靴下にはそっとオレンジを忍ばせて

南米出身の夫とアラスカで二男三女を育てる日々、書き留めておきたいこと。

ピアノ発表会

2011-12-21 23:57:37 | 出来事や雑感や (行事)
次女と、


長女の、


ピアノ発表会。



ピアノの先生:一日30分でも静かな部屋で自身の弾く音に耳を澄ませられる環境を整えるといいですよ。

私:ああ、家では全く静かな時間が30分続くということはないですからねえ。

ピアノの先生:そうでしょうねえ・・・。まっ、子沢山というのは楽しいことですよ、例えピアノが上達しないとしても他にいいことはたくさんありますから。

こんな風に慰めてくださった。(笑)

「雅びなプロフェッショナリズム」

2011-12-18 18:29:01 | レゴリーグ
レゴリーグでは「gracious professionalism」という言葉がよく用いられる。「雅びなプロフェッショナリズム」ともいえようか。レゴリーグの基にあるべき概念として強調されているようだ。

審査員はチームの「雅びなプロフェッショナリズム」を常に見ている。

チームメート同士力を合わせているか
例えチームメートが失敗しても非難することなく励まし合っているか
勝つために他人を蹴落とすようなことをしてないか
勝つことだけが重要なわけではないと分かっているか
自分の利益にならないとしても他に親切にしているか
チームメート、相手チーム、審判、誰に対してもリスペクトフルに接しているか
プレッシャーの中でも「雅びなプロフェッショナル」であれるか
ハッピーで熱心か

などなど。

大会の一番初めには「コアバリュー」の審査がある。チームに何らかのタスクが与えられ、いかに「雅びなプロフェッショナリズム」に則って力を合わせ解決していけるか、が審査される。昨日はブランケットの上に半分のチームを立たせ、それらのチームメートがブランケットからはみ出すことなくブランケットを裏返すことができるか、というタスク。


様々なプレッシャー・試練に向き合いつつ、常に「雅びなプロフェッショナリズム」を思い起こさせられる場。子ども達、レゴリーグ競技会を通し勝ち負けだけない大きなものを学んだように思っている。

レゴリーグ予選

2011-12-18 18:28:27 | レゴリーグ
ロボットは一回プログラミングしたら必ず正確に同じように動くものだと思っていたのだけれど、これが・・・。うまくいったと思って次に試すと全くうまくいかなかったりする。光の具合、揺れ、バッテリー容量、角度、ちょっとした要素で動かなくなったり障害物にぶつかったり違う方向にいってしまったり。

うまくいくときもあれば、散々のときもある。散々な場合は予選通過なんてはるか遠くのこと。ギャップが大きすぎ、結果が読めない・・・そう思ってきた。

昨日の予選。長男長女と先に会場に出かけていた夫から昼前に電話、「テーブルの長さが少し違うらしく、あと多分家のガレージはほんの少しだけ坂になっているせいか、今までのプログラミングが全然うまくいかない」

午後からロボットのミッション審査。午前には、コアバリュー、ロボット機能デザイン、プロジェクト審査。その合間に練習台を用い必死に午後に向けプログラミングを調整していると。

お昼ごはんをもって出かけようとしていたところ。ああ今までの努力がこういう結果になってしまうのかと何ともやりきれない気持ちになりつつも、今日は皆落ち込むことになるだろうからどうやって元気づけてあげようか、と次女と三女と言い合いながら出かける。

11月19日、12月3、10日とアラスカ州の各地で行われてきた予選、100チーム近くが登録し昨日が最後。早朝から南アンカレッジの12チームが参加した。長男長女のチーム、小中学校やホームスクールの名前が並ぶ中、「friends of Anchorage」と無所属、プロジェクトのテーマが「貝毒」なだけにチーム名「クラムチャウダー」、そしてなぜか白シャツに蝶ネクタイ!(笑)

「PSP(貝毒) it ain't for me」と後ろに・・・。


本当に最後の最後の一分までプログラミングの調整を続け、


とうとう本番。

隣り合わせの台で2チーム同時にミッション遂行。

間を空けて3回のラウンド、その内1番いいスコアが選ばれる。

1回目のラウンド。116ポイント、なんと2位につける!


