雨森芳洲(1)

2014年03月16日 | 近江の思想

 

【日韓の外交史再考】 

  


竹島領有権問題、日本海・東海併記問題、人種差別発
言、ヘ
イトスピーチー、従軍慰安婦問題などで、古色
蒼然のナショ
ナリズム(戦前・戦中のウルトラ・ナシ
ョナリズム
)への回帰(≒
保守反動勢力の戦後レジュ
ームの解体運動?→誰が、何のために
)など昨今の日
韓外交問題を再考するために、温故知新、滋
賀は長浜
市高月町に生まれた雨森芳洲の思想的背景を探訪
する。

●雨森芳洲の略歴

雨森 芳洲(1668年06月26日(寛文8年5月17日) - 17
55
年2月16日(宝暦5年1月6日))は、江戸時代中期
の儒
者。諱は俊良、のち誠清(のぶきよ)、通称は藤
五郎・
東五郎、号は芳洲、字を伯陽、漢名として雨森
東を名
乗る。中国語、朝鮮語に通じ、対馬藩に仕えて
氏朝鮮との通好実務にも携わる。寛文8年(1668年)、
近江国伊香郡雨森村(現・滋賀県長浜市高月町雨森)
の町医者の子として生まれた。12歳の頃に京都で医学
を学び、18歳の頃に江戸へ出て朱子学者木下順庵門下
となる(木門十哲)。同門の新井白石、室鳩巣、祇園南
海らととも
に秀才を唱われ、元禄2年(1689年)、木
下順庵の推薦
で、当時、中継貿易で潤沢な財力をもち、
優秀な人材
を探していた対馬藩に仕官し、元禄5年(
1692年)に対
馬国へ赴任。この間、長崎で中国語を学
ぶ。

元禄11年(1698年)、朝鮮方佐役(朝鮮担当部補佐役)
を拝命、元禄15年(1702年)、初めて朝鮮の釜山へ渡
り、元禄16年(1703年)から同18年(1705年)にかけ
て釜山の倭館に滞在して、朝鮮語を学んだ。この間、
朝鮮側の日本語辞典『倭語類解』の編集に協力し、自
らも朝鮮語入門書『交隣須知』を作成。また、江戸幕
府将軍の就任祝いとして朝鮮通信使が派遣された際に、
正徳元年(1711年)の6代徳川家宣(正使は趙泰億)や
享保4年(1719年)の8代徳川吉宗(正使は洪致中)に
おいて江戸へ随行。なお、吉宗の時の使節団の製述官
であった申維翰が帰国後に著した『海遊録』に、雨森
芳洲活躍の姿が描かれている。
 

享保5年(1720年)には朝鮮王・景宗の即位を祝賀す
る使節団に参加して釜山に渡っている。しかし、朝鮮
人参密輸など藩の朝鮮政策に対する不満から、享保6
年(1721年)に朝鮮方佐役を辞任し、家督を長男の顕
之允に譲った。その後は自宅に私塾を設けて著作と教
育の日々を過ごしたが、享保14年(1729年)、特使と
して釜山の倭館に赴いた。享保19年(1734年)には対
馬藩主の側用人に就任、藩政に関する上申書『治要管
見』や朝鮮外交心得『交隣提醒』を書いている。宝暦
5年(1755年)、対馬厳原日吉の別邸で死去した。享
年88。諡は一得斎芳洲誠清府君。墓は日吉の長寿院に
あり、傍らに顕之允も葬られている。

 

 

●朝鮮通信使と徳川幕府の外交概要 

朝鮮通信使とは、室町時代から江戸時代にかけて李氏
朝鮮より日本へ派遣された外交使節団。朝鮮通信使の
そもそもの趣旨は室町将軍からの使者と国書に対する
返礼であり、1375年(永和元年)に足利義満により派
遣された日本国王使に対して信(よしみ)を通わす使
者として派遣されたのが始まり。15世紀半ばからしば
らく途絶えて安土桃山時代に、李氏朝鮮から豊臣秀吉
が朝鮮に出兵するか否かを確認するため、秀吉に向け
ても派遣されるが、その後の文禄・慶長の役によって
日朝間が国交断絶となり中断。その後、江戸時代に再
開された。広義の意味では室町時代から江戸時代にか
けてのもの全部を指すが、一般に朝鮮通信使と記述す
る場合は狭義の意味の江戸時代のそれを指す。「朝鮮
通信使」という表現は研究者によって造作された学術
用語であり、史料上には「信使」・「朝鮮信使」とし
て現れる。また江戸幕府は朝鮮通信使の来日について
は琉球使節同様に「貢物を献上する」という意味を含
む「来聘」という表現を専ら用いており、使節につい
ても「朝鮮来聘使」・「来聘使」・「朝鮮聘礼使」・
「聘礼使」と称し一般にもそのように呼んでいる。

江戸期の日朝交流は豊臣秀吉による文禄・慶長の役
後、断絶していた李氏朝鮮との国交を回復すべく、日
本側から朝鮮側に通信使の派遣を打診したことにはじ
まる。室町時代末期、日朝・日明貿易の実権が大名に
り、力を蓄えさせたと共に、室町幕府の支配の正当
性が薄
れる結果になった。そうなることを防ぐため、
江戸幕府は
地理的に有利な西日本の大名に先んじて、
朝鮮と国交を
結ぶ必要があった。また、対馬藩が江戸
幕府と李氏朝鮮の仲介を行うが、対馬藩の事情-朝鮮
との貿易なくては窮乏が必至となるため-国交回復を
確実なものとするために国書の偽造まで行い、朝鮮側
使者も偽造を黙認していた。


