遅き日のつもりて遠きむかしかな
わたしが若いころから好きだった与謝蕪村の一句である。
遅き日とは、「遅日(ちじつ)」を訓読みにした語で、日永になっていく春の日のこと。
たとえば、須賀敦子さんの「トリエステの坂道」の世界を、ひとことでいい換えれば、この一句に収斂してくるようなものである。
過去をふり返らず、まっすぐに歩いていけ・・・などと、人はよくいう。
たしかに、ふり返りたくない「過去」が、一つやふたつ、だれにもあるに違いない。
しかし、わたしとは何者かと考えた場合、それはわたしという人間の過去の総体なのではあるまいか。
「このごろ、昔話が多くなった。気をつけようぜ、おたがい」
久しぶりに古い友人とお茶すると、そういって笑ったりする。
会社から帰って、近ごろめっきり老いた母と話をすると、話題の90%は「昔話」。
毎日、毎晩、母の子ども時代の話題ばかり・・・それも、毎回、同じような内容を、くり返し聞かされる(^_^)/~ つい昨日と、50年、60年昔の区別は、あまり存在しない。
それを洗練させていけば、須賀敦子の世界に通じるな――などと、わたしはおもう。
アコヤガイに傷をつける(タネを植え込む)と、貝はそれを癒そうとして、真珠を作り出すという。
須賀さんのエッセイは、そういった意味で、紛れもなく真珠なのである。
彼女は「自分から失われた世界」ばかりを書いている。
すでになくしてしまった時間の輝き。それをたんねんにたぐり寄せる、その手さばきの見事さ。
「あのとき、わたしは」
「あのとき、夫は」
「あのとき、コルシア書店のあの作業場では」
研き抜かれた、美しい、しなやかな日本語。あんなふうに、日本語をあやつれる人は、文学者といわれる人たちのなかですら、そう多くはないだろう。
『彼方にあった時代と人間について、そのときそこで起きた出来事について、そこに流れていた時間、当たっていた日射しについて、そしてもっと多くの事柄について、
静かに、しかし確かに話しかけてくるもの、
それが写真だ。
遠い、見知らぬ人びとの面影と景色が、遙か、見覚えぬ光と影の輪郭と記憶が、
たたずむぼくたちの日常のなかにつと甦ってき、
かつてのことを、たった現在(いま)のことを、そして来るべき日のことを、
そっと耳もとに囁いてくるもの、それが写真だ』
森山大道さんは、写真集「NAKAJI」(講談社)の一ページに、こう書きしるしている。
一昨日の日記に書いたように、「NAKAJI」は、森山さんの1980年代の写真でできている。
つまり、30年か、それ以上の時間が、すでに流れすぎていることになる。
つぎの3枚は、2011年4月22日に三毛ネコsyugenがさいたま市で撮影した写真からピックアップ。
これを30年後に見たら、どんな思いにひたることになるのだろう。
あと30年――生きられたら、として。
わたしが若いころから好きだった与謝蕪村の一句である。
遅き日とは、「遅日(ちじつ)」を訓読みにした語で、日永になっていく春の日のこと。
たとえば、須賀敦子さんの「トリエステの坂道」の世界を、ひとことでいい換えれば、この一句に収斂してくるようなものである。
過去をふり返らず、まっすぐに歩いていけ・・・などと、人はよくいう。
たしかに、ふり返りたくない「過去」が、一つやふたつ、だれにもあるに違いない。
しかし、わたしとは何者かと考えた場合、それはわたしという人間の過去の総体なのではあるまいか。
「このごろ、昔話が多くなった。気をつけようぜ、おたがい」
久しぶりに古い友人とお茶すると、そういって笑ったりする。
会社から帰って、近ごろめっきり老いた母と話をすると、話題の90%は「昔話」。
毎日、毎晩、母の子ども時代の話題ばかり・・・それも、毎回、同じような内容を、くり返し聞かされる(^_^)/~ つい昨日と、50年、60年昔の区別は、あまり存在しない。
それを洗練させていけば、須賀敦子の世界に通じるな――などと、わたしはおもう。
アコヤガイに傷をつける(タネを植え込む)と、貝はそれを癒そうとして、真珠を作り出すという。
須賀さんのエッセイは、そういった意味で、紛れもなく真珠なのである。
彼女は「自分から失われた世界」ばかりを書いている。
すでになくしてしまった時間の輝き。それをたんねんにたぐり寄せる、その手さばきの見事さ。
「あのとき、わたしは」
「あのとき、夫は」
「あのとき、コルシア書店のあの作業場では」
研き抜かれた、美しい、しなやかな日本語。あんなふうに、日本語をあやつれる人は、文学者といわれる人たちのなかですら、そう多くはないだろう。
『彼方にあった時代と人間について、そのときそこで起きた出来事について、そこに流れていた時間、当たっていた日射しについて、そしてもっと多くの事柄について、
静かに、しかし確かに話しかけてくるもの、
それが写真だ。
遠い、見知らぬ人びとの面影と景色が、遙か、見覚えぬ光と影の輪郭と記憶が、
たたずむぼくたちの日常のなかにつと甦ってき、
かつてのことを、たった現在(いま)のことを、そして来るべき日のことを、
そっと耳もとに囁いてくるもの、それが写真だ』
森山大道さんは、写真集「NAKAJI」(講談社)の一ページに、こう書きしるしている。
一昨日の日記に書いたように、「NAKAJI」は、森山さんの1980年代の写真でできている。
つまり、30年か、それ以上の時間が、すでに流れすぎていることになる。
つぎの3枚は、2011年4月22日に三毛ネコsyugenがさいたま市で撮影した写真からピックアップ。
これを30年後に見たら、どんな思いにひたることになるのだろう。
あと30年――生きられたら、として。