星ケ崎城は蒲生・野洲・甲賀Ξ郡の郡境に近い鏡山か
ら北へ伸びる尾根トに位置する。城のある地点は現在の
竜王町・野洲市の境界でもあり、蒲生郡と野洲郡の郡境
に該当。城の北側直下の山麓には、向いに位置する浦山
との間を中山道が走っており、いわば切通し状態で、城
は直下の中山道を牽制するのに絶好の地点に所在する伝
承などによると、築城者は竜王町側の在地土る鏡氏とさ
れるが、定かではない。城の記録についても少なく、近
世の軍記に散見されるのみである。「江侍伝聞録』や「
永原軍談」などによると、永禄九年(1566)に起き
た観音寺騒動により、六角氏の家臣たちは六角氏に対し、
各地で叛旗を翻した。
六角氏の有力な家臣であった野洲郡の永原氏も永原城や
「篠原上の城」に立て籠もったという。これに対し、六
角承禎は星ケ崎城に入り、永原氏と対峙したとされる。
山麓から城への登り道は、野洲心太篠原出町からと、
竜王町鏡からの二通りがある。いずれからの登り道でも
中腹の尾根で合流する,さらに尾根筋の山道を直登して
二度目の頂上が城域である。
城の構造は、まず山頂部が主郭とみられ、西側と南側
の切岸には高さ2メートルを越える石垣が構築されてい
る,東側の切岸にも部分的に石垣が残存しており、本来
は北側の切岸にも石垣が築かれていたと思われる。主郭
の南側には、開口部らしき石の配列があり、直進して入
る平入りの虎口が想定される。
主郭の北側の尾根は、削平はされているものの、自然
地形に近い状態であった,また、主郭東側の尾根もほと
んど自然地形のままであった。主郭の南側では、自然地
形の尾根にしたがって曲輪があり、一部に石垣が認めら
れた。尾根続きの南西側は自然地形のままで、さらに進
むと跳出へと至る。
星ケ崎城の特徴に先述の石垣が挙げられる。使用され
ている石材は、城の周囲に露呈している岩盤から調達し
たとみられる。石材の大きさは外側に露出した面で、縦
およそ40~70センチ、横およそ80~120センチ
の横長の自然石あるいは割り石が用いられ、個々の石材
を横置きにして一段ごとにいわば層をなして積み上げて
いく整層積みによって構築されて
いる。積み上げに際しては石材の平らな.曲を表面に出
しており、石材と石材のすき間にも小型の石が詰め込ま
れ、全体として表面が平らで丁寧な仕上がりとなってい
る『時期的には戦国期の構築とみられ、観音寺城の石垣
や鏡山の尾根続きで存在する古城山城・小堤城山城の石
垣などと比較してみるのも興味深い。
さて、近世に編纂されたの軍記物の中で、六角氏が使用
した記述のある当城であるが、主郭部における石垣の構築
以外は目立った防御施設がみられないことも特徴のひとつ
である,特に北西側および南西側の尾根続きには、堀切な
どの防御施設はなく、尾根筋を伝った侵入や移動が容易で
あり、仮に北西側の山頂が敵に奪われた場合は、城の防御
としては致命的となる.このため、当城は長期的な龍城戦に
は不向きであったとみられる,
ところで、星ケ崎城のある.帯は小字で、弥勒寺の地名が
残っている。また、中世には竜王町側山麓には西先方、野
洲市側山麓には正法寺があったとされ、野洲市側正法寺跡
の付近の山沿いからは五輪塔の一部が多く出土している。
防御的な遺構があまり認められない星ケ崎城も本来はこの
ような中欧寺院の境内の一部であった可能性もある.、
(福永清治)
【エピソード】
会員皆様
年の瀬も慌ただしく迫りましたが、例年ですと新年会の
ご案内となりますところ、誠に申し訳ございませんが、
喪中につき中止させて頂きます。なお、近況報告などご
さいましたなら平素と変わりなくご連絡いただければ幸
甚の次第です。
幹事敬白
【脚注及びリンク】
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1.佐々木六角氏およびその家臣団の城郭 近江の城50選.
2.JR篠原駅から鏡山へ
3.六角氏式目 Wikipedia
4. 歴史群像 織田信長と元亀争乱 谷口克広
5. 近江の城山:星ヶ峰 - 山聲
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