ぬえの能楽通信blog

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義経への限りないオマージュ…『屋島』(その10)

2023-04-18 18:49:07 | 能楽
この修羅物独特の型のあとは、これまた押し並べてシテ柱に廻り、そこから小回りしてワキに向かってヒラキ、というのが恒例の型なのですが、しばしばそのヒラキと同時にワキに向かって合掌することも。しかし「屋島」ではそこで地謡が謡う文句が「夢物語申すなり 夢物語申すなり」ですし、ちょっと合掌はしにくいところですね。そういえばこのシテはワキに向かって一度も合掌しないし、「跡弔ひて賜び給へ」というような救済を求める言葉も発しませんね。

地謡クリ「忘れぬものを閻浮の故郷に。去つて久しき年波の。夜の夢路に通ひ来て。修羅道の有様あらはすなり。
シテサシ「思ひぞ出づる昔の春。月も今宵に冴えかへり。
地謡「元の渚はこゝなれや。源平互ひに矢先を揃へ。船を組み駒を並べて打ち入れ/\足並みにくつばみを浸して攻め戦ふ。


ここでシテは大小前から中へ出て床几に掛かります。前シテと同じ場所で同じく軍語りをするので、おそらく「屋島」の作者は前シテと姿が重なることを意識して作っていると ぬえは感じています。

で、ここから例の屋島合戦の「弓流し」の場面になるのですが、この場面、「屋島」はほかの修羅能とも、いやそれどころかほかの能の曲とも異なる不思議な展開を遂げるのです。

シテ「その時何とかしたりけん。判官弓を取り落し。浪に揺られて流れしに。
地謡「その折しもは引く汐にて。遥かに遠く流れ行くを。
シテ「敵に弓を取られじと。駒を波間に泳がせて。敵船近くなりし程に。
地謡「敵はこれを見しよりも。船を寄せ熊手にかけて。すでに危ふく見え給ひしに。
シテ「されども熊手を切り払ひ。つひに弓を取り返し。元の渚に打ち上れば。


何が不思議なのかと申しますと、この部分を囃子方が打ち止めることです。わかりにくいかもしれませんが、じつは地謡が謡っているときに囃子が打っていないのは本当に例が少ないのです。それほど地謡はお囃子方と仲良し、というか切っても切れない縁で結ばれているのです。

これは地謡がシテの心情や状況の説明を8名前後の大人数で迫力をこめて謡うので、その音量には囃子との共演がふさわしいですし何より効果的。いやむしろ、シテとワキなどほかの登場人物との問答の中で話題が盛り上がりを見せたときに その話題を地謡が引き取って、役者ひとりでは到底出しえない声量で心情描写を行うことによって劇としての能がより立体的に見えるので、能ではそのような方法論を取っていることが多いのだと思います。囃子方も場面の世界を構築するのに絶大な力を持っていますし、その演奏の多くの部分が登場人物の感情を表現しているので、同じ方法論によって地謡とともに強力に能のクライマックスの場面を作っていくことになります。

また囃子の演奏は異界から来た人物の神秘性をよく表現できるので、幽霊にせよ鬼神にせよ、後シテが本性を現した際にはずっと演奏が続く場合が多いのです。こういう役柄のシテの場合は、ワキの待謡から後シテの登場を経て、最後までずっと囃子が打ちっぱなし、という事もよくあって、お囃子方は大変な労力を必要とします。

ところが異界から来た後シテの演技の途中で、囃子が打ち止める場合が、ごく少数ながらあるのです。まさしく「屋島」がそのひとつなわけですが、ほかには「実盛」「杜若」「求塚」などがあります。これらで囃子が打ち止めるのはほぼシテの独白部分で、悲しい場面のシテの語りを引き立てるためだと思われます。
「実盛」がその好例で、同じくシテの語りがありながら勇壮な内容の「頼政」や「忠度」では囃子は打ち止めません。「杜若」はシテとワキの問答部分ですが、これは中入がなく物着でシテの姿が変身するので前シテとの間に間隙がなく、ある種前シテの延長のように作られているからでしょう。唯一? 後シテの激しい語りで囃子が打ち止めるのが「求塚」ですが、ぬえが書生時代に小鼓の修行に通った先生から頂いた手付には囃子の手組が書かれていて、「本来は打つのだがシテ謡を活かすために最近は打たない」と注記がされていました。「求塚」は現代の復曲なので、伝統的に演じ続けられてきた曲とはまた同一に考えられない事情もあるでしょう。

しかしながらここに挙げた曲でも地謡が謡うところは必ず囃子が入るので、「屋島」はかなり例外的な作例と言えると思います(思いつく限りでは唯一の例ですが、ぬえが気づかないだけで他にも例があるかも)。

