓への興味を抱いてこの能の成立に到ったとき、ワキ僧から楓に対して改めて自作の歌を手向ける、という趣向と『北国紀行』との関連は一考する余地はあるのではないかと思います。

無色の能…『六浦』(その1)

2016-10-26 10:19:31 | 能楽
さて毎度 ぬえがシテを勤めさせて頂く際に行っております上演曲についての考察ですが、今回もちょっとスタートが遅れてしまいましたが、例によって舞台の進行を見ながら進めてゆきたいと考えております。しばしのお付き合いを~

お囃子方の「お調べ」が済み、お囃子方と地謡が舞台に登場、所定の位置に着座すると、すぐに大小鼓は床几に腰を掛け、「次第」の演奏が始まります。「次第」は「名宣笛」と並ぶ、ワキの登場の際に奏せられる代表的な登場音楽で、「名宣笛」がワキの登場に限って用いられる登場音楽であるのに対して、「次第」はシテやツレの登場場面にも広く用いられます。同じく登場音楽の一つである「一声」と並んで、能の冒頭場面で最も多く聞く機会がある登場音楽ですね。

同じく多用される登場音楽としては「出端」がありますが、「名宣笛」が笛の独奏、「次第」「一声」が笛と大小鼓によって奏されるのと比べて、「出端」は太鼓が入るのが大きな特徴です。ご存じの通り、能の曲には太鼓が参加する曲と、太鼓は参加せず笛・大小鼓だけで上演される曲とがありまして、当然ながら「出端」は太鼓が入る曲でのみ演奏されます。また太鼓は、それが参加する曲であっても、能の中で演奏する場面は限定されています。笛や大小鼓が能の中で比較的多くの場面で演奏されるのと違って、太鼓は ここぞという場面で演奏に参加する、という感じです。

太鼓という楽器の能の中での役割を考えてみると、大ざっぱに、乱暴に言えば「勇壮」「荘重」な場面、また「軽快」「神性」などを表現するために用いられるように思います。これの対極。。つまり太鼓が参加しない曲には「閑寂」「静謐」の情感が込められている場合が多いように思います。

さらに言えば太鼓の有無はシテのキャラクターにも大きく影響されています。神仏や草木の精の役がシテの曲にはほとんど太鼓が入り、シテが直面で登場する、武士など現実の人間の役である場合などはほとんど太鼓が入りません。もちろん例外はたくさんあって、草木の精が主人公である『芭蕉』には太鼓が入りませんし、静謐な能である『姨捨』には太鼓が入ります。

こうして能『六浦』を見てみると、シテが楓の精である能の通例の通り太鼓が参加します。が、太鼓が演奏されるのは後シテ。。つまり草木の精たるシテがその本性を現してからなのであり、しかもその後シテの登場には太鼓が入る「出端」ではなく、大小鼓による「一声」が演奏されます。こういうところにシテの演者は作者の意図を感じるわけです。すなわち『六浦』では後シテの登場ではまだ三番目物能らしい情趣があるべきなのであり、クセのあと太鼓が入って奏される「序之舞」からは草木の精としての軽やかさが現れるのでしょうし、そうした演出の意図を、音楽面だけではなく、これが若い女性ではなく落ちついた中年女性の姿とどうマッチングさせるのか、というところを演者が工夫して作り上げてゆくものだと思います。


さて話はワキの登場に戻って、早速 詞章を見てゆきましょう。

「次第」の演奏にのって登場した僧(ワキ)とそれに付き従う僧(ワキツレ=通常2名)は、舞台に入ると向き合って謡い出します。

ワキ/ワキツレ「思ひやるさへ遥かなる。思ひやるさへ遥かなる。東の旅に出でうよ。

この謡の部分も小段として「次第」と呼んでいますが、この「次第」が謡われる場合の通例として、「地取り」と言って、地謡が同じ文句を低音で復唱します。この「地取り」の間にワキは正面に向き直り名乗ります。

ワキ「これは洛陽の辺より出でたる僧にて候。我いまだ東国を見ず候程に。この秋思ひ立ち陸奥の果までも修行せばやと思ひ候。

「名宣リ」の終わりにワキは両手を胸の前で合わせる型。。「掻キ合セ」とも「立拝」とも呼ばれる型をし、続いてワキとワキツレは再び向き合い、「道行」と呼ばれる紀行文を謡います。

ワキ/ワキツレ「逢坂の。関の杉村過ぎがてに。関の杉村過ぎがてに。行方も遠き湖の。舟路を渡り山を越え。幾夜な夜なの草枕。明け行く空も星月夜。鎌倉山を越え過ぎて。六浦の里に着きにけり。六浦の里に着きにけり。

「道行」の途中でワキは正面に向き直り、数歩前へ出て またもとの位置に立ち返ります。この数歩でワキが旅行したことを表す能の特徴的な技法で、『六浦』では京都から遥々相模国の三浦半島まで移動したことになります。


梅若研能会11月公演

2016-10-25 07:50:54 | 能楽
来月…11月17日、師家の月例会「梅若研能会11月公演」にて ぬえは能『六浦(むつら)』を勤めさせて頂きます。上演頻度が少ない、ちょっと珍しい能の部類に入る曲だと思いますが、不思議な魅力がある曲で、ぬえも地謡では3~4回出演したことがあります。

都の近くから陸奥行脚を志した僧(ワキ)が相模国六浦の里・称名寺を訪れると、頃しも紅葉の盛りであるのに、本堂の庭にただ一本、夏のままのように青葉を保つ楓の木を見つけます。そこに訪れた女(前シテ)に事情を聞くと、かつて「鎌倉の中納言」と呼ばれた藤原為相卿が紅葉を見るためこの寺に来たとき、山々の紅葉が色づくにはまだ早い時期であったのに、逆にこの楓の木だけが他の木に先立って見事な紅葉を見せていたのを見て感動し、「如何にしてこの一本に時雨けん 山に先立つ庭のもみじ葉」という歌を詠んだところ、それ以来この木は紅葉することがなくなったのだ、と語ります。僧は為相の歌を面白く感じて、自分も歌を詠じ、さらにこの木が紅葉しなくなった謂われを尋ねます。女は続けて、為相がこの歌を詠んだとき、この木は「自分が山の紅葉に先立って紅葉したためにこのような歌に詠まれることになったのだ」と思い、「功成り名遂げて身退くはこれ天の道なり」という古いことわざに従って、それ以来みずから紅葉することを止めたのだ、と語ります。僧は紅葉の木の心を自分の事のように語る女に不審をすると、女はみずからがこの楓の木の精であると明かし、僧が夜もすがら読経すれば重ねて姿を見せようと言って姿を消します。

その夜、月影が澄み渡る寺の庭に楓の精(後シテ)が現れ、四季折々の花の美景を挙げて、為相の歌が発端となって僧と言葉を交わし、縁を持てたことを喜び、重ねての弔いを願って舞を見せます。やがて空も明け方になり、鳥の声、鐘の音が聞こえる中、六浦の浦風に散る紅葉が庭を埋め尽くし、楓の精も僧に暇を乞うと山路に分け入ると見えて、おぼろに姿を消すのでした。

