清水山城

2014年03月13日 | 滋賀百城

 

 

承久三年(1221)の「承久の乱」により、佐々木信
が近江の守護になり、その後近江源氏佐々木氏の一族
は大原、高島、六角、京極などの家々にわかれ近江を支
配した。『吾妻鏡』によると嘉禎元年(1225)
に佐
々木高信が高島郡田中郷の地頭としてその名が見られ、
その一族は、鎌倉~戦国時代を通して高島郡中南部二円
に勢力を広げる。のちに「西佐々木同名中」「七頭」と
呼ばれるこの西佐々木一族は『文安年中御蚕帳』に外様
衆として「田中、朽木、永田、越中、能登、横山」など
の名が見られる。一族の中で、十六世紀には越中氏、田
中氏、朽木氏が台頭。十六世紀中頃の天文年間には越中、
田中両氏は六角氏方へ、朽木氏は将軍方につくことにな
ったと思われる。そして観音寺騒動で六角氏が勢力を弱
めた後の永禄年間(1558~70)には、湖北の浅井
氏と同盟を結び、元亀元年(1570)以降の織田信長
の近江侵攻をむかえることになる。この西佐々木一族の
惣領家が佐々木越中氏である。
 享保十九年(1734)に書かれた『近江輿地志略』
には、「古城址 清氷山に在り、佐々木越中守居城址な
りといふ」とある。この「清水山」の名称は、文禄四年
(1595)の『近江国高鳴郡御蔵人吉立』が、現在の
ところ初見される。
 清水山城は、主郭を中心として三方の尾根上に曲輪を
配置する放射状連郭式の山城である。主郭の東海と北西
にのびる尾根上には敵状空堀群が認められる。平成八年
度の主郭の発掘調査では六間×三間の大規模な礎石建物
跡とともに、多数の土器などが出土した。出土した土器
は1550~1570年頃の時期に集中している。

 『信長公記』によると、信長は元亀四年(1573)
七月に高島を攻略した。清水山城主郭から出土した土器
の下限は、この伍長の高島郡攻略の時期とほぼ一致する。
 山城南側の山腹斜面に位置する清水山遺跡には、「西
屋敷」や「東屋敷」の地名が残る南北約350メートル
×東西約550メートルの範囲に、一道を約20メー
トルもしくは25メートルに規格された方形区画が認め
られる。西屋敷には大手遺と推定される通路が南北にの
びていて、山城南東尾根上の曲輪へと続く。このルート
上には「ショウモンヤマ」「オウテ」「ダイモン」の地
名が残る。
 遺構の特徴から天台寺院清水寺(せいすいじ)の寺坊
群を屋敷として転用した可能性や寺院と城郭の併存も指
摘されている。『北野天満宮史料古記録』によると、文
安四年(1442)に佐々木越中氏の若党とされるハ田
氏、多胡氏、河内宮神主が清水山にあった清水寺を一時
占拠したことがうかがえる。
 清水山遺跡(屋敷地)の南方の山麓台地の南東部には、
「御屋敷」や「犬の馬場」の地名が残る。明治六年の
『安養寺村地券取調総絵図』には「犬馬場」の地名とと
もに、周囲に帯状の地割をもつ一町四方の区画が認めら
れる。かつて区画の周囲には土塁や堀が認められたこと
から方形館と推定されている。大馬場の方形区画は越中
氏の館=御屋敷に伴う大馬場と推定される。大手近は、
西近江路の平井集落から西に分岐し、この御屋敷・大馬
場の方形区画のエリアをとおり、西屋敷を通って山城の
主郭に至っていたと推定されている。


 本堂谷遺跡(井ノロ館)は、清水山城・屋敷地および
御屋敷・大馬場と西谷川を隔てて西側の大宝寺山丘陵中
腹の緩斜面上に立地する。遺跡の四隣には、佐々木高位
が佐々木氏の氏神を勧請したと伝えられる大荒比古神社
が鎮座する。東西約350メートル×南北約200メー
トルの範囲に清水山屋敷地と同様の土塁と堀で囲まれた
方形区画群が認められる。遺跡内には「ジョウロウグチ」
「エンショグラ」の地名が残っている。また、遺跡の南
方にも「ハコヤマ」の地名が残り、かつて土塁や堀で仕
切られた地域がさらに南方にまで広がっていた。本堂谷
遺跡は遺構の東側が「大宝寺」の跡地と伝承されている
ことや、清氷山城主郭から南西方向にのびる谷は「城ノ
谷」、域の谷と西谷川との接続部は「城の口」とよばれ、
清氷山城主郭と本堂谷遺跡を結ぶルートが想定される。
これらのことから本堂谷遺跡は清水山城の出城としての
機能や大宝寺との併存も指摘される。



 これらの清水山城館の遺構群の東方山麓部には南北に
西近江路が縦断している。清水山城の城下は、推定夫手
近が接続する西近江路に洽って南北に広がっていたと想
定されている。北から町場と推定される「今市」、武家
屋敷群の存在が推測される「平井」、鎌倉期より佐々木
氏と密接な関係にあり、佐々木氏直属の職人集団が存在
していたと推定される「川原市」などの集落が展開する。
 清水山城の城主とされる越中氏は、清水寺、大宝寺、
西近江路といった地域がもつこれまでの空間構造に大き
な変革を加えることなく、戦国末期までに、清水山城館
群とその城下を構成したと考えられている。



出典:

    

 

【エピソード】 

 


【脚注及びリンク】

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  1. 清水山城、Wikipedia
  2. 国指定文化財等データベース、文化庁
  3. 高島氏、Wikipedia
  4. 清水山城館跡、高島市
  5. 清水山館城跡、滋賀県教育委員会
  6. 戦国山城保全活用グループ「清水山城楽クラブ」
  7. 清水山城-近江の城-

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