安土城(4)

2014年02月13日 | 滋賀百城

 

 




信長の夢 「安土城」発掘

●安土城炎上

天正十年(1582)五月四日-。天皇の使いが安土城を訪
れた。信長を、太政大臣か関白
か征夷大将軍か、そのい
ずれかに任命したいという意向を伝えにきたのである。
しかし、信長は
この意向に対し返答をすることなく、使
いを帰してしまう。

 徳見寺で信長の誕生日を祝う祭りが催されたのは、フ
ロイスの『日本史』によれば、その一週
間後のことであ
る。

 そして、その祭りの日の十九日後。
 天正十年六月二日未明-。
 わずかな護衛とともに京都本能寺にいた信長を、明智
光秀率いる軍勢が襲った。

 「是非に及ばず」との一言を残して信長は自害。その
夢と野望は、炎の中でついえ去った。

 安土城を設計施工した大工の棟梁、岡部又右衛門以言
とその子、以俊も本能寺に同宿していた。

  そして、共に討ち死にする。設計施工担当者がこの世
から消えたことで、安土城の独創的な空間
構成を可能に
した技術のノウハウを正確に知る者はいなくなってしま
った。

 あとには、主を失った、その作品としての居城のみが
残った。

 そして、十日あまり後。
 天正十年六月半ば-。
 安土城中枢部に火の手があがった。天主は燃え落ち、
本丸御殿は灰塵に帰した。
 城はなぜ燃えたのか。
 さまざまな説が取り沙汰されてきた。
 城下町からあがった火の手が天主や本丸に飛び火して
類焼したのだという説もあった。しかし、その説は、城
下町と天主の中間に位置する見寺、あるいは、「秀吉」
邸に火がおよんだ形跡がないことから否定された。
 では、何者かが火を放ったのか。
 信長の息子信雄のしわざであるという説もある。また、
光秀の一派のしわざであるという説もある。犯人は何者
とも断定できず、その詳細はいまだ謎のままである。
 しかし、誰が火を放ってもおかしくない状況はあった。
 安土城天主は、六月十四日より前の段階で、すでに一
度、火が放たれようとしていたからである。
 本能寺の変を安土で伝え間いた時の人びとの反応を、
太田牛一はこう記している。

 六月三日未刻、のかせられ候へと申され候。御上蕩衆
仰せられ様、とても安土打捨てのかせ
られ候間、御天主にこれある金銀・大刀・刀を取り、火
を懸け、罷退き候へと仰せられ候

    (奥野高広・岩沢悳彦校注『信長公記』より)

城に残っていた信長の夫人や側室たちは、安土を捨てて
立ちのくからには、天主にある金銀・大刀・刀を持ち出
し、それから火をかけて立ち去るようにと命じたという
のである。城を捨てて落ち延びる際には、敵に利用され
るのを防ぐために破壊して去るのが戦国時代の常であっ
た。
「御上蕩衆」も、その常識にしたがって、あえていえば
武家の女性として精一杯の思慮をもって、
放火を命じたのであろう。

 安土城は、当時の人びとの理解を超えていた。
 それが文化的な価値があるものだということは、放火
を命じた夫人たちにはもちろん、多くの人びとの想念の
中になかった。
 この時は、留守を預かっていた近江の武将、蒲生賢秀
の諌言によって、安土城は一度は焼失を免れた。
 しかし、その後、安土城は明智光秀に占領され、財宝
は持ち出された。すでに宝物のなくなった城は、前にも
まして無価値となった。そう人びとは思ったにちがいな
い。
 城は戦争の道具という戦国時代の通念の前では、主を
失った城で、価値があるのはそこに納められた金銀財宝
や武器だけである。それがないとなれば、あとは要塞と
しての利用価値しかない。
とすれば、放置しておいて敵方に利用されてはならぬ。
当時の人びとは、そう思ったのではないだろうか。
 火をつけたのが何者であろうと、その戦国時代の常識
にしたがって、炎を点じたのであろう。建築物としての
城そのものに価値があるとは、誰も理解していなかった
のにちがいない。
 かくして、日本美術史上、画期的な価値をもつ狩野永
徳の障壁画は幻のものとなり、信長の理念の象徴は、こ
の世から消えた。
 安土城は信長がいなくては存続できないものだった。
 それは、まさに信長の思想を具体化し、信長の精神と
同質化した石造りの化身だった。
 そして、この城の滅却とともに、日本の歴史はなにも
のかを失った。

