ぬえの能楽通信blog

能楽師ぬえが能の情報を発信するブログです。開設16周年を迎えさせて頂きました!今後ともよろしくお願い申し上げます~

義経への限りないオマージュ…『屋島』(その6)

2023-04-08 03:11:19 | 能楽
能「屋島」で前シテによって語られる合戦の経緯はこういう感じ。
①源氏の大将・義経の名乗り、言葉戦い
②平家の軍船から景清らが降り立ち源氏からは三保谷らが応戦→錣引きへ
③これを見て義経が馬で汀に出陣
④佐藤継信が能登守教経の矢に当たって戦死
⑤平家の軍船でも菊王丸が討たれる
⑥この二人の戦死を境に源平は興覚めして陸と海に別れて合戦が終了

この順番に語られ、これはもっぱら「錣引き」についてだけ語ったわけで、「扇の的」のエピソードも「弓流し」も出てきません。ここで「平家物語」での屋島合戦の全体の経緯を確認してみると次のようになります。

①義経ほか源氏の武将が沖に逃げた平家軍に対して名乗り
②宗盛の命により教経ら五百余人が陸上に上がり合戦に臨む
③言葉戦いの末、教経は義経を弓で狙うが佐藤継信が立ちはだかって戦死
④菊王丸が継信の首を狙って走りかかるが反対に忠信の射た矢に当たり戦死
⑤これに興覚めた両軍が引き上げ合戦が中断するが平家からの挑発(扇の的)
⑥那須与一が扇に命中させ両軍が褒め称えたが義経の命により与一はさらに敵を射殺す
⑦これにより合戦が再開。→美尾屋十郎と景清の「錣引き」
⑧源氏は騎馬で海に打ち入れて戦い義経も参戦する
⑨ところが義経が弓を海に取り落とし、敵の手にかかる危険を冒して拾い上げた(弓流し)
⑩夜に入り休戦となり翌朝には志度浦で小規模の戦闘があったが平家は壇ノ浦彦島に退いた

補足すれば佐藤継信は弟・忠信とともに奥州の藤原秀衡から義経に差し向けられた秀衡の家臣です。幼少期を鞍馬寺で過ごしながら仏道修行にはなじめず天狗から兵法を習い、五条の橋で弁慶を家来にしたエピソードがあるように、平治の乱以後正統な武家の棟梁としての成長からはずれた義経には家格に似合う家臣はおらず、元猟師とか元山賊とかとされる生没年不詳の怪しげで実在も疑問視されるような者ばかり。この屋島の合戦でも教経の矢面から義経を守ろうとした家臣たちは教経から「そこのき候らへ 矢面の雑人ばら」と罵られています。こんな中で幼少期に自分を頼った義経をかわいがった秀衡が、頼朝の挙兵に際して差し向けたのが佐藤兄弟で、義経の家来の中では比較的、ではありますが出自が明らかな人物です。

屋島の合戦で平教経の矢面に立って身を投じて義経を守った継信。その首を取ろうと駆けつけたのが菊王丸で、これは教経の子どもではなく彼の身辺の世話をする侍童。童とはいいますが「平家物語」では「大力の剛の者」と屈強の若者と記されています。兄の首を討たせじと忠信に射られた菊王丸。教経はこれも剛腕で、片手で菊王丸を船に投げ入れ、継信も源氏の陣に運ばれてそれぞれ介抱されますがどちらも絶命。

「平家物語」ではこの二人の従者の死で源平両軍に厭戦気分が起こり、また日暮れも迫って合戦は休止となります。ところがそこに平家軍の中から飾った舟が現れて、十八九歳ほどの女房が扇を竿の先につけて立て、陸の源氏の方を差し招く挑発が起きます。有名な「扇の的」で、屋島の合戦の代名詞のように思われていて、能「屋島」では替えの間狂言でかなりクローズアップして演じられる事はあるものの、この替えの間狂言が演じられない普段の上演では能「屋島」ではこの話題に触れません。まあ、「錣引き」や「弓流し」と違って敵と戦う場面ではないからシテ方からすれば演じにくいエピソードとも言えます。

話は脱線しますが、この「扇の的」で射手として選ばれた那須与一は「この矢はづさせ給ふな」と神仏に祈りを込めるのですが、その神仏がまずは八幡大菩薩、さらに故郷下野の那須の神である日光権現、宇都宮と続いて最後に現れるのが「温泉(湯泉とも)大明神」。不思議な名ではありますがこれは那須高原の茶臼岳の中腹にある殺生石の史跡のすぐそばにあります。殺生石のように今でも噴煙をあげる茶臼岳の付近では火山活動の影響が大きく、この神秘への崇敬が生んだ神社なのでしょう。そして殺生石も去年 突然二つに割れる事件が起こり話題になりました。

ところで敵将・平教経は屋島合戦でもこのように欠くことのできない主要登場人物で、「屋島」ではキリでも死後修羅道に堕ちた義経が永遠の闘争の相手として名前が現れ、「平家物語」では壇ノ浦でも義経と壮絶な戦いを繰り広げるのですが。。

なんと「吾妻鏡」では教経はすでに屋島合戦の1年前、一の谷の合戦で戦死した、と書かれています。

義経への限りないオマージュ…『屋島』(その5)

2023-04-07 02:20:57 | 能楽
シテの合戦の語りはツレを巻き込んで屋島合戦全体の話に広がってゆきます。

ツレ「その時平家の方よりも。言葉戦ひ事終り。兵船一艘漕ぎ寄せて。波打際に下り立つて。陸の敵を待ちかけしに。
シテ「源氏の方にも続く兵五十騎ばかり。中にも三保の谷の四郎と名のつて。真先駆けて見えし所に。
ツレ「平家の方にも悪十兵衛景清と名のり。三保の谷を目懸け戦ひしに。
シテ詞「かの三保の谷はその時に。太刀打ち折つて力なく。すこし汀に引き退きしに。
ツレ「景清追つかけ三保の谷が。
シテ詞「着たる兜の錏をつかんで。
ツレ「うしろへ引けば三保の谷も。
シテ「身を遁れんと前へ引く。
ツレ「互ひにえいやと。シテ「引く力に。


このツレが何者かは判然としません。義経に付き従った郎等の一人なのかもしれませんし、考えようによっては義経自身の分身のような物かもしれませんね。ともあれ「その時平家の方よりも。。」からの一連の謡は溌溂と謡うところで、ツレとしてはかなり目立つ良い役でしょう。若武者然として謡う姿はお客さまからも印象的に見えると思います。

さてここに描かれるのは「景清の錣(しころ)引き」の場面です。屋島合戦では三つの大きな事件があって、それが有名な那須与一による「扇の的」、義経の「弓流し」、そしてこの「錣引き」です。が、別格に有名な「扇の的」以外の二つは 今となっては能の世界の外ではあまり知られていないかも。。

そもそも屋島合戦はこのような有名なエピソードがありながら、前述のように義経の奇襲に驚いた平家が海上に逃げ出し、その後義経軍が少数だと判明した平家の一部の軍勢が立ち戻って戦ったので、実際には両軍が激突した合戦とはかなり様相が違い、いわば戦闘は両軍の一部が衝突した程度といえると思います。しかし軍記物語の世界。。さらに言えば能の世界では屋島合戦は義経の華々しい栄光の場面として強調されていて、これが後世この合戦が 一の谷や壇ノ浦に匹敵する新しい地位を得る事になったと感じます。

