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ぬえの能楽通信blog

能楽師ぬえが能の情報を発信するブログです。開設16周年を迎えさせて頂きました!今後ともよろしくお願い申し上げます~

三位一体の舞…『杜若』(その8)

2024-05-29 17:13:36 | 能楽
イロエが終わって大小前にて正面を向いたシテは「クリ」「サシ」の間は動かずに、もっぱら地謡がそのシテのが語る物語を代弁する場面です。

【クリ】シテ「そもそもこの物語はいかなる人の何事によつて。
地謡「思ひの露の信夫山。忍びて通ふ道芝の。始めもなく終りもなし。

【サシ】シテ「昔男初冠して奈良の京。春日の里に知るよしして狩に往にけり。
地謡「仁明天皇の御宇かとよ。いともかしこき勅をうけて。大内山の春霞。立つや弥生の初めつかた。春日の祭の勅使として透額の冠を許さる。
シテ「君の恵みの深き故。
地謡「殿上にての元服の事。当時その例稀なる故に。初冠とは申すとかや。


総じて能では「クリ」でかなり大きな、それこそ神話とか社会、世相といったより大きな世界観のようなものを描き、「サシ」でその世界の中でシテ個人がかかわるべき事情とか前提条件のようなことが語られ、さらにその後に続く「クセ」で、さてシテがどう考えたか、とかどんな行動をした、とか、より個人的な話に繋げる、という手法がよく使われます。

たとえば能「羽衣」でも「クリ」では大空について語られ、中でも和歌で空という語を導く枕詞「久方の」についてイザナギ・イザナミの神話世界にまで言及します。ついで「サシ」ではすこし範囲が狭まって、シテ天女が住むという月世界の「月宮殿」での彼女の役割。。月の満ち欠けを司っている、という魅惑的なお話。。になり、さて「クセ」になってシテ天女は「この三保松原の素晴らしい景色はその月世界にも劣ることがない」と言って舞い出す。。ぬえはこの「羽衣」の「クリ」「サシ」「クセ」の構成を読むと、いつも作者は上手だなあ、と思います。単純にシテが三保松原の景観を愛でて舞うのではなく、その前にこれほど言葉を費やすことによってシテの神性が印象づけられますし、大きな世界観からだんだんシテという一個人にまでクローズアップし、そのシテに焦点が当たった瞬間にシテがようやく舞い出すことによって、それまで高められた観客の期待感がシテに集中されることを助ける。そしてこのクセの中ではやがて空からは花が降り下りくだる奇跡が語られ、それを見たシテが勢至菩薩に静かに合掌して、やがて静かに序之舞を舞い始める。。

「杜若」のクリは「羽衣」ほど壮大な物語ではないけれども、やはり「伊勢物語」全体を語るところから始まります。ここに出てくる「信夫山」は福島市にある低山ですが、むしろその音の響きが「恋」を連想させることから古来歌枕として盛んに和歌に取り込まれてきました。ここでも「伊勢物語」が多くの恋の物語が雑然と並べられ、誰が何の目的で書いたのかも、始めも終わりもわからないような謎多き書物、と言います。が、もちろんこれはその後のサシ~クセで、そういった一般的な「伊勢物語」理解が正しくないことが語られる伏線ですね。

サシの冒頭「昔男初冠して奈良の京。。」は言わずと知れた「伊勢物語」の第1段の書き出しです。業平が元服してはじめて冠をかぶったお話なのですが、ご存じの通りこの第1段では狩に行った旧都・奈良でさっそく「いとなまめきたる女はらから(=姉妹)」を見染めて歌を贈りました、というお話。

ところが「杜若」ではその「女はらから」に話題が及ぶことはなく、初冠の経緯が語られます。もちろん「杜若」では業平の恋の相手として藤原高子に焦点を当てているため、他の女性を登場させることによって物語が混乱するのを避けたのでしょう。

さらに特筆すべきはこの「仁明天皇の御宇かとよ。いともかしこき勅をうけて。大内山の春霞。立つや弥生の初めつかた。春日の祭の勅使として透額の冠を許さる。君の恵みの深き故。殿上にての元服の事。当時その例稀なる故に。初冠とは申すとかや。」というサシの後半の文章が「伊勢物語」には見えない、という点です。

じつはこの部分は、前述の「伊勢物語」の注釈書に描かれるお話なのです。このことからも能「杜若」が「伊勢物語」そのものを戯曲化した能ではなく、中世の人々の視点によって書かれた能だということがわかります。

少々長いですが注釈書の当該の部分をご紹介すると。。

「業平は十一より東寺の真雅僧正の弟子にて有けるを十六の年承和十四年三月二日に仁明天皇の内裏にて元服する也。わらは名曼荼羅也。秘事也。此時業平は五位無官にて唯左近太夫といふ也。奈良の京春日の里に知よししてかりにゐにけりとは承和十四年二月三日の祭の勅使に行也。此使は必五位の検非違使の見目よく代にきら有人のする也。其頃此可然人なかりければ、俄に二日業平元服をさせて、三日勅使に立つる也。是は親王の子にてましませば、五位検非違使使すべきにあらね共、容顔に付てかりにし給ふ職なるがゆへに、知よししてかりにゐにけりといふ也。」(伊勢物語抄より要約)

ここに書かれた初冠の由緒が史実かどうかは調べられませんでしたが、先に挙げたような「伊勢物語」を仏説と結び付けた注釈書もあるのですが、案外このように時代考証や人物の系譜などの知識を読者に与えて、理解の便宜の目的で作られた注釈書も多く存在します。「伊勢物語」の注釈書はおびただしい種類があり、同じ系統でも異本がこれまた数多くあるので、大体このようなことが書かれている、とご紹介程度にお考え頂ければと思います。

これによれば「杜若」に「弥生の初めつ方」とあるのと季節は若干の違いはありますが、見目よい五位検非違使から選ばれる春日祭の勅使に適当な人物がいなかったので、美しかった業平に検非違使の白羽の矢が立ち、急遽元服させて勅使とした、とのこと。「殿上にての元服の事。当時その例稀」という文言は見えませんが、天皇の目前で元服した、というのではなくて内裏で勅使の使命を与えられてそのまま元服の儀式に臨んだ、というような意味でしょう。
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三位一体の舞…『杜若』(その7)

2024-05-27 03:21:07 | 能楽
その曲舞の上演の形式というものの正格とされるのが
・「次第」「一セイ」「イロエ」「クリ」「サシ」「クセ」をすべて備えていること。
・「クセ」は「二段グセ」であること。
・「次第」の文句と「クセ」の終わりの文句が一致していること。

。。なのだそうですが、意外や能の中にこれらすべてを備えている曲は少なく、この「杜若」のほかは「百万」と「源氏供養」のわずか合計3曲のみで、このうち「源氏供養」は「次第」と「クセ」の終わりの文句が一致していませんから、厳密に正格を備えるのは「杜若」と「百万」のただ2曲だけ、ということになります。これに準ずるものとしては「山姥」「歌占」が「一セイ」と「イロエ」を欠いた形、「千手」が「次第」を欠いた形、「花筐」は「次第」「クリ」を欠いた形です。