2回目。長女が取替えのパーツの入った箱をしょっぱな床に落とし、パーツを直しながらのラウンド。限られた2分半、こなせるミッション大幅減少。95ポイント。やってくれました長女、い、胃が痛くなってくる。(笑)

ラウンドの間にも、それこそ一分前までプログラミング調整変更。

3回目。162ポイント!1位だった124ポイントを引き離し、なんとロボットミッション部門優勝! 

大興奮で歓声をあげるチームと親。あとで長女にママ叫びすぎとたしなめられ・・・。(笑)


最後の授賞式、コアバリュー、ロボット機能デザイン、プロジェクト、ロボットミッションそれぞれの部門優勝チームにトロフィーが渡される。この162ポイント、なんとアラスカ州全ての予選の中で最高得点だと司会者が!(最後の予選なのでそれだけ準備期間があり有利でした。州外ではより高いスコアも続々と。オランダのチームは310ポイント獲得とユーチューブに!)

そしてコーチPさん、ベスト・コーチ賞受賞。日中、子ども達審査員に何度か訴えに。どうかうちのコーチを選んでくれ、どれほどいいコーチかと。コーチがいかに慕われているかを実感。だからというわけでなく、総合的な評価を合わせての受賞。

最後にプロジェクトからミッションまで全部門総合チャンピオンの発表。司会者が叫ぶ。

「クラムチャウダー!」

歓声に包まれ階段を駆け下りトロフィーを受け取りにいくチーム。


何だか夢の中にいるような。度重なる試練にめげず、チーム本当によく頑張りました。

3つのトロフィー大切に。

コーチに出会えたこと、こうしてリーグに参加できたこと、そして応援して下さった皆様に、心よりの感謝を込めて。アラスカ州大会まであと一ヶ月。やれるだけのことをやり切ろうと気持ち新たに。

思いやるということ

2011-12-17 02:49:35 | 子育てノート
「愛の反対は憎しみではなく無関心」という言葉があるけれど、他者の気持ちに共感し、他者の痛みを感じられ、他者が少しでも楽になるように助けてあげたい、という思いやりを持つこと、思いやりの気持ちというのは、人に生まれつき備わっているというより、育てられていくものなのかもしれない。

身体の筋肉は鍛えるほど強くなり、脳も筋肉のように使えば使うほど鍛えられていくわけだけれど、ひょっとして、思いやりの気持ちというのも筋肉のようなものなのかもしれない。用いれば用いるほどますます伸び研ぎ澄まされていく。

足を伸ばして遠くに出かけ悲しみや苦しみを探さずとも、周りには悲しみ苦しみ助けを必要とする人々がたくさんいる。マザーテレサはボランティアに集まった人々に対し「もしあなたの身近にここへ来ることで苦しんでいる人がいるのならば、すぐに帰ってそばにいてあげてください」と言ったといわれているけれど、まずは周りを見まわしてみる。

思いやりを持つこと、それはメディアに取り上げられるような救援支援プロジェクトだけでなく、ごく身近な周りから始まっている。忙しく嵐のような日々だとしても、ほんの少しずつだけでもストレッチしてみる。笑う気になれなくても笑顔を向けてみる、気に入らない人がいたとしてもその人の痛みを感じ親切にしてみる。

ユダヤの教えに「行為(action)が人格(character)を作る」というのがある。何度も何度も繰り返し日々少しずつでも思いやりを行為で表していく、すると思いやりはその子の性質となっていく。身近な周りから日々少しずつでも。


以下、思いやりを育てることについて今まで気づいたことや見聞きし試したことで「いい!」と感じたこと。

小さな頃から始める。食べているものを「ちょっとちょうだい」と言って美味しそうに頬張りシェアする喜びを感じさせたり。泣いている子の気持ちを想像し何ができるかと考え行動させてみたり。発した言葉や行為が相手をどういう気持ちにさせたのかを想像させてみたり。「あなただったらどう感じる?」と自分を相手の立場におき喜び痛み悲しみを想像させる訓練を繰り返す。

