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作成日:2017.0810|更新日:
♞ 藤本 太郎兵衛(ふじもとたろうべえ)
● 琵琶湖治水の先覚者 藤本太郎兵衛 親子三代
人々を悩まし続けた「水込み」
☈ 滋賀県には509本もの一級河川が存在し、このうち
琵琶湖に流れ込む河川は118本にのぼる。高島市内か
らも多くの河川や地下水が琵琶湖に注ぎ込んでいるが、
なかでも安曇川は、流域面積が310平方キロメートル
にのぼり、野洲川に次いで2番目の面積、豊富な水量を
もたらす重要な河川のひとつ。☈その一方、琵琶湖から
流れ出る自然河川は瀬田川が唯一となる。現在は、南郷
の洗堰により、水位と水量が管理されているが、かつて
の瀬田川は川幅が狭く、山からの土砂が流れ込み川底に
溜るなど、流出する水量は少なく不安定となっていた。
また、琵琶湖の洪水は、河川の洪水とは異なり、その面
積の広さから水位上昇、低下ともに時間がかかるため、
ひとたび大雨が降ると行き場を失った水が琵琶湖に滞留
し、湖面の上昇によって沿岸が浸水する「水込み」と呼
ばれる水害に悩まされてきた(浸水日数が237日に及
ぶ記録も残っている)。
私費を三代にわたり投じる
☈ 江戸時代以降、この水害をなさらくすために瀬田川
の川底を浚渫。流出水量を拡大する治水工事の実施が、
琵琶湖周辺の村々から嘆願するも、浚渫による下流域で
の洪水を心配した江戸幕府が着手ためらう。そんな琵琶
湖治水という大きな難題に、高島郡深溝村(現新旭町深
溝)の庄屋であった藤本太郎兵衛が立ち上がる。瀬田川
の土砂は自普請(農民自らが費用を出し合って行う工事)
による浚渫の必要性があると湖岸の村々に説き、177
カ村の賛同を得て、天明4年( 1784年)に工事を始
めるが、充分な効果を挙げることはできず、二代目太郎
兵衛(重勝)による老中 松平定信への直訴や瀬田川
下流の村々への説得が続けられ。☈そして初代太郎兵衛
から満50年目の天保2年(1831年)、三代目太郎
兵衛(清勝)の時に幕府からの許可をとりつけ、瀬田川
の全長14㎞、出役31万人、工事費76544両(約
2億5000万円)におよぶ治水工事が竣工された。こ
の浚渫は、琵琶湖周辺200カ村の悲願を達成させる大
工事となり、「天保の御救大浚え」と呼ばれ今もなお語
り次がれている。
【エピソード】
【脚注及びリンク】
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- 藤本太郎兵衛の像/こころに残る滋賀の風景 - 滋
賀県 - 36.治水の先覚者藤本太郎兵衛(高島市新旭町) -
近江史を歩く - 琵琶湖の歴史洪水と瀬田川浚渫についての土木史
的研究 竹林征三、今井範雄 土木史研究第15号199
5年6月 - 琵琶湖治水の先覚者 藤本太郎兵衛親子三代 広報
たかしま 2015年3月号 No.182 - 治水の歴史|水のめぐみ館「アクア琵琶」
- 滋賀県出身の人物一覧 Wikipedia
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