。。美しい紅葉の中、ただ一本青葉のままの楓の精。これを能では若葉とはせず中年の女性と位置づけます。この発想がまず面白いですね。そういう設定ですから逆に舞台面は渋く、美しく色づくはずの楓の精でありながら侘びさびた雰囲気に包まれます。しかし秋のもの悲しさを狙うでもなく、僧の回向に対する報謝の舞を見せるシテには喜びもあるわけで、これがこの能の不思議な魅力になっていると思います。

能『六浦』のもう一つの特長は、能では珍しく関東が舞台になっていることでしょうか。能の舞台設定は圧倒的に都を中心とした関西圏に設定されているため、能の能の舞台になった旧跡というのはなかなか東京在住の能楽師には探訪しづらい事が多いですが、能『六浦』の舞台である称名寺は神奈川県にあります。そこで ぬえも折を見て称名寺に参詣に訪れることができました。能で描かれる舞台設定とは大きく印象が違うお寺で、これまた興味をかき立てられましたが。。

平日の昼間の公演ではありますが、どうぞお誘い合わせの上ご来場賜りますよう、お願い申し上げます~

梅若研能会 11月公演

【日時】 2016年11月17日(木・午後2時開演)
【会場】 セルリアンタワー能楽堂 <東京・渋谷>

 仕舞 龍  田 キリ  梅若万佐晴

能  経 正(つねまさ)替之型
     シ テ(平経正)  梅若泰志
     ワ キ(僧都行慶) 森常太郎
     笛 熊本俊太郎/小鼓 森貴史/大鼓 佃良太郎
後見 梅若万三郎ほか/地謡 梅若万佐晴ほか