悲しみや苦しみを感じているときは、他者の痛みを感じられるようになる絶好の機会でもあるととらえる。あの時どれほど辛かったか、助けられたことがどれほどありがたかったか、他者の悲しみに対し自身の体験を思い出させるようにする。

・寝る前などに、感謝したり、悲しんでいる人や難しい境遇にある人に対して思いやる静かな時間をとる。「早くよくなりますように」という気持ちを送ってあげるようにする。

行為で示す。悲しみ苦しんでいる人に対してカードを書いたり訪ねたりプレゼントしたりそばにいて話を聞いてあげたり。ホームレス支援などのボランティアに参加したり、病院や老人ホームを訪ねたり。小遣いの何パーセントかを定期的に寄付するようにしたり、使わなくなったものを寄付したり。

大人がモデル。上のようなことを周りの大人や親が言葉だけでなく行為でも示していく。日々少しでもストレッチしていけば、大人の筋肉だって伸び鍛えられていく。身近な周りから世界で起こっていることまで、思いやりを向けてみる。キャパシティは固定されていない、少しずつでも鍛え広げていけると信じつつ。


「愛があるから与えるのでなく、与えるから愛が生まれる」というのは本当だと思う。好きだから思いやるのでなく、思いやるから愛情のようなものが生まれる。

子どもと共に今日もストレッチしていきたい。

そのまぶしいものを、胸に

2011-12-17 02:41:37 | 私史
親から何を受け継いでいきたいか。父と母を思うとき、一番に浮かぶのが「思いやりの心」かもしれない。

小さな頃からいかに世界には苦しみ悲しむ人々がいるかを聞かされて育った。社会の構造の底辺で踏みにじられ虫けらのように消されていった人々の歴史を教えられて育った。その教えは徹底していて、子どもには強烈過ぎる面もあった。

父と母は言葉だけでなく、その教えを生きていた。常に何らかの市民政治運動の中におり、小さな頃からストライキやデモが生活の一部、労働組合を本業としつつ、友人達と生活協同組合を立ち上げ、福祉施設で働き。夜になると毛布をもってホームレスの人々を訪ね、毎週重度障害者の風呂介護を手伝いに出かけ、家の敷地を改築してカルチャーセンターを作り。「男女雇用機会均等法を」「北方領土を返せ」と掲げるシールの貼られたジープを運転する父は、パキスタンのゲリラに加わると遺書を書き一ヶ月ほどいなくなったこともある。近くにいると火傷しそうなほどのパッションを持続する父は、今も福島支援を含む様々な活動に忙しく、母は高齢者が働け集う場所をとカフェギャラリーを開いている。

家族という枠組みをはずした共同体のような環境に育ち、「普通の家庭」に憧れた時期もあった。常にコミュニティー他者優先に開かれた環境に、一体家族とは何なのだろうと考え込むこともあった。世界に対してもっと「普通の見方」ができないものかと悩んだ時期もあった。自分の子にはどう教えていこう、そう自分に問いかけてきた。まずは家族という枠組みから始め、内に温もりの桃源郷を築きつつ、小さな子には徐々に痛みや苦しみに触れさせていくのがいいのじゃないか、そんな風にも思う。

父母に育てられた歩みを振り返るとき、確かに、まぶしく輝く大きな宝物を差し出されている。それは「他者の痛みを思いやる気持ち」。例えトラウマになるような環境に育ったとしても、暗闇に見える中に、眩しく光るそんな宝石のようなものが散りばめられているのかもしれない。

受け継ぐ流れ、父母は祖父母、祖父母はその曽祖父母から受け継ぎ、脈々と続き今の自身を形作っている。内に脈々と息づく流れ。受け継いだ宝をしっかりと抱き、目の前の子ども達に向かっていきたい。10年会っていない父と母に心よりの感謝を込めて。

兄妹、クッキー作り

2011-12-17 02:24:04 | 
兄、学校最終日にクッキー交換があると前日夜クッキー作り。

皆が持ち寄り交換するのだそう。こちらのホリデイシーズン行事の一つ。

兄妹ずっとぺちゃくちゃ話しながら。

それでねそれでね、


誰々がね、


ああしてこうしてね、


出来上がり!マシュマロ入りらしい。あまっ!