朝鮮では、文禄・慶長の役が終わり、国内で日本の行
った行為や李朝の対応に対する批判が高まると同時に
日本へ大量に連れ去られた朝鮮人捕虜の返還を求める
気風が強くなる。また朝鮮を手助けした明が朝鮮半島
から撤退による日本の脅威と同時に、貿易の観点から
日本と友好関係を何とか結びたいと考える。こうした
事情下、対馬藩より1607年(慶長12年)、江戸時代は
じめての通信使が幕府に派遣、6月29日、江戸にて将
軍職の秀忠に国書を奉呈し、帰路に駿府で家康に謁見。
日本側からの国書による回答(謝罪)を求め、日本に
連れ去られた儒家、陶工などの捕虜を、朝鮮へ連れ戻
す目的だったが徳川幕府が国書を送らなかった。日本
国内の朝鮮人捕虜のうち、儒家はほとんどが帰国した
一方、陶工の多くが、技術を持った職人の優遇による
李氏朝鮮では儒教思想の身分制で、陶工は最下層の賤
民に位置づけられ日本にとどまる。

●征韓論の背景史

通信使について当時の日本人らは「朝鮮が日本に朝貢
をしなければ将軍は再び朝鮮半島を侵攻するため、通
信使は貢物を持って日本へ来る」などという噂をし、
幕府の公式文書では「来貢使」という用語は一切使わ
れずにいたが、民間では琉球使節と同様に一方的な従
属関係を示す「来貢」という言葉が広まる。『朝鮮人
来聘記』等においても三韓征伐等を持ち出して朝鮮通
信使は朝貢使節であると見なしており、当初から日本
人が朝鮮通信使を朝貢使節団として捉えていた。また、
朝鮮側も日本側が入貢と見なしていたことを認識して
いたが、延享度の通信使の朝鮮朝廷への帰国報告では、
信使の渡来を幕府は諸侯に「朝鮮入貢」として知らせ、
それまでの使節もそれを知りながら紛争を恐れて知ら
ぬふりをしていた旨が記されている。こうした朝鮮観
から、1811年以後通信使が途絶したことを「朝貢を止
めた」と受け止める風潮が生じ、幕末の慶応2年(1866
年)末に清国広州の新聞に、日本人(誰が?)が寄稿
した「征韓論」の記事にも、征韓の名分として挙げら
れたとされる。

                  この項つづく

【エピソード】 

 

東アジア交流ハウス雨森芳洲庵の公式ホームページでは
何故かBGMに「この世の果て」(The End of the World
の曲が採用されている。以下は、芳洲の略歴文である。

  寛文8-宝暦5(1668-1755)。江戸時代中期の
 対馬藩(現長崎県対馬)の儒学者。近江国雨森(
 滋賀県高月町雨森)に生
まれる。17歳の頃、江戸
 で儒学者木下順庵の門下に入り儒学を学ぶ。英才
 を賞され門下五賢徒の一人に挙げられた。同門

 に新井白石がいた。順庵の推挙で対馬藩に仕え26
 才の時初めて対馬に赴任した。24才から中国語を
 学んでおり、36
才の時には釜山に渡って、朝鮮の
  歴史・朝鮮語を学び、初めての日朝会話集「交隣
  」を著した。62才で、ハン
グル・カタカナを併記
 したユニークな朝鮮語の入門書「全一道人」も著
 した。第8次・第9次の通信使来訪時には、一行
 に
加わり、対馬-江戸を2度往復した。この経験
 をもとに61才の時著した「交隣提醒」の中に、
 芳洲の先進的な国際感覚、
人間性が表現されてお
 り、近年、幕藩体制下における隣国朝鮮との交流
 史が見直されつつある時、雨森芳洲も一躍クロー
 ズ
アップされ始めた。晩年は和歌を志し、80才を
 過ぎて1万首を製作している。宝暦5年(1755)
 対馬で永眠、対馬府中
 (現厳原町)の長寿院に
 眠る。享年88歳。


【脚注及びリンク】
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  1. 雨森芳州再考、近世日本の「自-他」認識の観
    点から
    、2006.02.05
  2. 平井茂彦(2006) 「雨森芳洲」サンライズ出版 
  3. Web版 図書館 しが、No.173,2007.08.01
  4. 交隣提醒』に現れる雨森芳洲の外交の心得、
    伊藤大悟
  5. 雨森芳洲『交隣提醒』から 長崎県対馬 : 名言巡礼
  6. ぶらっと彦根、2005、雨森芳洲「誠信の交わり」
  7. 雨森芳洲さんが書かれた「交隣提醒」とはどの
    ような内容なのでしょうか
  8. 朝鮮通信使に息づく「誠信の交わり」、信原修
  9. 木下順庵(1621年7月22日-699年1月23日
  10. 朝鮮通信史、Wikipedia
  11. 小中華思想、Wikipedia
  12. 仲尾宏「延享度通信使の事跡と話題」(『大系
    朝鮮通信使』第6巻 明石書店、1994)
  13. リチャード。アンダーソン「征韓論と神功皇后
    絵馬」(『列島の文化史』第10巻)
  14. 島田昌和「第一(国立)銀行の朝鮮進出と渋沢
    栄一
  15. 東アジア交流ハウス雨森芳洲庵

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