   ~~~休憩 15分~~~

狂言 千鳥(ちどり)
     シテ(太郎冠者) 大蔵吉次郎
     アド(主人)   榎本 元
     アド(酒屋)   宮本 昇

能  六 浦(むつら)
前シテ(女)/後シテ(楓の精) ぬ え
ワキ(旅僧)野口琢弘/間狂言(里人)大蔵教義
笛 一噌隆之/小鼓 鵜澤洋太郎/大鼓 原岡一之/太鼓 梶谷英樹
後見 梅若万佐晴ほか/地謡 加藤眞悟ほか

                     (終演予定午後4時55分頃)

【入場料】 指定席6,500円 自由席5,000円 学生2,500円 学生団体1,800円
【お申込】 ぬえ宛メールにて QYJ13065@nifty.com

例によってこちらのブログで作品研究。。というか、上演曲目の考察を行いたいと考えております。併せてよろしくお願い申し上げます~~m(__)m

伊豆・子ども創作能 明日は本番!

2016-10-08 17:44:38 | 能楽
静岡県 伊豆の国市に来ています。明日は当地の守山八幡宮の祭礼で子ども創作能を上演します。

守山八幡宮はここに流罪になった源頼朝が崇敬し、平家打倒の戦勝祈願をした由緒ある神社で、子どもたちも その平家に対して当地で挙兵した史実を脚色した『伊豆の頼朝』という創作能を演じるのです。

今日は翌日の成功を祈願して、守山八幡宮のお隣にあるお寺・願成就院さまに子どもたちが参詣し、『伊豆の頼朝』の謡を奉納させて頂きました。

願成就院さまは頼朝が鎌倉に幕府を開いたのち、頼朝の奥州討伐の戦勝祈願のために北条時政が建立した、これまた由緒正しいお寺で、ご本尊の阿弥陀如来座像など運慶作の仏像5体が過日 国宝に指定された、まさに伊豆にとどまらず静岡県や中部地方をも代表する名刹です。

ぬえは以前から願成就院の小崎住職さまとは懇意にさせて頂いておりまして、子ども創作能のメンバーの制服であるTシャツ(通称「能T」)の背中に大きく書かれた「能」の字をご住職に揮毫頂いたり、昨年からは白砂の庭園で観月会を催させて頂いたり。それどころか たまたま ぬえ家の宗派と願成就院さまが同じだったところから、両親が他界した際も東京での葬儀にはご住職にお無理をお願いして、わざわざ伊豆からご足労をお願い致しました。

この日願成就院さまに子どもたちを参詣させたのは、ひとつには翌日の舞台の成功祈願のためでもありますが、もうひとつの理由は、なぜ伊豆に住む彼らが頼朝の挙兵を題材にした創作能を演じるのか、彼らの古里で起こった歴史を学ばせるためでもあります。



毎年奉納に伺っておりますが、今日の子どもたちは例年より行儀よく、ご住職のお言葉に耳を傾けていて、とても良い奉納になりました。

また当地を見守る仏さまにご挨拶をしてお舞台を勤める心も大切にしてほしいと願っています。この日は明日の祭礼を挙行する寺家(じけ)地区の区長さまにも参列頂き、子どもたちに激励のお言葉を頂き、また子どもたちにも謝意を表してもらいました。

さらには明日の舞台である守山八幡宮にも参詣して、神さまにご挨拶をしました。

明日は神さまにお尻を向けて舞殿で上演することになるため、ぬえも非礼をお詫びして、子どもたちが立派に上演できるよう、神さまにお願い致しました。



朝から雨が降ったりやんだり、あいにくのお天気で、明日も予報は芳しくないようですが。。子どもたちの熱演はもう秋寒い気候を吹き飛ばしてくれることでしょう。

「鎌倉子ども創作能」の体験会

2016-06-27 23:38:19 | 能楽
昨日 6月26日は鎌倉で新しく始まろうとしている「鎌倉子ども創作能」の体験会でした。

もう伊豆で17年間もお稽古を続けていて、素晴らしく技術レベルも高い「子ども創作能」ですが、5年前よりお招きを受けて鎌倉市の「鎌倉まつり」に遠征公演をすることになりました。そうして昨年の鎌倉公演を見に来ていた鎌倉市民のメメちゃん(当時小3)が「私もやりたい!」と手を挙げてくれ、1年間の稽古を経て、また何回か伊豆での子ども能公演の舞台で経験も積み、ついに今年4月の鎌倉まつりでは準主役として自分の住む町での舞台に立ったのでした。

しかし、ぬえが指導する「子ども創作能」は 伊豆で行っているものでして、メメもわざわざ鎌倉から伊豆まで何度となく稽古に通ってくれたのですが、今後メメと同じように鎌倉の子どもたちの中で子ども能に参加したいと思う子が現れたとき、メメと同じように伊豆まで稽古に通うのは無理。。 またメメも鎌倉から孤立無援の状態での参加ではかわいそうなので、鎌倉市の関係者に相談して、鎌倉でも子ども創作能を始めることになりました。

そんなわけでこの日、鎌倉市福祉センターで第1回目の体験会を催させて頂きました!







じつは宣伝方法の確保に手間取って、きちんと宣伝する前に第1回の体験会を行うことになってしまったのですが、メメの同級生が3人も遊びに来てくれまして、面や装束、また楽器や扇などを実際に触って体験してもらいました。なんだかとっても楽しそう。ちょっとだけ舞のお稽古もして、そのあとメメが出演した今年の「鎌倉まつり」での子ども能のDVDをみんなで見て、来年の4月の公演を目指して一緒にお稽古始めない~? というところまで。







帰宅したところ、早速ひとりが参加を決定し、一人は(おそらくお稽古のスケジュールがちょっと問題になって)ご家族で調整中、もう一人は ちょっと恥ずかしがり屋さんだったので、参加するどうか考え中~ なのだそうです。

これから市報その他で宣伝をして、7月にも2度ほど体験会を催して参加者の募集を続けて行く予定です。最初から伊豆の子のようなレベルには到達しないだろうけれど、伊豆のように長く続けていける催しになれば良いな、と思っています。

『通盛』終わりました~

2016-05-21 22:20:18 | 能楽
ちょっと時間が経ってしまいましたが、一昨日 師家の月例会にて能『通盛』を無事勤めて参りました~

小さな会場とはいえ当日は ほぼ満席の状態で、まことにありがたい事でした。ご来場頂きました皆さまには改めまして御礼申し上げます。

私としても、自分が考えていた通りに、まずはなんとか上手く出来たのではないかと思います。少なくともお目汚しにはならなかったと思うので、その点はひと安心でした。あ、一か所だけ ちょっと謡を間違えかかったところがありました~~反省。

今回使った面は、後シテの「中将」とツレの「小面」が ぬえの所蔵品で、どちらも現代の作です。「中将」については師家から「今若」を拝借するかずいぶん迷っていたのですが、申合の日に師匠から「今若」を見せて頂いて、年齢が ぬえが考えているより少し行き過ぎていた感じでしたので、ぬえ所蔵の「中将」。。これは「中将」としては若い感じのものですけれども、こちらを使うことにしました。この面は作者の方が当日お客さまとしてお見えになっていました。見所からはどう見えていたのか。。後日感想も頂けるのではないかと思います。

「小面」もひょんな事から昨年 入手した面ですが、少し年かさの感じはしますけれども良い面です。これは上演が無事に終了したら、ツレで今回「初面」を迎えた長男に ご褒美として、記念として譲ることになっていました。実際終わったところで彼の所蔵品になったのですが、まずは舞台に傷がつくような事がなくて安心しました。もちろん、彼の所蔵品になった、と言っても勝手にどこかに持ち出したりする事はできません。普段はほかの面と一緒にしまってあって、あくまで舞台や稽古の時だけ許されて持ち出すのです。

面白かったのは前シテの「三光尉」で、これは師家から拝借したもので、古元休という江戸時代前期の頃の面打師の作になる面です。これを見立ててくださったのも師匠で、申合で手に取って拝見したときは、あまり特徴のない。。いや、どちらかと言うと ちょっと弱い感じに思えたのですが、当日鏡の間で面を着けさせて頂くと、あら不思議。装束と合った途端にガラッと雰囲気を変えて、厳しい表情になりました。舞台に出る直前の事ではありましたが、これで一挙に舞台に向かう心構えが出来上がったような気がします。