とはいえこれらの曲の中で「杜若」と「百万」が特に難易度が高かったり重く扱われている曲というわけではなく、作者が厳密に曲舞の様式を取り込んだのには何らかの意図があるのは確かでしょうが、このことだけを取り上げて能の上演曲の中での位置づけを考えるのはあまり意味がないかもしれません。むしろ脚本を構成するうえで別の芸能である曲舞の様式を厳密に取り入れることには意味はないばかりか場合によっては劇の進行を阻害する恐れさえあるわけで、そのエッセンスだけを場面の進行に応じて適宜に取り入れ、不要な部分をカットする方が能の作者としては洗練されているという考え方もあると思います。

さて「杜若」の次第~「一セイ」ですが、ぬえはちょっとこの文句に注目しています。

地謡「遥々来ぬる唐衣。/\。着つゝや舞を奏づらん。
シテ「別れ来し。跡の恨みの唐衣。
地謡「袖を都に。返さばや。 【イロエ】


「遥々来ぬる唐衣」は「伊勢物語」の和歌をあらためて取り上げながら、同時に「本地寂光の都」から衆生を救済するためにやって来た業平菩薩のことを言っているのでしょうし、「着つゝや舞を奏づらん」も「来つゝ」と掛詞になっているので「歌舞の菩薩」が本来の職掌として舞を舞う。。それがそのまま衆生済度の意味を持つのだ、と解して良いと思います。

「跡の恨み」という文言に少し引っ掛かりますが、旅によって恋人と離れたことを恨む。。まあ、旅に出たことを後悔する、というか恋人と離れたこの境遇を悲しむ、という程度の意味と解釈すれば、「袖を都に返さばや」も今これより舞う舞で袖を翻すのも自分の心を恋人のもとに届けたいという思いを込めているのだ、という意思でもあり、それは遠い昔の事なので美しい恋人との時代に時を戻したい、という希求とも考えられると思います。

がしかし、すでに「杜若」ではシテは業平の恋は菩薩としての衆生救済のための行動なのだ、と言ったのであり、それに従えばここに普通の意味の恋愛感情を当て嵌めてはいけないはず。。

じつは今回 ぬえが「杜若」の本文を精読するにあたって、一番心に引っ掛かったのがこの「袖を都に返さばや」なのです。結論としてはうまく落着はしましたけれども。(^▽^)/

まず ぬえが気づいたのは、これは業平の立場に立って言っていることだということです。

シテはすでに「まことは我は杜若の精なり」と言っていますが、三河の八橋に自生した杜若の花の精が都に懐旧の念を持つはずがない。これは先に考察した通り、杜若の精は業平の恋人などではなく、たまたま、この花を通して遠く離れた都の恋人。。高子を思った業平の歌のモチーフになったに過ぎないのです。

とすれば、「袖を都に返すさばや」という言葉は、シテがはっきりと「まことは我は杜若の精なり」と言っているにも関わらず、杜若の言葉とは思えず、これは業平の言葉と解するのが合理的であろう、と ぬえには思われるのです。

こう考えてきて ぬえはようやく、シテの言葉をそのまま受け取るのではなく、もう少し掘り下げてこれらの言葉を聞くべきだ、と考え至りました。

結論を先に言えば、ぬえはこのシテは杜若の精であると同時に、業平、すなわち歌舞の菩薩でもあり、さらには高子でもある。。いわば三位一体の存在なのではないか、と考えています。そう考えれば、杜若の精がなぜ業平の冠を持ち、高子の唐衣を着ているのかが納得されると思います。

このシテは自分が身に着けている冠や唐衣を「形見」と言っているけれども、ほかの曲「井筒」や「松風」、「富士太鼓」「梅枝」が「形見」を身に着けて亡き恋人や夫と一体になろうとするのとは根本的に違うのでは、と ぬえは考えています。言うなれば「杜若」のシテの扮装は、意味の上では「井筒」「松風」よりもむしろ「春日龍神」とか「胡蝶」「小鍛冶」に近いのではないか?

能役者も人間である以上、「春日龍神」の龍や「胡蝶」の蝶、「小鍛冶」の狐に扮するのは無理があります。着ぐるみを着たら動作ができないし。そこで能では「立物」と言い慣わしますが、頭上に冠をかぶって、その上に龍や蝶、狐のミニチュアを頂いて「私はこういう姿なんです」と意思表示をするのです。「杜若」の場合はその手法をさらに発展させて、冠が業平、長絹が高子、そしてそれを着ている女性が杜若の精なのであって、一人の人物に同時に三人の人格が共存している、というのが ぬえの解釈です。

「杜若」のシテは花の精の姿を借りながら本質は業平=菩薩なのであって、その菩薩は衆生を極楽に転生させることを目的に仮に業平という人間に姿を変えて現世に現れ、女性を救済したのです(いや「伊勢物語」には友情譚もありますので女性だけを救済したとは言い切れない)が、それらも遠い昔の話。高子も杜若もとうにこの世を去っているのであり、しかしながら業平と契り、または和歌に詠まれたことをきっかけに両者とも極楽浄土に転生することができたのならば、いまは業平菩薩の脇侍のような存在となって菩薩の衆生救済の協力者のような存在となって、一心同体の姿となっているのだと ぬえは考えています。

そしてその主たる人格は杜若の精ではなくて、業平。。すなわち菩薩であろうし、そう考えれば以下の「クリ」「サシ」「クセ」で言われる文言が主に業平の立場で語られていることについても納得することができるのではないかと考えています。                     (続く)
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三位一体の舞…『杜若』(その6)

2024-05-22 07:13:40 | 能楽
季節もちょうど合い、今日は催しの打合せを兼ねて茨城県潮来市の「あやめ園」に行ってきました。
今更ながら「あやめ」は現代では「アヤメ」「杜若」「花菖蒲」の類の総称で、見分け方は「花菖蒲」が花弁の付け根のところに「黄色い線」が入っているもの、「杜若」は同じところに「白い線」があり、「アヤメ」は「綾目」で網目状の模様があるものです。ここにあるのはすべて「花菖蒲」ですね。



咲きぶりは ちらほら、と言ったところ。ということは ぬえが「杜若」を舞う頃にはちょうど満開になっているでしょう。まだ時期は早かったけれどもワキ僧が「あら美しの杜若やな」とため息を漏らした気分をなんとなく思い浮かべてみました。





おっと、思いがけず「伊豆の国市」の文字が目に飛び込んできました。全国的に「あやめサミット」なるものがあるのですね。なるほど伊豆の国市は頼政の北の方の「あやめ御前」の出身地といわれ、「あやめ祭」も開かれているから、友好都市のような感じでお互いの街のあやめの株を交換したのでしょう。まだ開花は先のようでしたがこれらが咲き揃ったら圧巻でしょうね!

