アメリカでは失業しても、キリスト教団体が、食料を分けてくれる。
日本ではホームレスとなると、ゴミ漁りとなる。
そして一人暮らしは、自宅に生きていても、
死んでしばらくは発見されないことがある。
これが愛のある宗教とない宗教の違いだ。
社会のあるなしといってもいい。
日本では葬式には、何百万円も掛かる。
葬式仏教といわれるゆえんだ。
悟りを開く、殺生禁止とはなんなのだろう。
*。
ここで仏教の悟りは、文章を修行することだとわかる。
念仏を上げる、文章を分からせることだ。
そこには現実がない。
これが念仏仏教であろう。
弱者の死には関係がない。
関係のないところを生きる。
これが仏教のパラドックスだ。
文章と生を文章化している。
そこには現実がない。
念仏仏教は、文章を声明することだ。
そこでは現実が排除されている。
既に人を死体や化石にしている。
*。
こう考えると、村上春樹は危険思想だ。
「極東ブログ」はこう指摘する。
文学は社会が隠蔽すべき、
猥雑で危険な思想を、
あたかもそうではないように見せかけつつ、公然に晒す試みである。
それがそう読めないなら、文学は成功している。
*。
村上春樹はリアルとして、愛や魂を上げる。
そのアンリアルには、殺人がある。
彼の最近の作品は、殺人を愛に昇華する装置なのだろうか。
オウム真理教は殺され、彼らの思いを遮断する。
彼の最近作は、愛を殺人に昇華しているのではないか。
パラレル・ワールドだから、この二つは対偶だ。
等価・同質・両義だ。
そしてこの両者を揺らし、袋小路に陥っている。
そこの魂を置くことは、殺人は魂であるとなる。
これが両義性から読めることだ。
*。
この国家原理主義から抜け出す。
それにはヨーロッパのやったように、
弱者を殺す人を殺さねばならない。
この殺人の出口を塞いだ。
それが村上春樹だ。
*。
文学はパラドックスであり、自己排除だ。
それを”極東ブログ”を借りると、殺人を愛で隠した、危険思想となる。
とにかく、ここからの出口はない。
グリーン・ピースのように、国家暴力を抑える暴力は必要だ。
彼の考えはこれを否定する。
彼は彼が受けたトラウマへの復習を考えていのかもしれない。
*。
「壁と卵」は彼のトラウマではないか。
どうやって脱出するのだろう。
彼はそれを眺めているのだ。
それが文章のパラドックスであるのだ。
はっきりいえば、文章は嘘と妄想である訳だ。
*。
それ一歩踏み出した、オウム真理教ではないのか。
彼の考えは、この矛盾に陥る。
それが文章の限界だ。
*。
これ以後は文章でやれることではない。
日本ではホームレスとなると、ゴミ漁りとなる。
そして一人暮らしは、自宅に生きていても、
死んでしばらくは発見されないことがある。
これが愛のある宗教とない宗教の違いだ。
社会のあるなしといってもいい。
日本では葬式には、何百万円も掛かる。
葬式仏教といわれるゆえんだ。
悟りを開く、殺生禁止とはなんなのだろう。
*。
ここで仏教の悟りは、文章を修行することだとわかる。
念仏を上げる、文章を分からせることだ。
そこには現実がない。
これが念仏仏教であろう。
弱者の死には関係がない。
関係のないところを生きる。
これが仏教のパラドックスだ。
文章と生を文章化している。
そこには現実がない。
念仏仏教は、文章を声明することだ。
そこでは現実が排除されている。
既に人を死体や化石にしている。
*。
こう考えると、村上春樹は危険思想だ。
「極東ブログ」はこう指摘する。
文学は社会が隠蔽すべき、
猥雑で危険な思想を、
あたかもそうではないように見せかけつつ、公然に晒す試みである。
それがそう読めないなら、文学は成功している。
*。
村上春樹はリアルとして、愛や魂を上げる。
そのアンリアルには、殺人がある。
彼の最近の作品は、殺人を愛に昇華する装置なのだろうか。
オウム真理教は殺され、彼らの思いを遮断する。
彼の最近作は、愛を殺人に昇華しているのではないか。
パラレル・ワールドだから、この二つは対偶だ。
等価・同質・両義だ。
そしてこの両者を揺らし、袋小路に陥っている。
そこの魂を置くことは、殺人は魂であるとなる。
これが両義性から読めることだ。
*。
この国家原理主義から抜け出す。
それにはヨーロッパのやったように、
弱者を殺す人を殺さねばならない。
この殺人の出口を塞いだ。
それが村上春樹だ。
*。
文学はパラドックスであり、自己排除だ。
それを”極東ブログ”を借りると、殺人を愛で隠した、危険思想となる。
とにかく、ここからの出口はない。
グリーン・ピースのように、国家暴力を抑える暴力は必要だ。
彼の考えはこれを否定する。
彼は彼が受けたトラウマへの復習を考えていのかもしれない。
*。
「壁と卵」は彼のトラウマではないか。
どうやって脱出するのだろう。
彼はそれを眺めているのだ。
それが文章のパラドックスであるのだ。
はっきりいえば、文章は嘘と妄想である訳だ。
*。
それ一歩踏み出した、オウム真理教ではないのか。
彼の考えは、この矛盾に陥る。
それが文章の限界だ。
*。
これ以後は文章でやれることではない。