実際のところ能では「弓流し」はこの「屋島」の後半で詳しく語られるほか、さらに囃子の難しい間に合わせて弓を取り落とし、また拾い上げる具体的な型を伴う「弓流」「素働」という難易度の高い二つの小書が作られて、このエピソードが特に強調されています。

そして「錣引き」は「屋島」もさることながら、能「景清」にさらに詳しく語られ、それは命のやり取りをする戦場に臨みながら対戦した相手の力量を互いに賛美する男同士の美学が描かれていて感動的。しかもそれは平家の残党として頼朝の命を狙いながら果たせず、誅されることもなく流罪となった恥から自らの両眼をえぐり潰したという壮絶な武者の姿であり、そこに世を捨てたと思い過ごす彼を慕って現れた、かつてみずから捨てた娘との邂逅という悲しい物語の中での物語で、この重厚な能はまさに能の中でも屈指の名作と数えられています。

しかしながら「平家物語」に描かれる「錣引き」の場面は、どうもあまり感動的ではありません。

「平家物語」によればこの「錣引き」のエピソードは「扇の的」のあとに位置していて、渚に上がった三騎の平家に対して源氏からは五騎が対抗して出陣した小戦闘でのこととなっています。まず真っ先に進んだ平家の「美尾屋十郎」が馬を射られて飛んで下り、太刀を抜いて源氏に挑んだところ、源氏からは大長刀を打ち振って男がそれに対抗。しかし武器の威力の差に不利を悟った美尾屋は「掻き伏いて逃げ」、これを源氏の男は長刀を掻い込んで右手を出して追い、ついに美尾屋の兜の錣をつかみました。美尾屋もこらえて力勝負になりましたがやがて錣は鉢付けの板からふっつと切れて、美尾屋は味方の馬の影に逃げ込んで息をつき、源氏の男は美尾屋の錣を高々と上げて「遠からん者は音にも聞け、近からん者は目にも見給へ。これこそ京童部の喚ぶなる上総悪七兵衛景清よ」と名乗って退いた、と。

「錣」は兜の後ろ側、首の後ろを保護するスカート状の大きな部品で、鉢付の板とは鉢。。すなわち頭頂部を保護するヘルメット部分と錣との境目の部品です。

しかしこの「平家物語」の記述は、能「景清」に見える「えいやと引くほどに錣は切れて此方に留れば主は先へ逃げのびぬ。遥かに隔てゝ立ち帰り さるにても汝おそろしや腕の強きと言ひければ。景清は三保の谷が頸の骨こそ強けれと笑ひて。左右へのきにける」という素晴らしい描写とあまりにかけ離れています。「平家物語」も軍記物語としての虚構に満ちて史実に忠実とは言えないのですけれども、時代を経るに従って、とくに芸能での表現として弁慶と同じように美化されていった景清像の変遷が見えて面白いと思います。

地謡「鉢付の板より。引きちぎつて。左右へくわつとぞ退きにけるこれを御覧じて判官。御馬を汀に打ち寄せ給へば。佐藤継信能登殿の矢先にかかつて馬より下に。どうと落つれば。船には菊王も討たれければ。共に哀れと思しけるか船は沖へ陸は陣に。相引に引く汐の後は鬨の声絶えて。磯の波松風ばかりの音淋しくぞなりにける。

ここでシテは「引きちぎって」と前に組み合わせた両手を引き離す型をしますが、これは単純な型ながら本当に力を込めて型をしないと文句の通りには見えないところですね。左右を見渡して両軍が引き離れたのを表すとシテは床几から立ち上がり、佐藤継信が落馬するところを足拍子で表し、やがてその激しさも今となっては波の音、松風の音と聞こえるばかり、と遠くを見つめて静かにワキの前に戻って着座します。

「錣引き」の場面は能「屋島」では「景清」ほどの臨場感は持たず、「かの三保谷はその時に太刀打ち折って力なく」という部分を除けば、大筋で「平家物語」に忠実と言える内容で、このあたり「錣引き」のエピソードが能の中で「景清」に向けて拡大して行った過程がほの見えるようで興味深いところです。

がしかし「これを御覧じて判官。。」からは屋島合戦のエピソードとしては「平家物語」とはかなり順番が変えられています。

義経への限りないオマージュ…『屋島』(その4)

2023-04-04 09:41:28 | 能楽
シテが懐かしい都からの来訪者を受け入れて、自分自身の思い出にひたって涙するのに対して、ワキはまったくそれとは正反対の所望をします。

ワキ「いかに申し候。何とやらん似合はぬ所望にて候へども。いにしへこの所は源平の合戦の巷と承りて候。夜もすがら語つて御聞かせ候へ。
シテ詞「安き間の事語って聞かせ申し候べし。


「何とやらん似合わぬ所望」というのは殺生を戒める仏法の教えを広める立場の僧が戦場の有様を尋ねるのが不似合い、ということ。

能「融」にもありますが、シテが昔を懐かしんで涙する場面のあとにワキに所望されて一転、シテが嬉々として主人公(化身の前シテにとっては自分自身)の栄光の様子を語る場面になるのは少々唐突な感を抱かせますね。一見すると涙するシテが急に気持ちを変えたようで不自然には思えます。

ここについて謡曲の注釈本の中には、打ち沈むシテをワキが鼓舞するように話題を転換した、と言われることがありますが、ぬえが思うのはそうではなくて、シテが涙する場面は脚本としてシテの内情にクローズアップした場面なのであり、涙はシテの心の中でのこと、実際にワキがシテの涙を見たのではない、と考えれば ワキの話題転換も自然に見えるのではないかと思います。

さてこうして当地、屋島での源平合戦の語りの場面になります。
塩屋の主人として床几にかかっていたのがワキを招じ入れて床に着座したシテは、ここで再び床几にかかります。

当地の人の昔話にわざわざ居住まいを正す演出は上手な手法です。卑しい漁師が語るには不似合いなほど勇壮で、その場に居合わせて刃を交えた当事者が語るかのような合戦談。その不自然さを、語りが始まる前にすでに視覚的に観客に訴えかけるのがこの床几での語りです。

シテ「いでその頃は元暦元年三月十八日の事なりしに。平家は海のおもて一町ばかりに船を浮べ。源氏はこの汀に打ち出で給ふ。大将軍の御出立には。赤地の錦の直垂に。紫裾濃の御着背長。鐙ふんばり鞍笠につゝ立ち上り。一院の御使ひ。源氏の大将検非違使五位の尉。源の義経と。名のり給ひし御骨がら。あつぱれ大将やと見えし。今のやうに思ひ出でられて候。

勇壮な「語り」ではありますが、じつは多くの問題があります。

ここで屋島の合戦についておさらいをしておくと、この屋島の直前には播磨の一の谷の合戦があるとされていますが、実際にはふたつの合戦の間には約1年の間が開いています。平家が清盛以来瀬戸内海の水軍を味方につけており、そこで一の谷で破れた平家は船を頼りに海を渡って四国に渡り、屋島に本拠を置いたのです。これに対して関東から下向した源氏は海を渡ることができない源氏はなすすべなく、水軍や軍船の用意に時間がかかったのが大きな要因で、後に伊予や熊野の水軍を味方につけて壇ノ浦での決戦に臨むまでは源氏は常に海に阻まれて平家との合戦に苦労しています。