なぜ「屋島」のこの部分に囃子が入らないのかは分かりませんが、「屋島」が小書「弓流」「素働」の演出で演じられる場合と関係するのかもしれません。いわく「弓流」の時は「その時何とかしたりけん。判官弓を取り落し」以降も囃子が打ち続けてイロエになり、シテは立ち上がって舞台の前方で囃子の特殊な手組に合わせて扇を落とし、義経が弓を取り落とした様子を再現します。

小書が「弓流」だけのときはこのあと囃子は打ち止めますが「素働」がつくとさらに打ち続けて二度目のイロエになり、大小鼓は流シになってシテが取り落とした弓を取り上げる様を演じたり、ぬえの師家では「されども熊手を切り払ひ」と太刀を抜いて敵の熊手を切り払う所作をしたり、と写実的な型もあります。

小書がつかない「屋島」を考えるとき、この小書との関係性を考慮する必要はあるでしょう。小書というものは「~之伝」とかの名称がつくなど、一見 古い伝承を伝えているように見えますが、実際には江戸期に工夫された演出を保全した小書も多いのです。「屋島」の「弓流」「素働」も後世の工夫かもしれませんが、案外こちらが本来の演出であって、難易度が高いこの演技を小書として別扱いにし、この部分を演じないでやや難易度を下げた上演の形が小書なしのスタンダードな演出とし、特殊な手組を打つ必要がなくなったためにこの部分の囃子そのものを割愛した、ということも考えられるかもしれません。

さて舞台ではこのあと囃子が再び打ちはじめてクセから翔、キリへと続いてゆきます。

地謡「その時兼房申すやう。口惜しの御振舞やな。渡辺にて景時が申しゝも。これにてこそ候へ。たとひ千金を延べたる御弓なりとも。御命には代へ給ふべきかと。涙を流し申しければ。判官これを聞しめし。いやとよ弓を惜しむにあらず。
クセ「義経源平に。弓矢を取つて私なし。然れども。佳名は未だ半ばならず。さればこの弓を。敵に取られ義経は。小兵なりと言はれんは。無念の次第なるべし。よしそれ故に討たれんは。力なし義経が。運の極めと思ふべし。さらずは敵に渡さじとて波に引かるゝ弓取の。名は末代にあらずやと。語り給へば兼房さてその外の。人までも皆感涙を流しけり。


ここも問題のところで。。
そもそも「兼房」って誰でしょう。義経の腹心の部下であるかのようにここでは描かれていますが、じつは「平家物語」に「兼房」なる人物は登場しないのです。

「平家物語」では弓流しの場面で義経を諫めたのは「おとな共」「兵ども」で、おとな共は富倉徳次郎氏の「全注釈」では「老武者たち」と解説されています。多くの部下が諫めたのであり、「平家物語」の本によっては「つまはじきをして」と明らかに不快感をあらわにして非難していますね。

つまり「平家物語」では弓流しは猪突猛進型の義経の性格の一端を見せている場面で、彼のこの性格はほかの場面でもしばしば描かれているところです。能「屋島」の作者はそれをなじる部下の言葉を義経の身を案じた忠臣の言葉にすり替えたわけで、それは「渡辺にて景時が申しゝも。これにてこそ候へ」と対比するためでしょう。梶原景時は石橋山の合戦で敗走する頼朝を救け、後にその腹心となった人物で、能「箙」のシテ源太景季の父でもあります。「渡辺にて景時が申しゝ」というのはこの屋島合戦のために暴風の中に船出しようとした義経と口論となった有名な「逆櫓」の論争のことで、このとき景時は義経を「猪武者」と罵倒してあわや同士討ちになる寸前までいったとのこと。

この事件を念頭に置いて能「屋島」では義経の身を心配する部下に慕われていた義経像を描こうとしたのでしょうが、それにしても兼房とは。。

兼房と聞けば能楽では「二人静」に出てくる「十郎権頭兼房」がすぐに連想されるわけですが、これは「義経記」だけに登場する人物で、義経の北の方の幼少時からの乳母(守り役)であり、義経が平泉で自害して果たときはこの北の方と若君・姫君を刺殺して自分も館に火を放って敵将の弟を小脇にはさんで炎に飛び入って壮絶な最後を遂げました。

ところがこの十郎権頭兼房が義経とはじめて出会ったのは平家滅亡後、兄の頼朝に追われて都を落ちる際に北の方に従ったときで、当然 屋島合戦には参加していません。能「屋島」では「義経記」に描かれた十郎権頭兼房の壮絶な最期を義経に従う忠臣の代表と見て、彼をこの場面に登場させ、梶原景時と対比させることによって家来に慕われていた義経像を作り上げようとしたのかもしれません。
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