さて能「杜若」についてですが、ところで業平が「舞う」ということについて能の中で少々混乱があるようなのでひと言添えておきます。

「杜若」の詞章の中でも

シテ「またこの冠は業平の。豊の明の五節の舞の冠なれば。

とあり、また別に

シテ「仏事をなすや業平の。昔男の舞の姿。
ワキ「これぞ即ち歌舞の菩薩の。
シテ「仮に衆生と業平の。
ワキ「本地寂光の都を出でて。
シテ「普く済度。ワキ「利生の。シテ「道に。
地謡「遥々来ぬる唐衣。/\。着つゝや舞を奏づらん。


とあるので、これを読む限り「豊の明の五節の舞」を業平が舞い、今また杜若の精であるシテが業平の舞姿を再現する、というように読めるのですが、これには誤解があります。

「豊の明」(=とよのあかり)はそれ自体「宴会」を指す語で、宮中では古くから新嘗祭や大嘗祭のあとに行われる宴会を意味しました。能「卒都婆小町」に「豊の明の節会」と見えるように宴会とはいっても新嘗祭のあとの直会としての儀式で、能「梅」に「初春の。七日の豊の明には。舞の台の飾らひに。梅と柳を立てらるゝ」その作法が語られています。豊の明の節会には能「国栖」に描かれる国栖舞などが奉納されるわけですが、その中で奉納される五節の舞については能「関寺小町」に「むかし豊の明の五節の【舞姫】の袖をこそ五度返しゝが。」とあります。

天武天皇の御宇に吉野に天女が天下り、五度袖を翻して舞ったのが起源といわれ、能「吉野天人」はこのことを下敷きにしていますし、五節の舞姫の舞を詠んだ僧正遍照の歌「天つかぜ 雲の通ひ路 吹きとぢよ をとめの姿 しばしとどめむ」は百人一首に採られ、能「吉野天人」や「羽衣」の詞章にも取り入れられています。

このように豊の明の節会で舞われた五節の舞は舞姫、つまり女性が舞う舞であって、業平がそれを舞ったというのは誤解なのです。その後豊の明の節会そのものが廃絶してしまい、近代(大正時代)に「大饗の儀」として再興されてから後も五節の舞は日本の雅楽の中で唯一女性が舞う舞とされています。

なので業平が豊の明の節会で五節の舞を舞ったのではなく、その舞を見たときに業平がかぶっていた冠、というのが正しいでしょう。実際に藤原高子は貞観元年(859)、17歳のときに後にその中宮となる清和天皇が9歳で即位した際の大嘗祭で五節の舞姫を勤めており、おそらく能「杜若」でシテが着る業平の形見の冠、というのはこの大嘗祭に参列していた業平が高子を見染めた、そのときにかぶっていた冠、という感じなのでしょう。

地謡「遥々来ぬる唐衣。/\。着つゝや舞を奏づらん。
シテ「別れ来し。跡の恨みの唐衣。
地謡「袖を都に。返さばや。 【イロエ】


「遥々来ぬる唐衣。。」は「次第」という定型の章段で、しばしばワキや前シテの登場の冒頭で謡われますが、ときに能の中盤で地謡が謡うことがあり、「羽衣」などに類例があり「地次第」と呼ばれます。直後に地謡が同じ文句を低吟する「地取り」があるのが特長で、地謡が次第を謡う場合も続けて「地取り」を謡います。

ついで「別れ来し。。」は「一セイ」と呼ばれる拍子に合わずきらびやかな高音で謡う短い章段で、これに引き続いて「イロエ」というこれまた短い舞。。とは呼べないような所作があります。「イロエ」は「彩色」で、舞台の彩り、という程度の意味。大小鼓が地と呼ばれる定型の譜を打ち続け、笛が拍子に合わない譜を吹いて彩りを添える中、シテは静かに舞台を1周する程度。しかしながら「彩色」と呼ぶにふさわしいもので、とても神秘的な雰囲気が漂い、いかにも能らしい舞(?)と思います。

ところでこの「次第」「一セイ」「イロエ」というそれぞれ特長を持った短い章段の謡と短い舞の連続は、どうやら能ではない先行芸能「曲舞」の楽式をそのまま能に取り込んだものだと言われています。これにさらに「クリ」「サシ」「クセ」と謡による章段が続き、さらに「クセ」は「二段グセ」と呼ばれる長大なものであり、最初の「次第」の文句とクセの終わりの文句が一致しているのが正当な「曲舞」の楽式なのだとか。

能「山姥」に「百万山姥」という曲舞を舞うことを職業とする女性がツレとして登場しますが、彼女が舞う曲舞についてシテの山姥の化身である前シテが「まづこの歌の次第とやらんに。。」と言うのが、今は失われた曲舞の楽式が具体的に語られる例として注目されます。どうやら曲舞という芸能は、まず「次第」という短いながらもこれから演じる物語のテーマを暗示するような文言が観客に提示され、それから「一セイ」「イロエ」「クリ」「サシ」とそれぞれ特長を変えた短い謡や所作が次々に謡われながら物語の内容に迫ってゆき、最後に据えられた長大な「クセ」を舞うのが最大の見どころとなり、その終わりに再び「次第」の文句を唱えて終了する、というものだったらしく、能のように複数の役者が登場してその二者の間で事件が起こる演劇的なもの、と言うよりは、おそらく観客がすでに知っている事件なり人物に焦点を当てる、いわゆる一人芝居のようなものだったのではないか、と ぬえは想像しています。
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三位一体の舞…『杜若』(その5)

2024-05-20 00:28:14 | 能楽
「玉雲集」によればかつての恋人がじつは人間ではなく杜若の精だった、ということになるわけですが、ぬえは杜若が恋の仲立ちとなったのをきっかけにかつての恋人と同調していった姿とも考えられるのではないかと思います。能「杜若」で「女【が】杜若になる」ということも、ぬえは杜若は杜若であると同時に、業平に歌に詠まれた恋の相手、すなわち藤原高子でもある、と捉えています。

このような奇跡のようなお話は「業平は極楽の歌舞の菩薩の化現」というシテの言葉によって補強されます。仏の神通力によって人間の姿に変わり、高子とも同化する、というのは現代人の目からするとご都合主義のようにも思えますが、それだけではなくて能「杜若」に描かれるシテの姿は業平すなわち菩薩の力によって人間も草花も悉皆成仏を達成する、という高度な世界を描く、というのが作者の目的なのではないかと考えています。

ともあれ現代人の感覚とすれば「業平は極楽の歌舞の菩薩の化現」というシテの言葉が投げかけられた瞬間に、自分たちとまったく違う業平像や「伊勢物語」の理解に戸惑ってしまうのは仕方のないところですね。この齟齬をどうやって現代の観客に見せるのかが現代の舞台に立つ役者として求められるところでしょう。