さて一の谷の合戦のあとすぐに屋島の攻略に出られなかった源氏側は、範頼はいったん鎌倉に戻り、義経も都に戻り後白河法皇から都の警備のために検非違使の尉に任じられ、と様々な展開があり、鎌倉でも頼朝が一の谷で生け捕りにされた平重衡と三種の神器との交換を平家と交渉して決裂し、都では後白河法皇は安徳天皇を廃しその異母弟・尊成親王(後の後鳥羽上皇)を神器がないまま天皇に即位させ、義経は近畿での三日兵士の乱の平定に当たったり、範頼は山陽道に進軍したりと。。目まぐるしく状況が変転しています。

こうして一の谷の合戦から約1年後に屋島の合戦が行われ、能「屋島」で前シテは「その頃は元暦元年三月十八日」と言っているわけですが。。 源平の合戦の中でも壇ノ浦、一の谷に並んで有名な屋島の合戦ではありますが、じつはその正確な期日ははっきりしていないのです。

一の谷の合戦が起こったのが寿永3年2月7日のことで、この年の4月に元暦に改元しました。安徳天皇を擁する平家はこれを用いず寿永の元号を使い続けたため複雑で、義経は当然新帝・新元号を擁する側なので元暦を使っているのですが。。 さらに複雑なのは日本の改元の概念が現代と少し違うということ。一の谷の合戦の直後の寿永3年4月に改元。。元暦が始まったのですから能「屋島」でシテが語る「元暦元年3月」という日付は存在しないように思えますが、日本では明治以前は改元した場合はその年の元日まで遡って新元号を使う習慣がありました。

なので一の谷の合戦は寿永3年のことですが、直後に改元したそのあとから見れば元暦元年2月の出来事であったことになります。もっともこの考え方を能「屋島」でいう「元暦元年3月18日」にあてはめれば、屋島合戦は一の谷の合戦の翌月ということに。。 実際には「平家物語」など物語や記録もすべて屋島の合戦が起こったのは元暦2年とされていますので、これはどうも能だけが元号を間違えているか、もしくは意図的に変えたもののようです。

どうも現代人からすると一の谷の合戦と屋島の合戦は期日が近くて、壇ノ浦の決戦はそれより少し期日が隔たったあとの出来事、というような印象があると思いますが、壇ノ浦が海上での合戦だったのに対して一の谷と屋島のふたつの合戦がどちらも海辺での地上戦で、名将同士の一騎討ちのような場面が似通っているので共通性を感じるほかに、案外この改元が与える複雑な事情がその印象に影響を与えているかも。

実際には 前述のように一の谷と屋島の合戦の間には1年間の空隙があるのですが、屋島以降 水軍を味方につけた源氏の進軍は迅速で、壇ノ浦の決戦は屋島の合戦の翌月のことになります。

また日付の方もちょっと問題で、能では「3月18日」となっていますが、上記の諸本ではみな「2月」のこととなっています。一の谷の合戦からちょうど1年後となりますね。前述の期日がはっきりしていない、というのは「日」のことで、「平家物語」の中でも本により「2月18日」「19日」と記述の異同があり(「20日」と解釈できる本もあり)、「吾妻鏡」「源平盛衰記」では「19日」となっていることから、19日が最も有力候補でありながら正確な期日は不明、ということになるでしょう。

能「屋島」のシテの語りで義経が「大将軍」と称されているのは正しい表記で、当時の合戦では戦力は大手・搦手(からめて)の二つに分けて敵を挟み撃ちにする戦法が取られ、必要な二人の指揮官は、大手のそれは大将軍、搦手は副将軍と呼ばれました。源平合戦では本来の総指揮官は頼朝ではありますが、彼は鎌倉に残ったためその名代が軍を率います。そして多くの源平合戦では兄にあたる範頼が大将軍、弟になる義経が副将軍となっています。ところがこの屋島の合戦では範頼は九州攻勢に出ていて義経一人が大将軍として源氏軍を率いたのです。

が、大将軍と呼ぶにはこの屋島の合戦で義経が率いた軍勢は貧弱だったようで、平家討伐の源氏の軍勢は、まずは前述のように九州攻勢に出た範頼軍と義経軍の二手に分かれていたうえに、ようやく船を調達して摂津の渡辺・福島に勢ぞろいした義経軍も折節の嵐によって船出ができず、有名な「逆櫓論争」の末に梶原景時と袂を分かって嵐を押し切って船出した義経軍は「平家物語」によれば200余艘のうちわずか5艘、乗せた軍馬は50匹で、平家の屋島陣を急襲した手勢も「七八十騎」とされています。

少ない手勢ではありましたが義経の計略は緻密で、まず嵐をついて四国に上陸したのが屋島がある讃岐ではなく阿波国で、夜通し山越えをして平家の屋島陣を背後から急襲したのでした。しかも襲撃の直前には高松の民家に火を放ち、軍勢を小グループに分けて襲うことで大軍勢に見せかけたのでした。一の谷で義経が平家軍を背後から襲った「鵯越え」の記憶もあった平家はこれに驚いてすぐに陣を捨てて、また船を頼って海に逃げ出しました。「平家は海のおもて一町ばかりに船を浮べ。源氏はこの汀に打ち出で給ふ。」とあるのは、じつは海に逃げた平家の陣地を義経軍がおさえ、ようやく相手の軍勢が少数であると気づいた平家が海の上から源氏に対峙した、という場面になります。

義経への限りないオマージュ…『屋島』(その3)

2023-03-29 01:32:01 | 能楽
シテとツレは漁の仕事から帰った体で釣竿を捨て塩屋に戻ります。

シテ「まづまづ塩屋に帰り休まうずるにて候。

両者は釣竿を捨て、後ろに挿した扇を抜き持って、シテは床几にかかり、ツレはその右後ろに着座します。

この着座位置は能「松風」と同じ演出ですね。二人が海での仕事に従事する漁師であり、場所は塩屋であり、「松風」の影響を考えないわけにはいきません。そのうえシテとツレの登場の仕方。。橋掛りで向き合って謡い出し、囃子のアシライに乗って舞台に入り、さらに舞台で向き合ってサシ・下歌・上歌を謡う様は脇能の前シテの登場と同じ型です。まあ、脇能が「真之一声」で登場するのに対して「屋島」では前シテの登場音楽としてはごく一般的な「一声」であり、橋掛りで謡い出す体裁も脇能の「一セイ」「二ノ句」ではなく「屋島」では「サシ」「一セイ」なのであって、脇能と比べれば略式に作られているのは間違いないのですが。

しかしながらご存じの通り能「松風」は脇能以外では唯一「真之一声」でシテとツレが登場する曲で、アシライに乗って舞台に入り、「松風」はその後二度に渡る地謡の上歌、続いてロンギまで備えて長大な場面が続く点で脇能とも「屋島」とも異なった独特の展開ではありますが、この長大な文章でシテとツレが海辺で従事する仕事とそれに携わる心情を深く掘り下げたそのあとは仕事を終えて塩屋に帰るのであり、その点では「屋島」と趣向は同一でしょう。その塩屋に安住したシテとツレの姿が同一である事を考えると、やはり「松風」と「屋島」には共通した演出があると考えることができると思います。