レゴリーグ予選間近

2011-12-16 23:59:31 | レゴリーグ
とうとう明日レゴリーグ予選。

ガレージにコンピュータ3台並び、何だか秘密基地のような・・・。(笑)

今週は、

コーチと、そのお父さんも来てくださった。


そして子ども達が考えたロゴを、友人とシャツにアイロン。


なかなかうまくいかず、「町にいくつかある専門の店に頼んだほうが良かったかもね、でももう時間ないし」と言い合いながら。


ああ、まだあれもできてないこれもできてない、それでももう、腹を据えて。(笑)

今までしてきたことを最大限発揮できますように。



自信をつけるということ

2011-12-14 01:17:53 | 子育てノート
逆境でも、どんな状況でも立ち上がり進んでいける自信。周りの状況が思わしくなくとも立ち上がり進み続けるには、周りの評価や状況に拠らない自分自身を信じる必要がある。

一昔前のように「こうしておいたら大丈夫」というような確固とした方程式はもう崩れてきている。「狩猟の腕を磨けば大丈夫」「いい成績をとっていい大学に入れば大丈夫」「結婚すれば大丈夫」「大きな会社に入れば大丈夫」「お金を稼げば大丈夫」「子どもを作れば大丈夫」などなどの方程式。

先が見えず何が起こるのかわからない状況の中で、何を拠りどころにできるのか。これからはますます、どんな組織に属し、どんな肩書きを持ち、どんな状態に身をおき、などの周りの状況を拠りどころとするのでなく、「自分自身を信じる」ということが必要になってくるのじゃないだろうか。

不安定に移り変わり続ける周りの状況に拠らずとも、自身を信じられる、自身の内に確固とした安定した場所がある、そんな子ども達を育てていく必要があるのだと思っている。


自信を育てるには?今までに気づいたことや見聞きし試してみて「いい!」と思ったこと:

・自信は独りよがりで傲慢なものにもなり得る。常に教えていく必要があるのは、どんな「成果」「周りからの高い評価」「才能」「特技」も「自分自身のもの」ではないということ。まずは成果を出すためにどれほどの「当然でない奇跡」があったかを思い出させる。そして「才能」や「特技」は、それらを磨いて世の中に還元していくために与えられているのだと教えていく。傲慢にならせることなく自信を育てる

特技才能を見る。誰もがそれぞれギフトを与えられている。音楽スポーツ学問に長けている、といったものだけでなく、ユーモアがあり皆を笑わせられる、人の気持ちが分かる、人を率いる力がある、周りを明るい気持ちにする、親切な心、すぐに友達が作れる、寛大な心、などなど。親はそれらのギフトを伸ばしていくようサポートする。

還元する喜びを教える。特技才能を生かし周りの人々に何かしてあげる喜びを体験させる。老人ホームや福祉施設で演奏したり、悲しんでいる子を笑わせてあげたり、仲間に入りにくそうにしている子を入れてあげたり、病気の人に手紙を書いたり、寄付したり。自分の得意なことが周りに影響を与えるという喜びの体験。

潜在能力を信じる。誰の目にも留まらずとも、例え世間的な高い評価が得られずとも、親は最後の最後まで子どもの潜在能力可能性を信じる。

親にとって子どもの存在が重要だと感じさせる。。子どもの話を真剣に聞いたり、子どもの目を見て受け答えしたり、子どもにしっかりと向き合う時間をもつ。いざというとき必ずいてくれる、サポートしてくれると感じさせる。

親自身がモデル自身が何に拠っているのかを見る。周りの状況、組織肩書き見かけ体裁、そういったものにどっぷりと拠っていないか。ちょっとしたことに動揺しない態度を見せる。怪我をしても落ち着いて適格な手当て、何か問題が起こってもくよくよせずどう解決したらいいかと動いていく姿勢。人にすることを喜びとしている態度を見せる。周りの人に何かを作ってあげたり、手伝ってあげたりすることを喜んでしている様子を見せる。