ところでこの機会に、中世の人々が「伊勢物語」を読んでいたのか、注釈書に書かれた記事のいくつかをご紹介しましょう。

業平が「歌舞の菩薩」であるという点についてはこんな感じ。

「そもそもこの物語を大事して書き集めたる事は何の詮ずる所ぞといへば、この人は極楽世界の歌舞の菩薩馬頭観音なり。今の世の中の衆生の有様をご覧ずるに、いざなぎいざなみの尊天の浮橋の下にて女神となり給ひしより以来、生きとし生ける者いづれか男女の中らひを離れたる。しかあれば人の心花になり紅葉になりて、色にふけり匂ひに愛づといへども、道の広く分かれ遠く隔たれる程を知らざる事を悲しみて、たはれをと現れてまづ我が心を和らげて、人の心を慰むる術を以って得脱の縁を結ばしめんとて(略)その心を慰むること三千七百三十三人なり」

三千。。恋人の数ですか。そうですか。はあ。
「3733」という数には仏教的に何らかの意味があるのでしょうが今回は未調査。しかし昔も今もプレイボーイの代名詞と思われていた業平は、じつは「得脱の縁を結ばしめん」ために女性と契ったのだ、というのが当時の理解でした。もちろんすべての人の理解ではないでしょうが、「伊勢物語」を読むことができる身分階級がそもそも限られているわけですから、その中で実際に「伊勢物語」に関心を寄せる いわゆる知識階級は同時にこのような注釈書にも興味を広げた可能性は高いでしょう。

さらには和歌が「五・七・五・七・七」の五句・三十一文字であることについてこんな記述も。

「この歌を言ふに、三十一字と定めたるは如来の三十二相に象れり。如来三十二相と言へども顕れては三十一相なり。無間頂相はさらに現れず。故に顕れたる相好になぞらへて三十一字とするなるべし。」「次に歌に五句あり。(略)これ即ち地・水・火・風・空の五輪なり」

これまた現代人から見れば荒唐無稽なこじつけに見えますが、鎌倉時代~室町時代頃までの日本人にとっては「末法思想」が死生観に相当深刻な影響を与えていて、衆生を救済するという仏の教えにこれほどまでに人々が拠り所を求めたというひとつの形でありましょう。

かくして能「杜若」もこのような末法思想の下に読まれた「伊勢物語」やその注釈書に基づいて作られているわけで、そこを無視してこの能を理解することはできません。

しかしながら現代の観客としてこの「杜若」を鑑賞するためにそんな知識が必要なのかといえば、それはまったく不必要。舞台鑑賞と「杜若」という曲の理解や作者の意図を知るのはまったく別の問題でありましょう。むろん演者としてはシテを舞う以上、曲を理解しておく責任があるのだけれども、舞台で演じるのはそうした作者の意向そのものではありません。むしろこうした現代人の感覚からやや距離が隔たってしまった作品を、どうやって現代のお客さまに楽しんでご覧頂けるかを ぬえも考えながら稽古を進めております。

従ってこのブログは演者として自分が能「杜若」を理解するために謡本を読み進めている経過を記しているわけで、決して観客に「このように舞台を見てください」と言っているわけではありません。役者は舞台のみで成果を示すものなので、観客に言葉で説明を加えてはならない。このブログはこれから上演に向かう自分の備忘録のように書いていますので、もしお客さまがこのブログをお読みになって能の鑑賞に先入観を与えてしまうのを恐れます。。

さて気を取り直して。。

さらに脱線を続けてしまいますが、末法思想というのは本当に日本人の死生観を大きく変えてしまったものだと思います。釈迦は生没年さえ不明で入滅の年も紀元前3世紀から紀元前10世紀までかなり幅広い説があるのですが、日本ではその教えが廃れて世の中が乱れるとされる「末法」の時代は永承7年(1052)と具体的に信じられていて、大河ドラマに出演中の藤原道長の長男・頼通が宇治の平等院に鳳凰堂を建立したのもこの年を目指していました(完成は1年遅れた)。偶然にも平安時代末期は武士が台頭し社寺は僧兵が武装して強訴をしたり、といった世情不安の時代と重なりました。そしてとどめはその100年後に起こった源平の争乱と、それに続いて政治が貴族の手から武家に変わったこと。。まさに激動の時代だったのです。末法の世が本当に到来したのだと当時の人々は驚愕したことでしょう。人々はこぞって来世での仏の救済を志望し、それに応えて浄土宗の法然や真宗の親鸞、法華宗の日蓮、臨済宗の栄西、曹洞宗の道元など、現在にまで繋がる鎌倉仏教の諸宗が生まれたのもこういう時代背景があります。本来曹洞宗であるはずの観阿弥・世阿弥が時宗の同朋衆となって「阿弥陀号」を名乗ったのも、遠因としてはこの末法思想の影響と ぬえは考えています。

まだまだ書きたいことはあるのですが脱線はこおで止めてようやく「杜若」に戻って。

ワキ「これは不思議の御事かな。正しき非情の草木に。言葉を交はす法の声。
シテ「仏事をなすや業平の。昔男の舞の姿。
ワキ「これぞ即ち歌舞の菩薩の。
シテ「仮に衆生と業平の。
ワキ「本地寂光の都を出でて。
シテ「普く済度。ワキ「利生の。シテ「道に。
地謡「遥々来ぬる唐衣。/\。着つゝや舞を奏づらん。


ワキは草花の精と言葉を交わす奇跡を喜び、シテもそれを業平、すなわち菩薩のお力なのだと語ります。「本地」は化身ではない仏本来の姿、「寂光の都」は寂光浄土で仏が住む清浄な世界。菩薩はそこから腰を上げて衆生を救済するために業平の姿となって遥々と現世にやってきた、というわけです。
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三位一体の舞…『杜若』(その4)

2024-05-18 03:20:42 | 能楽
シテ「また業平は極楽の。歌舞の菩薩の化現なれば。詠みおく和歌の言の葉までも。皆法身説法の妙文なれば。草木までも露の恵みの。仏果の縁を弔ふなり。

まさに現代人から見れば荒唐無稽な文言なわけですが、これはじつは「伊勢物語」そのものではなく、その”注釈書”の中に現れる説なのです。こういった注釈書の説が当時どこまで人々に浸透していたかはわかりませんが、能「杜若」はこの注釈書を下敷きに書かれた作品であり、それは一定数の観客に受け入れられることが前提で書かれたものでしょう。能「杜若」がどういった観客層を想定して書かれたのはまた議論されるべきだとは思いますが、作者の目標となった観客には理解されるという自信が作者の中にあったのは間違いないところだと思います。

「歌舞の菩薩」とは「極楽浄土で天楽を奏し、歌舞して、如来および往生をとげた人々を讃嘆するといわれる菩薩」というもので、能には使用例が多く、シテに直接かかわるものとしてもこの「杜若」のほか「胡蝶」「誓願寺」「当麻」「東北」「遊行柳」などに現れ、直接シテのキャラクターには無関係なものの言及された例として「土車」「東岸居士」が挙げられます。ところがこの言葉は仏典には現れない用語で、むしろ日本で独自に発明されたようです。

しかも能以前の古典文学にも用例がなく、一方「伊勢物語」の古い注釈書には業平のことを「この人は極楽世界の歌舞の菩薩、馬頭観音なり」などという例があります。注釈書が「歌舞の菩薩」の初出なのかは調べられませんでしたが、少なくとも文学としての作品にこの語を導入したのは謡曲が最初であるようです。