さらには「松風」と「屋島」は同じ作者。。世阿弥による作品です。「松風」は「五音」「申楽談儀」「三道」の世阿弥自身の記述により古曲「汐汲」が観阿弥・世阿弥父子によって次々に改作された曲とされていますが、ぬえは以前から、確証はないながら「松風」はその文体や印象によって世阿弥によってほとんど全面的に書き直されていると考えていまして、後日ドナルド・キーンさんが「これは世阿弥が作りました」と断定的におっしゃっているのを聞いたこともあります。「屋島」もまた確実な証拠はないものの、各種の文献によって世阿弥作が確実視されている曲です。ふたつの曲が同じ作者の作品であるならば、やはり両者には何らかの関係があるのかもしれません。

もっとも橋掛りに登場したシテとツレなどがアシライで舞台に入る演出はじつは脇能の専売特許ではなくて、四番目や五番目の能である「玄象」「葵上」「当麻」、意外なところでは「第六天」「摂待」でも用いられているので、「屋島」のシテの登場の演出はより複雑な影響関係を考えなければならないかもしれません。

ワキ「塩屋の主の帰りて候。立ち越え宿を借らばやと思ひ候。いかにこれなる塩屋の内へ案内申し候。

塩屋の主人の帰宅を見た僧は一夜の宿を所望します。ツレがそれに応対してシテに判断を仰ぎ、シテは「見苦しい」ことを理由に一度は断りますが、僧の重ねての所望についに彼らを受け入れます。このあたりも「松風」そっくりの演出ですが。。

ツレ「誰にて渡り候ぞ。
ワキ「諸国一見の僧にて候。一夜の宿を御貸し候へ。
ツレ「暫く御待ち候へ。主にその由申し候べし。いかに申し候。諸国一見の僧の。一夜のお宿と仰せ候。
シテ「安き程の御事なれども。あまりに見苦しく候程に。お宿は叶ふまじき由申し候へ。
ツレ「お宿の事を申して候へば。余りに見苦しく候程に。叶ふまじき由仰せ候。
ワキ「いやいや見苦しきは苦しからず候。殊にこれは都方の者にて。この浦初めて一見の事にて候が。日の暮れて候へば。ひらに一夜と重ねて御申し候へ。
ツレ「心得申し候。ただ今の由申して候へば。旅人は都の人にて御入り候が。日の暮れて候へば。ひらに一夜と重ねて仰せ候。
シテ「なに旅人は都の人と申すか。ツレ「さん候。
シテ「げに痛はしき御事かな。さらばお宿を貸し申さん。


この場面も「松風」とほとんど同じ展開ですが、じつはシテが僧を受け入れる理由が「松風」とまったく異なっているのです。

「松風」ではワキの来訪をツレに知らせるツレは「旅人の御入り候が。。」としか伝えないのですが、その後のワキとツレとのやり取りを家の内から漏れ聞いたシテがワキが僧であることを知ると、シテの謝絶を忠実にワキに伝えるツレを制して僧を家に招じ入れるのです。

ところが「屋島」でシテが敏感に反応してワキを招じ入れた理由は、ワキが僧であるかということではなくワキが都人だったからなのです。後に地謡が「旅人の故郷も都と聞けば懐かしや。我等も元はとてやがて涙にむせびけり」と謡うので判明するように、シテは自分が帰ることができない故郷。。都の人と知って、懐かしさにワキを家に入れたのです。

単純な違いのようですが、「松風」ではシテは自分が死後も妄執のために成仏できず苦しんでいて、ワキ僧を招いたのも、僧との邂逅によって自分の救済を期待したからにほかなりません。これが「屋島」ではシテは同じ現世に迷う亡者でありながら、ワキが僧であることに興味を示していませんね。じつはこれは「屋島」の能全体に通じている特色で、シテがワキ僧に対して自分を弔うことを求めない事は演者などからもよく指摘されることなのです。

ぬえは、これまた証拠はないけれども「松風」も「屋島」も、世阿弥の作とすれば比較的若い時代に書かれた脚本だと思っています。「敦盛」はさらに若い頃。。ぬえは世阿弥が10歳代で書いたのではないかなあ、と漠然と考えているのですが、その後「高砂」「屋島」と続いて「松風」がもう少しあと、「砧」の境地はその数十年後のずっと先。。と勝手に考えています。これはシテの人物の人間像の描かれ方の深さについて ぬえが感じるところなのですが、この場面でもシテはワキの(シテ自身に対しての)存在価値を、自分が失った故郷の人として共感し、しかもそれはツレからの報告によって知る「屋島」に対して、ワキの言葉を側聞して、これを自分の救済者と認めた「松風」との間に、考えすぎかも知れませんが作者の人間洞察のための人生経験の時間差を感じています。

ツレ「もとより住み家も芦の屋の。
シテ「たゞ草枕と思し召せ。
ツレ「しかも今宵は照りもせず。
シテ「曇りも果てぬ春の夜の。
シテツレ二人「朧月夜に敷く物もなき海士の苫。
地謡 下歌「屋島に立てる高松の。苔の筵は痛はしや。
地謡 上歌「さて慰みは浦の名の。さて慰みは浦の名の。群れゐる田鶴を御覧ぜよ。などか雲居に帰らざらん。旅人の故郷も。都と聞けば懐かしや。我等も元はとてやがて涙にむせびけり やがて涙にむせびけり。


さてシテがワキ僧を家の中に招き入れて、一同が車座になって和む場面です。シテは下歌「屋島に立てる高松の」と床几から立ち上がり、ワキに向いて着座、ワキもシテに合わせて着座します。このあたり、能「安達原」や「一角仙人」などなど枚挙にいとまがないほど能によく出てくる場面ですが、これまた能舞台の特質をよく生かした演出です。理屈から言えばシテは屋内に居てワキを招き入れたのですから、シテは不動で待ち受け、多少なりとも移動するのはワキのはずなのですが、実際の舞台はその逆。しかしここでシテが立ち上がりワキに向くことで、単純にワキが屋内に入ってきた、という動作ではなく、僧をもてなすシテの気持ちに焦点が当たりますし、なにより役者がほとんど移動しないままで能舞台そのものが一瞬にして塩屋の内外の応対の場面から一同がひと部屋に介する屋内の場面に変わるのです。書き割りや大道具などで具体的に塩屋を視覚化する方法ではこの一瞬の舞台転換は不可能で、観客の想像に多くを任せる能の手法の真骨頂と言えると思います。

ここでもまた能「松風」との対比が際立ちますね。「松風」ではシテは立ち上がらず床几にかけたままワキに向くのみ。ワキはほんの二~三歩シテの方へ歩み寄って着座します。これは、「屋島」と違ってシテが動かない以上ワキが最低限の移動をしないと家の中に入ったことが表現できないからだと思いますが、「松風」でここでシテが立ち上がらないのは他にもいろいろな理由があるからだと思います。「屋島」のシテの庶民の老人であれば今まで床几にかけて一国一城の主のような威厳を見せていたのが、ワキとともに着座することで胸襟を開いて僧をもてなす体になり、一座の和やかな様子が活写される効果が生まれるのに対して、「松風」ではワキと同座しないことで、僧からの救済を期待しながらも、シテの心の中にある孤独が彼女の心をワキに打ち解けるところまで至っていない事が想像されます。またワキと離れて、しかも床几に座ることでシテの姿は着座するワキの位置とは高低差までも生じ、この場面のあとシテとツレが姉妹の悲しい物語を独白する場面でシテの心情の揺れ動きに観客の焦点を集めることができます。

