内田さんの本は、知り合いにすすめられて小林秀雄賞を受賞した『私家版・ユダヤ文化論』を読みはじめたが、わたしの関心の方向とずいぶんずれているがわかって、途中でやめてしまった。
にもかかわらず、こちらは一気呵成に読みおえることができた。
ユニークな論点が提出されているわけではない。わたしが内田さんの「世界」に慣れていないからかもしれないが、ユダヤ人論や、教育論、武道論などが混在し、読後の印象はつぎはぎっぽい、やや雑然としたものであった。
日本人は日本論、日本人論が大好き。
明治以来、どれほどの書物が書かれてきたことだろう。内田さんは、そこに焦点をあてて、多角的に論じてはいるのだけれど、わたしから見ると、「このあたりは、どうつながるんだろう? 脱線じゃないか」となる。第Ⅰ部、第Ⅱ部、第Ⅲ部、第Ⅳ部のあいだに、飛躍がある。
いちばん共感し、惹きつけられたのは、第Ⅳ部「「辺境人は日本語と共に」であった。
日本語には漢字という表意文字と、仮名、カタカナという表音文字がはいっていて、使い分けられている。言語として非常に孤立的。こういうハイブリッド型言語は、世界に類例がないそうである。
日本語で書かれた書物は日本人にしか読まれないし、
日本でどれほど影響力があろうと、世界言語たる英語に翻訳されないかぎり、その影響力を、他国におよぼすことはない、ということである。
小泉政権時代から、グローバル・スタンダードの嵐が世を吹き荒れた。それは、規制緩和とセットとなって、日本の「特殊性」にはげしく変革をせまったのである。
グローバル・スタンダードは、英語圏の国々、とくにアメリカにとって、たいへん都合よくできた、基準のピラミッドではないか?
アラビア文字を使うイスラム圏や、中国語の中国、日本語の日本は、一部の知識人をのぞいて、不利な条件を背負いこむことになるからである。
世界は彼らが目論むような、見通しのよい、単純明快で平坦なものにはなりはしない。
その多様性や、不自由さのなかに、豊かな果実がかくれているのである。わたしなどは、そう考えている。
内田さんが、そのあたりをどう見て、どう捉えているか?
それが第Ⅳ部に書かれている。
日本はその誕生のはじめから、周辺国家たることを運命づけられていたのである。
江戸末期までは中国の、明治から1945年まではヨーロッパの、そしてそれ以降はアメリカの、周辺国家であった。面積や人口から考えて、日本が今後中心国家に昇格することはありえない。
彼がすすめているのは、開き直り。
つまり、日本とは日本語のことだし、それを捨てたら、日本人のアイデンティティーが失われるということである。レヴィ・ストロースも、日本と日本文化が、孤立的なものであることを認めながら、そのユニークさによって、世界に貢献できると説いていたのを思い出す。本書の論調も、それにとても近い・・・というのが、わたしの「読み筋」である。
表現は平易で、学生に語っている講義のような印象をうける。だから、あっというまに読めてしまう。
しかし、第Ⅲ部「機の思想」がなぜ、ここにまぎれこんでくるのか?
このあたりは、まだ十分な説得力をもっているとはいえないだろう。
評価:★★★
にもかかわらず、こちらは一気呵成に読みおえることができた。
ユニークな論点が提出されているわけではない。わたしが内田さんの「世界」に慣れていないからかもしれないが、ユダヤ人論や、教育論、武道論などが混在し、読後の印象はつぎはぎっぽい、やや雑然としたものであった。
日本人は日本論、日本人論が大好き。
明治以来、どれほどの書物が書かれてきたことだろう。内田さんは、そこに焦点をあてて、多角的に論じてはいるのだけれど、わたしから見ると、「このあたりは、どうつながるんだろう? 脱線じゃないか」となる。第Ⅰ部、第Ⅱ部、第Ⅲ部、第Ⅳ部のあいだに、飛躍がある。
いちばん共感し、惹きつけられたのは、第Ⅳ部「「辺境人は日本語と共に」であった。
日本語には漢字という表意文字と、仮名、カタカナという表音文字がはいっていて、使い分けられている。言語として非常に孤立的。こういうハイブリッド型言語は、世界に類例がないそうである。
日本語で書かれた書物は日本人にしか読まれないし、
日本でどれほど影響力があろうと、世界言語たる英語に翻訳されないかぎり、その影響力を、他国におよぼすことはない、ということである。
小泉政権時代から、グローバル・スタンダードの嵐が世を吹き荒れた。それは、規制緩和とセットとなって、日本の「特殊性」にはげしく変革をせまったのである。
グローバル・スタンダードは、英語圏の国々、とくにアメリカにとって、たいへん都合よくできた、基準のピラミッドではないか?
アラビア文字を使うイスラム圏や、中国語の中国、日本語の日本は、一部の知識人をのぞいて、不利な条件を背負いこむことになるからである。
世界は彼らが目論むような、見通しのよい、単純明快で平坦なものにはなりはしない。
その多様性や、不自由さのなかに、豊かな果実がかくれているのである。わたしなどは、そう考えている。
内田さんが、そのあたりをどう見て、どう捉えているか?
それが第Ⅳ部に書かれている。
日本はその誕生のはじめから、周辺国家たることを運命づけられていたのである。
江戸末期までは中国の、明治から1945年まではヨーロッパの、そしてそれ以降はアメリカの、周辺国家であった。面積や人口から考えて、日本が今後中心国家に昇格することはありえない。
彼がすすめているのは、開き直り。
つまり、日本とは日本語のことだし、それを捨てたら、日本人のアイデンティティーが失われるということである。レヴィ・ストロースも、日本と日本文化が、孤立的なものであることを認めながら、そのユニークさによって、世界に貢献できると説いていたのを思い出す。本書の論調も、それにとても近い・・・というのが、わたしの「読み筋」である。
表現は平易で、学生に語っている講義のような印象をうける。だから、あっというまに読めてしまう。
しかし、第Ⅲ部「機の思想」がなぜ、ここにまぎれこんでくるのか?
このあたりは、まだ十分な説得力をもっているとはいえないだろう。
評価:★★★