さてその業平=歌舞の菩薩という理解のもとに能「杜若」は作られているのですが、前掲の文の直前のシテの言葉も難解ですね。

シテ「植ゑおきし昔の宿の杜若と。詠みしも女の杜若になりし謂れの言葉なり。

「女の杜若」? メス。。? あ、植物だからメシベ? それに誰が女の杜若に変身したの? とかいろいろ思っちゃいそうですが、現代語に訳すれば「女【が】杜若になったというのは(奇跡だと驚かれると思いますが)、この歌にもちゃんとその謂れが語られているんですよ」という感じか。

この「植ゑおきし昔の宿の杜若 色ばかりこそ昔なりけれ」の歌は能「杜若」では序之舞のあとに全文があらわれます。ということはこれも「伊勢物語」所収の業平の歌か? と早合点しそうですが、じつはこれはまったく別人の歌で、「後撰集」に採られた良岑義方の歌「いひそめし昔の宿の杜若 色ばかりこそ形見なりかれ」を改変した歌です(改変の理由はナゾ)。歌意は「あなたと初めて契った家も、いまはあなたはいない。咲く杜若の色だけがあなたの形見と思われる」ということで、他の男のものとなったかつての恋人に杜若の花を添えて贈った歌です。

これだけなら男女の仲を取り持つ装置として杜若が機能した、というだけで「女【が】杜若になりし謂れの言葉」の証拠にはなり得ないように思いますが、じつはこれは後日談がありまして。

かつての恋人にこの歌を遣わしたあと、この男の夢に女が現れて返歌をしました。「この杜若の色を見なければ、遠い昔のあの昔を思い出さなかったものを。。」(大意)そしてそのあとに「これは杜若の精の歌だ」と(編者によって)解説が添えられているのです。さらには「これより以後、女を杜若と言うようになった」とまで記されています。

正確にはこれは後日談ではなくて、「後撰集」の同じ歌が採られた別の本、「玉雲集」に描かれたお話なのです。なんとなく納得できそうな説ですが、そうではない。この歌が人間が杜若に変化する証拠にはなりません。これについて江戸時代の謡曲の注釈書である「謡曲拾葉抄」には「これ(「玉雲集」)は夢の中で和歌に添えられた杜若の精が女の姿になって返歌をしたのであって、能では杜若の精が詠んだように書かれているのは誤り」(大意)と書かれていますが、ぬえには違和感があって、ぬえは「玉雲集」に近い立場です。もっとも「玉雲集」の成立が能「杜若」の上演初出記録よりも少しだけ遅れているので作者に影響関係があったかは微妙ですが。。

みんなが疑問を抱くこの歌ですが問題は多すぎる。そこで ぬえは思うのですが、要するに能「杜若」の作者が言いたいのは、「後撰集」の歌のような恋の心を詠んだ歌に仲介者として介在した草花も、その歌を贈り贈られた男女の仲立ちの存在となって同化していく、という程度の意味で良いのではないかと思います。。

「女【が】杜若になる」というのも、能「江口」などで「受け難き人身を受け」という文法から考えれば劣化した転生になってしまうのですが、そうではなくて美しい恋の心が昇華して、男女の仲立ちの存在となる、という程度の意味で良いのではないかと思います。

それは ぬえが思っているこのシテの正体。。本人がはっきりそう名乗っていても、じつはこのシテは杜若の精、というだけではなくそれ以上の存在だ、と ぬえは考えているのです。それはこのブログで追々表明させて頂くことと致します。
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三位一体の舞…『杜若』(その3)

2024-05-16 02:18:43 | 能楽
地謡「在原の。跡な隔てそ杜若。跡な隔てそ杜若。沢辺の水の浅からず。契りし人も八橋の蜘蛛手に物ぞ思はるゝ。今とても旅人に。昔を語る今日の暮やがて馴れぬる。心かなやがて馴れぬる心かな。

地謡の初同上歌のシテの所作は定型で、「沢辺の水の」と右ウケしてから正面に出てヒラキ。唐織の着流しの姿なので動作はごく控え目です。「今とても旅人に」とワキへ向き、それから左に小さく廻りシテ柱にて正面へヒラキ。少々型が忙しく雰囲気が壊れそうなので ぬえはこのヒラキはしないつもり。上歌のトメにすぐワキへの言葉がありますので地謡の終わりにワキに向きます。

シテ「いかに申すべき事の候。
ワキ「何事にて候ぞ。
シテ「見苦しく候へども。わらはが庵にて一夜を御明し候へ。
ワキ「心得申し候。


能「江口」では世捨て人である西行に遊女が宿を貸さなかったことから人の六根が作る罪のために輪廻に迷うところにまで話が及び、遊女がじつは普賢菩薩であった、と逆転的な昇華を遂げるという、哲学的で壮大な物語に展開するのに比べて、「杜若」では あっさりと若い女性が僧を宿に誘い、僧も屈託なく承知しますね。なんだか違和感が残る問答なのではありますが、シテが人間の女性ではなく草木の精だから宿を貸すこともあまり問題にならないのかもしれません。

ここでシテは後見座にクツロギ「物着」となります。唐織を脱ぎ(ヌードにしないように、先に長絹を羽織らせてその下から唐織を引き抜きます)、長絹を羽織り、初冠を着けるという手順で、普通ならばそれほど難易度は高くありませんが、小書「恋之舞」になるとさらに初冠に「日陰之糸」を着け眞之太刀を刷くので大変になります。いずれにせよ物着のあとは長絹の下に縫箔を腰巻に着るので、これは最初から唐織の下に着込んでいます。なお「物着」の間、大小鼓と笛がアシライを打って(吹いて)くださいますが、これはシテが女性の役の場合に限ります。男性の役の「物着」ではアシライがないので無音で着替えをするわけで、後見にとってはお客さまの注目を浴びやすい分だけやりにくいかも。

物着が出来上がってシテは立ち上がり再びシテ柱先まで出ると大小鼓は「ヲキ」を打ってアシライを止め、その間にシテはワキに向いて「ヲキ」を聞いて謡い出します。

シテ「なうなうこの冠唐衣御覧候へ。

二度目の「なうなう」。これが二度あるのは珍しいですが「杜若」に限ったことでもありません。もちろん二度の「なうなう」はおのずと意味合いやシテのキャラクターが異なることになり、「杜若」では豪華な衣裳を誇るように光り輝くように謡うのが似つかわしいですね。シテは謡いながら衣裳をワキに見せるように両袖をあしらう「ヨセイ」という型をします。

ワキ「不思議やな賎しき賎の臥処より。色も輝く衣を着。透額の冠を着し。これを見よと承るは。何と言ひたる事やらん。
シテ「これこそこの歌に詠まれたる唐衣。高子の后の御衣にて候へ。またこの冠は業平の。豊の明の五節の舞の冠なれば。形見の冠唐衣。身に添へ持ちて候なり。


