以前も書いたことがあるけれど、わたしは街角に咲く花が好き(^^)/
撮らないでくれとか、撮ってはいけないとはいわないし、そういうものを撮っていて、怪訝な顔をされたこともない。
たしか武田花さんが、街角で猫の写真を撮影していて通報され、やってきた警察官が「ああ、野良猫ですか」と半ばあきれながら立ち去っていったという記事を書いていたのを読んだことがある。
フラワーパークだとか、公園の花壇だとか、そういうところに咲く花がつまらないとはおもわないけれど、街角に咲く花には、それとは違った風情がある。
生活空間が背景として写っている。
自宅の塀際や、店の入口に、人びとは花を飾る。露地植えもあれば、鉢植えもある。
可愛がられている花は、季節になると、じつにみごとな花をつける。
集団「はぐれ雲」をやっていたときのこと。
はぐれ雲の写真展にやってきたMさんと知り合いになった。
彼は長倉洋海にあこがれ、内戦がつづくコソボに単身潜入して、戦場地の写真を撮っていた。
二度目だったか、三度目だったかのとき、出国しようとして検問所で撮影済みフィルムの大半を没収されたにもかかわらず、なんとかコニカが開催する新人賞に入選。新宿のコニカプラザで、写真展が開催されたのを見にいった。
わたしがある作品の前に立ち止まって、時間をかけて写真を見ていたら、
「どうですか? ぼくのお気に入りの一枚です」
Mさんが後ろにやってきて、そういいながら微笑んだ。
そこに写っていたのは、真紅のバラだった。
背景には爆撃によって破壊された巨大なビルの残骸が・・・。爆撃から数週間後、バラは何事もなかったかのように、花を・・・じつにみごとな、大輪の花を咲かせたのである。
写真の端っこには、破壊された家のまわりに佇む子どもたちの姿が、小さいがしっかりととらえられていた。
Mさんは戦場そのものを撮るのではなく、戦禍によって破壊された街角に生きる人びと・・・主として、女や子どもたちにレンズを向けていた。そこにも、日常がある。
難民キャンプの写真も数枚あったが、大部分は権力側に没収されてしまった(~o~)
「このあいだも、この新宿を歩きながら、街角の花ばかり撮っていました。新宿が戦場のように見えることがあるんです」
「日本ではなにを撮るか。課題といえばそれでしょうね。人を撮るか、こういう花を撮るか。平和すぎて、ものが見えないのですね。見ようとしない人が多すぎる」
いまから十数年前、そんなエピソードがあったことを、ふと思い出した(^^;)
だからわたしも・・・というわけではないが、この季節、街角で美しい花を見かけると、ついレンズを向けたくなる。
街角に咲く花には、物語がある。
それは広大な草原や山に咲く花とは、違う物語である。
生活空間の中に組み込まれた木や花が、街角を明るくしている。ごみごみした、せちがらい日常。こういう場所で花に出会うと、ホッと眼を休ませ、こころ和ませる。
わが家では父が買ってきた花が一年中咲いている。妹の家にいくと、ガーデニングの庭に、美しい花が年中咲き乱れて、訪れる人を歓待する。
あちこち歩きまわりながら、その道が、生活道路かどうか、わたしには瞬時にわかる。
再開発された地域や、開通したばかりのバイパスには・・・その沿道には住人が手入れをしているような花を、ほとんど見かけない。なにか、大切なきずなが断ち切られている。
その風土と人をむすびつける、必要不可欠な要素のようなものが。
旧市街へと自然に足が向かうのは、そういう理由があるのだと、ようやく近ごろ納得できるようになってきた(^_^)/~