●人工都市の幻影

 信長の横死が伝えられたあとの安土からは、まるで砂
浜から波が引いていくかのように、人影が消えていった。
その様子が『信長公記』には、次のように記されている。

身の介錯に取紛れ、泣き悲しむ者もなし。日比の蓄へ、
重宝の道具にも相構はず、家々を打捨て、妻子ばかりを
引列れく、美濃・尾張の人々は本国を心ざし、思ひくに
のかれたり。
   
     (奥野高広・岩沢悳彦校注『信長公記』より)

 みんな自分の身の振り方をどうするかに取り紛れて、
信長の死を悲しむ者もいなかった。ふだんからの蓄えや
高価な家財道具にも構わず、家屋敷を捨て、妻子だけ連
れて、美濃・尾張の人た
ちは自分の本国へ逃げていったというのである。
 安土城は近江の国に建設された城郭であるが、その城
内、そして城下町には、信長のもともと
の領国である尾張や美濃から移住してきた人びとが多か
ったことを物語っている。
 かつて信長の存命中に、安土の城下町にある武家屋敷
から火事が出たことがある。その原因を探るうちに、信
長は家臣たちが本国・尾張に妻子を残してきていること
を知った。そこで尾張にあった家臣たちの屋敷を焼き払
い、その妻子たちが安土に引っ越してこざるをえないよ
うにした。そうまでして、信長は安土に人びとを住まわ
せなければならなかったのである。

 安土という都市は、なかば強引に信長の意志でつくら
れた人工の都市であったことがわかる。
 安土の町には、真にそこに根ざした者は少なかった。
ここが自分の上地という意識はまだ薄く、商人は信長の
優遇策にひかれて、武士は信長の命令によって集まって
いただけだった。要である信長がいなくなれば、その紐
帯はほどけるしかなく、みんな「本国」へ逃げ帰ってし
まったのである。
 のちの大坂や江戸のように、たとえ戦禍や災害に見舞
われても、ふたたび人びとがそこに戻ってきて、復興を
めざす。そういう都市住民が生まれてくるには、少なく
ともあと数十年の時を必要としていた。やがて琵琶湖の
ほとり近江ハ幡に、豊臣秀吉の甥、秀次が城下町を築い
た。そして、安土の町に移転の命令を出した。以後、安
土は昔日の面影を急速に失っていく。
 信長がめざした日本の首都としての安土という都市が
完成するには、時間がなさすぎた。信長の考えを人びと
が理解する間もなく、信長は死を遂げてしまったのであ


       『第5章 信長の夢』 PP. 227-231     

                  この項つづく

 

 

【エピソード】 


 
 

 