当然のごときワキ僧の疑問に対してシテの答えは二条の后と呼ばれた藤原高子(本来の読みは たかいこ)の衣裳であり、業平の冠であり、それぞれを形見として持っているのだ、と答えます。怪しい。

能「杜若」はこの物着まではごく自然な展開で、むしろ大きな事件や伏線もなく素直な能だと言えると思いますが、物着のあとは現代人からすると『伊勢物語』の理解が根本から覆されるような不思議な世界が次から次へと展開されて目が回りそう。

まずはこの「形見の冠唐衣」に続くシテの主張を読んでみましょう。

ワキ「冠唐衣はまづまづ措きぬ。さてさて御身は如何なる人ぞ。
シテ「まことは我は杜若の精なり。植ゑおきし昔の宿の杜若と。詠みしも女の杜若になりし謂れの言葉なり。また業平は極楽の。歌舞の菩薩の化現なれば。詠みおく和歌の言の葉までも。皆法身説法の妙文なれば。草木までも露の恵みの。仏果の縁を弔ふなり。


シテは自分のことを「杜若の精」とはっきり名乗っています。それは当然『伊勢物語』の9段の「唐衣着つゝ馴れにし」の歌に詠まれた杜若であり、その花が今人間の姿を借りて現れたのは、業平その人かあるいは彼が詠んだこの歌との関係が原因なのだろうと推測はできますね。

ところが ぬえにとって疑問なのは、その業平と杜若の関係はいわば一期一会の出会いのはずであって、とても彼から「形見」として冠をもらうほどの深い関係。。恋人のようなものではないはずだ、ということです。

考えてみればこの「杜若」のシテの扮装は、能「井筒」とまったく同じ出で立ちで、それは能の愛好者としては見慣れている姿でありながら、じつは女性の役でありながら男性の衣裳を着ている、というかなり異形の扮装です。しかし「井筒」のシテは業平の妻(とされている)紀有常の娘であり、彼女が「夫」の形見を持っているのは当然であり、彼女が男の扮装をするのもまた、愛する男との生活を懐かしんで、男の形見を身に着けることで一体化しようとした、と理解することが十分に可能です。

これは類例の「松風」「富士太鼓」「梅枝」でもまったく同じで、これらの能で女性のシテが男装をするのは、すべて失った恋人や夫が残した形見なのであり、それを身に着けるのはその愛する人と一体になりたい、という強い思慕のために他なりません。

これに対して「杜若」のシテと冠の持ち主である業平との関係は、たまたまある日に業平が詠んだ和歌のモチーフとなったに過ぎず、彼女は業平の恋人ではありません。そもそも人間でさえないのだから。

その上「井筒」ほかの上掲の能と「杜若」と決定的に違う点は、冠は業平の形見でありながら衣裳はまったく別の人間。。二条の后と呼ばれた藤原高子のそれなのであり、それは業平の恋人とされ、「唐衣」の歌で彼が思慕した相手のものだ、と言うのです。杜若の精であるシテにとって高子は面識さえないはずであり、唯一の接点は「唐衣」の歌で杜若がモチーフになり、その歌が高子を思って詠まれた、という一点だけなのです。杜若の精が遠く離れた都に住んでいた高子の衣裳を「形見」として賜る理由はありません。

これら、「杜若」のシテの性格およびその扮装には大いに疑問が生じますが、その疑問を解消するために、次にシテが語る業平の「本性」について注目する必要がありそうです。         (続く)
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三位一体の舞…『杜若』(その2)

2024-05-13 22:09:49 | 能楽
シテ「なうなう御僧。何しにその沢には休らひ給ひ候ぞ。

「呼び掛け」というシテの登場の場面は、長い橋掛りを備えた能舞台の特色を最大限に利用した素晴らしい演出ですね。そしてこの独特の登場はシテが幽霊や神など人間ではない役のときに最大の効果を生みます。幕内から呼び掛けるシテの姿はまだ観客からは見えておらず、シテの役者はワキに呼び掛ける謡だけで観客の想像力を掻き立てられなければなりません。神秘的に謡えれば観客にやがて現れるシテの姿に期待を持って頂くことができます。

ワキ「さん候これなる沢の杜若に。眺め入りて休らひ候。さてこゝをばいづくと申し候ぞ。
シテ「これこそ三河の国八橋とて。杜若の名所にて候へ。さすがにこの杜若は。名におふ花の名所なれば。色も一しほ濃紫のなべての花のゆかりとも。思ひなぞらへ給はずして。取りわき眺め給へかし。あら心なの旅人やな。


実際に幕内のシテとワキの距離は20mほどもあるのではないでしょうか。遠く呼びかけたシテはワキと会話を交わしながら橋掛りを歩み、だんだんとワキに近づいてきます。その間ずっとシテは観客に横顔しか見せないわけで、よりシテの神秘性を増します。一歩間違えればホラーですが(笑)。「杜若」の場合は後にシテが花の精だとわかるわけですから、可憐な感じで謡えれば良いですかね。なお橋掛りを歩むシテは重要な言葉を言うときや独白がある場合にはいったん立ち止まって正面に向きます。ここで観客ははじめてシテの面。。すなわち顔を見ることになり、文言の内容やシテのキャラクターを印象づける場面となります。

「なべての花のゆかりとも。思ひなぞらへ給はずして。取りわき眺め給へかし」のあたりは意味が通じにくいかもしれません。「この名所の杜若はその花の紫色も一層深く、すべての花のゆかりともお思いにならないのですね。特別な花と思ってご覧頂きたいのに。なんて心無い旅人でしょう」

杜若の花の色の紫は(他にもまれに白があるそうですが)、古来高貴な色で「枕草子」で絶賛されていますね。あるいは紫雲のように神秘的な色とされてきましたが、古来は「紫」という字をそのまま「ゆかり」と読むこともありました。いずれにせよ「縁」に結び付けられる色といえるのですが、能「杜若」のこの部分では ぬえはズバリ「私を女王様とお呼び!」と言っているのだと解釈しています。「取りわき眺め給へかし。あら心なの旅人やな」はまさに漫然と美しさを愛でる僧にさらに尊敬の念を持て、と言っているわけですが、これはじつは高慢から言っているのではなくて、この能のその後の展開から仏の教えによって昇華される運命を持った花なのだ、という意味だと捉えています。

ワキ「げにげにこの八橋の杜若は。古歌にも詠まれけるとなりさりながら。いづれの歌人の言の葉やらん承りたくこそ候へ。
シテ「伊勢物語にいはく。こゝを八橋といひけるは。水行く川の蜘蛛手なれば橋を八つ渡せるなり。その沢に杜若のいと面白く咲き乱れたるを。ある人かきつばたといふ五文字を句の上に置きて。旅の心を詠めと言ひければ。唐衣着つゝ馴れにし妻しあれば。はるばる来ぬる旅をしぞ思ふ。これ在原の業平の。この杜若を詠みし歌なり。


いよいよ核心の「伊勢物語」の登場です。有名な9段の物語で、同じ章段には能「隅田川」に出てくる「都鳥」の歌も載っていて、同じく能「井筒」の典拠になっている23段と並んで教科書にも取り上げられてよく人口に膾炙しているお話でしょう。