手に取ったときと顔に掛けたときとガラッと雰囲気が変わる。。こういう事は尉面ならでは、ではないかと ぬえは考えています。以前にも『春日龍神』の前シテの名前のない尉面。。「小尉」と「阿古父尉」との中間的な表情の面で、同じように舞台で急に表情を変えた面と出会って驚いたことがありました。

終演後、師匠にこの面についての感想を申し上げたのですが、「そうなんだ。それでいて目は優しいんだよ。修羅能には持ってこいの面だね」とおっしゃいました。そうそう、『春日龍神』の時は終演後、師家に戻ってから師匠にお願いして改めて尉面を手に取らせて頂いたのですが、そのときはまた、普通のおじいさんに戻っていました。尉面って不思議。

さて舞台ですが、声が響かず足拍子の音が籠もる。。毎度 難しさを感じる舞台ですが、ツレも良く声を出してくれて(謡に関しては今回ツレは、ぬえや師匠から徹底的にダメ出しをされて、苦労して作り上げていました)、まあまあ傷もなく済ませる事ができました。『通盛』は動作が少ない能なので、謡の比重に圧倒的な要求が突きつけられますね。もとより古来 能は「謡七分、型三分」と言って、謡の方が重要度が高いのですけれども、『通盛』は謡が九分くらいになっちゃうかも。

型については、じつは今回は(というか今回も)、かなり工夫を加えておりまして、前シテではツレが着座するところ、シテがツレに手を掛けるところ、入水の場面の処理、後シテでは酌の場面、最後の合掌。。と、大きいところで数カ所、細かい工夫まで入れると20か所くらいの工夫を凝らしていました。加えて、今回は先輩の青木一郎師からかなり懇切丁寧なアドバイスを頂きました。この曲を上演した経験から、ぬえと同じようにこの能に対して思い入れがあるのでしょう。ありがたいことで、これも ほとんど頂いたアドバイスは舞台に反映させて頂きました。

稽古を始めた当初は、動作が少なくてやりがいのない曲だと思っていたのですが、終えてみると『通盛』というのは良い曲ですね。『平家物語』を知っていないと面白みを理解するのは難しいかもしれないけれども、ひたすら情緒で演じる「大人の能」なんだなあ、と思いました。小書もない能で、まあ、何度も演じる能ではないとは思います。ぬえもこれが最初で最後になる可能性が高い能ですけれども、通盛と小宰相の物語に共感できたし、かわいそうな二人に思いをはせることができました。

そうそう、後シテの装束をモノトーンに見えるようにしたのも、お弔いというか、彼ら二人への ぬえの気持ちです。話は変わるけれど、修羅能の、梨子打烏帽子に長絹、大口袴で太刀を佩いた姿で着座して、唐織姿のツレと向き合っている、というのは風情のある姿ですね。同じ場面でも映画やテレビの時代劇のように甲冑と十二単の姿では、それが有職として正しいのでしょうけれども、能の風情にはかなわないでしょう。

ぬえも心を込めて合掌の型をしたので、あの世で二人が幸せになっている事を祈ります。

『通盛』…「直ぐなる能」とは(その10)

2016-05-18 22:50:28 | 能楽
とか言っているうちに、ついに明日が『通盛』公演の当日になりました。
おかげさまでチケットもかなり売れ行きが良いようで。。ありがたいことです。
動かない能だから、そういうときは舞台で役者が何を演じているのか、このブログでお伝えすることができたら本望です。

で、今日は最後の話題。。表題にもした「直ぐなる能」について考えてみたいと思います。

『通盛』について、世阿弥よりも時代が遡る古作の能であることは前述しました。その多くは作者も不明なのですが、じつは『通盛』は作者が判明している数少ない能です。

いわく世阿弥の伝書『申楽談儀』に、

静 通盛 丹後物狂 以上、井阿作。

とあるからです。
が、「井阿弥」は詳細が不明の人物で、世阿弥と同時代か少しだけ遡る時代の人であるらしいこと、能の作者であり役者でもあったろう、と推測されるほかは、読みさえ「いあみ」なのか「せいあみ」なのかさえ判明していません。

ところが同じ『申楽談儀』の別の箇所では

道盛、言葉多きを、切り除け切り除けして能になす。

と、その井阿弥の原作を世阿弥が大幅に改作したことが記されています。
これらの事実は大変有名で、同じく『申楽談儀』の中で『通盛』に言及している次の記事もよく知られています。

祝言の外には、井筒・道盛など、直ぐなる能也

偶然にもどちらも今回の梅若研能会での上演曲だ。。(汗)

『通盛』を世阿弥は「直ぐなる能」と評しているわけですが、「直ぐなる」の意味は、その直前に、

先、祝言の、かゝり直なる能より書き習ふべし。直なる能は弓八幡也。曲もなく、真直成る能也

と書かれていて、これを「能の台本を書くには神をあがめる脇能から学び始めるべきだ、『弓八幡』などは好例で、複雑な変化もなく、素直な能である」と解すれば、『通盛』も『弓八幡』のように素直な能だ、という事になるのですが。。本当にそうでしょうか。

今回『通盛』の稽古をしてきて、前シテが「主役」ではあっても「主人公」ではないのだ、という事を経験しました。現在まで、それほど多くの能を演じてきたわけではないけれども、これは ぬえにとって初めての出来事でしたね。

それから、この能は面白いことに台本に時間軸の逆転が組み込まれていますね。

前シテでは入水するに到る小宰相の心理を描いているのに対して、後場では通盛と小宰相の逢瀬から通盛の戦死に到るまで。。彼女の入水事件からは数日遡った一ノ谷の合戦の前後が描かれるのです。世阿弥が確立したとされる複式夢幻能では、前シテがある事件について述べ、後場ではその同じ物語を本性を現した後シテが語る、という事が多いですが、『通盛』はそれとも違う、前後の場面で別々の事件を描いています。

極論してしまえば、前場では小宰相(の化身)がシテなのであり、後場では通盛がシテであるような複雑な構成を持った能だとも考えられるのです。

少々異端な構成とはいえ『通盛』は複式夢幻能として台本が形作られていますから、その形式を創造したとされる世阿弥によって、『通盛』は井阿弥の原作からは根本的な変更が行われているとも考えられるし、そうなると、ここまで複雑で精巧な演出を持った『通盛』を「直ぐなる能」と言うことはできるのでしょうか。

また一方、世阿弥の『三道』では

一、軍体の能姿。仮令、源平の名将の本説ならば、ことにことに平家の物語のまゝに書くべし。

とあって、『通盛』はこれにも違反しているように思えます。通盛は「生田の森の合戦に於て。名を天下に上げ。武将たつし誉れを」得た人物ではなかったし、この能の舞台となっている鳴門は「平家の一門果て給ひたる所」でもなければ「仰せの如く或ひは討たれ。又は海にも沈」んだという場所でもありませんし。。

ぬえの結論なのですが、ぬえはこの能は、少なくとも井阿弥の原作の当初には「修羅能」として作られた能ではなかったのではないか、と考えています。

もちろん井阿弥の原作は伝わらず、世阿弥がどこまで原作に手を入れたのかも不明ではありますが、「源平の名将の本説」を描くのが「修羅能」であるならば、『通盛』は武将である通盛だけが主人公ではありません。ツレ小宰相は前場ではシテと同じような地位を与えられ、後場でもこの二人の逢瀬が重要な場面であるし、この二人の法華経による救済がテーマと考えられます。この能は武将の活躍や悲哀を描く能、というよりは、戦乱によって運命を狂わされた男女の愛と悲劇の物語と捉えるべきでしょう。

世阿弥が原作を改変し、その方法が「言葉多きを、切り除け切り除けして能になす」であったのならば、原作は二人の関係をより濃密に描いていたのかもしれないし、ぬえは世阿弥がそれを小宰相の入水事件と、一ノ谷での二人の逢瀬と通盛の戦死、という二つの物語に整理して、それをみずからが開発した「複式夢幻能」の形式にまとめたのではないか、などと想像を逞しくしています。