子どもは預かりもの。子どもは親の自信を満たすためのものではない。子どもの成果も評価も特技も才能も与えられたもので、親自身のものではない。子どもは一時の間預けられたもの。親は、子どもが与えられたギフトを最大限開花できるようサポートするためにいる。

褒め方に気をつける。褒めすぎず褒めなさ過ぎず、結果でなく努力を褒める。「何て賢いの」「何て上手」より「たくさん努力してえらかったね」と。

困難を超えさせる。小さな頃からすぐに助けず自分で解決克服していく姿勢を身につけさせる。ふたが開かないならどうしたらいいか、こぼしてしまったのならどうしたらいいか、解決に向けて動いていけるよう教えていく。困難を取り除いてやるより、困難に向き合い越えていくのをサポートする。困難を一つ乗り越えるたびにまた自信もつく。


揺ぎ無い自信は常に移り変わる周りの状況に根を下ろしていては育たない。自身の内にしっかりと根を張っていくこと、日々心に留め子ども達に接していきたい。

溝にはまった車輪、ちょっと下がる

2011-12-14 01:07:24 | 出来事や雑感や (その他)
昨夜ピアノの後スペイン語クラスへ長男長女を降ろし、ハイウェイから降りた大通りを走っているときのこと。大雪で学校が休みになるほどの日、道路は氷と雪でガタガタ。6車線の道路にびっしりの車、皆ゆっく~り運転。

と、車輪が氷の溝にはまってしまう。アクセルを踏んでも全く空回り。左に右にハンドル切ってアクセル踏んでもウィンウィンと空回り。ど真ん中の車線、ハザードランプをつけ、さてどうしよう。

携帯は見事にバッテリー切れ。後ろでは三女と次男がスヤスヤと気持ちよさそうに眠り、息を呑んで見守っていた次女は「ママ!ここはど真ん中で邪魔になるから、ひとまず脇によってどうしたらいいか考えようよ!」と叫び始める。(笑)「溝から出られたら脇で何考えようか」と答えつつアクセル踏み続ける。

ウィ~ンウィ~ン、ゴムの焼ける匂い。赤信号になったとたん、右前の車から男性が降りて来てくれる。「あのね、ハンドル左右きっても何の意味もないからね、まっすぐにしてアクセル踏んで」、そう言いながら後ろから押してくれる。びくともしない。やがて青信号になり「あ、いかなきゃ、ハンドルまっすぐにするんだよ~、じゃあね~」と走って車に乗り込み行ってしまう。車を降り、後ろを見に行くと、私の車で動けなくなった後ろの車の運転席から携帯片手のお姉さんが笑顔で手を振っている・・・。笑顔で手を振り返しながら携帯を借りようと歩き始めたところ、横の車から「どうしたの?」と声。女性の運転する助手席に乗っていたその男性、車から降りながら「バックしてみた?」と。「えっ、バック?」、車に乗り込みギアをバックにしアクセルを踏み込む。その男性がボンネットを前から押してくれる。一発で動く。

「ああそっかあバックかあああ」と感心する私を横目に、涼しい顔で「Have a good night」とさっそうと去るその男性。かなり呆れ顔でもあった気がするけれど。(笑)

前に行くことしか考えてなかった。まっすぐがだめなら左前方右前方はどうだと必死で。ちょっと下がってみる、そんな手もあるんですね。

「MUGA」5号完成!

2011-12-14 00:00:03 | お知らせ
「MUGA」5号が完成。「MUGA」は毎月15日配信の無料メールマガジンです。興味のある方は是非こちらから登録どうぞ!