ワキ「あら面白やさてはこの。東の果ての国々までも。業平は下り給ひけるか。
シテ「こと新しき問ひ事かな。この八橋のこゝのみか。猶しも心の奥深き名所々々の道すがら。
ワキ「国々ところは多けれども。とりわき心の末かけて。
シテ「思ひ渡りし八橋の。
ワキ「三河の沢の杜若。
シテ「遙々来ぬる旅をしぞ。
ワキ「思ひの色を世に残して。
シテ「主は昔になり平なれども。
ワキ「形見の花は。シテ「今こゝに。


じつはワキ僧は「伊勢物語」を読んだことがありません。これがシテが僧を呼び止めた理由かも。能「杜若」に描かれる内容はかなり難解なのですけれども、それ以上にこのシテは何の目的を持ってワキ僧の前に現れたのだろうか、とずっと考えていました。神通力を持ったシテがワキ僧が「伊勢物語」を知らないと気づいていたならば、「伊勢物語」の真実を伝えようとした、と解釈できるのです。このへんはまたこのブログでの考察の中で考えていきたいと思っています。

業平はこの八橋ばかりではなく国々の名所まで下ったのだが、とりわけ心を掛けたのがこの八橋なのだ、と語るシテ。遥々と旅をした業平だけれどもそれは遠い昔のこと。しかしその「思ひの色」は今でも残っていて、それを象徴するのが昔と変わらず咲き誇るこの杜若の花なのであり、それは今に残る業平の形見なのだ、とシテは言います。

能「杜若」では後に現代人とは到底異なる「伊勢物語」理解が語られるのですが、よく読み返してみるとこのシテの言葉がすでに伏線になっているように思えます。             (続く)
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三位一体の舞…『杜若』(その1)

2024-05-06 15:34:19 | 能楽
さて毎度 ぬえが勤める能の曲について鑑賞のための見どころと、舞台進行の解説をさせて頂いております。今回の「杜若」は「鬘物」と呼ばれる女性が主人公の能ですが、その中でも草花をシテとする一群の能の中に位置しています。「井筒」「隅田川」などと同じく『伊勢物語』を典拠として、いわゆる人気曲として上演頻度も高い曲なのですが、じつはこの曲は現代人が『伊勢物語』を読んで思う印象とはずいぶんかけ離れた内容を持っています。これは鎌倉時代~室町時代あたりの中世の人々は『伊勢物語』を現代人とはまったく違う視点で捉えていたためで、能「杜若」はそういう中世の人の『伊勢物語』理解のうえに書かれた能なのです。その意味で現代人から見ると理解が難しい部分もあり、また難解な能とも言えるでしょう。これを
現代の役者が現代の舞台の上で、そして現代人の観客の前で上演するのにはどうすれば良いのか。そんなことも考えながら上演の準備を進めております。

さてでは実際の舞台の進行を見てゆきましょう。舞台に囃子方と地謡が着座すると、すぐにワキが幕を上げて橋掛りに登場します。同時に笛が「名宣笛」というソロ演奏をはじめ、また大小鼓は床几に腰かけます。ワキは所謂「着流し僧」で一人きりでの登場。身分の高い高僧ではなく諸国をめぐりながら見識を深める修行僧といった趣です。

橋掛リから舞台に入ったワキが足を止めると笛も吹き止め、ワキは名ノリと呼ばれる自己紹介を謡います。

ワキ「これは都方より出でたる僧にて候。我いまだ東国を見ず候程に。ただ今思ひ立ち東国修行と心ざし候。

この「名ノリ」の最後に「立拝」とも「掻き合わせ」とも呼ばれる両手を胸の前で合わせる型をして、これよりワキは紀行文である「道行」を謡います。

ワキ「夕べ夕べの仮枕。夕べ夕べの仮枕。宿はあまたに変はれども。同じ憂き寝の美濃尾張。三河の国に着きにけり 三河の国に着きにけり。

「宿」とは言っていますが修行僧であれば宿屋などに泊まるわけではなく、野宿したり廃屋に泊まるような漂泊の旅という感じでしょう。そのためかこの「道行」には具体的な行路が想像できるような景物が出てきません。じつは「道行」ではかなり具体的な行路を記してあることが多くて興味深く、作者の意図がこめられていることも多いのですが、この旅の目的地は歌枕や高名な名所などがある関西や九州などではなく東国。当時はまだまだ未開の地であり、それだけワキの修行の旅はある程度の危険も伴うかもしれない未知の世界への旅だったでしょうし、そのワキの不安が具体的な地名をほとんど登場させないこの「道行」に込められているようにも思いますし、この不安定さが、彼が後に不思議な里女と邂逅する心情的な伏線にもなっていると思います。

ワキ「急ぎ候程に。これははや三河の国に着きて候。又これなる沢の杜若。今を盛りと見えて候程に。立ち寄り眺めばやと思ひ候。

とは言ったものの、ワキ僧が行きついた先は沢に咲き乱れる見事な杜若の群落でした。これにより観客は季節が初夏であることを知り、同時に「道行」の不安から解消されることになります。
ここで大小鼓が「アシライ」という伴奏を始めるとワキは舞台の真ん中あたりに行って正面を向き杜若を愛でる言葉を謡います。観客には、実際には見えないけれどもワキ僧と自分たち観客との間に杜若の群生地があり、観客はその杜若の中に座っているような印象となります。

ワキ「げにや光陰とゞまらず春過ぎ夏も来て。草木心なしとは申せども。時を忘れぬ花の色。かほよ花とも申すやらん。あら美しの杜若やな。

「かほよ花」とは「顔貌花」という字を充てるらしく、女性の美貌に擬えて花を褒めた美称でしょう。そして杜若を愛でる僧の後ろから里の女が声をかけます。             (続く)
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梅若研能会 6月公演

2024-05-03 14:03:50 | 能楽
来る6月9日、師家の月例会「梅若研能会6月公演」にて ぬえは能「杜若(かきつばた)」を勤めさせて頂きます。鬘物の能の中でも草木の精がシテの一群の曲がありますが、「杜若」は独特の味わいのある曲で、いわゆる人気曲として上演頻度も高い曲だと思います。しかしながら。。この曲は ぬえがこれまで勤めて参りましたどの曲よりも難解な曲ではないかと思います。

シテは可憐な花の精であり、技術的にもそれほど至難なところはない。。強いて言えばシテが謡う分量がかあり多いという問題はありますが。。、また深い悲しみやシテが負う業のような暗さもない。。表面的に見れば素直な作りのように見えますが、それは表面的なことであって、じつはこの能の内容はかなり奥深いものがあります。今回も例によって上演の参考となるよう舞台経過をご紹介しながら、そういったこの曲の難解さについて考察をしてみようと思います。