こして考えたとき、とくに後場でのシテとツレとの登場場面に、ぬえはほかの修羅能よりも『女郎花』や『船橋』『錦木』といった、やはり仲を引き裂かれた男女の愛欲を描いた能との近親を感じます。修羅能には珍しく『通盛』に太鼓が入るのも、それによって夫婦がそろってワキ僧の前に本性を現すのも、これらの3曲と共通の演出です。そうしてまた、世阿弥作とされてる『錦木』を除けば、『船橋』も『女郎花』も、『通盛』と同じく古作の能と考えられているのです。

『通盛』の最後の場面。。ようやくシテが活発に動作をする場面。。では典型的な「修羅能」としての型がつけられていますし、これをもって『通盛』は修羅能というジャンルに属する曲だと考えられていますが、ぬえにはむしろ、この場面こそ「修羅能」という範疇に括るために、世阿弥によって追加された場面なのではないか、とさえ思います。

派手な斬り合いなどの場面よりも、むしろ男女の気持ちの機微を描く能。。それが『通盛』の本質なのではないか、と考えております。

(この項 了)

『通盛』…「直ぐなる能」とは(その9)

2016-05-18 02:37:29 | 能楽
最後の場面、「読誦の声を聞く時は」以降は、シテの頼みを受けてワキが読誦した法華経の功徳によってシテが成仏したことを表します。この部分、能『葵上』の最後の場面とまったく同文であることは有名ですね。同じ催しに『通盛』と『葵上』が上演されるときは(いや、重複を嫌う能ではそんな番組が組まれる事はあり得ないのですけれども)、『通盛』の方がこの重複している文句を替えるように、わざわざ次のような詞章さえ用意されています。

読誦の声を聞く時は。読誦の声を聞く時は。修羅の苦患を滅して。弘誓の舟にのりの道。彼岸に早く到りつつ。成仏得脱の身となり行くぞありがたき。身となり行くぞありがたき。

『通盛』も能の中では古作に属する曲ですが、『葵上』も同じく古い時代に作られた能です。同じ文句を共有している、という事は、どちらかが詞章をパクったのかも知れません。そうであればオリジナルなのは『葵上』の方でしょう。同じ日に上演が重なったときは『通盛』が譲って詞章を替えるから、というのが理由ではなくて、「心を和らげ」たのが「悪鬼」だ、と詞章にあるからです。平通盛は「亡者」ではあっても「悪鬼」ではありませんね。この表現は般若の面を掛ける『葵上』の後シテにこそふさわしいです。

が、どちらが詞章をパクったか? という観点ではなくて、ここは「どちらがより古作の能なのか」の証左としてこの詞章が参考になる、と考えておきたいと思います。世阿弥よりも前の時代の能については分かっていない事も多く、作者さえ判然としないのですから(能の作者が不明である点については世阿弥以降も事情は同じですが)。ですからたとえば、観阿弥・世阿弥ら、後に現代にまで継承されている能楽の家の系譜とは違った方法論に拠って上演していた「座」(能の劇団)もあったかも知れないのです。その集団が、たとえば、必ず同じ文句「読誦の声を聞くときは。。」で終止する台本ばかりを書く伝統だって、あったかも知れない。そうであれば『葵上』が『通盛』より古く成立した曲だとも言えない事になります。これは証拠となる資料も伝わらないので荒唐無稽で極論でしょうが、同じくそんな伝統はなかった、という証拠も、これまたないのです。こう考えるときには「悪鬼」という表現も判断材料のひとつにはなり得る。。

ちょっと脱線したので話を戻して。。

こうして能『通盛』を読み解いてきましたが、ぬえがどうしても気になるのは、能『通盛』の後場のクセで描かれている合戦前夜の小宰相との逢瀬です。

能ではここは妻との仲睦まじい語らいの場面なのであって、それを弟の教経が割って入ったために通盛は合戦の場に身を投じ、これが小宰相との最期の別れとなりました。

が、『平家物語』を読むとき、二人の逢瀬は必ずしも「仲睦まじい逢瀬」だったとは言い難いのではないでしょうか。通盛は翌日に自らの戦死を予感して、想像をたくましくして考えれば、妻・小宰相との最期の別れのために彼女を陣屋に呼び寄せたのです。一方、呼び出しを受けた小宰相は通盛に会って、みずからの懐妊を告げました。

通盛は妻の懐妊を喜びましたが、それは彼がこの世の形見として子を残す事を喜んだのであって、やはりみずからの死が厳然として心を独占していたからです。一方の小宰相は、通盛が「いつもより心細げに打ち嘆きて」戦死の予感を語ったのにもかかわらず、「軍はいつもの事なれば」と、通盛の悲壮な思いに気づきませんでした。

ぬえが考えるに。。この夜の逢瀬で、二人の気持ちはすれ違っていました。みずからの死を予感した通盛は悲しかったのです。だから小宰相にもうひと目会って、自分が亡き後の彼女の生活について心配をしていました。

でも、小宰相は、それとは逆に、この夜の逢瀬が嬉しかったのではないでしょうか。まずは都落ちをしてから戦乱に明け暮れる生活の中で、夫・通盛とゆっくり語り合う時間がなかったこと。これが叶えられたのがこの夜の逢瀬なのであって、しかも彼女はその場で懐妊を通盛に告げることができたのです。二人の愛の証しが新しい生命となって結実した。。彼女にとってこの夜は二人の希望のある未来を確認しあう場だったのです。

悲しいかな、この二人の気持ちの齟齬が悲劇を生んだという事でしょう。通盛は自分が亡きあと、小宰相が形見の子を育て、自分の後を弔ってくれることを願っていました。ところが小宰相には通盛の死は予想できなかった。いつしか二人には平和な世の到来と、楽しい家庭生活が訪れるであろうと、懐妊した彼女はそう思ったのです。

だからこそ、通盛の戦死を聞いた小宰相は動揺し、乳母の制止も振り切って夫の後を追ったのでした。

このところ、『平家物語』では乳母の切実な説得が胸を打ちます。いわく、幼い子や老いた父母を残して小宰相さまに従ったこの乳母の気持ちを何とお心得なさりますか。通盛さまの御子を出産なさって養育する事こそが供養でありましょう。また冥土では六道と言って行き場はひとつではありません。後を追われても通盛さまに会う保証はないのです。ただお心を静めて。。

能では、こう説得する乳母の制止を振り切って小宰相は入水するのですが、『平家物語』では乳母の制止を聞いた小宰相は 乳母に入水するつもりだと告げた事を後悔して、その場をなんとか取り繕い、その夜みなが寝静まった頃に一人で身を投げました。お腹の子どもは、もし「十に九は必ず死ぬるもの」と言われた出産を無事に済ませても、生まれてくる我が子を見るたびに、夫・通盛の面影をそこに見てしまい、心の安住はない、と 彼女は思い定めていました。

結局。。通盛と小宰相は、相思相愛だったのに、最期はあらゆる面で違う道を歩んでしまいました。死んだ場所も通盛が摂津国一ノ谷に対して小宰相は阿波国鳴門。死亡の原因も通盛の討ち死にに対して小宰相の入水。。

死後、二人は成仏できていないようですが、死亡の理由が仏教的な解釈によれば通盛が戦乱で殺生戒を冒したのに対して、小宰相は通盛に対しての妄執が止みがたかったための死、と捉えられるかもしれません。乳母が小宰相に言ったように、このような心のすれ違いが、彼らを六道の別々の道に向かわせてしまったのかもしれない。

だから、ぬえはこう考えています。能『通盛』の前場で夫婦は仲良く釣舟に乗って登場しているように見えるけれども、じつは冥土ではあい見える事ができていないのではないか。同じ釣舟に同乗しているように、お互いの姿は見えていても、触れあうことはできない。。二人の気持ちの齟齬から生まれた死の位相の違いが、死後にも二人には壁となって立ちはだかり、その苦しみから僧に回向を求めて二人は現れたのではないか。

