二草庵摘録

本のレビューと散歩写真を中心に掲載しています。二草庵とは、わが茅屋のこと。最近は詩(ポエム)もアップしています。

永遠のこちら側(ポエムNO.98)

2012年12月09日 | 俳句・短歌・詩集

いつのことだったか思い出せないが、ぼくはその村で生まれ、老いて死んだことがあった。
村はずれには二メートルを越える道祖神の石碑が建っていた。おそらくいまから百年か、もっと昔の出来事だったろう。唇の大きな、心根のやさしいおろかな女と数十年暮らし、豆腐屋のような仕事をしたり、野菜をつくったりしながら、遠くへ出かけることもなく平穏な日々は過ぎていった。

それを・・・つまり前世のようなものを想像すると、なぜか胸がずきずきと疼く。
老いて病死したのではなく、飢えて死んだのかもしれない。秋になるとコオロギがうるさいほど耳について眠れない。なんの特徴もないまずしい暗い村だった。
ツユムシもいたな、さっき突然思い出した。

現世にいるぼくは、前世のぼくの墓碑をさがしているが、いつまでたっても見つからない。
だが数ヶ月前に道端ですれ違った女が、「あら、あなたね!」とすれ違いざまに眼をみはった。そしてこういった。
「こんにちは。あらら、百五十年ぶりね」
彼女は小走りに遠ざかり、たちまち姿を消したので、質問しているイトマがなかった。
・・・そうか 百五十年ぶりに出会った女だったのか。ふくよかな女らしい体型をしていた。
「ついさっき、家畜一頭を家族で食べてきた」ということがぼくにはわかった。唇の赤は紅の赤ではなく、生き物の血の色をしていた。

女が立ち去ったあと、しばらく罪のにおいがあたりに靄のようにけぶり、ぼくは咳き込んだりしながら、その後ろ姿を見送った。
すべてが中世の絵巻物の中の出来事のようにおもえた。その絵の中から、女は出てきたのだ。
ぼくにはたしかに、前世があった。生まれて死んで、また生まれてくる。そのたびに心が巻き貝のようにねじれ、細長くなってゆく。

そのことがわかったのは、ぼくが海岸で巻き貝を拾ったときだった。
巻き貝の一つひとつが、かつて人間だったことがある!
そのインスピレーションが稲妻のようにぼくの胸を切り裂いた。
波打ち際で千鳥が鳴き、数千の死者の魂がぼくの一挙手一投足を見つめていて・・・。
ぼくがかつて生活していた村から、その海岸までは百数十キロはなれているのに、ぼくは数秒でそこへと移動することができた。

死んだ人は死んで消えたのではなく、大部分が巻き貝になったのである。
いまでは、そう確信している。遠く見晴るかすと、渚がつきるあたり、ハマナスの緑がやけに眼にしみる海辺で、赤い腰巻きをした女が、こっちに向かって手を振っている。そこへたどりつくことができたら、また百五十年がたっているのだろう。
永遠とは、ここではほとんど一刹那のことなのだから。

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