さてシテとワキ一行がまといして語り合うこの場面、シテの心は都を懐かしむ気持ちでいっぱいですね。思えば都は義経にとって生まれ故郷でもあり、鞍馬での天狗との邂逅、五条の橋での弁慶との対決、木曽追討、平家追討の出陣、検非違使の任官。。と思い出の尽きない地。「屋島」で唯一、シテが涙を流すシオリの型をする場面です。

義経への限りないオマージュ…『屋島』(その2)

2023-03-27 10:29:09 | 能楽
塩屋の主の帰りを待つ僧たち。果たしてやがて漁翁(前シテ)と若い漁夫(ツレ)が登場します。

卑しい身分の二人の漁師の登場でありながら、能では常套手段でありますが前シテは生きた人間ではなく神霊の化身であって、その微妙に不確実な存在感というものを、この登場の場面で表現できるか、という事がシテやツレだけでなくお囃子方にも求められますね。これは「屋島」に限らず化身としての前シテの登場には欠かせない役者としての心得だと思います。

余談になりますが、能の前シテの登場の仕方にはいくつかの方法があって、たとえば「なうなう」とワキを呼び止める「呼び掛け」という登場のやり方があります。「羽衣」のシテもこの「呼び掛け」で登場するように、かなり多くの曲で用いられる演出なのですが、ぬえはこの「呼び掛け」が、能舞台の独特の構造から生み出された究極の演出ではないか、と思っています。

どこかに向かおうと舞台の脇座の方へ歩み始めたワキを、幕を揚げたシテがその中から呼び止める、という演出なのですが、その「なうなう」と呼び掛けるシテの姿はまだ観客の目には見えません。揚げられた幕の中から声だけが聞こえてくるわけで、シテはワキがそれに応じて返答するのを聞きながら、はじめて橋掛りに歩みを進めるのです。それも、ようやく姿を見せたシテは観客からは横顔しか見えません。ワキとの問答を続けながら、ずっとその表情は露わにならない。。

ワキとの会話がその曲の重要なモチーフに触れたとき、はじめてシテは橋掛りの中ほどでワキに向くわけで、それまでのシテの登場は それだけですでに得体のしれない神秘的な印象を観客に与えます。橋掛りという独特の能舞台の構造を生かし切る、先人のすぐれた知恵によって獲得された演出で、だからこそ ぬえも師匠から最初の「なうなう」の謡い方は厳しく教えて頂きましたし、はじめて見所(客席)に向くところを大切に扱うように指導されました。

このように優れた「呼び掛け」ですが、この演出が用いられるのはシテが同伴者を伴わずに一人で登場するときだけで、また一人で登場しなければ神秘性を表現するのは難しいでしょう。能「屋島」では前シテはツレを伴っているので「呼び掛け」ではなく、二人の役者が前後して幕から登場して定められた位置で止まって体裁を調えてから演技を開始するためには登場音楽が必須であると思います。

こうしたわけで「屋島」の前シテとツレは「一声」の囃子で登場するのですが、これが前述のように儀式的な「次第」ではなく「一声」なのは、まずはワキの登場との重複を避けるため、ということもあるでしょうがそれ以上に、整然とした「次第」よりも正体のわからない漁師の出現という印象を与える効果があるためであろうと思います。

「一声」によって登場した二人は、ツレが一之松、シテは三之松でともに橋掛りで止まって正面を向き、謡い出します。

シテ「おもしろや月海上に浮んでは波涛夜火に似たり。
ツレ「漁翁夜西岸に添ふて宿す。
二人「暁湘水を汲んで楚竹を焚くも。今に知られて芦火の影。ほの見え初むるものすごさよ。
シテ「月の出汐の沖つ波。
ツレ「霞の小舟。漕がれ来て。シテ「海士の呼び声。二人「里近し。


前シテは「朝倉尉」または「笑尉」という尉面をかけますが、ともに口ひげが植毛されて、また上下の歯を剥き出した面です。ちょっとした違いのように思われるかもしれませんが、口ひげが彩色で描かれて上の歯だけが彫刻された、脇能で神の化身として登場するシテがかける「小尉」と比べると舞台効果はまったく異なっていて、「小尉」の品格よりも身分は劣る、いわば市井の人物ながら力強く逞しく、まるで古武士のような風格があります。

ツレは直面(素顔)で登場し、二人ともに着流しの姿で身分の低さを表し、また上に着る水衣の両肩を上げることで労働をしていることを表します。二人はともに腰蓑をつけて釣竿を肩にして登場することで漁師であることがわかります。

それにしても。。前シテの登場の文句は重厚ですね。冒頭はサシと呼ばれる散文を謡うので情緒的な進行かと思えば、さらに一セイというきらびやかな節付けがある短文の小段が続きます。じつはこれでも終わりではなく、ここまで謡うとシテとツレは橋掛りを歩み舞台に入り、再び向き合ってさらにサシ、下歌、上歌を謡うのです。

冒頭の「暁湘水を汲んで楚竹を焼く」というのは唐代の柳宗元の漢詩の引用で、夕方に湘江の西岸に停泊すると見えた老漁師は翌朝に見ると漁翁は湘江の水を汲み、楚地方の篠竹を焼いて朝食を作っていたが、いつの間にかその舟は漕ぎ出して見えなくなった、というもの。この漢詩では遠景に見えた漁師の小舟が自然と一体となって溶け込んでいく様を詠んでいて、その情景を今の自分たちの姿を感慨深く重ねています。

月の出とともに上げ潮となり漕ぎ出す舟。春の霞に景色は見えにくいけれども、呼び交わす釣船の声から陸地や里も近いことがわかる。。と、ここまで謡ってシテは釣竿を肩から下して右手に提げて持ち、ツレを先立てて二人は舞台に入り、ツレは舞台中央、シテはシテ柱に足を止めて再び謡いはじめます。

シテ「一葉万里の船の道。たゞ一帆の風に任す。
ツレ「夕べの空の雲の浪。
二人「月の行方に立ち消えて。霞に浮ぶ松原の。影は緑に映ろひて。海岸そことも不知火の。筑紫の海にや続くらん。
下歌「こゝは屋島の浦づたひ海士の家居も数々に。
上歌「釣の暇も波の上。釣の暇も波の上。霞渡りて沖行くや。海士の小船の。ほのぼのと。見えて残る夕暮れ。浦風までも長閑なる。春や心を誘ふらん 春や心を誘ふらん。


一枚の木の葉が水に浮き、そこに蜘蛛が乗ってともに流れ下るのを見て舟が発明された、という話は能「自然居士」や「遊行柳」に出てきますね。最初は原始的な発明だったかも知れませんが、いまや万里を進む交通手段。しかしそれも帆に受ける風まかせという儚さも併せ持ったもので、おそらく自分たちの境遇と重ねているのでしょう。その後の文章も、春といえばつきものの霞にぼんやりと霞む情景の美しさと、多くの漁師の家があるけれども生活のために釣りをするのに追われる境遇や、その中であってもやはり長閑な春は心を浮き立たせる、と複雑な心境を謡っています。