【脚注およびリンク】
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  1. 信長の夢「安土城」発掘、NHKスペシャル、2001
    .2.17
  2. 歴史文化ライブラリー よみがえる安土城、木戸
    雅寿、吉川弘文館
  3. 滋賀県立安土城考古博物館
  4. 信長公記(原文)
  5. 安土町観光協会
  6. 『安土城天主復原考』土屋純一、「名古屋高等
    工業専門学校創立二十五周年記念論文集」1930
  7. 『安土山屏風に就いて』廣田青陵、「仏教美術」
    1931
  8. 『安土城天守復原についての諸問題』城戸久「
    建築学会研究報告」1930
  9. 『安土宗論の史的意義』中尾、「日本歴史」112
    号、1957
  10. 『日本佛散史 第七巻 近世篇之一』辻善之助、
    岩波書店、1960
  11. 『安土城天守の推定復元模型』桜井成広、「城
    郭」1962/1963
  12. 『明智軍記にみる織田信長と安土城』小和田哲
    男、「城郭」1963
  13. 『安土城と城下町』小和田哲男、「城郭」1963
  14. 『信長の宗教政策』奥野高広、「日本歴史」1966
  15. 『イエズス会土日本通信 上・下』村上直次郎訳、
    雄松堂、1968
  16. 『信長公記』奥野高広・岩沢悳彦校注、角川文庫、
    1969
  17. 『イエズス会日本年報 上・下』村上直次郎訳、
    雄松堂、1969
  18. 『シンポジウム日本歴史10 織豊政権論』脇田
    修ほか、学生社、1972
  19. 『京都御所と仙洞御所』藤岡通夫編、至文堂、1974
  20. 『織豊政権』藤木久志・北島万次編「論集日本歴
    史6」、有精堂、1974
  21. 『日本中世の国家と宗教』黒田俊雄、岩波書店、
    1975
  22. 『京都御所』藤岡通夫、中央公論美術出版、1975
  23. 『安土城の研究(上)(下)』内藤昌、「国華」
    987/988号、1976
  24. 『安土城天主の復原とその史料について(上)(下)
    』言上茂隆、「国華」988/999号、1977
  25. 『キリシタン宗門と吉田神道の接点-安土城出土
    の瓦について-『天道』という語をめぐって』小
    山直子、「キリシタン研究」1980
  26. 『織田政権の研究』藤木久志編、吉川弘文館、1985
  27. 『織田政権の権力構造』三鬼清一郎、吉川弘文館、
    1985
  28. 『織田信長』脇田修、中公新書、1987
  29. 『増訂 織田信長文書の研究』奥野高広、吉川弘
    文館、1988
  30. 『城と城下町』藤岡通夫、中央公論美術出版、1988
  31. 『天下一統』朝尾直弘、「大系日本の歴史8」小
    学館、1988
  32. 『織田信長と安土城』秋田裕毅、創元社、1990
  33. 『十六・七世紀イエズス会日本報告集』松田毅
    一監訳、同朋舎、1992
  34. 『信長と天皇』今谷明、講談社現代新書、1992
  35. 『安土城障壁画復元展』日本経済新聞社、1993
  36. 『平安京と水辺の都市、そして安土』朝日百科、
    日本の歴史別冊「歴史を読みなおす6」1993
  37. 『復元 安土城』内藤昌、講談社、1994
  38. 『将軍権力の創出』朝尾直弘、岩波書店、1994
  39. 『安土城』「歴史群像・名城シリーズ3」学習研
    究社、1994
  40. その系譜と織豊政権における築城政策の一端』木
    戸雅寿、「織豊城郭」創刊号、織豊期城郭研究会、
    1994
  41. 『織豊期城郭にみられる桐紋瓦・菊紋瓦』木戸雅
    寿、「織豊城郭」第2号、織豊期城郭研究会、1995
  42. 『安土城の中の「天下」襖絵を読む』朝日百科、
    日本の歴史別冊「歴史を読みなおす16」1995
  43. 『近世石垣事情 考古学的石垣研究をめざして』
    木戸雅寿、「織豊城郭」第3号、織豊期城郭研究会、
    1996
  44. 『天下布武への道 信長の城と戦略』成美堂出版、1997
  45. 『安土城の惣構えの概念について1・2』木戸雅寿、
    研究紀要」第5/6号、滋賀県安土城郭調査研究所、
  46. 『安土城の天主台と本丸をめぐって』木戸雅寿、
    「織豊城郭」第5号、織豊期城郭研究会、1998
  47. 『安土城信長の夢』滋賀県安土城郭調査研究所、
    読売新聞社連載、1998~
  48. 『特別史跡安土城跡発掘調査10周年成果展 安土城・
    1999』滋賀県立安土城考古博物館、滋賀県安土城
    郭調査研究所、1999
  49. 『安土城が語る信長の世界』木戸雅寿、「駿府城
    をめぐる考古学」静岡考古学会、1999
  50. 『天下統一と城』国立歴史民俗博物館、読売新聞
    社、2000
  51. 『よみがえる安土城』木戸雅寿、「天下統一と城」
    展図録、国立歴史民俗博物館、2000
  52. 『完訳 フロイス 日本史1、2、3』松田毅一・
    川崎桃太訳、中公文庫、2000
  53. 『信長権力と朝廷』立花京子、岩田書院、2000
  54. 『塔 形・意味・技術』朝日百科、日本の国宝別冊
    「国宝と歴史の旅8」朝日新聞社、2000
  55. 『戦国大名と天皇』今谷明、講談社学術文庫、2001
  56. 『仏を超えた信長-安土城見寺本堂の復元-』、
    鳥取環境大学紀要、No.8 PP.31-51 2010.06

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