傍観者の独り言

団塊世代で、民間企業で「チンタラ・グウタラ」に過ごした人間の手前勝手な気儘な戯言・放言。

朝日新聞:授業「震災でガソリン抜き取り是か否か」・・・臨機応変と犯罪性と美談

2012-01-29 11:02:12 | 社会

朝日新聞の29日に記事『教研集会で授業紹介 震災でガソリン抜き取り是か否か』で、”「津波で流された車からガソリンを抜き取るーーー東日本大震災後に起きた「犯罪的行為」の是非を考える授業に、仙台市の高校が取り組んだ。「絶対だめ」「緊急時なら仕方ない」。生徒たちは過去の例や実体験をもとに意見を交わした。」”を報道。

朝日新聞の記事を掲載すると、

”「仙台市立仙台工業高校の福島隆嗣教諭の取り組み。28日から富山県で始まった日本教職員組合(日教組)の教育研究全国集会(教研集会)で報告した。
 震災後、壊れた自動販売機から飲料水を勝手に取ったり、他人の車からガソリンを抜き取ったりする行為が各地で報告された。
 福島教諭は授業で、「本来は犯罪にあたる」と前置きしたうえで、あえて生徒らに意見を求めた。友人の体験談として、被災地の青年団が毎晩、がれきの片づけの打ち合わせをし、その後にがれきの中で見つけた缶ビールを飲むという話を紹介。1906年のサンフランシスコ地震で,被災者が食料を分け合ったことなどを記した「災害ユートピア」という本も活用した。
 生徒たちは活発に意見を交わし、当初は「絶対に許せない」と即答していた生徒たちの中に、「緊急事態の場合もある」「簡単に犯罪を決めつけることができない」という考えも生まれたという。福島教諭は「緊急的な行動をどう考えるか。結論を出す前にいろんな考え方ができることを共有してほしかった」と話した
。」”

と報道。

本記事を一読し、緊急時の臨機応変と犯罪性の問題については、本ブログ「東日本大震災:「子供の義賊」・・・「ウーン・・・・」と唸ったが(追加変更)」でも、取り上げましたが、絶対性はないと思いますね。

一方、最後まで避難をよびかけた宮城県南三陸の職員、遠藤未希さんが埼玉県の公立の小中高校の道徳の副読本にのることについて、朝日新聞の28日の「天声人語」で取り上げています。転載すると、

”「東日本大震災のあと、数多くの言葉が紡がれてきた。印象深かったひとつが、詩人高良(こうら)留美子さんの一作だ。「その声はいまも」の冒頭を引く
▼〈あの女(ひと)は ひとり/わたしに立ち向かってきた/南三陸町役場の 防災マイクから/その声はいまも響いている/わたしはあの女(ひと)を町ごと呑(の)みこんでしまったが/その声を消すことはできない〉。津波を擬人化した「わたし」。「あの女(ひと)」とは、最後まで避難を呼びかけた宮城県南三陸町の職員、遠藤未希さんのことだ▼その遠藤さんが、埼玉県の道徳の副読本に載るそうだ。県が独自に作り、この4月から公立の小中高校で使われる。その教材に「天使の声」と題して収録されるという
▼あの日、被災地では、それぞれの使命を果たそうとした人たちが尊い命を落とした。警察官や消防署員、消防団員もいた。遠藤さんのいた防災対策庁舎では41人の町職員らが亡くなった。個々の気高さを示しつつ、やはり痛恨のできごとには違いない
▼道徳にせよ報道にせよ、美談にとどまるなら死者は浮かばれまい。高良さんの詩は、ひとりの女性への静かな敬意に満ち、人間が自然への畏怖(いふ)を忘れてきたことへの悔悟が流れている。美談を超えていく言葉の勁(つよ)さがある
▼こう結ばれる。〈わたしはあの女(ひと)の声を聞いている/その声のなかから/いのちが甦(よみがえ)るのを感じている/わたしはあの女(ひと)の身体を呑みこんでしまったが/いまもその声は わたしの底に響いている〉。鎮魂と新生の声が聞こえる
。」”

と美談を越えた鎮魂と新生の声と見なしています。

本件については、ブログ「真相世界(The truth world)」のエントリー『津波避難を呼びかけ犠牲になった女性職員を愚弄する道徳教材化の実態』では、

”「この女性職員の行動は立派だったが、「道徳教材」というのはどうだろうか?
生徒に何を伝えるつもりで教材化したのか?
その意図が不明である。

木口小平

戦前の「修身」の教科書には死んでもラッパを離さなかった木口小平が出てくる。
これと比較するのはこの女性職員に対して失礼甚だしいが、「教材化した連中の意図は似たようなものだったのではないか?」とも受け取れる
。」”

”「「人から感謝される人間になりなさい」というのならば、「日本人の場合は死なないとなかなか感謝してくれない」という事実も伝えなければならなくなる。

私が教師だとしたら、この教材で何を教えればいいのか途方に暮れてしまう。
これにことよせて、洗脳教育の実態でも生徒に話してしまうことになりそうだ
。」”

と疑問視していますね。

当方は、死しての美談的行為について、与謝野晶子の「君死にたまふことなかれ」ではないが、最大の不幸は「親より子どもが先に死ぬ事」との思いがあり、例え、社会悪(非国民と言われようが)であろうとも髪を乱して最後まで子どもを守るのは親であり、「生きていて欲しかった」と思うのは親であり、もし当方が親であれば複雑な心情になりますね。
それこそ「ウーン・・・」と唸ります。



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