不知火は「筑紫」の枕詞で、有明海などで夜に見られる怪異な火のことだそうです。ここでは霞によって松原の緑も海の色に交じり、海岸さえよく見分けられない中で、家の灯か釣舟の灯りがその怪火のようで、先の見通せないこの海がいつの間にか九州・筑紫にまで誘い込まれるようだ、というような意味でしょうか。

なお枕詞「しらぬひ」は上代から使われていますがその意味はずっと不明のままで、近年になって上代での使用例は「不知火」という説はほぼ否定されて「白縫い」だという説が提出されています。中世文学ではもっぱら「不知火」なのですが、これは上代の使用例の誤解なのだとか。(+_+)

義経への限りないオマージュ…『屋島』(その1)

2023-03-25 00:50:37 | 能楽
さて毎度 ぬえが勤める能の曲について鑑賞のための見どころと、舞台進行の解説をさせて頂いております。今回の『屋島』は「修羅物」と呼ばれる源平の武将の生き様を描いた一連の能の曲の中でも人気曲と言われています。この屋島や一の谷、壇ノ浦での活躍に対して平家滅亡後は一転して兄・頼朝から追われる身となり、ついには奥州で非業の死を遂げた義経。能の「屋島」では不幸な最期には微塵も触れず、一貫して英雄として描かれています。

さて舞台に囃子方と地謡が着座して囃子方が床几に腰かけると「次第」と呼ばれる登場楽が演奏され、やがてワキとワキツレが幕を上げて登場します。ワキは所謂「着流し僧」で、従僧(ワキツレ)が通常二人、ワキに引き続いて登場します。

橋掛リから舞台に入ったワキとワキツレが舞台中央で向き合うと、これまた「次第」呼ばれる謡を謡います。

ワキ「月も南の海原や。月も南の海原や。屋島の浦を尋ねん。

続いて地謡が同文を低吟します(繰り返し部分は一度だけ謡う)が、これを「地取り」と呼びます。

これは「次第」という登場楽で役者が登場する場合の定型で、また「次第」はシテの登場時も演奏されるものの、多くはワキの登場に用いられ、じつはかなり特徴的な登場の仕方をします。

前述の通りワキ(あるいはシテ)がワキツレ(シテの場合はツレ・子方など)を伴っている場合は登場した役者は舞台で向き合って七五・七五・七五が定型の三句を謡いますが、シテの場合はまれに橋掛かりで向き合って謡う場合もあり、もっと特徴的なのはワキ(あるいはシテ、ツレの場合もあり)が一人で登場する場合は役者は舞台シテ柱前(橋掛リ一之松のこともあり)で客席に背を向け、囃子方の方。。鏡板の方向に向いてこの三句を謡うのです。

さらにこの役者の謡の直後に地謡が「地取り」を低吟するのも大きな特徴。次第の囃子で登場すれば必ず役者は「次第謡」を謡い、地謡が「地取り」を謡うのですが、じつは登場音楽としてではなくクリの前などに地謡が「次第謡」を謡う曲もあり、そのときも「地取り」は謡われます。つまり地謡は大声で「次第謡」を謡ってから、今度は低い声で「地取り」も謡うことになります。

「次第」と同じくらい多く用いられる登場音楽に「一声」がありますが、こちらは「次第」と比べると演奏の速度も登場の演技のバリエーションも格段に広く、この自由度の高さからの比較では「次第」は「静的」で「儀式的」な印象が強いと思います(激しい次第もまれにありますから、あくまで印象ですが)。能ではワキが「次第」で登場して、その後にシテが「一声」で登場する、という形式に作られていることが多いように思いますが、ワキの登場を儀式的に行うことである種の「実在性」が担保され、これにより舞台に安定感を与える効果があるのではないか、と ぬえは考えています。

その後じつは人間ではない化身の前シテが現れるときこの安定感が一気に崩れて、シテに注目を集める効果もあるでしょうし、舞台に緊張感を与えて舞台の経過に観客を集中させることを狙ったのではないか。。? ちなみに「屋島」では前シテも後シテも「一声」で登場しますが、その印象はかなり違っていて、「一声」の柔軟性を感じます。

ワキ「これは都方より出でたる僧にて候。我いまだ四国を見ず候ほどに。この度思ひたち西国行脚と志し候。

さて地取りで正面に向き直ったワキは自己紹介の文を謡い、その最後に「立拝」とも「掻き合わせ」とも呼ばれる両手を胸の前で合わせる型をして、これよりワキはワキツレと再び向き合い、紀行文である「道行」を謡います。

ワキ/ワキツレ「春霞。浮き立つ浪の沖つ舟。浮き立つ浪の沖つ舟。入日の雲も影そひて。其方の空と行くほどに。遥々なりし舟路経て。屋島の浦に着きにけり 屋島の浦に着きにけり。

京都に住む僧(ワキ)一行が四国・讃岐国の屋島に行くので、もちろん交通手段は難波か摂津あたりからの海路ですね。じつは道行はかなり具体的な行路を記してあることが多くて興味深く、作者の意図がこめられていることも多いのです。「鉄輪」ではシテは京都市内から貴船神社までの「道行」で、京都の人ならば知らぬはずはないはずでしょうが、これを京都の人に聞かせたら「あんな道を通っていかはったんか。。」と言っておられました。なんでも通常の貴船神社までのルートではなく、今でもその道はあるけれども獣道程度の道しかない、とのこと。。身を潜めて「丑の時詣で」をする恨みを持った女ですから、その道順を聞いただけで観客は震えあがる効果を狙ったのでしょう。逆に「楊貴妃」のように想像上の場所。。常世の国に行く道行もあって、これはさすがに道行の描写も抽象的ですねw。

「屋島」の「道行」は平明な文章で、しかも地名が一切登場しません。海がない都からしても当時は讃岐までの道のりは自明だったのか、平凡な地名の列挙を避けて、春のほのぼのとした旅路を情緒的に描くことに徹したのかもしれません。

ワキ「急ぎ候程に。これははや讃岐の国屋島の浦に着きて候。日の暮れて候へば。これなる塩屋に立ち寄り。一夜を明かさばやと思ひ候。

「塩屋」とは製塩のために浜辺に建てられた作業小屋のことですが、この後登場する前シテとツレは漁翁と漁夫。。つまり釣りをする漁師です。まあ、釣ってきた魚を加工する作業小屋をも同じく「塩屋」と呼んだのかもしれませんが、じつは ぬえはこのあたりから「屋島」の作者(世阿弥と確実視)が能「松風」を念頭に置いて能「屋島」が作った、その片鱗が早くも現れているのではないか、と感じています。

ともあれ塩屋への宿泊を志すワキ一行は塩屋の主人の帰りを待つ体で舞台脇座に着座します。(続く)

梅若研能会4月公演

2023-03-20 14:44:01 | 能楽
来月…4月20日、師家の月例会「梅若研能会4月公演」にて ぬえは能『屋島(やしま)』を勤めさせて頂きます。「修羅物」と呼ばれる源平の合戦を描いた一連の能の作品の中でも屈指の人気曲であり、主人公も悲劇のヒーローとして古来日本人に大人気の源義経です。しかしながら能に描かれる義経像はその「悲劇のヒーロー像」とはちょっと違っていますね。ぬえはこの曲が舞台にかかるたびに思うところがあったので、今回は例によって上演の参考となるよう舞台経過をご紹介しながら、そういった ぬえがこの曲に感じる「違和感」について考察をしてみようと思います。