雪景色、感謝祭、ネイティブアメリカンの友人との思い出、についてなど書かせていただきました。

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MUGA 第5号

無我表現研究会発行 月刊メルマガ

◆目次

◇アート

・詩

『例外者たちの詩』  那智タケシ

『季節の詩』     rita


◇自然科学

『潜態論入門』最終回 素粒子について   河野龍路


◇対話

「心身脱落体験」 那智タケシ×高橋ヒロヤス


◇評論

無我表現の爆発としてのビートルズ論  高橋ヒロヤス


◇エッセイ

アラスカ便り―北の果てに暮らす日々― 
『雪は今も降り続いている』   長岡マチカ

クラムチャウダーと泳ぐ子と。

2011-12-13 23:59:45 | 
持ち寄り料理、穀物野菜サラダにキッシュにサンドイッチにぱりぱりケール。いつもながらいけます。ケール、こうしてオリーブオイルと塩をまぶしオーブンで焼いてぱりぱりにするとおいし~い。子ども達もぱりぱりぱりぱり。


友人、ベーコン、オニオン炒めて、クリーミーに。


出来上がり!

ほっと、あったまる。

子ども達はこの日なぜか泳ぐ気まんまん。


ダイブに、


レースに、


雪景色に囲まれて・・・。

感謝の気持ちを養う

2011-12-11 01:08:40 | 子育てノート
感謝の気持ちを感じられるよう育てること、それは子育ての根幹・土台に据えることなのだと思っている。

感謝の気持ちを失うとき、人は傲慢になりやがて行き詰まる。感謝は、何かを与えられたという事実を受け入れること、自分が相手に世話になり何かを負っていると認めること、自分が一人では生きていないということの自覚。感謝することで、傲慢さは謙虚さに変わる、小さな自分がむき出しになる。

感謝は「当然ではない」と認めることでもある。感謝の気持ちをもつことで「あって当然」「してもらって当たり前」「もっとしてくれて当然」そんな態度にストッパーがかかる。

失って初めて有難さを思い知ることがある。病気になって健康の、事件事故災害にあって普段の生活の、戦争になって平和の。想像力をフルに使って「ない」ということを想像してみる。「ない」という可能性をありありと想像できるとき、「ある」という不思議(wonder)を思うことができる。「ない」という可能性もある中で選択されて「ある」のだという視点をもてるとき、心の奥底から感謝の気持ちが湧いて来る。

ではどうやって子どもに感謝の気持ちを身につけさせることができるのだろう。以下今までの気づきや見聞きして試してみたことで「いい!」と思ったこと:

・大人が子どものモデル。まずは周りの大人が感謝の気持ちをもつ。礼儀や言葉だけの「ありがとうございます」でなく、本当に気持ちのこもった姿勢言葉行為。ありありと「ない」状態を想像できるのなら、そんな姿勢も自ずと生まれてくるはず。

・朝目が覚め一番に息をしているという不思議(wonder)を思う。何十兆もの細胞が働き心臓が規則正しいリズムで血液をパンプし見ることが聞くことが匂うことができ、部屋には空気が溢れ月が星が太陽が光を注ぎ。「ない」可能性もある中でこうして「ある」不思議。朝目が覚めたらまず感謝することを習慣づける。一日を生きていることへの感謝で始める。この習慣は大人になっても必ず大きな力になる。

感謝のリストを書き出すまたは口にする時間をとる。毎晩寝る前、一日を思い出しながら感謝することを言い合う。毎日10や100書き出すと決めて実行する。楽しい夢をみた、玄関先の花がきれいだった、真っ青な空に樹氷が輝いていた、カフェのウェイトレスの笑顔が素敵だった、何でも書き出してみる。最初は見つけにくくても慣れてくると100なんかじゃ足りなくなってくる。そして辛いこときついこと何を見ても感謝の視点が湧いてくるように。感謝すること10リストメールを友人間で毎日交換することで全く生きる姿勢が変わったという話も聞いたことがある。

感謝の気持ちを形にする。何かしてもらったら「ありがとう」と伝えるようにさせる。ホリデイシーズン、プレゼントをもらうことが多くなるけれど、サンキューカードを書いたりお返ししたり。もらうばかりでなく周りの人にあげるようにもする。プレゼント一緒に買いに行って選択し、きれいに包んだり、その人がしてくれたことをカードに書き出したり。先生だから教えてくれて当然、事務員だから事務して当然、掃除する人だから掃除して当然、「当然ではない」という視点を形で表す。

