ぬえの能楽通信blog

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義経への限りないオマージュ…『屋島』(その3)

2023-03-29 01:32:01 | 能楽
シテとツレは漁の仕事から帰った体で釣竿を捨て塩屋に戻ります。

シテ「まづまづ塩屋に帰り休まうずるにて候。

両者は釣竿を捨て、後ろに挿した扇を抜き持って、シテは床几にかかり、ツレはその右後ろに着座します。

この着座位置は能「松風」と同じ演出ですね。二人が海での仕事に従事する漁師であり、場所は塩屋であり、「松風」の影響を考えないわけにはいきません。そのうえシテとツレの登場の仕方。。橋掛りで向き合って謡い出し、囃子のアシライに乗って舞台に入り、さらに舞台で向き合ってサシ・下歌・上歌を謡う様は脇能の前シテの登場と同じ型です。まあ、脇能が「真之一声」で登場するのに対して「屋島」では前シテの登場音楽としてはごく一般的な「一声」であり、橋掛りで謡い出す体裁も脇能の「一セイ」「二ノ句」ではなく「屋島」では「サシ」「一セイ」なのであって、脇能と比べれば略式に作られているのは間違いないのですが。

しかしながらご存じの通り能「松風」は脇能以外では唯一「真之一声」でシテとツレが登場する曲で、アシライに乗って舞台に入り、「松風」はその後二度に渡る地謡の上歌、続いてロンギまで備えて長大な場面が続く点で脇能とも「屋島」とも異なった独特の展開ではありますが、この長大な文章でシテとツレが海辺で従事する仕事とそれに携わる心情を深く掘り下げたそのあとは仕事を終えて塩屋に帰るのであり、その点では「屋島」と趣向は同一でしょう。その塩屋に安住したシテとツレの姿が同一である事を考えると、やはり「松風」と「屋島」には共通した演出があると考えることができると思います。

さらには「松風」と「屋島」は同じ作者。。世阿弥による作品です。「松風」は「五音」「申楽談儀」「三道」の世阿弥自身の記述により古曲「汐汲」が観阿弥・世阿弥父子によって次々に改作された曲とされていますが、ぬえは以前から、確証はないながら「松風」はその文体や印象によって世阿弥によってほとんど全面的に書き直されていると考えていまして、後日ドナルド・キーンさんが「これは世阿弥が作りました」と断定的におっしゃっているのを聞いたこともあります。「屋島」もまた確実な証拠はないものの、各種の文献によって世阿弥作が確実視されている曲です。ふたつの曲が同じ作者の作品であるならば、やはり両者には何らかの関係があるのかもしれません。

もっとも橋掛りに登場したシテとツレなどがアシライで舞台に入る演出はじつは脇能の専売特許ではなくて、四番目や五番目の能である「玄象」「葵上」「当麻」、意外なところでは「第六天」「摂待」でも用いられているので、「屋島」のシテの登場の演出はより複雑な影響関係を考えなければならないかもしれません。

ワキ「塩屋の主の帰りて候。立ち越え宿を借らばやと思ひ候。いかにこれなる塩屋の内へ案内申し候。

塩屋の主人の帰宅を見た僧は一夜の宿を所望します。ツレがそれに応対してシテに判断を仰ぎ、シテは「見苦しい」ことを理由に一度は断りますが、僧の重ねての所望についに彼らを受け入れます。このあたりも「松風」そっくりの演出ですが。。

ツレ「誰にて渡り候ぞ。
ワキ「諸国一見の僧にて候。一夜の宿を御貸し候へ。
ツレ「暫く御待ち候へ。主にその由申し候べし。いかに申し候。諸国一見の僧の。一夜のお宿と仰せ候。
シテ「安き程の御事なれども。あまりに見苦しく候程に。お宿は叶ふまじき由申し候へ。
ツレ「お宿の事を申して候へば。余りに見苦しく候程に。叶ふまじき由仰せ候。
ワキ「いやいや見苦しきは苦しからず候。殊にこれは都方の者にて。この浦初めて一見の事にて候が。日の暮れて候へば。ひらに一夜と重ねて御申し候へ。
ツレ「心得申し候。ただ今の由申して候へば。旅人は都の人にて御入り候が。日の暮れて候へば。ひらに一夜と重ねて仰せ候。
シテ「なに旅人は都の人と申すか。ツレ「さん候。
シテ「げに痛はしき御事かな。さらばお宿を貸し申さん。


この場面も「松風」とほとんど同じ展開ですが、じつはシテが僧を受け入れる理由が「松風」とまったく異なっているのです。

「松風」ではワキの来訪をツレに知らせるツレは「旅人の御入り候が。。」としか伝えないのですが、その後のワキとツレとのやり取りを家の内から漏れ聞いたシテがワキが僧であることを知ると、シテの謝絶を忠実にワキに伝えるツレを制して僧を家に招じ入れるのです。