そう考えるとき、前場の終わりにシテがツレに手を掛けて制止する事にもう一つの意味が生まれてきます。

ぬえは以前にこのツレを制止するシテの行動を、小宰相の入水のときに通盛はすでにこの世にいなかった事から、入水しようとする乳母の「行動」だけを抽出して、小宰相がそれを振り切る決意の現れとして表現しているのだ、と解しました。この行動を起こしたのは通盛の霊でもなく、ましてや乳母の霊でもなく、つまり人物ではなく、小宰相の入水という行為の強さを表現する手段なのだと。

しかし、やはり通盛は彼女に自分の後を追ってほしくなかったのです。やはり小宰相を制止したのは、自分の後を追ってほしくない通盛の心であったかもしれません。

通盛は合戦前夜の逢瀬で小宰相に、自分が死んだら、我が子を形見として育て、自分の後を弔ってほしい、と頼んでいます。しかし小宰相は、そのいずれの頼みも実現することなく、愛する夫の許に向かおうとしたのでした。この二つの気持ちのズレが、結果的に二つの死を導き出してしまい、それは死後も二人を苦しめる、永劫の悲劇に繋がってしまったのでしょう。

ぬえはこの能を修羅能として捉えるよりは、やはり男女の愛の、悲劇的な物語として作られた能なのではないかと考えています。

『通盛』…「直ぐなる能」とは(その8)

2016-05-17 22:02:35 | 能楽
先ほど”前場では『主役』ではあるけれども『主人公』はなかったシテが、後場ではそれを取り返すかのように。。”なんて、まるでシテが後場で大活躍するかのように書いてしまいましたが、実際の舞台では、前述のように修羅能の常套として床几に掛かって戦語りはするけれどお、それは ほんの2~3分のことで、そのあとは小宰相との合戦前夜の仲睦まじい語らいの場面になる。。つまり、後場でもシテは、やはり動かないんですよね。

『通盛』という曲。。本当に「修羅能」という括りで考えてよい曲なんでしょうか。

ともあれ、舞台は合戦前夜の夫婦の語らいの場面。
ここは能では通盛が自分の亡きあと頼りとする人がない小宰相の行く末を心配したこと、自分が死んだら都に帰って跡を弔ってほしいと頼んだこと、などが語られていますが、じつは『平家物語』ではそれだけではない、かなり深い内容が夫婦の間で語られています。

まず、通盛は翌日の合戦を前にして、明日には戦死する、とう予感がありました。小宰相が乳母に語ったその夜の通盛の有様は、「いつもより心細げに打ち嘆きて『明日の軍には、一定討たれなんずと覚ゆるはとよ。吾いかにもなりなん後、人は如何し給ふべき』」と語ったとのこと。これに対して小宰相は「軍はいつもの事なれば」通盛が感じていた予感も気にはとめませんでした。

それどころか小宰相は逆に、これまで通盛に隠して言わなかった重大な事件を告げたのでした。

それが小宰相の懐妊で、これを聞いた通盛は「斜めならずうれしげにて」、私は三十歳になる今まで、子というものがなかった。同じくは男子であってほしいな、などと語りますが、一方ではやはり自分の死の予感が頭から離れないのでしょう、この世の形見に残しておく子なのだ、などとも語ります。

通盛は小宰相の身体もいたわって、もう何ヶ月になるのだ、気分はどうだ、この波の上、船の内の住まいがいつまで続くかわからないので、無事に身ふたつになってから後のことも気がかりだ、と細々と妻のことを気に掛けています。

能の舞台にこれらの夫婦の語らいの内容は描かれていませんが、先日、仙台での能楽ワークショップで能『通盛』のビデオを見せながら、『平家物語』に書かれているこの夫婦の語らいの内容をお知らせしたら、参加者から「それを知るとこの場面はまったく違った感じに見えてくる」という感想が出ていました。能『通盛』が作られた当時『平家物語』は、少なくとも現代よりはずっと人口に膾炙していたでしょうから、能の作者はそういう『平家物語』の中の通盛と小宰相の夫婦の物語が観客の中でイメージされることを予想して台本を簡素なままにしておいたのかも。

また『平家物語』では小宰相は後に乳母に、女は出産のときに「十に九は必ず死ぬるもの」とも語っています。当時の産科医療の現状というものはそんなものだったのでしょうが、夫婦の会話にそういう話題も出たかもしれません。こういう事も現代人の目から見えているものと、能『通盛』が作られた当時とではずいぶん印象が違う点なのかもしれません。

。。でもこの『平家物語』に書かれている内容を知ると、能では通盛は妊娠を知った妻に飲酒を勧めていることに。。ま、これはいいか。(汗)

ぬえがここで問題にしたいのは、合戦の前夜に、やっと逢瀬の機会を得た二人ですが、じつはこのときの二人の思いがまったく違う方向を向いていたのではないか、という点です。この曲のテーマにも関わる重要な問題だと思いますが、それは後ほど。。

さて勇猛で知られた通盛の弟の能登守教経が見咎めたことで、夫婦の逢瀬は破綻を迎え、通盛は戦場へと赴きました。

シテはツレの前から立ち上がり、常座に至りますが、なおもここで後ろ髪を引かれる思いで二足下がり、それからガラッと雰囲気を変えて器楽演奏による短い舞「翔」(かけり)となります。

「翔」は実際には舞と呼ぶべきかどうか疑問もあります。ほんの3~4分の短い間に囃子はかなり急激にテンポを速め、また緩め、と変化に富み、シテもそれにつれて動作しますが、動作、と言うよりはむしろ感情の起伏を表現していると言うべきで、だからこそ「翔」は修羅能の闘争の場面に使われるほか、狂女能に頻出して行方の知れない我が子や恋人の姿を求める女性のシテの狂おしい感情を表現したりします。

能『通盛』の中で「翔」はそれらとはちょっと違う、もう少し直裁的な使われ方をしています。
小宰相の前から立ち上がって合戦の場に向かった通盛。短い「翔」のあとにはシテは「さる程に合戦も半ばなりしかば。但馬の守経政も早討たれぬと聞ゆ」と言っていて、すなわちここでの「翔」は、一ノ谷での両軍入り交じっての合戦そのものを表している、と言えると思います。ツレとの逢瀬の場面から3~4分後には、おそらく妻と別れて半日後の通盛の、まさに戦場に屹立する姿を描き出すわけで、こういうところに能の場面転換の鮮やかさを見る思いです。

シテ「さる程に合戦も半ばなりしかば。但馬の守経政も早討たれぬと聞ゆ〈とワキヘ向き〉
ワキ「さて薩摩の守忠度の果はいかに。
シテ「岡部の六弥太。忠澄と組んで討たれしかば。あつぱれ通盛も名ある侍もがな。討死せんと待つ所に。すはあれを見よ好き敵に
〈と脇正の方へ出ヒラキ〉
地謡「近江の国の住人に。近江の国の住人に
〈と数拍子踏み〉。木村の源吾重章が鞭を上げて駈け来る〈扇高く上げ向こうを見〉。通盛少しも騒がず。抜き設けたる太刀なれば〈太刀を抜き正中へ行き〉。兜の。真向ちやうと打ち〈と一つ切りつけ〉返す太刀にてさし違へ〈と両腕組み左へそり返り安座〉共に修羅道の苦を受くる。憐みを垂れ給ひ。よく弔ひてたび給へ〈と左袖を掛けワキへキメ〉
地謡「読誦の声を聞く時は。読誦の声を聞く時は
〈と正へ向き面伏せ聞き〉。悪鬼心を和らげ。忍辱慈悲の姿にて〈と勇健扇仕ながら立〉。菩薩もこゝに来迎す〈と正先に胸ザシ仕て行き右拍子〉。成仏得脱の〈とフミビラキにて右へ廻り〉。身となり行くぞ有難き〈とワキへ向き合掌〉身となり行くぞ有難き〈と右ウケ左袖返しトメ拍子〉

ここは修羅能らしい場面で、シテは太刀を抜いて奮戦する有様を見せ(この能の中で唯一の多くの動作がある場面でしょう)、やがて(彼の予感通りに)通盛は討ち死にをすると、さてワキ僧に向かって弔いを頼みます。すなわち奮戦の場面は、その前夜の小宰相との逢瀬の場面などと ともどもに、観客は過去に遡ってそういう事件を目の当たりに見ているのではなく、これはシテによるワキ僧への懺悔のための仕方話だということになります。

『通盛』…「直ぐなる能」とは(その7)

2016-05-16 13:13:20 | 能楽

