布施山城

2014年12月02日 | 滋賀連坐環

 

 

 

布施山城は、蒲生郡中央部に位置する布引山系の北西
側縁辺にある布施山に所在する,近接する主要路では、
近世に御代参街道が城の束山麓を走っており、中世に
いても甲賀郡や伊勢方面への主要道が通過していた
もの
と思われる。



 城主は六角氏家臣の布施氏である,記録によると、
施氏は主に布施三河守家と布施淡路守家のI.家に
分かれ
、布施山城の城主は布施三河守家で、本拠地で
る蒲生郡布施を治めていた本家筋であるとみられる。
麓の東近江巾布施町の集落内には、布施氏の館跡が
存在
したとの伝承もある。一方、布施淡路守家は布施
城の東
約五キロにある大森城の城主とされる。記録に
よれば
布施山城は永禄六年(1563)に起きた「観
音寺騒動」
の後に登場する。布施城の西側山麓にあた
る蒲生郡羽田一帯を領する六角氏被官後藤氏が六角義
弼に観音寺城内で謀殺され、これに.反発した家臣は
自領へ引きあげたが、布施氏は北近江の浅片氏と呼応
して布施山城などで反乱を起こす。このとき浅井氏は
愛知川を越えるあたりまで進出し、六角承禎・義弼は
観音寺城を退去し、蒲生氏のもとに退避せざるを得な
かった。

結果として蒲生氏の調停により混乱は収拾されたが、
六角氏は永禄十年(1567)に当主の権限を大幅に
規制された六角氏式目をあらわすことを余儀なくされ
ている。

   
 この図をクリック
 


城へは現在の東近江巾布施町集落の南側にある公園用
地を抜け、布施溜を左に目`る地点から山道をひって
いく。山麓に数段の平坦地があり、「ヘイナイヤシキ」
の伝承があるが、城との関連は不明である,この平坦
地の脇から山を直登し、尾根筋を北へ登ると城へと至
る。城の構造では、古墳時代中期に布施山山頂部に前
方後円墳が築かれており、城域と重複している。後円
部が主郭、前方部が副郭に該当する。



主郭の縁辺には高さおよそ〇・八メートル程度の土塁
が全周しており、北東側・南西側のニヵ所に虎口があ
る。双方とも基本的には平入りの構造であるが、北東
側の虎口は、現状で両脇を石積みで固めてあり、以前
は古墳石室のれ材を石積みの上に渡した埋門の様相を
示していたという。

副郭においても、縁辺には高さおよそ〇・五メートル
程度の土塁が築かれている,そして、南東側には外側
で侵人路を屈曲させている虎口が設けられている.

山頂の主郭からは南東方向と西方向に尾根が伸びてお
り、尾根筋の防御では堀切などの敵の侵入を阻止する
施設は認められない。しかし、尾根筋の両側に竪堀を
掘ることにより、尾根筋から城の斜面への移動を阻も
うとしている。そして、主郭の南西側の斜面には近江
南部では珍しい畝状空堀群が認められる。

畝状空堀部は竪堀を連続させることにより、斜面に対
して横方向の移動を阻むもので、布施山城のケースで
は比較的緩斜面である主郭南西側の防御を固めたもの
であろう。



ちなみに、布施淡路守家の大森城は、布施山城と比較
して、城域の規模は大きいが、比較的に平らとなった
山頂部における曲輪の占地方法や、基本的に横堀・堀
切を用いず、曲輪の縁辺を土塁囲みとして敵の侵入を
阻止する手法で布施山城と共通している。 
             
                  (福永清治)

 

 

● 佐々木六角と家臣の城

・佐生城  東近江市佐生町・五個荘日吉町 
      (城主・後藤氏) 後藤但馬守家

・箕作山城 東近江市山本町・五個荘清水鼻町
      (城主不明 建部&吉田)? 

・小脇山城 東近江市・旧八日市市・・・  
・布施山城 東近江市・旧八日市市布施町 
      (城主・布施氏) 布施三河守家  

・大森城   東近江市・旧八日市市大森町?
      (城主・布施氏) 布施淡路守家

・長光寺城 近江八幡市長光寺町・長福寺町・武佐町
      (佐々木四郎政尭・築城)

・目加田城 愛知郡愛荘町目加田 ?
・和田山城 東近江市神郷町・五個荘和田町
      (城主・和田氏)

・三雲城  湖南市吉水字城山 (城主・三雲氏)重
      臣 甲賀五十三家のひとつ

・小堤城山城 野洲市小堤 
・鳥居平城 蒲生郡日野町佐久良 (城主・??)
・北之庄城 近江八幡市・北之庄&津田 
      観音寺城の付城

・水茎岡山城 近江江八幡市・牧町 湖上警固の支城

 【エピソード】 
 
 

 

1467年に発生した応仁の乱は11年にも及び、多くの公
家や僧侶は地方に逃げ出した。京都は政治
的に空白と
なり、各地方の有力者は半独立状態に
なるが、これら
の分国大名もまた独裁政
権でなく、ある者はマグナ・
カルタに署名(1215
年)したジョン王のようにあり、
その例として六角氏もそのひとりだという(山本七平
箸『日本人とはなにか。』)。この
「観音寺騒動」の後
に登場する布施氏は北近江の浅片氏と呼応して布施山
城などで反乱。浅井氏は愛知川を越えるあたりまで進
出し、六角承禎・義弼は観音寺城を退去する。

● 六角氏式目――部下が主君の行為を規定

このとき、20人から成る家臣団が合議の上起草し、主
君がこれを承認し、この法の遵守を誓約する起請文を
重臣との間で取り交わすという形で「六角氏式目」が
制定された。条文は67条で内容は多岐にわたるが、山
本はこの六角氏式目の注目すべき点として次のことを
挙げている。

① 半数以上の条文が主君である六角氏の行為を規定し
 ていること部下が主君の行為を規定する法律を制定し
 てこれを承認させ、その遵守を誓約させる
② 末尾の起請文の署名がくじによる順序で重臣20名が
 署名している
③ 正統性の変化―元来六角氏は、天皇→将軍→守護と
 いう形で近江を支配する正統性が保証されていたわけ
 であるが、起請文の日付である永禄10年(1567年)以
 降もこの起請によってその正統性が保証されている

このように、 戦国大名の分国法は,領国の支配・統治
のた
めに作られた法であるが、各大名により統治実態
は違いが
ある。六角氏の『六角氏式目』は,家臣20人
が合議して作成した法案を六角
承禎(義賢)・義治父
子が承認する形で制定されているが,承禎・義治父子

の起請文前書に「国中法度今度定置旨,永不可有相違」
とあり、また家臣
20人の起請文前書には「御政道法度
之事、得御諚、愚暗旨趣書立」とある。
ここでも『六
角氏式目』のことを「法度」と呼んでいる(下表「戦
国大名の分国法と自称」をクリック)。

  

 

【脚注及びリンク】
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1.戦国大名の「法度」と分国法―中国の法典と比較して―
  菅原正子 2013.03.26

2.
世界経済危機を契機に資本主義の多様性を考える
 (第24話) 財務総合政策研究所次長 田中 修

3.六角氏式目 Wikipedia
4.  布施山城の特徴について 市辺れきし発見塾 れきしセミ
      ナー 「布施山城の特徴について」

5.  六角異聞 玄真玉虚  第十二話~六角式目と長政 出陣     
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