(古書店へいったらこのあいだ言及した写真集が置いてあった)
■長野重一写真集「東京1950年代」(岩波書店 2007年刊)
出版がなぜ岩波書店なのかというと、長野重一さんは、東松照明さんなどとならび、岩波写真文庫のメインスタッフだったのだ。
《「岩波写真文庫」の仕事で日本全国を旅した写真家が、複雑な表情をもつ東京に惹かれ、都内を隅々まで歩き、ランドマークを見上げ、街を見下ろし、人々の暮らしを追った。写真に残されたのは、戦後の混乱期から高度成長期へと移り変わるころの、ゆっくりと時間が流れている東京だ。》(カバー裏の紹介文)
長野さんの写真集「遠い視線」(2001年刊)は忘れることのできない、卓越した力量を感じさせる傑出した写真集。
わが家の暗室(現在は書庫)には、100冊ばかりの内外の写真集が眠っているが、そのなかでも、わたしのトップ10入り間違いない、大事な一冊。
■写真集「遠い視線」
https://bookobscura.com/items/5c55365dc2fc282bd3d24b2c
(size:22.4 x 18.2 cmの大型本)
わたしがモノクロ写真集「パーソナル・リレーション」を自費出版してお送りしたら、非常に礼儀正しい、丁寧な礼状が届いたことをよく覚えている。
ジャーナリスティックなグラフ誌、写真誌で上質な、中身の濃い仕事をなさった、戦後を代表する凄腕のフォトグラファーである。
2019年の1月にお亡くなりになったことはこのあいだまで存じ上げなかった。
さあて、「東京1950年代」(岩波書店)。
そのままコピーするとまずいかな・・・と思って、コンデジで撮影し、アルバムにUPしたが、そこから数点を紹介したくなった。
わたしにはこの時代、すなわち1950年代への回帰願望がある。
わたしは1952年生まれ。
「あのころのおもかげがどこかに残っているのではないか」
したがって、単純な意味での懐古趣味なのかもしれない。しかし、そのひとことでは片づけられないもの・・・カメラを手にしたわたしを駆り立ててやまない情動が、たしかにあるのだ。
不完全な複写だが、ご覧になっていかがだろう?
“時代の息吹”(つまらない不本意な表現だが)が、じつに正確なフレーミング、シャッターチャンスによって切り取られている。
高度成長によって、日本の社会は驚くほど変容したのだ。
父親世代はいうまでもなく、このわたしですら、1950年代を思い出そうとすると、これら写真の助けを借りなければならないくらい、茫々たる記憶の彼方に霞んでいる。
何年も前から、新刊書の棚の前で手にとっては「ああ、あ。うーん」とため息をついていたものだ、少々高価だったので(3200円+税)。
「東京の街を隅々まで歩く」という川本三郎さんのエッセイはまだ読んでいないが、読まなくてもいいとおもえる。写真がすべてを語り尽くしているからだ。活字本をきっちりと読むように、写真集を、そして一枚一枚の写真を読む。
そのため、買って手許に置く必要がある。
数年前、夏の軽井沢で「軽井沢の古写真」を見たときも「写真って、こういう力があるのか!」と、いまさらのように衝撃を受けたものだが、今回は二度目の衝撃。
■写真の力って何だ? ~軽井沢の古写真」(二草庵摘録)
https://blog.goo.ne.jp/nikonhp/e/6f94ce5cb4354bb1e85f3f6a9af76cf8
// 以上おしまい
最後までご覧いただき、ありがとうございます♪
■長野重一写真集「東京1950年代」(岩波書店 2007年刊)
出版がなぜ岩波書店なのかというと、長野重一さんは、東松照明さんなどとならび、岩波写真文庫のメインスタッフだったのだ。
《「岩波写真文庫」の仕事で日本全国を旅した写真家が、複雑な表情をもつ東京に惹かれ、都内を隅々まで歩き、ランドマークを見上げ、街を見下ろし、人々の暮らしを追った。写真に残されたのは、戦後の混乱期から高度成長期へと移り変わるころの、ゆっくりと時間が流れている東京だ。》(カバー裏の紹介文)
長野さんの写真集「遠い視線」(2001年刊)は忘れることのできない、卓越した力量を感じさせる傑出した写真集。
わが家の暗室(現在は書庫)には、100冊ばかりの内外の写真集が眠っているが、そのなかでも、わたしのトップ10入り間違いない、大事な一冊。
■写真集「遠い視線」
https://bookobscura.com/items/5c55365dc2fc282bd3d24b2c
(size:22.4 x 18.2 cmの大型本)
わたしがモノクロ写真集「パーソナル・リレーション」を自費出版してお送りしたら、非常に礼儀正しい、丁寧な礼状が届いたことをよく覚えている。
ジャーナリスティックなグラフ誌、写真誌で上質な、中身の濃い仕事をなさった、戦後を代表する凄腕のフォトグラファーである。
2019年の1月にお亡くなりになったことはこのあいだまで存じ上げなかった。
さあて、「東京1950年代」(岩波書店)。
そのままコピーするとまずいかな・・・と思って、コンデジで撮影し、アルバムにUPしたが、そこから数点を紹介したくなった。
わたしにはこの時代、すなわち1950年代への回帰願望がある。
わたしは1952年生まれ。
「あのころのおもかげがどこかに残っているのではないか」
したがって、単純な意味での懐古趣味なのかもしれない。しかし、そのひとことでは片づけられないもの・・・カメラを手にしたわたしを駆り立ててやまない情動が、たしかにあるのだ。
不完全な複写だが、ご覧になっていかがだろう?
“時代の息吹”(つまらない不本意な表現だが)が、じつに正確なフレーミング、シャッターチャンスによって切り取られている。
高度成長によって、日本の社会は驚くほど変容したのだ。
父親世代はいうまでもなく、このわたしですら、1950年代を思い出そうとすると、これら写真の助けを借りなければならないくらい、茫々たる記憶の彼方に霞んでいる。
何年も前から、新刊書の棚の前で手にとっては「ああ、あ。うーん」とため息をついていたものだ、少々高価だったので(3200円+税)。
「東京の街を隅々まで歩く」という川本三郎さんのエッセイはまだ読んでいないが、読まなくてもいいとおもえる。写真がすべてを語り尽くしているからだ。活字本をきっちりと読むように、写真集を、そして一枚一枚の写真を読む。
そのため、買って手許に置く必要がある。
数年前、夏の軽井沢で「軽井沢の古写真」を見たときも「写真って、こういう力があるのか!」と、いまさらのように衝撃を受けたものだが、今回は二度目の衝撃。
■写真の力って何だ? ~軽井沢の古写真」(二草庵摘録)
https://blog.goo.ne.jp/nikonhp/e/6f94ce5cb4354bb1e85f3f6a9af76cf8
// 以上おしまい
最後までご覧いただき、ありがとうございます♪