シテが幕を揚げて登場し橋掛リを歩んで、やがて舞台に入るとき、『通盛』ではワキから先に謡いかける演出です。能『鵺』も同じ演出ですが、謡い出しの間合いは決まっているのでワキ方は囃子に精通していなければならず、難しいところです。意味としては亡者であるシテやツレのために法華経を手向けてやっている、ということで、これを聞いてシテは「今者已満足」(今こそ私も満ち足りている)と答えてワキに向かって合掌します。

ワキ「如我昔所願。後シテ「今者已満足〈とワキヘ合掌〉。ワキ「化一切衆生。シテ「皆令入仏道の。
地謡「通盛夫婦。御経に引かれて
〈と角にて袖をかけ〉。立ち帰る波の。シテ「あら有難の。御法やな〈と合掌〉。

ところでこの場面も破格なのです。修羅能の中でシテの武将の妻が登場するのは『清経』とこの『通盛』だけですが、『清経』は妻の夢枕に平清経の霊が現れるという設定で、ツレの清経の妻は生きている人間です。これに対して『通盛』ではツレ小宰相もこの世には亡い人で、シテの通盛とともに僧の弔いを受けて冥界から現れた、という設定なのです。

この場面を見るとき、修羅能のほかの曲というよりは、むしろ『船橋』『女郎花』『錦木』と似ている事に気がつきます。ぬえは、じつは『通盛』は修羅能として作られた曲ではないのではないか、と考えていまして。。今挙げた3曲はすべて男女間の妄執による堕罪を描いた曲で、『通盛』はこれらの曲と系統を同じくする曲なのではないかと思っています。

やがて僧は現前に現れた通盛と小宰相の霊と言葉を交わします。

ワキ「不思議やなさも艶めける御姿の。波に浮みて見え給ふは。いかなる人にてましますぞ。
ツレ「名ばかりはまだ消え果てぬあだ波の。阿波の鳴門に沈み果てし。小宰相の局の幽霊なり
〈ツレは脇座に下居〉
ワキ「今一人は甲胃を帯し。兵具いみじく見え給ふは。いかなる人にてましますぞ。
シテ「これは生田の森の合戦に於て。名を天下に上げ。武将たつし誉れを。越前の三位通盛。昔を語らんその為に。これまで現れ出でたるなり。
とワキに向かってサシ込 ヒラキ

ツレは登場したのもつかの間、そそくさと脇座に着座して(このとき、それまで脇座に着座していたワキとワキツレは座ったまま右にいざり寄って場所をツレのために空けます)、以後シテに注目が集まります。この能は前場ではシテは「主役」ではあるけれども「主人公」はツレでしたが、今度はそれを取り返すかのように、僧の弔いを受けているのは夫婦二人であるはずなのに、シテ通盛が二人を代表する形で僧に感謝を述べ、またその後は通盛の武将としての姿が描かれ、また通盛の視点から 合戦前夜の小宰相との語らいの場面が語られます。

地謡「そもそもこの一の谷と申すに。前は海。上は険しき鵯越〈と床几にかかり〉。まことに鳥ならでは翔り難く獣も。足を立つべき地にあらず。
シテ「唯幾度も追手の陣を心もとなきぞとて。
地謡「宗徒の一門さし遣はさる。通盛もその随一たりしが。忍んで我が陣に帰り。小宰相の局に向ひ
〈とツレの前に下居〉
地謡「既に軍。明日にきはまりぬ。痛はしや御身は通盛ならでこのうちに頼むべき人なし。我ともかくもなるならば。都に帰り忘れずは。亡き跡弔ひてたび給へ。名残をしみの御盃
〈と通盛は扇を拡げツレノ前にて下居〉。通盛酌を取り。指す盃の宵の間も。うたた寝なりし睦言は。たとえば唐土の。項羽高祖の攻めを受け。数行虞氏が涙も是にはいかで増るべき。燈火暗うして。月の光にさし向ひ。語り慰む所に。
シテ「舎弟の能登の守。
地謡「早甲胃をよろひつゝ。通盛は何くにぞ。など遅なはり給ふぞと
〈と幕の方へ向き見〉。呼ばはりしその声の。あら恥かしや能登の守。我が弟といひながら。他人より猶恥かしや。暇申してさらばとて。行くも行かれぬ一の谷の。所から須磨の山の。後髪ぞ引かるゝ〈とシテ柱まで行き正へ向き〉 翔

能『通盛』では平家の武将としての彼を「田の森の合戦に於て。名を天下に上げ。武将たつし誉れ」「宗徒の一門さし遣はさる。通盛もその随一たり」と美化して描いていますが、じつは平通盛は『平家物語』によればほとんど戦陣での勲功というものはなく、かえって負け戦の方が先に目につく程度。それも敦盛や忠度のように負け戦ではあってもその敗死が美談として人口に膾炙するような人ではなかったらしく、戦場での様子の描写はなく、わずかに『源平盛衰記』に彼の最期の様子が描かれているものの、『平家物語』では、いわば「合戦の勝敗のまとめ」のようにその戦死が紹介されている程度です。

だからこそ通盛は『平家物語』の中でもほとんど無名に近く、もっぱら能によってその名が知られている人物、と言ってよいでしょう。その能が彼をシテとして取り上げたのも、ここでは名将として描かれているけれども、むしろ武将としての彼よりも小宰相も巻き込んで夫婦ともに命を落とすことになった悲劇を描く能なのだという事がわかります。

実際のところ、修羅能では常套である演出。。本性を現した武将のシテが床几に腰を掛けて合戦の様子を語る。。という場面は用意されていますけれども、ここに座っているのは ほんの2~3分にしか過ぎないのではないでしょうか。すぐにシテは立って小宰相と向き合って舞台に直接座り、二人で語り合った合戦前夜の再現の場面となります。ここで床几を離れて舞台に着座するのは、夫婦の語らいの親密を表すためでしょうね。

この場面では、『平家物語』に描かれているように、通盛が自分の亡きあと頼りとする人がない小宰相の行く末を心配したこと、自分が死んだら都に帰って跡を弔ってほしいと頼んだこと、などが描かれていますが、じつは原拠は『平家物語』というよりは『源平盛衰記』に近く、二人の語らいを通盛の弟・能登守教経が見咎めた、という話は『盛衰記』に描かれています。また通盛が小宰相に酌をして二人で酒を飲みながら話をした、というのは『平家』『盛衰記』の異本に出ているのかもしれませんが、今回はこの記事を見つけだすことができませんでした。

しかしこの場面、じつは『平家物語』には二人の語り合った内容が細々と記されています。これを事前に知っていると、能『通盛』での二人の様子を、より共感を持って見ることができるのです。

『通盛』…「直ぐなる能」とは(その6)

2016-05-16 12:02:37 | 能楽
僧は海岸の岩の上に着座したままで(この曲では場面設定が終始 鳴門の海岸なので、ワキは能の冒頭で着座すると最後までそのまま着座し続けます)、読経の体で「待謡」を謡います。

ワキ/ワキツレ「この八軸の誓ひにて。この八軸の誓ひにて。一人も洩らさじの。方便品を読誦する。
ワキ「如我昔所願。


この「待謡」の終わりに太鼓が打ち出して「出端」と呼ばれる登場音楽が奏されます。
源平の武将をシテとする「修羅能」の中で太鼓が登場するのはこの『通盛』のほかには『実盛』『朝長』がありますが、『通盛』以外の2曲はいずれも後シテが重厚な登場をする曲で、『通盛』の後シテに「出端」が奏されるのは、それとはちょっと違った意味合いであろうと思います。

やがて後シテ・平通盛が若々しい武者の姿で現れ、それと同時に後見座に後ろ向きに着座していたツレも立ち上がり、舞台に入ると大小前(大鼓と小鼓の前。。舞台奥の中央部分)に立ちます。

ツレは前場のままの姿で扮装を替えないわけですが、もちろん前場では前シテの連れ合いのような登場ですので、違和感はあるものの「漁師の女」、というような役回りで、これは化身としての姿。ここで登場したのは、小宰相の在りし日の姿、という意味になり、また通盛と小宰相はともに連れ立って一緒に登場した、という意味です。

このへん、それならば前場の終わりでツレもシテと一緒に中入して、扮装を替えた方が化身から小宰相の本来の姿への変身が より強く印象づけられる、とは思います。