諸国一見の僧(ワキ)が都から東国行脚に向かう途次、三河の国八橋を訪れるとちょうど沢辺に杜若が花盛りなのを愛でます。すると里女(シテ)が現れ、この杜若は特別なのだと言、『伊勢物語』によって業平がこの花を詠んだ謂れを語ります。いつしか杜若を通じて懇意になった僧を里女は自分の庵を宿に貸すことになりますが、その夜女は高子の后の御衣と業平の冠を着け、自分は杜若の精であること、業平は歌舞の菩薩の化身であり衆生を救うためにこの世に現れたのだ、と語り、さらには『伊勢物語』に描かれた業平の恋物語も菩薩としての業平の行動なのだと語ります。やがてシテは業平その人となって舞を見せ、杜若の精も純白の明け方の世界の中に成仏の相を見せて消えてゆきます。

「杜若」のほか草木の精が主人公となる曲には「藤」「六浦」「遊行柳」「西行桜」「芭蕉」などがありますが、いずれも鬘能あるいはそれに準ずる曲で、また「芭蕉」以外はすべてシテが太鼓入りの序之舞を舞う特徴があります。植物の精であれば動作も緩やかに優雅であり、また女性、または閑寂な翁の姿がふさわしいと古人の作者が考えたのは自然なことであったでしょう。

が、上記のあらすじでもわかるように能「杜若」は業平が菩薩の化身、と主張するわけで、現代人が『伊勢物語』に読む王朝貴族の恋物語、という印象とはかなり違った視点を持って作られていることがわかります。総じて能の中で上掲の草木の精が主人公である曲は、なべて「草木国土悉皆成仏」という仏教の視点に支えられてはじめてシテが舞台に登場できるわけで、おのずから仏教の世界観の中で描かれることになります。それにしても「杜若」でシテが言う業平が菩薩の化身、という主張は現代から見ればかなり異質で、違和感は免れないでしょう。

じつはこの曲は中世の人々が『伊勢物語』を読む「ある種の常識」であったようです。ぬえはずっとこれは一部の中世の知識階級だけが持つ特別な読み方なのだと思っていたのですが、まさにこの「杜若」という能の存在そのものや、この能がずっと人気曲として演じ続けられてきた事実が、一部の特権階級だけにとどまらず、ある程度広範に人々に膾炙した中世の人々の「常識」であったのではないかという疑いを持っております。

かつて能「源氏供養」を勤めたとき、同じような大きな「違和感」。。シテ紫式部が烏帽子をかぶって舞う、という設定。。にの解釈に苦しみましたが、今回の「杜若」はさらにその上を行く難解さ。
すでに稽古の中でこれは消化していまして、現代人としてこの中世の作品の感覚を違和感なく上演する方策の目途は立てているのではありますが、やはりシテを舞う以上、作者をはじめとする中世の人々がどのような思いをこの曲に込めたのかは理解しておく必要があり、舞台の実演とは別にこのブログで微力ながらも考察してみようと思います。

どうぞお誘い合わせの上ご来場賜りますよう、お願い申し上げます~

梅若研能会 6月公演

【日時】 2024年6月9日(日・午後1時開演)
【会場】 観世能楽堂 <東京・銀座>

 仕舞 氷 室     伊藤 嘉章
    巻 絹 キリ  梅若 泰志
    山 姥 キリ  中村 政裕

能  頼 政(よりまさ)
前シテ(尉)/後シテ(源頼政) 青木 一郎
ワキ(旅僧)宝生常三/間狂言(里人)小梶直人
笛 槻宅聡/小鼓 久田舜一郎/大鼓 佃良勝
後見 中村 裕ほか/地謡 加藤眞悟ほか

狂言 千 鳥(ちどり)
     シテ(酒屋)   大藏彌太郎
     アド(太郎冠者) 大藏 章照
     アド(主人) 高木 謙成

   ~~~休憩 20分~~~

能  杜 若(かきつばた)
シテ(里女/杜若の精) ぬ え
ワキ(旅僧)大日方寛
笛 一噌隆之/小鼓 幸正昭/大鼓 佃良太郎/太鼓 小寺真佐人
後見 加藤眞悟ほか/地謡 伊藤嘉章ほか

                     (終演予定午後4時45分頃)



【入場料】 指定席A 7,000円 指定席B 6,000円 学生各席3,000円引き
【お申込】 ぬえ宛メールにて QYJ13065@nifty.com

※【能「頼政」「杜若どころ講座】
5月25日(土) 13:00~14:30
於:梅若万三郎家能舞台(代々木上原)
受講料:1,000円(研能会入場券購入者は無料)
講師:青木一郎/ぬえ
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震災13年・石巻

2024-03-10 21:05:24 | 能楽の心と癒しプロジェクト
ご無沙汰しております、ぬえです。

今年も東日本大震災の起こった日、3月11日が近づいてきました。去年が犠牲になった方の13回忌となる12年目で今年が13年目になります。

ぬえたち「能楽の心と癒やしプロジェクト」は震災3か月後から避難所や仮設住宅、仮設商店街、復興住宅などで能楽の慰問上演を続けて参り、上演回数は140回を超えておりますが、い仮設住宅も仮設商店街も解消された現在ではもっぱら3.11の日に奉納上演をさせて頂いております。

思えば3.11の日は追悼のためにある日で、追悼式以外のイベントには向いていない日と思いますが、幸いに現地の皆様には能楽に対して理解を頂くことができ、これまでの12年間では必ず3.11の追悼行事に参加を許して頂くことができました。

今年は宮城県石巻市にある「がんばろう!石巻」の大看板の前で初めて奉納上演をさせて頂きます。

「がんばろう!石巻」大看板は津波が襲った地区に震災直後に住民さんの手によって建てられたもので、ぬえたちは震災直後からずっとこの看板を見守り続けてきました。これまで各地の震災遺構の前で奉納上演をしてきたプロジェクトにとってもこの大看板の前での奉納は以前から考えていたのですが、報道などで広く知られていわば石巻の被災地を象徴するような物になってしまい、とくに3.11の日にはこの前では多くの行事が行われるので難しい様子でした。

実際、今回も石巻市民の友人に伺ったところ、やはりスケジュールがタイトで難しいのではないか、というご意見もあったのですが、以前この大看板と同じ地区の門脇町内会の追悼行事に参加させて頂いた関係からお願いしたところ、ご親切にも関係者の方から快く受け入れをお許し頂きました。

我々プロジェクトにとってもこの場所での奉納上演は「悲願」でしたので、関係者のご厚志に大変感謝しており、明日は心を込めて勤めさせて頂きます。

下の画像はプロジェクトの活動の原点となった石巻市立湊小学校。当時避難所だったこの場所で震災3か月後から活動をはじめ、何度となく泊まり込んで石巻市内の仮設住宅での慰問活動の拠点とさせて頂きました。もう13年も前のことになるのか。。





今回は発災時刻の14:46の直後、15:00頃に「かわまち交流センター」で、また16:30に「がんばろう!石巻」大看板前で奉納上演させて頂きます。

大看板の前での行事は以下の「がんばろう!石巻の会」様のサイトにて14:00からオンライン配信されるそうです。よろしければご覧戴ければありがたく存じます。

https://gannbarouishinomaki.jimdofree.com/
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