超人少年伝説

源氏物語千年 紫式部が突然現れ 紫式部氏思想を書くことになった

キリスト教 仏教 村上春樹教

2010-02-12 07:31:55 | Weblog
アメリカでは失業しても、キリスト教団体が、食料を分けてくれる。

日本ではホームレスとなると、ゴミ漁りとなる。
そして一人暮らしは、自宅に生きていても、
死んでしばらくは発見されないことがある。

これが愛のある宗教とない宗教の違いだ。
社会のあるなしといってもいい。

日本では葬式には、何百万円も掛かる。
葬式仏教といわれるゆえんだ。

悟りを開く、殺生禁止とはなんなのだろう。

*。
ここで仏教の悟りは、文章を修行することだとわかる。
念仏を上げる、文章を分からせることだ。
そこには現実がない。
これが念仏仏教であろう。

弱者の死には関係がない。
関係のないところを生きる。

これが仏教のパラドックスだ。
文章と生を文章化している。
そこには現実がない。

念仏仏教は、文章を声明することだ。
そこでは現実が排除されている。

既に人を死体や化石にしている。

    *。
こう考えると、村上春樹は危険思想だ。

「極東ブログ」はこう指摘する。
文学は社会が隠蔽すべき、
猥雑で危険な思想を、
あたかもそうではないように見せかけつつ、公然に晒す試みである。

それがそう読めないなら、文学は成功している。

*。
村上春樹はリアルとして、愛や魂を上げる。

そのアンリアルには、殺人がある。
彼の最近の作品は、殺人を愛に昇華する装置なのだろうか。

オウム真理教は殺され、彼らの思いを遮断する。

彼の最近作は、愛を殺人に昇華しているのではないか。
パラレル・ワールドだから、この二つは対偶だ。
等価・同質・両義だ。

そしてこの両者を揺らし、袋小路に陥っている。
そこの魂を置くことは、殺人は魂であるとなる。

これが両義性から読めることだ。

    *。
この国家原理主義から抜け出す。
それにはヨーロッパのやったように、
弱者を殺す人を殺さねばならない。

この殺人の出口を塞いだ。
それが村上春樹だ。

*。
文学はパラドックスであり、自己排除だ。

それを”極東ブログ”を借りると、殺人を愛で隠した、危険思想となる。
とにかく、ここからの出口はない。

グリーン・ピースのように、国家暴力を抑える暴力は必要だ。
彼の考えはこれを否定する。

彼は彼が受けたトラウマへの復習を考えていのかもしれない。

      *。
「壁と卵」は彼のトラウマではないか。
どうやって脱出するのだろう。

彼はそれを眺めているのだ。
それが文章のパラドックスであるのだ。

はっきりいえば、文章は嘘と妄想である訳だ。

*。
それ一歩踏み出した、オウム真理教ではないのか。

彼の考えは、この矛盾に陥る。
それが文章の限界だ。

*。
これ以後は文章でやれることではない。

文章は パラドックスであり 異物排除である

2010-02-12 06:17:21 | Weblog
文章はパラドックスであり、排除である。

この文章は嘘である。
私は嘘つきではない、私がいった。

ゲーデルっぽくいうと、
この文章は、正しいか正しくないか。
それは証明できない。

この文章に矛盾があれば、この文章は正しい。
どういうことだ。
どんな文章も無矛盾に書ける。
だがその無矛盾は証明できない。
即ち、この文章に矛盾があれば、この文章は正しい。

もしこの文章が間違っているとする。
即ち、この文章に間違いがなけれが、正しくない。
二つの文は等価であるから、
それを重ね合わせると、
二つの文章は、間違っていてもいなくても、
正しいとも正しくないともいえない。

これが文章だ。

    *。
そこで人は勝手な妄想が出来るのだ。
そして反対者と戦っていると、
妄想が現実にあると錯覚する。

妄想が錯覚や幻想に変化した。
するとそれが妄想であることを排除し、
現実にあると思うのだ。

*。
即ち、否定と肯定が、捩れ、何がなんだか分からなくなる。

だがその意識は確実にある。
これが妄想の確実性とは思えない。

妄想が妄想を排除する。
その時それが妄想とは思わなくなる。
妄想が妄想を排除し、
現実にあるともう。
これが虚構だ。

即ち、支離滅裂だ。

*。
国家や文学はなどは、この妄想を生きていた!
はじめからこれはなった。

国家はデスノートで現存在し 組織・学校はバトル・ロワイアルで実存する

2010-02-12 05:22:54 | Weblog
国家や文学など人造形成物は、
デスノートで現存在=唯我独尊し、
その下部構造の組織や学校は、バトル・ロワイアルで実存する。

共に異物排除システムである。
異物がなければ、そのものは存在しない。

いじめ殺しを止めろ、
だが国家や文学などは、いじめ殺しに成立し、
いじめ殺しが無くなれが、それらは存在しない。

*。
国家や文学などは、その否定の肯定だ。
これがパラドックスであり、意味不明の支離滅裂だ。

ここに現代は崩壊した。

  *。
例えば、文学は生きる価値を創造した。
それは生きる価値のない人を大量に製造・販売・消費した。

そして生きる価値のない人を異物排除して、文学は成立する。

*。
そして文学は異物排除を、当然のこととし、意識することはない。

これが国家であり、文学であり、
それは戦争と死刑を前提に存在する。

*。
現代ヨーロッパは、異物排除しない、多様性に脱皮した。

ここでデスノート制度は廃止、
バトル・ロワイアルは差別として残っている。

    *。
これらが統合するには、
人や社会が、正負のエントロピーを食べる世界だ。

そこに安定がある。

*。
成長を追うことは、安定を放棄したことで、それは自己破壊だ。
成長の対偶は、ガンだ。

成長国家はすべて破滅した。
破滅を戦争で、ご破算し、その繰り返しだ。

成長国家などはありえない!

過去の文明も成長を求め、すべて破滅した。
これが人類の存在の理法だ

      *。
野蛮人といわれる人々は、何故安定していたか。
成長を求まないからだ。

これでは面白くない。
それが野蛮なのだ。

文明はすべて破滅した。
これが物事の道理だ。

*。
知の自主性、
ここにまとめれば、安定世界がある。

それがクール・ジャパンだ。

*。
言葉を使うと、破滅する。

それは野蛮人といわれる人から、学んだ。

文章化すると、それはパラドックスであり、矛盾や嘘や妄想だ。
永遠なる妄想、それが成長であった。
破滅への万歳突撃だ。