ところが「屋島」でシテが敏感に反応してワキを招じ入れた理由は、ワキが僧であるかということではなくワキが都人だったからなのです。後に地謡が「旅人の故郷も都と聞けば懐かしや。我等も元はとてやがて涙にむせびけり」と謡うので判明するように、シテは自分が帰ることができない故郷。。都の人と知って、懐かしさにワキを家に入れたのです。

単純な違いのようですが、「松風」ではシテは自分が死後も妄執のために成仏できず苦しんでいて、ワキ僧を招いたのも、僧との邂逅によって自分の救済を期待したからにほかなりません。これが「屋島」ではシテは同じ現世に迷う亡者でありながら、ワキが僧であることに興味を示していませんね。じつはこれは「屋島」の能全体に通じている特色で、シテがワキ僧に対して自分を弔うことを求めない事は演者などからもよく指摘されることなのです。

ぬえは、これまた証拠はないけれども「松風」も「屋島」も、世阿弥の作とすれば比較的若い時代に書かれた脚本だと思っています。「敦盛」はさらに若い頃。。ぬえは世阿弥が10歳代で書いたのではないかなあ、と漠然と考えているのですが、その後「高砂」「屋島」と続いて「松風」がもう少しあと、「砧」の境地はその数十年後のずっと先。。と勝手に考えています。これはシテの人物の人間像の描かれ方の深さについて ぬえが感じるところなのですが、この場面でもシテはワキの(シテ自身に対しての)存在価値を、自分が失った故郷の人として共感し、しかもそれはツレからの報告によって知る「屋島」に対して、ワキの言葉を側聞して、これを自分の救済者と認めた「松風」との間に、考えすぎかも知れませんが作者の人間洞察のための人生経験の時間差を感じています。

ツレ「もとより住み家も芦の屋の。
シテ「たゞ草枕と思し召せ。
ツレ「しかも今宵は照りもせず。
シテ「曇りも果てぬ春の夜の。
シテツレ二人「朧月夜に敷く物もなき海士の苫。
地謡 下歌「屋島に立てる高松の。苔の筵は痛はしや。
地謡 上歌「さて慰みは浦の名の。さて慰みは浦の名の。群れゐる田鶴を御覧ぜよ。などか雲居に帰らざらん。旅人の故郷も。都と聞けば懐かしや。我等も元はとてやがて涙にむせびけり やがて涙にむせびけり。


さてシテがワキ僧を家の中に招き入れて、一同が車座になって和む場面です。シテは下歌「屋島に立てる高松の」と床几から立ち上がり、ワキに向いて着座、ワキもシテに合わせて着座します。このあたり、能「安達原」や「一角仙人」などなど枚挙にいとまがないほど能によく出てくる場面ですが、これまた能舞台の特質をよく生かした演出です。理屈から言えばシテは屋内に居てワキを招き入れたのですから、シテは不動で待ち受け、多少なりとも移動するのはワキのはずなのですが、実際の舞台はその逆。しかしここでシテが立ち上がりワキに向くことで、単純にワキが屋内に入ってきた、という動作ではなく、僧をもてなすシテの気持ちに焦点が当たりますし、なにより役者がほとんど移動しないままで能舞台そのものが一瞬にして塩屋の内外の応対の場面から一同がひと部屋に介する屋内の場面に変わるのです。書き割りや大道具などで具体的に塩屋を視覚化する方法ではこの一瞬の舞台転換は不可能で、観客の想像に多くを任せる能の手法の真骨頂と言えると思います。

ここでもまた能「松風」との対比が際立ちますね。「松風」ではシテは立ち上がらず床几にかけたままワキに向くのみ。ワキはほんの二~三歩シテの方へ歩み寄って着座します。これは、「屋島」と違ってシテが動かない以上ワキが最低限の移動をしないと家の中に入ったことが表現できないからだと思いますが、「松風」でここでシテが立ち上がらないのは他にもいろいろな理由があるからだと思います。「屋島」のシテの庶民の老人であれば今まで床几にかけて一国一城の主のような威厳を見せていたのが、ワキとともに着座することで胸襟を開いて僧をもてなす体になり、一座の和やかな様子が活写される効果が生まれるのに対して、「松風」ではワキと同座しないことで、僧からの救済を期待しながらも、シテの心の中にある孤独が彼女の心をワキに打ち解けるところまで至っていない事が想像されます。またワキと離れて、しかも床几に座ることでシテの姿は着座するワキの位置とは高低差までも生じ、この場面のあとシテとツレが姉妹の悲しい物語を独白する場面でシテの心情の揺れ動きに観客の焦点を集めることができます。

さてシテとワキ一行がまといして語り合うこの場面、シテの心は都を懐かしむ気持ちでいっぱいですね。思えば都は義経にとって生まれ故郷でもあり、鞍馬での天狗との邂逅、五条の橋での弁慶との対決、木曽追討、平家追討の出陣、検非違使の任官。。と思い出の尽きない地。「屋島」で唯一、シテが涙を流すシオリの型をする場面です。

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