過程を体験させる想像させる。食物が食卓にあがるまでにどれほど多くの人の働き自然の恵みが必要か。実際に農場へ出向いたり流通を追ってみたり。ひじをついているテーブル、座っている椅子、包まっているブランケット、温かいセーター、心地よい家、目に入るもの何一つとっても多くの人のそしてそれらの人々を生かす条件が揃っているおかげでそこにあるのだということを想い出させる。

物を大切にする。またすぐに買い換えればいい、というような姿勢を見せない。むやみに壊させない。壊すより作る大変さ楽しさを教える。次から次へより一つ一つのものへの感謝の気持ちを育てるよう。

時間を大切にする。だらだらと一日中テレビを見させたり、時間を無駄にしない。「時間潰し」というような言葉を使わない。限られた一時一時を大切に感謝するという感覚を養う。


不思議(wonder)を想う気持ち、それが感謝に繋がるのだと思う。「当然」なんてものはない、そこにはいつも不思議が隠れている。世界はワンダーに溢れている。

今日も子ども達と生きているという不思議に感謝していきたい。

妊娠の不思議

2011-12-11 01:07:02 | 子育てノート
子どもが大好きで子どもに囲まれて暮らす、というような人生設計を描いたことは実は一度もなかった。今は子どもがなんて面白いんだろうと思うけれど、若い頃は子どもの子の字も頭の中にはなく、だからといって嫌いでもなく取り立てて好きというわけでもなく。ただいつか子どもを1人くらいは産んでみたい、仕事を続けながらシングルマーザーかな、と漠然と考えていた。

それが縁あり結婚することになり、自分にとっては驚きのタイミングで1人目。2人くらいと考え始める前に2人目、よしこれで落ち着いたら仕事を本格的に始めて、というところに3人目、まあ「3人から社会」というし3人くらいいても・・・、ところがまさかの4人目、色々な意味で限界を超えたと感じつつ、三女が歩き始めた頃友人とビジネスを立ち上げようと動き始めていたところ驚きの5人目。

この「まさか」「驚き」というのは実際医療の力を使ってそうならないようにしていたけれど、医者もびっくりの確率で妊娠してしまったゆえ。

外でバリバリと仕事して、本読んだりリサーチもたくさんしやりたいことも色々あって一人の時間もゆっくりもちたい、と描いていたイメージとは正反対の方向へ進んでいく人生。

4人目、5人目、検査薬に浮かび上がる妊娠を知らせるラインを見とめたときの複雑な思い。決して最初から両手を挙げて喜ぶというものではなかった。あり得ない、どうやって育てるというの、どう考えたって無理、ますます息つく暇もないほど過酷な日々がやってくるのか、自分の時間は一体どこへ、だいたい今の世の中に育つ子どもは幸せなのか、このまま人口増大し続け資源はどうなるんだ、こんなに産むより孤児を引き取るべきなんじゃないか、ありとあらゆる声がぐるぐると渦巻く。それでもそんな声の渦の中心に、まるで台風の目のように静かな揺るぎの無い場所を感じる。心の奥の深いところでどうしたらいいのかがもう明らかになっている。激しく動揺する自分と静かに見つめる自分。

やがて嵐のように叫びうめき諭す声は静まっていく、心の奥の中心からふつふつと温もりが湧き上がり、身体中を駈け巡る。下腹部に手を当て、まだほんの小さな身体に宿る命を想う。

妊娠というのは不思議なものだと体験から思っている。多分妊娠しない身体なのだろう、と10代の頃からずっと思っていた(様々な体験から)。実際結婚してからも2年間妊娠することなく。それでもアラスカへ移住すると決めた後絶妙のタイミングで妊娠。

4人目5人目の妊娠で心に一番しっくりときた言葉が「surrender」。私はクリスチャンではないけれど、クリスチャンの友人の「あなたが色々思ったとしても、神には違う計画があるのよ」という言葉がすっと身体に入ってくる。

こうして今5人を育て、毎日目が回るほど駆け回り、若かりし頃の私が見たら卒倒するような生活をおくっていて、それでもこうあることが必要だったのだと、なぜかそんな静かな気持ちの自分がいる。

こうして授けられた命の不思議を想いつつ、感謝を込めて。