また一方、前場の本文中に「竜女変成と聞く時は。姥も頼もしや祖父は言ふに及ばす」という文句があるので、古い時代の本来の演出では前ツレは若い女ではなく姥(老婆)だっったのではないか? という意見も提出されています。同じような例は『通小町』にもあって、『通盛』も『通小町』も、前ツレを姥の姿で舞台に登場させる実験的な試みも行われているようです。

なぜ前ツレが若い女で、シテのように後場で扮装を改めないのでしょうか?
能楽師としては、単純に考えればシテとツレのヒエラルキーの差が理由かな? とも考えられなくもないのですが。。つまりツレという助演者の分際では主役たるシテと同じように扮装を替える地位を与えず、それによってシテの変身に観客の注目を集める目的がある、とかです。また楽屋内でも二人の装束を替えるのは大変なので、助演者は最初から若い女で登場させておいて、中入でもツレは舞台に残しておくことで後見の仕事を軽減する、という意味も考えられなくはないです。

が、ぬえはそれとは少し違う考えを持っています。
いわく、作者が能『通盛』を作った当初から、現在の通りツレは若い女のままの扮装であって、それにはちゃんと意味があるのではないかと。

まずは前ツレですが、若い女の姿で登場させていますが、これが最初から「姥」なのである、という設定なのではないか、と ぬえは考えています。

釣舟に乗って登場するのが年老いた漁師と若い女、というカップルはかなり不自然ですね。夫婦。。ではなさそうだし、そうであれば父と娘? それでも夜釣りの労働に娘を従事させている父、というのも不自然です。が、この「不自然さ」にこそ意味があるのではないかと ぬえは思うのです。

これ、実際にはやはり前場に登場するのは「老人」と「老婆」の夫婦なのではないでしょうか。
前掲の「竜女変成と聞く時は。姥も頼もしや祖父は言ふに及ばす」という文言がまさにそれを表しているわけで、それはそのまま、この二人が後場で通盛と小宰相という「夫婦」の姿で登場する伏線でもあります。

が、実際には前場に登場しているのは姥ではなく若い女であるわけですが、ぬえには、古来このツレの役は老婆の扮装ではなく「若い女」だったのだと思います。この能は、その若い姿のままで「姥」と見立てているのではないかと思うのです。能には見立てはつきものですが、こうなるとかなり高級というか難解です。

しかし、こうした「不自然さ」が作者の意図なのではないかと ぬえは考えます。その「不自然さ」は、シテがツレに向かって「や。もろともに御物語り候へ」と小宰相の最期の有様を語るよう促し、ツレがその当人の小宰相であるかのように語るあたりから、混迷の度合いを深めてゆきます。観客は前シテとツレが登場した場面ですぐに、この二人の関係はどうなっているのだろうか? という疑問を感じるはずです。そうして地謡は躊躇なく「姥も頼もしや」とツレは老婆なのだ、と断言しています。それなのにツレは「若い」小宰相の事を自分の事のように語り出す。。

しかし、前ツレが舟から下りて小宰相の入水の有様を表すところで、このツレは小宰相の化身であり、漁翁は通盛の化身であることは疑いがなくなります。言うなれば、最初「姥」として登場したツレが、舞台の進行につれて次第に若やいでゆき、いつの間にか若い小宰相その人の姿と重なってゆく、という仕掛けなのではないかと思うのです。

実際のところ、前ツレの小宰相の語りの場面から入水の場面では、これが老婆の扮装では 小宰相の化身である、という現実味が沸いてきませんね。シテとツレの年齢差という不自然な前場の印象も、中入の場面で二人が通盛と小宰相の化身だと明らかになったとたんに整合が取れるのだと思います。


私たちは初演から数百年を経た能を見て、こういう「不自然さ」に行き当たったとき、長い上演の歴史の中での改変なのではないか? と考えがちですが、室町時代の観客は自分たちに提示されたそのままに舞台を鑑賞していたはずで、現代人である私たちはこういう「不自然さ」をそのままに受け止めて意味を探る事も必要ではないかと思います。

ぬえも最初は「姥」という文言に、古典文学の用法として「老婆」という以外にほかの意味があるのではないか? などとも考えたりしましたが、「姥」という字が「女偏」に「老」である以上、若い女の意味もあるのではないか? などという期待は あまりに無謀でした(笑)。そこから視覚的には若い女を舞台に登場させ、聴覚的には「姥」という文言で表されるこのツレの役に、作者の特別な意味が隠されているのではないか? という発想に繋げることができました。

『通盛』…「直ぐなる能」とは(その5)

2016-05-13 12:59:54 | 能楽
シテが幕に中入すると、まずは後見によって舟の作物が幕に片づけられます。次いで、この少し前に目立たぬように橋掛リに登場して狂言座(一之松の裏欄干のあたり)に着座していた鳴門の浦人(間狂言)が おもむろに立ち上がり、この夏の間逗留している僧が経文を読誦するのを拝聴しよう、と言って舞台に入り、僧と問答を交わします。

僧は小宰相について知っている事を聞かせてくれるよう浦人に頼み、浦人はそれに応じて物語をします。このあたり、現行の詞章も持っていたのですが資料が見つからず、古い文献から詞章をご紹介させて頂きます。明らかな誤写などは訂正し、また読みやすいように適宜漢字表記や送りがな、句読点等も改めてあります。

さる程にこの浦にて御身を投げ給ひし小宰相と申したる御方は。頭の行部卿と申す人の御息女にてましましたると申す。通盛の卿と夫婦にならせられたる様躰は。小宰相の局十五六の春の頃。通盛御覧じて思し召惑われ。文玉づさを贈られ侯へども取り入れ給ふ事もなく。御返事も御座なく候間。通盛はなを悶へ焦がれ給ひ。また細々と書き遣わされ侯処に。御ゑんも通じけるか。小宰相の局 女院の御前へ参られしに。道にて彼の使ひ参り会ひ。通盛の御文を。小宰相の召したる御車の内へ投げ入れ侯へば。何者ぞと思し召し開ひて御覧じければ通盛の御文なり。さすが捨て給ふにもあらざれば御袂に押し入れ。女院の御前に参られしに。所こそ多けれどもその文を女院の御前にて落し給ふ。女院御覧じて。女房達に何方の文ばし得給ひたる。人々や有ると御尋ね侯へば。何も知らざる由を申すその内に。小宰相の御顔あかく成り侯間、是こそと思し召し開ひて御覧じければ。案の如く通盛の御文なり。細々と書き、奥に一首の歌御座有りたると申すその御歌は、

 我が恋は。細谷川の丸木橋。踏み返されて濡るゝ袖かな。

と。御座候を御覧じて。是は如何様にも御返事有るべしとて。かたじけなくもみづから御返事を遊ばし其の時の御返歌に、

 たゞ頼め。細谷川の丸木橋。文返しては落ざらめや

と。か様に御返歌を遊ばし。それより夫婦の語らひを成されたると申す。又小宰相の御身を投げ給ひたる様躰は。平家は一ノ谷の合戦に打負け給ひ。散り散りに御成りあつて御一門なお舟に召し。四国へ落ち給ふ処に。小宰相の召したる御舟は。折節なん風荒くしてこの阿波の鳴門へ吹き寄せよせ候処に。是にて小宰相は。通盛の御事をいかゞと案じ思し召すところに。通盛の郎党この鳴門へ落ち来り小宰相に申す様は。「道盛は討ち死に成され侯 御供申すべきを。通盛かねてより御申し有りたるは。小宰相の御行方を尋ね申せとの御事により はかなき命を生き延びこれ迄参りて侯」と申せば。小宰相は驚き給ひ この上は命有りてもせんなしとて其のまゝ御身を投げ空しく成り給ひたると申す。なんばう傷わしき事にて侯ぞ。まづ我等の聞き及びたるはかくの如くにて侯。


ほぼ『平家物語』に出てくる小宰相と通盛のなれそめをそのまま紹介している形ですが、一ノ谷の合戦の前夜に通盛が陣屋に小宰相を呼び寄せて語り合ったことや、通盛が討ち死にしたことを知った小宰相が入水を決意したときにそれを制止しようとした乳母との鬼気迫る会話は、少なくともこの古い資料には登場していないようです。

いずれにせよ僧はこれで、先ほど出会った漁翁と若い女が通盛と小宰相の霊であったことを確信し、浦人に勧められるままに夜もすがら法華経を読誦し、二人の霊を弔うことになります。