都四国行脚に志す僧(ワキ)が讃岐の屋島を訪れたところで日暮れを迎え、見つけた塩屋(製塩などの作業のために浜近くに建てられた小屋)に宿泊しようとします。やがて現れた老若二人の漁師(前シテ・ツレ)。長閑な春を満喫するように現れた漁師に僧が宿を乞うと、漁翁(前シテ)は小屋の見苦しさに一度は断りますが、若い漁師(ツレ)を通じて僧が都の人と知るといたわしさを感じて宿を貸します。「都と聞けば懐かしや。我らも元は。。」と涙する漁翁。僧は不審しながらもこの屋島での源平合戦の有様を語るよう頼みます。「易き間のこと」と応じた漁翁ですが、その軍語りの有様はまるでそれを体験した武者のよう。詳細な物語りに不審を深めた僧が漁翁の素性を問うと、「暁には修羅の時となるだろう」「その時は我が名を名乗らん」「よしつねの憂き世の夢ばし覚まし給ふな」と言い捨てて姿を消します。

老人が義経の霊と確信した僧がその夜月の下に待つと、果たして義経(後シテ)が現れます。生前の合戦での怒りの心のために成仏できず今に苦しんでいる、と言う義経。屋島での合戦、とくに義経が取り落とした弓を敵陣近くまで取り返しに行った有名な「弓流し」の有様を物語ると明け方に消えてゆきます。

兄の頼朝が非情で冷酷な人物という印象なのに比べて義経は「悲劇のヒーロー」として日本人には親しみ深いですね。実際、源平の合戦では頼朝は実際の戦闘には参加せず鎌倉におり範頼と義経の二人の弟を派遣したのであって、この二人の活躍によって平家は滅亡を迎え、三種の神器の奪還にも成功したのでした(剣は失われましたが)。ところがその後頼朝は弟たちの野心を疑い、ついに二人とも自害に追いやったり攻め滅ぼしました。

まあ。。権力を持った者の孤独が自分の地位と命を狙われていると妄想させるのはよくある事ですが。。義経は山伏に変装して追っ手を逃れた逃亡生活をしたり、再三自分の無実を兄に訴えながら受け入れられなかったり、平家討伐の軍功に引き換えて哀れな運命をたどったために彼を記した軍記物語の読者の同情を引きました。

実際、能の中で義経はこの「屋島」のシテのほか、「正尊」「船弁慶」「安宅」などの曲でツレや子方として登場し、幼少年期時代のエピソードが「鞍馬天狗」「橋弁慶」「烏帽子折」「熊坂」などに数多く描かれているのに対して頼朝が舞台に登場するのは現行曲ではわずかに「大仏供養」の子方と「七騎落」のツレ(他流では「調伏曽我」のツレもあり)のみで、義経がいかに古来から人気があったかがわかるように思います。

そんな義経ですが、能「屋島」では兄弟の確執や悲劇的な最期には一切触れず、屋島の合戦だけに的を絞って勇猛果敢、名を惜しむ武士の誇りが描かれています。これがこの曲の一番の特徴でありましょう。合戦での殺人を生業とし存在意義ともする武士は、その誇りと栄光の影で、常に仏法の戒めに反する生き方をしているわけで、死後に修羅道に堕ちなければならない自立背反の宿命を背負ってもいました。

こうしたわけでいわゆる修羅物と呼ばれる源平の武将を扱った能ではほとんどシテは死後に修羅道に堕ちた苦しみを表現し、ワキはもっぱら僧であって、シテの苦しみを受け止め、その救済をする役目を担うように物語は設定されています(その結果救済が成功してシテが成仏を果たせたかどうかは別問題ではありますけれども。。)。

能「屋島」もワキは僧であり、シテは「瞋恚の妄執」による苦しみを吐露はしていますが、どうも他の曲とは少し描かれ方が異なると思いますね。これについても本ブログで考えてゆきたいと考えております。

どうぞお誘い合わせの上ご来場賜りますよう、お願い申し上げます~



梅若研能会 4月公演

【日時】 2023年4月20日(木・午後1時開演)
【会場】 セルリアンタワー能楽堂 <東京・渋谷>

 仕舞 杜 若 キリ  伊藤 嘉章
    柏 崎 道行  青木 一郎
    鵜 飼 キリ  遠田  修

狂言 寝音曲(ねおんぎょく)
     シテ(太郎冠者) 善竹十郎
     アド(太郎冠者) 野島伸仁

   ~~~休憩 15分~~~

能  屋 島(やしま)
前シテ(漁翁)/後シテ(源義経) ぬ え
ツレ(漁夫) 萩原郁也
ワキ(旅僧)殿田謙吉/間狂言(屋島の浦人)善竹大二郎
笛 栗林祐輔/小鼓 幸正昭/大鼓 柿原弘和
後見 梅若万三郎ほか/地謡 青木一郎ほか

                     (終演予定午後3時25分頃)

【入場料】 指定席A 6,500円 指定席B 5,500円 学生各席2,500円引き
【お申込】 ぬえ宛メールにて QYJ13065@nifty.com

例によってこちらのブログで作品研究。。というか、上演曲目の考察を行いたいと考えております。併せてよろしくお願い申し上げます~~m(__)m

東日本大震災3.11 追悼の集い 気仙沼(その3)

2023-03-18 20:09:47 | 能楽の心と癒しプロジェクト
去年の3.11から1年ぶりの気仙沼再訪でしたが、今回は東京から車で行くのではなく列車で仙台に入り、そこからレンタカーを借りて、途中12年間ずっと見続けてきた震災被災地の定点観測を続けながら気仙沼に向かいました。

震災当初は笛の寺井宏明や臨時に活動を手伝ってくれる能楽師の友人と東京で待ち合わせて、運転を交代しながら東北に向かったものでしたが、今は現地集合・解散が普通になってきていて、気仙沼となると片道6時間を一人で運転するのが そろそろしんどくなってきまして。。

いや、正解だったかも。新幹線を使わず特急電車とレンタカーの費用を合わせても、東京からの高速道路の通行料やガソリン代とほとんど変わらないかもしれません。レンタカーを借りるまでは徒歩での移動があるので荷物をひとつにまとめる必要があり、また運ぶことができない物もあるのがネックですが、長距離運転のリスクを考えれば体力的にもこの方法がベストかなあ。年を取ったのね~

さてこうして訪ねた石巻と志津川のご報告を致しましたが、本日はその補遺です。

石巻では ぬえの活動の原点となった湊小学校をのぞいてみました。



当時は避難所となった湊小学校もいまは学校本来の役割を果たしています。住民さんの減少に伴って、より海に近いところにあってやはり被災した湊第二小学校はすでに閉校となり、この湊小学校に統合されました。



よく見るといつの頃からか屋上への避難階段が増設されていました。石巻では旧北上川の河口に位置する日和大橋の少し上流に新しい橋も架けられていましたし、少しづつ変わっていきますね。





こちらは児童の被害が甚大だった石巻市の大川小学校。こちらも震災遺構となってビジターセンターが新しく建てられ、案内板や柵が整備されて以前より校舎にも近づくことができたようです。

じつは今回気仙沼でご一緒した「えほん楽団」のみなさんは大川小学校で演奏した経験がおあり、と聞いて驚きました。ぬえたちプロジェクトとしてもここでの奉納上演を希望していた事があって、遺族会の方々とも交流を持ってはいるのですが。。これまで3回奉納をお願いしてその都度お断りになっております。

「えほん楽団」さんの場合はかなり複雑で特別な事情と、ぬえたちより長く濃密に関係者の方々と交流を深めておられたために実現したようですが、それもたまたま様々なタイミングがうまく合って実現したようで、その後別の音楽家の演奏に遺族の方々から異論が出されたりした事情もあって、受け入れは停止されたようです。

ぬえが聞いたところでは大川小学校では清掃のボランティアさんが唯一の受け入れ団体ですが、それも関西方面からずっと継続して支援を続ける方々だそうで、そういった努力と誠意によって信頼を得られたのですね。

さて気仙沼に戻って、もう少し前になってしまいましたがNHKの朝の連続テレビ小説「おかえりモネ」の舞台ということで、それを示す看板があちこちにありました!





「橋を渡って来ましたぁ」



最後に気仙沼大島の「浦の浜」。以前は気仙沼本土から唯一の交通手段のフェリーが到着する場所で、このフェリー乗り場でも「羽衣」を上演したことがあります。上演当時お世話になった商店「グリーンアイランドおおしま」さんもすぐそばの高台の上に新築されていました!



大島大橋が架かってフェリーは廃止されたはずですが、気仙沼本土にもこの大島の浦の浜にもフェリーが停泊していました。あとで聞いたところによれば土日だけ営業する気仙沼湾内をめぐる遊覧船として就航しているのだそうです。

フェリーで大島に渡るときは船上でウミネコにエサをあげたりしましたが、あれ、今でもできるんですねっ!

東日本大震災3.11 追悼の集い 気仙沼(その2)

2023-03-15 15:11:32 | 能楽の心と癒しプロジェクト
気仙沼から帰って参りました!

去年の3.11の日に久しぶりに訪れて、その変貌ぶりに目を見張った気仙沼ですが、今回は前泊したこともあって時間をかけて見て回ることができました。

まずは気仙沼大橋、通称「鶴亀大橋」。本土と気仙沼大島を結ぶ2019年に開通したのですが、2021年のNHKの朝の連続テレビ小説「おかえりモネ」でも「橋を渡ってきた」という主人公のセリフにあるように、気仙沼大島の住民さんにとって悲願の橋だったのです。この橋は建設している段階から ぬえも見ていまして、陸上での組み立て工事が住民に公開された時期にはその見学にも行きました。



上の画像は ぬえが大島の亀山の頂上から撮影したのですけれども、左下に小さく見えるのが本当は巨大な気仙沼大橋。その向こうの正面に平らに見えるのが南気仙沼とか内ノ脇と呼ばれる地区をを抱える地域で、気仙沼の漁業や水産加工の中心地でもありますが、近世からの埋め立て地で、周囲の高台には限られた橋を渡って行くより方法がなく、震災時には大きな被害を出してしまいました。震災後は災害危険区域として住宅などの建設には制限を加えながら、それでも魚市場をはじめ水産加工場の建物が復興されて昔と変わらぬ気仙沼の経済の中心地となりました。

この右奥が「内湾」と呼ばれるエリアで、もとの大島へのフェリー埠頭を中心に次々と新しい建物が立ち並ぶ先進的な場所となりました。



半島状の埋立地の上を、これは去年はじめて見て驚いたのですが、三陸道の大きな橋がまたいで通りました。気仙沼もまるで近未来都市のようになりましたねー! 今回ようやくこの橋も渡ってみることができました!

さて ぬえは午前中に今回の会場の「すがとよ酒店」さんに楽屋入り、ついで昨晩ちょっと挨拶できた「えほん楽団」のクラリネットアンサンブルのみなさん、いつもお世話になっていて今回のコーディネートをしてくださった住民ボランティアの村上充さんも到着していろいろ情報交換を兼ねて、ご近所の仮設商店街時代からお世話になっている「団平」さんで昼食。
寺井さんも到着して音響機器の設置があり、やがて14:46の発災時のサイレン、黙祷のあとに上演となりました。



黙祷に先だって地元・気仙沼鹿折の浄念寺さんによる十三回忌の法要があり、黙祷のあと「えほん楽団」さんのクラリネットアンサンブルの奉納演奏。


撮影:米倉三喜子さん

「えほん楽団」さんはなんと九州・福岡を本拠地として被災地の復興へ音楽を通じて貢献する団体で、石巻や気仙沼で何度も支援活動をされているとか。思えばその間に九州では災害が相次ぎ、ぬえも地震被害が起こった前後に熊本を訪れて様子は見ておりましたから、九州と東北と、両方に対応されるのは大変なことでしょう。

ぬえたちプロジェクトは前述の通り能「松風」のダイジェスト版を奉納上演させて頂きました。13回忌を迎えて、ようやくこの曲も普通に演じることができるようになったと思います。思えば当地で140回以上も上演させて頂いておりますが、能ではよく出てくる泣く演技。。「シオリ」の型を被災地でしたのはこれでやっと数回目。


撮影:米倉三喜子さん

よく能は「鎮魂の芸能」などとも言われたりしますが、ぬえ自身にはそんな大それた役割が果たせる自信もなく、この12年、もっぱら震災のあともこの世に残された住民さんの幸せを祈って舞うことにしておりますから、選ぶ曲も当然のように希望に満ちた曲ばかりを選んできました。

が、これまた前述のように「愛する人を待ち続ける」その姿もまた純粋で美しい、と賛美するつもりで「松風」を選びましたが、この曲が違和感なく受け入れられたことがまた、復興のひとつの証しなのかもしれません。

3.11追悼の集い 気仙沼(その1)

2023-03-11 08:48:17 | 能楽の心と癒しプロジェクト
3.11追悼の集いのために気仙沼に向かう途中、被災地の定点観測に。

去年3.11の日に立ち寄りながら開館には間に合わなかった石巻の震災遺構・旧門脇小学校をようやく見学できました!


震災直後は簡単に近づけましたがほどなく立入禁止になり、保存するか解体するか長く議論された末に震災遺構となりました。ずっと立入禁止、清掃もほとんど行われなかった校舎内は当時を伝える凄まじい有様。









よそ者だから言えるのかも知れませんが、当時の状況を震災を知らない世代に伝えるのにはこれほど悲惨な状態を見てもらうのはとても重要だと思います。
それにしても。。多くが取り壊された「遺構候補」の建物は、みなそこで人的被害が出た場所だからだったのです。ここ門脇小学校は避難訓練が行き届いていて児童のほとんどは裏の日和山に避難して無事だったものの、それより遅れて学校に避難してきたご近所の住民さんは津波と火災により犠牲者が出ています。門脇小学校を震災遺構とするには大きな葛藤もあったでしょうに。。英断に感謝致します。これが防災意識の糧になりますように。



同じく遺構として残された志津川の防災庁舎は、きれいに整備されて、当時の状況をうかがい知るのは難しくなってしまいましたね。